平成12年12月の手控えです。
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過去の手控え
手控え欧州篇

248話 12.24
愉快な禁酒日
 禁酒日の楽しみはいつもよりたくさんの種類の焼酎に接することができること。別に逆説じゃありません。
 普段はちょいちょい飲んで楽しみながら試しているけれど、銘柄ごとの量は少なくても、まとまるとけっこうな量を飲んでいることになる。ちょい、が、ちょいちょいになり、ぐび、が、ぐびぐびになるのにそんなに時間はかからない。そしてそうなったらただの酔っぱらい。従って寸言のための覚え書きも日記への書き込みもへちまもない。覚えていられるのは、数銘柄が限界ということになりますな。
 それが、禁酒日は違う。
 部屋にある開封済みの焼酎(何本あるかは言わない)の蓋をあけ、全種類の香りを味わってもちっとも酔わない(当たり前だ)。しかも、まだ試していないあたらしい焼酎の蓋を開けて香りをきき、味を想像し、造り手の気持ちをイメージするのは実に楽しい。

 きょうは午前中に近所にすむジープ乗りがやってきて、壱岐の麦焼酎を一本置いていった。さっそく開栓し香りを楽しむ。朝から焼酎かと顰蹙を買うこともない。すばらしい芳醇な香りを楽しんだ後は、コーヒーとアップルパイをいただきながら年賀状を書いていた。ちらっと、ひるね蔵酒亭の掲示板を見てみると、「小鹿・本にごり」は旨い!と酒のこばやしさんが書き込みしている。さっそく小鹿・本にごりの一升瓶を取り出して香りを試す。いつ飲んでも、いやいや、いつ嗅いでも豊かな芋香が潤沢に鼻腔をくすぐる。素晴らしい酒だ。

 きょうは、禁酒日。すでに8銘柄ほど香りをいただいた。香りの向こうにイメージする焼酎の味は、実は飲んでいる時より数倍輝いている。三島由紀夫さんが何かに書いていた言葉だとおもうが、「距離は、つねに夢を見させる」ということの真実を、一週間にいちどだけしみじみと感じるのもいい。え?なら二回にすればだって?いえいえ、とんでもない。大吟醸を水道水で薄めるような真似はできません。感動の希釈なんて、もってのほか!

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247話 12.17
家族ということ
 先週の手控えで、薩摩で焼酎を造っている高良さんの話しを書いた。父親が仕事に打ち込む姿をみて育った子供が、その父親の仕事を理解し母親を励ますのに何の教育もいらない。親のありかたが子への教えだということを、あらためて感じながら書いた。
子供のひとことで決断して父の(その子にとっての祖父の)遺髪を継ぎ、さらに高めていくために努力を重ねている人もいる。この人も薩摩のひと。焼酎を造るひとだ。
「萬膳さん」・・・この人の名というより、同名の蔵の話題をしきりに耳にするようになったのは、この夏のころからだったと思う。
 名匠といわれる杜氏さんと、まだ若いこの蔵元さんが去年霧島の山奥に蔵を建てた。その蔵がなかなか半端なものではなかった。霧島レッカ水という極上質の軟水を求めて山林を切り開いた僅かな敷地に、総べて木造りの蔵。ひるね蔵酒亭で紹介した「自動製麹機」などの近代化を拒否し、すべて手作り。仕込みも先代まで伝わった180年前のカメで仕込む。蒸留は木製で、蒸気を冷却する蛇管も酒質を柔らかくする錫を使用している。
 思えば、ちょうど1999年の仕込みの酒、蔵を作って初めての焼酎が世間に出て、毛細管を浸潤するように萬膳の蔵の情報が走り始めたころだったのだろう。
 たったの150石しか造れないほんとうに小さな蔵だ。しかしどこよりも強固なこだわりを持った蔵、志操の強靭な蔵元と杜氏の仕事場だ。この蔵、「山小舎の蔵 萬膳酒造」は先代の死による廃業から30年の時間を経て、国分から霧島山中へと時空をこえて甦ったのだ。そしてすべての始まりは、当時小学二年生だった子息のことばからだったという。

