◆三. 由佳里 夜景をワインに添えて

 こんなゴージャスな気分は久しぶりね、と由佳里は満足の溜息をもらした。

 ワインも美味しいし、サラダもお肉も最高。「彼」にするんなら、こんな気の利いた所に連れてきてくれる人じゃなきゃねと、うるんだ目でテーブルの向かい側に坐っている新しい彼氏の顔を見つめている。前のは、最低だったわ、デートの場所に動物園なんて選ぶのだもの。小学生の遠足じゃあるまいし。

 ここは赤坂の高層ホテルの二十四階にあるバーレストランラウンジだ。分厚い絨毯や上質の本革を使ったチェア、真っ白なカフスを黒服の袖からのぞかせたウエイターたちのスマートなサービス。

「雰囲気が違うと、見える景色まで違うわね」

 由佳里が勤めている広告代理店はここから歩いて五分ほどの距離にある。築十九年という古い高層ビルで、由佳里のいるクリエイティブ局はそこの二十二階にあるのだ。

 眺める風景は同じでも、がさつな男たちが蠢く、ゴミ溜めのような由佳里の仕事場とこのラウンジとでは雲泥の違いがある。

 一枚ガラスの広い窓から外を目をやると、ライトアップされた東京タワーが夜空に燃え上がる炎のように赤く輝いて見える。

 眼下に広がるのは六本木から赤坂、溜池と広がる夜の街だ。星くずをまいたような明かりが地に満ちていた。

 ひしめき合うように小さな光がうごめいている中を、流れ星のように南北に飛ぶ輝きは首都高速を走り抜ける車のヘッドライト。

「ロマンティックね」

 由佳里はまた、そっと溜息をついた。ふたりのすぐ脇にピアノがディスプレイされている。それを照らしている間接照明の淡い明かりに映えて、由佳里が両手で包み込むように持ったワイングラスが、微かにピンクに輝いた。

 ふと目をあげると、彼の肩越しに、窓際の席に坐っているひとりの女と一瞬目があった。

 由佳里は目を見開いた。大変な美人だった。そこいらのモデルなどたちうちできないほどだ。

 それにしても、今度の「彼氏」はよくしゃべる。さっきまでの、ウルウルな気持ちはどこかへ消えてしまい、由佳里は彼の話に適当に相槌をうちながら、その女を目の片隅で観察した。 

 端正で優美な容姿。身につけているものは服もアクセサリーも一目で高価なものとわかる。こりゃあ、だれでも見つめたくなるわね。よかった、彼には見えなくて。由佳里はそう思った。

「彼氏」が、しゃべりながらも、由佳里のうしろのガラス窓に映っているその女を見つめていることには気がつかない。

 

 二杯目のワインを頼もうと由佳里がウエイターに合図したとき、一人の若い男がラウンジの入り口から急ぎ足に入ってきて、あの女のテーブルに近づいたのが見えた。ストリート調のパーカーに、ストーンウオッシュのジーンズ。その男の雰囲気はこのラウンジには場違いだった。右の耳に金のピアスをしている。

