いわなの冬

 ずいぶん長い間、まさははだしで勝手口の戸の外にたたずんでいた。いつかあたりは暗く、雨になっていた。雨と涙に滲んで、まさには路地を行き交う人の顔もはっきりと見えなかった。
 耳には宴席の嬌声が響いてきた。流行り歌の調子をとるように客が歌っていた。

  

紡績女工が

女であれば

ノイ(玉の井)の地獄は

令夫人

  

 まさは立ち尽くしていた。まさは独りだった。雇い主のおかみに言われるまま、この少女は雨の中に立っているしかなかった。寒かった。今にも雪になりそうな冷たい雨だった。
 女工頭が勝手口を開けて路地を覗いた。調理場の電気の光が路地に漏れ、うすぼんやりとあたりを照らした。

 女工頭は宴会が始まってからも賄いの手伝いをしていたのだが、おかみに「あの娘を中に入れるんじゃないよ」と釘を差されていたのだ。おかみが宴席に出ていったすきに、女工頭は勝手口の戸をそっと開けて少女が雨に濡れて立ち尽くしているのを見た。

「あんた、もういいから部屋に帰んな。おかみさんだってもう怒らないよう」
 女工頭は少女の顔をのぞき込んだ。
「あ、熱があるんじゃないかい。いいから部屋へいって床に入ってな。あとで薬と食べる物をもっていってあげるからよう」
 そういって女工頭は後ろを振り返り、
「もうおかみさんが帰ってくるから」と戸を閉めた。

 昭和二年三月、慢性的な不況が続いていた日本経済に壊滅的な打撃が襲った。金融恐慌である。銀行は次々と閉鎖され、企業の倒産が相次いだ。またこの年は旱魃で田の水が涸れ、全国的な凶作となった。特に冷夏による東北地方と北関東の被害はすさまじく、農村の惨状は目を覆うほどであった。だが、これは翌年もそのまた翌年も続き、地に棲む人達が突き落とされた長い地獄の始まりにすぎなかった。

 福島県西白河郡美坂村は昭和九年のこの年も冷害のために凶作に見舞われていた。貧しい村であった。 

 田畑は荒れ、農民たちは疲れはてていた。働ける男たちは皆東京へ出稼ぎに行き、村に残ったのは女子どもと老人たちだけであった。東京に出た男たちからのわずかな仕送りも次第に途絶えがちとなり、昭和十年の春には役場の仕事は娘の奉公先斡旋だけとなっていた。

 青木まさは、尋常六年の終了を待たずに東京は下谷区龍泉寺町の大木紡績という工場に奉公に出たのだった。極度の栄養不足からまさは胸を悪くしていたが、口入れ屋は知らぬふりで大木紡績のおかみにまさを引き渡した。工場にでた二日目にまさはせき込み、熱を出した。

「うちは女工を雇ったんだ、病人なんかつかませやがって」
 おかみは口入れ屋に怒鳴り込んだ。

 亭主は人の良い小柄な男だったが大変な小心ものだった。大木家に婿入りして以来おかみに頭があがらない。それでもまさが福島白河の出身と聞いて何かと同情してはくれた。亭主は隣県栃木県上都賀の出であった。
 亭主の将棋友達の漢方薬屋が処方してくれた薬で熱を抑えつつ、まさは翌日からまた工場に出た。

 朝5時に起床。炊事掃除など下働きのあと大急ぎで飯をかき込み、7時には工場に上がる。十二時の昼飯をはさんで午後八時の下番まで、女工頭の言いつけに従って働き続けるのだ。時には夜中までの作業になることもあった。それでも毎日の食事がとれることがまさには嬉しかった。故郷では、一日に一回か二回の雑穀中心の食事がとれればまだいい方だった。

 麦混じりながら白い飯が盛られた椀を手にとると、まさは自然に涙が滲んでくるのだった。病で伏している郷里の母親にこの飯椀を持っていってやりたかった。

 片づけ作業が終わり、ようやく床につけるのはいつも深夜だった。女工たちは次の日も工場で働けるように、そのためだけに時を惜しみ貪るように眠った。

 まさは堅い床のなかでいつも遠い故郷を想った。村道の脇にあって学校への道すがら拝んでいたお地蔵様と大きな一本杉。祖父の吉蔵に連れていって貰った村祭り。祭りで遊び疲れてまさはいつも吉爺の背に負ぶわれて帰った。母親は病気がちだったが、暖かく穏やかな日には縁側でまさを膝に乗せて髪をといてくれた。その膝の温もり。まさがとても好きだった優しい兄と遊んだ小川。春の花。秋の空。

 まさが涙の中で想うふるさとは、いつも明るい光の中にあった。まさはまだ十二才であった。

 まさは故郷に帰れないことを知っていた。まさのふるさとの村は、長く続く凶作のために荒れ果てていた。故郷の家には吉爺と母親のりつだけが残されていた。戦死した父親がわりにまさを可愛がってくれた兄も召集され、働きに出られるのはまさだけであったのだ。

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