 1999年12月、地元の南日本新聞は二回にわたり国分支局発として「萬膳利弘氏」について報じた。概要をまとめてみた。 
 霧島町の山中で昔ながらの製法による焼酎づくりに挑む、万膳酒造代表の万膳利弘さん(39)。手づくり麹を用いたカメつぼ仕込みで、蒸留機も木製のたるを特別に仕立てた。霧島山系の軟らかな水が味をひきたてる。同酒造は1922(大正11)年創業。万膳さんの父が三十年前に急死して焼酎製造は途絶え、販売だけを行ってきた。造りの復活については「息子の代にでも…」と漠然と考える程度だった。
 その思いを息子の素朴な一言が揺るがした。六年前の豪雨災害後、甲突川五石橋が解体される様子をテレビで見ていた当時小学二年の息子がつぶやいた。「お父さん、歴史って守るものじゃないのかなあ」
 万膳さんは、おじで川辺郡笠沙町の黒瀬杜氏、宿里利幸さん(67)に相談。宿里さんも「杜氏の技術を後世に伝えたい」と技術指導を喜んで引き受けた。
「どうせなら昔ながらの製法で」
 自然通気による手作りこうじに始まり、一次・二次もろみはカメつぼで仕込む。蒸留機も木だると錫(すず)製の冷却蛇管に。木だるや錫製蛇管の技術者も数えるほどしかいないが、こうした匠の技も杜氏の腕と同様、焼酎文化を支えてきたとの思いからだ。万膳さんは「厳しい焼酎業界を生き残るには、造り手と売り手が信頼関係で結ばれる付加価値の高い焼酎づくりが不可欠だ。焼酎文化の継承も担っていきたい」と話している。「機械製法を否定する気は毛頭ないが、こんなバカがいてもいいのでは」そういう萬膳さんを、利き酒師の資格を取った妻のひろみさん(39)がバックアップする。「家族の支えが何よりの力」と氏は照れながら語った。

 萬膳氏は、蔵から出した黒麹仕込み「萬膳」と黄麹仕込み「萬膳庵」を、国分市で経営する自分の酒屋に置いていない。全国からの要請に応えるにはあまりに少ない石高だ。販売店も厳選して流通の狂奔による市場の混乱を防止するのに努めている。自分の店に置かないという一点にも、氏の潔い決意・作品へのこだわりを見たように思う。
 (「山小舎 萬膳」については、「本格焼酎寸言」に掲載しました。)

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246話 12.9
地に棲む魂
 ・・・・・・(子供の運動会を)応援できずにつらいのは、子煩悩な夫だということぐらい私が一番知っている。 せっかく今まで我慢してきたのに、とわかっていてもグチはとまらず、涙が後から流れてきた。
 当日の早朝、おにぎりをつくっていると、夫と息子の声が聞こえてきた。「ごめん、おとうさんは一度も応援にいけなかったね。悪かった。でも仕事頑張るからね」と夫。 「いいよ、いい焼酎つくってね」と息子。 私は二人のやりとりがうれしく、うらやましく、そして前夜の自分がとても情けなかった。 結局息子がテープをきってゴールする姿は今年もなかった。 しかし、選手宣誓の大役を果たした私達は二人三脚玉入れ、ダンス、たくさんの競技に全力で参加した。
 長男最後の運動会だった。(鹿児島県川辺町  高良 計)
            平成11年11月19日 朝日新聞「ひととき」欄

「半農半酎」と自分を語るのは、鹿児島の川辺で焼酎を造っている高良武信さん。鮮度の高い芋(朝取りの芋)しか使わないから、サツマイモの収穫期である夏場から晩秋まではそれこそ焼酎造りに明け暮れもない忙しさとなる。子供の学校で行われる秋の運動会に、ただの一度も出たことがない高良さんに、奥さんがついグチをこぼしてしまったときのことを書いたエッセイが冒頭に引用した一文だ。
 宮崎の岩倉さんが「紅葉を見たことがない」といい、川内の村尾さんが「焼酎の奴隷ぢゃっですが」というほどに(芋)焼酎造りは季節とともにある。それは自然と同意であり、即ち農を業とすることと同じであると感じる理由だ。水、大気、良質の芋。いずれも生きて蠢き、永い時間を経て我らの前にいまあるもの。そして麹、酵母菌というまさしく生きて食い、食って吐く、微小な生き物たちの働きを、綿密に丁寧に慈しんで護り励まし育てて造るもの。それが本格焼酎。杜氏の知恵と汗と家族の思いが、深く沈潜し、発酵し、蒸留されて遂に生まれ出る天恵。これが本格焼酎なのだと今更ながらに天を仰いで感謝する。
 水が失われれば、あるいは土が死ねば、すべての農業と同じく、焼酎造りは絶える。水も大気も土も人の命を支えているということ、人は天恵によって生かされているということを、薩南の地に棲む焼酎造りのことを考えた時に、あらためて感じた。
 本格焼酎は、農業と同じと言ったが、それはまた造りという「職人」技の領域でもある。村尾さん、高良さん、塩田さんのように基本的にひとりで、あるいは家族で工夫しながら造りを続けている蔵もあれば、黒木本店、西酒造のように新機軸の焼酎造りに次々とチャレンジして新しいマーケットを切り開いている蔵もある。その是非をいうことは出来ないし、必要もない。それぞれのポジショニングが明快である限り、そしてなにより旨い酒を造り続けて行く限り、本格焼酎の元気は九州の豊穣の地に棲む魂として立ち上がり、護り伝えてゆかれると信じる。

