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はじめに:沖縄の信仰と「御嶽」 沖縄の信仰をひとことで説明するのはなかなか困難ですが、簡単に言えば祖先崇拝と、自然の中に存在する様々な神様への信仰が基本となっていると言えます。神道として系統化される前の、日本の古来の信仰の姿を残しているとも言えるでしょう。
その中で人々の信仰の拠り所となるのが「御嶽」です。沖縄本島では「ウタキ」「ウガン」八重山では「オン」「ワー」と呼ばれています。日本で言うところの「鎮守の森」の神社と近い存在であるといえ、ひとつの集落に必ずひとつ、集落全体で信仰する御嶽があります(その他にも、ある家系のみが信仰する御嶽、特定の人物を祀った御嶽、特定の祭祀で崇拝される御嶽なども存在する)。
御嶽の基本的な形態としては木々に囲まれた空間で、入り口(八重山では鳥居があることが多い)の先に、簡素な拝殿があり、ここで祭祀を執り行ないます。拝殿の奥にはイビ(マソーミ)という石積みで囲まれた空間があり、ここに神様が降臨するとされます。拝殿とイビの関係は日本の神社における、拝殿と本殿の関係と同じものと考えてよいでしょう。イビの入り口は石積の小さなアーチや木造の簡素な門があることが多く、香炉が置かれています。イビの中は男性の立ち入りは厳禁で、ツカサしか立ち入ることができません。御神体や偶像がないのも特記すべき点で、実体を持たない「神聖な空間」が御嶽の中核となっています。 波照間島にもこのような「御嶽」が存在します。波照間は、八重山諸島の中でも今でも非常に信仰深い島として知られ、島内には御嶽以外にも拝所、古い村跡など聖地が数多く存在しています。中には一見ただの森や荒れ地にしか見えない所も多いため、島内を見て回る際には十分な注意が必要です。 1.集落ごとの御嶽〜ピテヌワーとウツィヌワー 波照間の集落の御嶽に特徴的な点は、各集落内の御嶽(ウツィヌワー、ウガン)が、あくまで遥拝所であり、集落から遠く離れた原野の森に、ピテヌワーという、何も建造物の存在しない御嶽があることです。ウツィヌワーはこれらピテヌワーに向って立てられており、普段はそこから、ピテヌワーにいるウヤーン(神様)に向ってお祈りします。このような御嶽の形態は沖縄全土に渡って珍しいものです。日本に目を向けると、奈良の大神神社が、拝殿だけで本殿がなく、三輪山 を御神体とする形態をとっており、古代の信仰の姿を忍ばせており、波照間でのウツィヌワーとピテヌワーの関係を彷佛させます。
とある「ピテヌワー」と思われる森の前まで行ったことがあります。周囲は土地改良でさとうきび畑になってしまっていますが、その森はまっすぐの農道がわざわざ迂回しており、鬱蒼とした森は近寄り難い、張り詰めた空気を漂わせていました。
真徳利御嶽:冨嘉部落の3つのトゥニムトゥ(宗家)F、N、P家のブーがあり、P家の祖先ピタブファーメの創設との伝承があります。域内には海に続くとされる池のある洞窟があるといいます。
各御嶽とも拝殿、イビの門、イビを持つ一般的な御嶽の形態をとり、木々に囲まれています。また境内や近くにには神井戸を持っています。これらの御嶽ですら、普段は厳しく立ち入りが制限されています。
阿底御嶽:冨嘉のトゥニムトゥであり島の創始者の子孫と伝えれるF家に隣接しています。他の4つの御嶽に対して、宗教的な地位が高いと考えられており、神事において重要な役割を果たしています。
ケイシムリ御嶽は前集落の東方、大底御嶽のほぼ向かいに位置し、前集落の一部の家が崇拝する御嶽です。この御嶽は拝殿がなく、森の中に低い石垣で馬蹄形に囲まれた広場があり、奥に香炉があるようなかたちになっています。そして、「ケーシブチ(アリヤマ)」と呼ばれる森(現在のNTTドコモ電波塔背後の森)を遥拝するかたちとなっています。この御嶽はかつて集落の御嶽だったものが、集落の移動・統廃合により、一部の家の御嶽へと移行したのではないかと思われます。 1500年、オヤケアカハチの乱が平定され八重山が首里王府の実質的支配下に置かれます。波照間では、島東部の支配者だったミウスク(ミシュク)シシカドゥンの3人の息子がそれぞれ「ヤアコ」「カイシモル」「アラント」村(それぞれ島の西部、中央部、東部に対応すると思われる)の「与人」(統治者)として任命されました。王府側の記録(「琉球国由来記:1713年)ではその際、真徳利御嶽、阿幸俣御嶽、白郎原御嶽を村の御嶽として創建したといいます(ただし、首里王府の都合のよいようにあとから史実を変えている可能性が大きい)。記録には集落の御嶽(ウツィヌワー)の名前は現れてきませんが、村の名前から以下のような対応関係が推測できます。
