これは、事実にもとづき構成された物語にすぎません。
実在の人物、国家、団体とは、おおかた関係はありません。
従って、ここに記述されたことに筆者は何の責任も取りません。
ただ、かすかな記憶と追想の中で
ひとり杯をあげることをお許しいただきます


下宿屋 永泉館


めっそうもない青春記


1.Sの就職

「仕事がきまったよ」
引き戸をあけ、長身を折るようにして部屋にはいってきたSが、ぼそりと言った。いつもぶあいそなSは、それでも片頬に笑みを張り付けていた。
 1974年の春、4月ももうすぐ終わると言う日の午後である。初夏をおもわせる明るい日の光が、窓を開け放った下宿の4畳半にこぼれるほどにあふれていた。
「良かったな。ちょっと早いが、祝い酒といくか」
 小生どうもこの頃すでにアルコール依存のケがあったのかもしれない。
「うむ、もう2時だ。早いということはない」
と、すぐに賛成したSも同様であったのだろう。
  当時、早稲田大学の教育学部の校舎と通りをはさんだ向かい側に大学付属の野球場があった。このバックネット裏に、昔は女郎宿だった木造二階建ての下宿屋があり、その二階奥の便所脇の一室が私の部屋だった。
 Sとつれだって下宿を出て、球場脇の坂道を商店街の方へ歩いた。
 いやに明るい表情の学生たちが足どりも軽く行き交っている。
「そうか、新入生か。また新しい連中が入学してきたんだなあ」とSがつぶやいた。

 球場添いの桜並木はつややかな葉桜にかわり、風に揺れる木漏れ日のさざめきのなかで新入生たちの屈託のない顔がまぶしかった。
 Sは、卒業したものの就職は決まっていなかった。理由は知らないが、どうも就職活動をやっていなかったらしい。留年が決まって、妙に落ち着いていた私とは違い、いよいよ卒業という段になって、いささかあせり気味に大学の就職課に相談に及んだのだ。
 むろん、就職課に相手にされるはずはなかった。
 ・・・そして3月
 職が決まらないままSは卒業した。田無市にあった大学の学生寮も卒業と同時に追い出されるはずだったが、
「S先輩なら、僕の部屋に居座って本を読んでいますよ」と、Sの後輩の寮生が話してくれた。就職活動をしているかとは、聞かなかった。
 
 この日、Sとはひと月ぶりの再会だった。
「この時間じゃ、久二平はやってないな」久しぶりの早稲田の学生街で“くにへい”の焼き鳥にありつけると、Sは楽しみにしていたらしい。
「なに、とりあえず芳葉で一杯やろう。久二平は逃げやしない」
 球場坂下の芳葉というラーメン屋は、値段の安さで学生に人気があった。
 あいその無いおかみに水餃子と紹興酒を注文し、テーブル席についた。
「それで、どんな仕事なんだ」
「財閥系商社の下請けの会社なんだが、中東での現地勤務要員の口があってな。砂漠に送電線を立てる仕事らしい」
「どこの国だ」
「イランの、北部と聞いた」
「どのくらい行ってるんだ」
「予定では、2年の現地勤務、そのあとは本社勤務ということになっているんだが」ここでSがすこし口ごもった。
「プラント本体の進行状況によっては現地勤務が長くなるということのようだ。要するに、いつまでになるかわからんそうだ」
 おかみが紹興酒を瓶ごと運んできた。この店は大陸産のを置いている。大陸産は、国産や台湾産の紹興酒より格段にうまいのである。
 グラスの縁を指でぬぐい、注ぎ分けてSに渡した。
「イランに行ったら、どこででも飲めるというわけにはいかないだろうなあ」
 やや西に傾いた春の陽が、薄汚れたガラス窓ごしに店のなかほどまで差し込んで、すこしほこりっぽいテーブルの上を白く照らしていた。紹興酒をちびりとなめながら、私は一年前、Sのほか5人のメンバーとともに台湾北部の小都市、淡水市の大学と軍学校、陸軍部隊、そしてなにより埃だらけの演習場で送った日々のことを思い出していた。



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