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245話 12.3
年賀状をつくらなきゃ!
 故池波正太郎さんが、春3月くらいからもう翌年の年賀状を書き始めていたことは良く知られている。すべてに心を込めて、気ばたらきを欠かさないのが池波さんのやりかただった。何千枚の年賀状を一枚一枚手書きし尽くすには、それだけの膨大な時間が必要だというのがその訳である。時代小説の大家であり、人間洞察に充ち溢れたエッセイにも練達の筆をふるっていた池波さんは、平成2年5月3日、67才で世を去った。書きかけの年賀状が書斎の机の上に何枚も残されていたのではと、本当の所は知らないが、わたしにはそう思えてならない。

 その心配りに比べ、毎年12月の声を聞いてはじめて「そうだ、年賀状を書かなくては!」と慌て出す自分が情けないのだが、まあこれが地だから仕方ない。枚数も300枚ほどだから手書きしてもさほどの時間はかからないハズなのだがね。
 まあ、毎年イラスト中心の(というより悪戯描きを詰め込んだ)構成にしているため、手描きというわけにはいかないのだけれど(と、言い訳しておこう)。

 今日は禁酒日。あすも禁酒日を続けるつもり。なんといっても12月中にあと8〜12回の飲み会があるのだから、油断は禁物だ。禁酒日にはいつものことだがデスクワークがはかどる。本をよみ、マックで作業をする。酒亭の更新、そして手控えを書く。中身のない文章だけど、続けることにも一筋ばかりの意義が有るのではないかと自分を納得させている。

 今日はさすがに年賀状を描いた。タブレットを使い、フォトショップとペインターで加工し、イラストレーターに貼り付けてテキストを打つ、という例年と同じ手順の作業である。
「と〜ちゃんの年賀状を見ると、ことしの興味が何にあったか、すぐわかるわね」と、カミさん。
「そうそう」とちゃちゃを入れるのは、下のむすめ。
「3年前はジープばっかりの絵だったし、おととしはキャンプと迷彩服と釣りっていう、わけワカメの絵だったし、去年はヨーロッパの街角の酔っぱらいてんこ盛りだったしぃ〜」
 そういって笑うので、小生が「じゃあ、今年はなんだかわかるかい」と聞くと、さらに笑って、
「しょーちゅーにきまってるじゃん。焼酎にい〜」
「おい娘、語尾を下品にあげてはならん。それにしょーちゅー、などと簡単に言ってはいかん。ただしく、本格焼酎といいなさい」
 小生がかんでふくめるように教え諭すと、もう愚かなる娘は自分の部屋に行ってしまい、影も形もないのであった。

 ことしの年賀状は、「本格焼酎」がテーマの絵です。木桶蒸留、カメ仕込みの蔵の背景には、造り手の情熱をあらわすように、火炎の嵐が天を突いている。手前の広場では本格焼酎を楽しむ群衆がおびただしい人の波を重ねている。ふと横をみると軒下に行灯をつるした爺いのいる草庵に、一升瓶を持ったあやしいソフト帽の男がおとないをいれている。本格焼酎クンがなぜか楽しげに小生の愚息と話している横では、芙蓉とひな吉が盃をもって飲んでいるし、さらにその横ではまだハタチになっていない愚娘が盃を呷っている。どっかで見たような面々の群。群。群。・・・つまり例年と同様に、はちゃめちゃな内容になってしまった。まあ、正月だからいいか。仕事場のエラい人用には、別に作らなくちゃならないな、これでは(^-^;)

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