 顔つきがプアね、と由佳里は少々意外な気がした。あんな素敵な女性が待っていたのが、こんな男だなんて。

 男はその女に、とってつけたような挨拶をして、テーブルに座り、メニューをとりあげた。

「すげえな、こんなとこ初めてだ」そう言っているのが、由佳里にはよくわかった。

 若い男は、女にメニューを示して何事かを語りかけたが、彼女は小さな顔を左右に振って笑っている。

 食事はいらないとでも言っているようだった。

 女が右手を軽く挙げて、ウエイターに合図した。

 こころえた表情で、ウエイターが音もなくそのテーブルに近づいてきた。

「いらっしゃいませ」

 若い男が注文するのをさえぎるように、ウエイターは声をおとして言った。

「今夜は特別にお客様のお望みのものをサービスさせていただきます、なんでも結構でございます。ご遠慮無くお申し付けください」

「じゃあ、ドンペリを。いちど飲んでみたかったんだ。それから料理だけど、肉がいいな。厚く切ってサ、焼き方はレアで」

 若い男は不躾といっていいほど、遠慮無く注文した。

「キミって、ここのオーナーの孫娘って聞いたけど、ほんとなんだ」

 女は黙って微笑んでいたが、替わりにウエイターが静かにうなずいた。

「お嬢様にはワインのお代わりをお持ちしましょうか」

 ピアノが始まった。ショパンのピアノ協奏曲1番。弾き手は第2楽章から始めた。美しいノクターン調の旋律がラウンジに満ちた。

 ラウンジの奥の壁に小さな鏡がはめ込んである。電話コーナーにさりげなく飾ってある化粧鏡で、電話を終えた女性がそっと髪をなおしたりするときに使う程度のものだった。だが、その壁の反対側は事務スペースになっており、マジックミラーになっているその鏡の裏から、ラウンジが見渡せるように作ってあった。

 鏡の裏から二人を見て、ひとりの老人が深い溜息をついた。

「あの娘の欲しいものはなんでも与えてやった。だが、こればかりはなあ。だがもうここまで来てしまったのだから、仕方がない」

 老人の後ろに立って控えていた支配人に、いつものようによろしく頼むと言って老人は立ち上がった。

 老人は、このホテルのオーナー、旧財閥系JGグループの総帥だった。

 孫娘には何ひとつ不自由させていない。彼女も老人の言うことを良く聞いてくれる。

 しかし、ある悪癖だけはやめさせられないのだった。

 やがて、食事を終えた若い男は、上気した表情で、

「オレって、もしかすると超ハッピーなわけ?」と言った。

 さ、ヘリで夜空の散歩にいきましょ。そういって席をたった女はレジ脇にいた黒服の会釈を受けてラウンジを出て、屋上のヘリポートへと向かった。男が後ろから付いて行く格好だ。

 

 由佳里はあの二人がラウンジから出ていく後ろ姿を横目で見た。お勘定もしなかったし、カードも出していなかった。ホテル住まいの常連さんっていうところかな、そう思って羨ましくなったのだった。

 窓から外を見る。この夜景をワインに添えて過ごす時間。そんなリッチな生活って、どうすれば手にはいるのかしら。すくなくとも、前に坐ってしゃべっている男からではないことは確かね、と由佳里は思った。

 そのとき、「彼氏」の肩越しに、赤い飛行灯を点滅させて、ヘリコプターが西のほうへ飛び去っていったのが由佳里に見えた。そういえば、ここの屋上にはヘリポートがあるのよね。ホントに素敵だわ。

 老人の別荘は三浦半島の西海岸から六キロメートル離れた小島にある、というよりその島全体が老富豪の別荘地といったほうがいい。

 ヘリが島の中央部のヘリポートにランディングし、女が髪をおさえてドアから外に出た。

 屋敷の母屋の隣りに建っているコンクリートの建築物に向かって歩く。その後ろからは、ヘリを操縦してきた屈強な男がビッグサイズのキャンバスバッグを肩から重そうに下げて続いた。

 その建物に近づいたとき、突然唸るような咆哮とともに、黒いおおきなものが走り出てきて、彼女にとびかかろうとし、スチールの柵にぶつかり激しい金属音をたてた。

 おなかがすいているようね。お待ち、いまあげるからね。

 女は白い歯をみせて微笑んだ。

 女は一匹の羆(ひぐま)を飼っている。小熊から育て、もう三年。立派な成獣だ。

 今夜も一週間に一度の特別メニューのためにこれを調達してきたのだ。

「ほんとに大きくなってしまって」

 そう言ったときふと、女の頭にラウンジのピアノの陰で食事していた若いカップルの姿が浮かんだ。

 女はこちらに気を取られていたし、あのしゃべりっぱなしの男の子のほうも、ガラス窓に映ったわたしをずっと見ていたわね。

「あのひとたちもきっとJGグループのサービスカードを使っているわ。支配人にあの二人のデータを送って貰うことにしましょう。誰でもいいというわけにはいかないしね」

 エサに食らいついている羆をいつくしむように、

「こんどは倍の量が必要ね。お前も大きくなってきたことだしねえ」

 女はそっと、そうつぶやいた。  

もどる