難民・移民にとって日本とは?
(2002年4月17日筆)



 
 

○●○日本での生活は「人生の無駄」?○●○

 シェイダさん(シェイダさんについてはhttp://www.sukotan.com/shayda/shayda_top.html)が収容所から出たのは昨年の11月末。もうすぐ半年になる。解放された日、シェイダさんは、まるで奇跡のようだ、信じられない、と繰り返した。しかし、収容所での1年7ヶ月の生活ののちに再びめぐりあった日本社会は、シェイダさんをひどく幻滅させるものだったようだ。
 うんざりするほど長くかかる裁判、波長の合わない人間関係、うまくいかない生活設計…、彼を悩ませるものはたくさんある。
 「日本での生活は、人生の無駄、と思うこともある」彼は最近、こんなことまで言うようになった。陳述書の作成(上記(1)参照)においても、彼が強調するのは、「日本には来ようと思って来たのではない」
「日本は通過点であり、長期滞在する意志はそもそも、全くなかった」
 ということだ。
 もちろん、彼と、彼の闘いをともに担ってきた立場からは、また、「日本」という国のあり方をいかに変えていくか、ということを基点として考えている立場からは、彼のこうした言葉に、いささか不快の念を覚えることもある。しかし、その不快さに身をゆだねることは危険だ。彼の実りなく過ぎていく日常に対する焦り、怒り、無気力感、といった激情の部分を差し引いて、たとえばヨーロッパ、アメリカとの比較において、イラン人のゲイに日本での生活を「人生の無駄」と感じさせるものは何なのか、そのことを考える必要がある。

○●○「精一杯稼いで、帰国する」○●○

 ちょっと歴史を前にもどしてみよう。シェイダさんが日本に来た90年当時、日本とイランはビザの相互免除協定を結んでおり、多くのイラン人が日本に押し寄せたことがあった。そのときのイラン人の数は全国で1万以上とも言われた。その後日本は不況になり、ビザの免除協定はストップされてイラン人の数は激減した。
 欧米にもイラン人はたくさんいる。アメリカで最大のイラン人コミュニティはロスアンゼルスにあり、その人口は数十万人。ヨーロッパ各国にも、大きなイラン人移民・難民コミュニティがある。欧米のイラン人社会に存在し、日本のイラン人社会には存在しないのは何かといえば、イラン人による政治団体と人権団体である。
 イラン革命は20世紀後半で考えれば5本の指に入るほど重大な政治的事件である。この革命の達成に向けて動いた政治組織は、宗教主義者から左翼まで、数百に上る。その後ホメイニーの権力掌握と左翼や民族主義者に対する徹底弾圧により、多くの人々が亡命を余儀なくされた。彼・彼女らは欧米で、イランの民主化と世俗主義体制の確立、人権の保障を求める数多くの政治団体・人権団体を組織した。ホームページ検索でIran, human rights, などと打って調べてみると、美しい、情報豊かな、機能的なホームページが山ほど出てくる。彼・彼女らは本来、きわめて政治的に活発な人々のはずである。そうであれば、一万以上のイラン人が日本におしよせた90年当時以降、現在までに日本でも同じような動きがあって当然のはずである。
 実際、日本に来たイラン人の中には、イランの左翼や民主化のための政治組織にかかわっていた人々がたくさんいた。しかし、彼らはこの国を基盤にして、イランの将来にかかわっていこうとは思わなかった。もちろん、彼らはその可能性は考えただろう、しかし、それはこの国では不可能だった。その結果として、彼らは日本を「円都」*1とみなし、「円盗」*2として振る舞い、不況や入国制限とともにイランへ、または別の国へと去っていった。「精一杯稼いで、帰国する」…彼らはこの国に、この可能性以外のものを見いだすことができなかったのである。

○●○外国人にトータルな人間としての存在を認めない日本社会○●○

 シェイダさんはそもそも、経済的な目的でこの国に来たのではない。彼の家はイランでは裕福で、生活水準も今よりイラン時代の方が高かった。彼の出国目的は、ゲイとして、またイスラームの価値観を共有しない一個人として、自由に生きられる場所を見つけることだった。彼は92年にはすでに「ホーマン」(欧米に拠点を置くイラン人レズビアン・ゲイの人権組織)と連絡を取り、「ホーマン」から日本でイラン人ゲイとして何らかの活動をしてほしいと要請された。しかし、彼が見いだしたのは、自分は日本語ができないということだった。実はこれは「日本語」の問題ではない。「日本語」というのは、日本に住む外国人にとっての日本と日本人の象徴だ。人間は食べて稼いで寝る存在であるという以外に、政治的・宗教的・文化的・性的な存在でもある。ところが、日本では外国人はこのような「人間」であることを認められない。これまでサポートしてわかったことだが、彼はそのプライオリティの多くを政治的・宗教的・文化的・性的な部分に置いている。彼が人間として生きていくということは、そうした存在として生きていくということである。それが認められない以上、彼にとってこの国が「人生の無駄」と感じられるのは、至極当然だということになる。
 アメリカは外国人にとって、きわめて単純な、しかし堅固な魅力を持ち続けている。いわゆる「アメリカン・ドリーム」だ。これは端的に言って経済の問題ではなく、その国が構造として継続的に発散しているアティチュードの問題である。イギリスやフランスなどヨーロッパの国も、第3世界に住む外国人にとって、同様の吸引力を、アメリカほどではないものの持ち続けている。日本にその吸引力はない。日本の吸引力は「金」だけだが、その「金」も尽きようとしている。外国人が人間として生きていく上で、「金」以外に魅力のない国。国家の視点からものを見ることを峻拒する立場からも、なぜか日本の将来が心配になる。グローバリズム世界において、こんな国が命脈を保っていくことはできないからだ。
 日本をこのようにしてきた要因の一つが「入管体制」であり「難民鎖国政策」である。日本を閉塞に追い込んでいるこうした外殻をいかに脱ぎ捨てることができるか、これらは日本の課題でもある。もうひとつ、私たちは日本の脱皮をまつことなく、たとえばシェイダさんという人間が、トータルな意味で「人間」として生きていけるような空間と関係をつくっていくという課題を負っている。彼のいささかの激情、我が儘も含めて。忘れてはならないのは、日本で生きる日本人は明らかに、外国人にとって強者だ/強者にさせられている、ということだ。そんな私たち(日本人)のあり方を変えていくという課題に、常にどん欲でありたいと思う。

*1/*2:岩井俊二「スワロウテイル」(映画、1996年)。湾岸副都心?に忽然と登場した移民の街。内なる国境を何度となく行き来する移民たちの話。移民に対する警察の暴力もかなりリアルに描かれている。

 
 

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