「ヤアコ村」の名前はパイパティローマへの脱走で廃村になったヤグ村(現・冨嘉集落西側)に対応しています。 「アラント村」の名前は、南集落の「新本御嶽」として残っています。 「カイシモル村」については、村が西にずれ現在の前集落となったという伝承がありますが、実際波照間では首里王府の支配下になって以降、他島への移住政策による人口の変動などに伴って、数回にわたって集落の移動や統廃合がなされて現在の形となっています。ケイシモリ御嶽の南側には「ジッシヌ村」跡があり、ここの住民の移住先は村跡の土地の所有状態から明確にたどることができます。これによるとこの村の住民の大部分は現在の前集落に移住しており、いずれも前集落のトゥニムトゥ(宗家)とされており、伝承と一致します。一方現在の前集落近辺には「ナーヌ村」があったともされます。こうしてみると、「ケイシムリ御嶽」が、かつてのカイシモル村(>=ジッシヌ村)の「ウガン」であり、それが、村の移動によりナーヌ村と合併して前集落が形成され、大底御嶽が新たな村の「ウガン」になったと推測できます。
3.聖なる井戸と創生神話
「ミシクゲー」はニシ浜近くの聖地「ミシ(ュ)ク」にあり、「ミシュク」にルーツをもつとされる冨嘉集落の家筋を中心に崇拝されています。海を隔てた西表島南東、南風見村跡の「ボーラケー」という井戸とつながっているという伝承があります。「ミシュク」に関連しては、波照間の創世(再生)神話が伝承されています。 「島に油の雨が降り、島西北海岸沿いのバショーツィの洞窟に隠れた2人の兄妹を残して島の生物はすべて死滅した。兄妹は洞窟で暮らし、成人して夫婦となった。子供が生まれたが「ボーズ」という魚のような子だった。2人は洞窟の東に移り住んだ。すると今度はムカデのような子が生まれた。そこでさらに上のミシュクという場所に移り住み、掘っ立て小屋を作り、井戸を掘った。ここではじめてまともな子供が生まれた。この子は「アラマリヌパー」と呼ばれ、波照間の人類の祖先となった。その墓は現在でも子孫とされる冨嘉のトゥニムトゥF家により崇拝されている。」 といったものです。(詳しくは「波照間の兄妹始祖創世神話」を参照)細部にはいくつかの異説がありますが、この伝説は東南アジア一帯に広く分布する洪水神話のひとつの類型といえ、島の文化の基層に汎アジア的な要素があることをうかがわせます。洞窟は今では海辺から吹き上げる砂で埋まってしまったといいますが、一帯には「ウチムリ」と呼ばれる13〜14世紀のものと推定される村落の遺構が残っており、ここも聖地として崇拝されています。
「ケーラ」
井戸ではありませんが、「ケーラ」という湧水も聖地となっています。島北岸の大泊(ブドゥマリ)浜東端で海に流れ込む泉(現在、枯渇)ですが、「大泊司」と呼ばれる神女が存在し、崇拝されています。「美底御嶽」の項で述べたように、現北部落の旧家のいくつかは西表古見から移住してきたとの伝承があります。彼らは大泊(ブドゥマリ)浜から上陸し、現美底御嶽の敷地に居住したあとB家をトゥニムトゥとして現在の北集落の西半分を形成しました。また、大泊浜のそばには下田原城跡(ぶりぶち公園)がありますが、それらの旧家のひとつG家との関わりがあるとされています。
4.村跡・住居跡
いままで文中で出てきた村跡のほかにも、古い村跡や屋敷跡が聖地として扱われています。パイパティローマ伝説の残るヤグ村跡は、まわりが土地改良事業でならされ、さとうきび畑となっている中こんもりとした森として手付かずになっており、石垣や井戸などの遺構が残っているといいます。
5.ビッチュル御嶽と港周辺の聖地
6.そのほかの御嶽・拝所
いままで述べてきた聖地の他に、一部のゆかりのある家系だけが信仰していたり、特定の行事でのみ拝まれる御嶽・拝所も存在します。それらは「ヤマ」「プー」と呼ばれています。たいていは拝殿はなく、ちょっとした石で香炉が組まれているだけの簡素なもののようです。
