これは、事実にもとづき構成された物語にすぎません。
実在の人物、国家、団体とは、おおかた関係はありません。
従って、ここに記述されたことに筆者は何の責任も取りません。
ただ、かすかな記憶と追想の中で
ひとり杯をあげることをお許しいただきます


日華学生暑期集訓


めっそうもない青春記2


2.演習場の変な日本人小隊

 それは、陸自でいうF的(人体標的)のようだった。
その標的を約百メートルの射程で狙い、撃つ。照星の先でこきざみに小さな白い標的が揺れている。もちろん動いているのは銃口のほうであって、マトではない。 
  射座に着き、一回当たり10発の射撃と評価を重ねていく。銃はM14、アメリカ軍給与の小銃である。
 もっともこの当時、中華民国陸軍はすでにM16アサルトライフルを正式採用していたので、M14はこのような訓練専用に回されていたのだろう。銃のコンディションもさほど良くなく、つっこみ(作動不良)を起こし、薬室に直接、手でカートリッジを押し込んで撃つ、といった場面もしばしばだった。
 こんな銃だったが、NとTのふたりはほとんど毎回、全弾命中という成績をおさめていた。標的の下の土塁から、命中弾の数を示す小旗が立てられるたびに、訓練担当の下士官たちが
「好hao! 很好Hen hao!」と、奇跡だというように声を高めるのが常だった。
 SもMもそして私も、訓練当初からNとTには及ばないが、国軍の兵士達を驚かすには充分な成績をあげていた。
 時々、座学の教官であったR氏もやってきて、我々の訓練を見守ってくれた。
  R氏は内省人(台湾土着の人々)であり、年の離れた我々に外省人(第二次大戦後、共産党に追われて台湾に逃亡してきた国民党を中心にした人々)に支配される側の苦しみや哀しみを語ってくれるようになったのだが、それはまだ先のことだった。

  私たちは、変則的な日本人小隊として、座学でもフィールドでもいつも一緒に行動していた。思えば、四半世紀も前、あの地で、同じ経験をしたことには、それぞれの理由と経緯があった。ただ、ここで説明することはとても難しい。
「なんだか嘘くさいよな、この国は」
「平和屋も経済屋も政治屋も、みんなわかっていて芝居しているような気がする。猿芝居を」もっとも年若いNは、いわば燃える正義派だった。
 自衛隊員でありながら、自衛隊に失望していたMは、
「銃をとる勇気のない奴に平和を云う資格があるだろうか、戦う決意のない奴に愛を語る資格があるだろうか」
・・・と、いわば正統的な軍人マインドを求めていた。
 20才の若さはどんな無分別をも非論理的に整合させる。私たちは日本では経験すらできない硝煙の臭いを、海の向こうに求めようとしていた。

  1972年9月の日中国交回復は、つまり中華民国台湾との断交を意味した。 
国際孤立を恐れる台湾は、当然日米への政治工作を活発化せざるをえない。
 政治、経済、文化さまざまな面で、台湾当局は必死の巻き返しをはかろうとしていた。
 亜東関係協会からの連絡を受けたのは翌年の5月も半ばのある日だった。
「国防部、救国団、調査局それぞれの受け入れ許可が出ました。おめでとう」
 中華民国のビザの発給業務など、これまでの大使館業務を引き継いだ亜東関係協会は、国民党情報部の出先機関も兼ねていた。あるルートを通じて依頼していたことに対して、異例ともいえる回答があったのは、台湾の対外宣伝戦略と、実戦部隊における訓練を受けたいというこちらの思惑が一致した結果だった。
 私とSは羽田から、そしてTは沖縄から船で、Nは香港から、集合場所である台北に向かった。この年7月21日のことである。そして、もう一人のメンバーであるMは自衛隊航空学生の身分を放り投げて、23日の便で追求してくることになっていた。



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