前集落、「星空荘」の向かいの長田御嶽(ナータヤマ)は史跡にも指定されており有名です。15世紀に石垣島の石垣地区を支配していた波照間出身の有力者「長田大主(ナータフージィ)」を祀っており、家系的につながりがあるといわれているM家によって崇拝されています。また、琉球王府支配期には、大底御嶽や港近辺の拝所と連携して公的機関や役人を守護する拝所としても機能しており、重要視されていたようです。 また、「ゲート・ホーラーの墓」(島に住んでいたオランダ人の墓だという伝説がある⇒別項参照)のように、墓に対して子孫がツカサをたてて御嶽として崇拝する様になった例もあります。ここまでの記事で触れた、ピッチュル御嶽の創始者「ヤマダブファーメの墓」、冨嘉集落の創世伝説に関わる「アラマリヌパーの墓」、シムスケーに関わる「ペフタツィパーの墓」といった墓も、普通の墓とは別に崇拝されています。 このほか海岸沿いにも各地に拝所があり、神事の際に立ち寄られます。例えばニシ浜東端の浜辺のすぐそば、プリマリ岬の西側には「ブトゥングパナ石」があり、特定の神事の際、供物が捧げられます。この石の沖合には「バラシフツィ」と呼ばれる淵があり、ここで漁網にかかった稲穂が冨嘉の稲栽培の起源となったという伝承があります。ペムチ浜からやや東の海岸沿いには石で囲まれた「ナビムリャ」と呼ばれる鍋底状の窪みがあり、起源は不明ですがやはり特定の神事で崇拝されています。 7.波照間独特の祭祀施設
フナミ(フナミツキ、フナミシキドゥリ) 波照間独特の拝所で、道端や曲り角にひっそりとある小さな祭祀施設です。珊瑚石を積み上げたりU字型やO字型にならべてあるものが多いようです。ニライカナイ(ネーラケーラ)の国にいる神まで願いごとが聞こえ通っていく道が通じている地点とされ、地面に口を近づけ地中に向かって願い事をつぶやきます。ニライカナイが沖縄本島のように海の彼方にあるのではなく、地底にあると考えられているのが特徴的です。主に、海伏せ風伏せの神行事の際に、これらの場所を回って祈願が行われます。その際に特徴的なのが、風の動きが目にみえるのを避ける点です。煙がたなびくのを避けるため線香は燃やした後の灰を使い、また、風に飛ばされぬよう石の下に入れるそうです。タオイズム(道教)の影響(エネルギーが地面から空気中に出て風になり散るのを防ぎ、土地の吉兆を維持する)の可能性が指摘されており、「フナミ」という呼び名も「風水」が関連しているのではないかとの指摘もあります。個々の屋敷の中にも同様のものがある場合があり、「フナムトゥ」と呼ばれています。 メーパナジ 「前拝所」の意。阿底御嶽、美底御嶽の入り口の「フナミ」や大底御嶽の向かいにある「ケーシムリ御嶽」を指す場合もあれば、新本御嶽のように、御嶽の創設者(新本与人?)の墓と伝えられている珊瑚石を積んだ一角を指している場合もあります。 8.石垣島白保の「波照間御嶽」 1771年の「明和大津波」の後、壊滅状態の石垣島白保に、被害が軽微であった波照間から強制移住が行われました。その際移住した島民が「波照間御嶽」を建てました。この呼び名が「アスクオン」であることから、冨嘉集落の阿底御嶽の分神を祀ったものと考えられます。
また石垣島大浜には「大石御嶽」があり、これも先述のように「明和大津波」後名石集落から移住させられた者が祀った御嶽です。
おわりに ふつうに滞在している時にはなかなか気付かないかもしれませんが、波照間島には上に記した場所の他にも数多く聖地が存在します。それらは今なお島の人々にとって大切にされている場所であり、そうであるが故に旅行者に対してはあまり多くが語られません。それでも、聖地や神事を垣間見るときのみならず、静かで濃厚な空気をたたえた森や、夜の風景を鮮やかに浮かび上がらせる月、潮の満ちひきで絶えず姿を変える海の色合いなどを目にしたなら、波照間をはじめ、八重山の島々にはいまなお、「神様」がいるのだということが旅行者にも感じられるのではないでしょうか。
参考文献:
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HONDA,So 1998-2004 | 御感想はこちらへ |