Menuへ
    波照間島あれこれ

    波照間島の聖地

    はじめに:沖縄の信仰と「御嶽」

    沖縄の信仰をひとことで説明するのはなかなか困難ですが、簡単に言えば祖先崇拝と、自然の中に存在する様々な神様への信仰が基本となっていると言えます。神道として系統化される前の、日本の古来の信仰の姿を残しているとも言えるでしょう。
    興味深いのは沖縄では、仏教、神道がいずれも布教に失敗しているということです。戦後、そこに目をつけた新宗教(創価学会など)やカトリック、そして新興宗教が布教合戦を繰り広げたようですが、基本的には今なお、離島に行けば行くほど古来の信仰が深く根付いているといえます。

    その中で人々の信仰の拠り所となるのが「御嶽」です。沖縄本島では「ウタキ」「ウガン」八重山では「オン」「ワー」と呼ばれています。日本で言うところの「鎮守の森」の神社と近い存在であるといえ、ひとつの集落に必ずひとつ、集落全体で信仰する御嶽があります(その他にも、ある家系のみが信仰する御嶽、特定の人物を祀った御嶽、特定の祭祀で崇拝される御嶽なども存在する)。
    ここで様々な神行事の際の祈願や、祭礼が行われます。それらを取りしきるのは沖縄本島では「神女(ノロ)」宮古・八重山では「司(ツカサ、カンツカサ。波照間ではシカーとも)」と呼ばれる女性の神職者です。ノロ、ツカサの制度は、祭政一致国家であった琉球王府によって15〜16世紀頃に整備されました。沖縄では、基本的には神に仕えるのは女性であり、またその地位は血縁で継承されるのが普通です。

    御嶽の基本的な形態としては木々に囲まれた空間で、入り口(八重山では鳥居があることが多い)の先に、簡素な拝殿があり、ここで祭祀を執り行ないます。拝殿の奥にはイビ(マソーミ)という石積みで囲まれた空間があり、ここに神様が降臨するとされます。拝殿とイビの関係は日本の神社における、拝殿と本殿の関係と同じものと考えてよいでしょう。イビの入り口は石積の小さなアーチや木造の簡素な門があることが多く、香炉が置かれています。イビの中は男性の立ち入りは厳禁で、ツカサしか立ち入ることができません。御神体や偶像がないのも特記すべき点で、実体を持たない「神聖な空間」が御嶽の中核となっています。

    波照間島にもこのような「御嶽」が存在します。波照間は、八重山諸島の中でも今でも非常に信仰深い島として知られ、島内には御嶽以外にも拝所、古い村跡など聖地が数多く存在しています。中には一見ただの森や荒れ地にしか見えない所も多いため、島内を見て回る際には十分な注意が必要です。

    1.集落ごとの御嶽〜ピテヌワーとウツィヌワー

    波照間の集落の御嶽に特徴的な点は、各集落内の御嶽(ウツィヌワー、ウガン)が、あくまで遥拝所であり、集落から遠く離れた原野の森に、ピテヌワーという、何も建造物の存在しない御嶽があることです。ウツィヌワーはこれらピテヌワーに向って立てられており、普段はそこから、ピテヌワーにいるウヤーン(神様)に向ってお祈りします。このような御嶽の形態は沖縄全土に渡って珍しいものです。日本に目を向けると、奈良の大神神社が、拝殿だけで本殿がなく、三輪山 を御神体とする形態をとっており、古代の信仰の姿を忍ばせており、波照間でのウツィヌワーとピテヌワーの関係を彷佛させます。

    御嶽と集落の関係
    ピテヌワー ウツィヌワー 集落
    真徳利御嶽(マトールワー) 阿底御嶽(アースクワー) 冨嘉
    阿幸俣御嶽(アバティワー) 大底御嶽(ブスクワー) 前
    大石御嶽(ブイシワー) 名石
    白郎原御嶽(シィサバルワー) 新本御嶽(アラントゥワー) 南
    美底御嶽(ミスクワー) 北
    北集落と南集落はあわせて東村(アリムラ)とも呼ばれ、また名石集落は前集落とあわせ島の中央に集落を形作っています。一方、冨嘉は西村(イリムラ)と呼ばれます。集落の御嶽とピテヌワーとの結びつきはそのような地理的関係に基づいています。

    ピテヌワー

    阿幸俣御嶽(アバティワー)
    島南岸近くにある阿幸俣御嶽の森。土地改良もここには手を付けられない。
    「ピテヌワー」(野原の御嶽)と呼ばれる3箇所の御嶽は、それぞれ島の西南部、南部、東部の、集落から遠く離れたところに存在します。鳥居や拝殿、香炉といった普通の御嶽にあるような施設は何もなく、森になっていて、その中にちょっとした開けた場所があり、目印となるブー(祭壇に相当する石)があるだけのものであるといいます。祭祀にあたっても線香や花は使われず、生のニンニク、塩、神酒などが供えられるそうです。島の中でも究極の聖地であり、この地に立ち入ることができるのは神司(カンツカサ)だけで、その他の島民は年3回のメーフサイ(ミヤクツァイ)(参道清掃)のときだけ立ち入りが許されます。
    とある「ピテヌワー」と思われる森の前まで行ったことがあります。周囲は土地改良でさとうきび畑になってしまっていますが、その森はまっすぐの農道がわざわざ迂回しており、鬱蒼とした森は近寄り難い、張り詰めた空気を漂わせていました。

    真徳利御嶽:冨嘉部落の3つのトゥニムトゥ(宗家)F、N、P家のブーがあり、P家の祖先ピタブファーメの創設との伝承があります。域内には海に続くとされる池のある洞窟があるといいます。
    阿幸俣御嶽:大底御嶽、大石御嶽のブーがあります。
    白郎原御嶽:新本御嶽のブーのみがあり、神事も主に新本御嶽の司が執り行います。(理由は後述)ここにも洞窟があり、かつて洞内で麻布が織られていたといいます。

    ウツィヌワー

    新本御嶽(アラントワー)
    南集落新本御嶽入口。中に立ち入ることはできない。
    「ウツィヌワー」「ウガン」と呼ばれ、各集落に1箇所ずつ、計5箇所あります。「ピテヌワー」があまりに神聖であるため、それらを村から遥拝するための御嶽として各集落の中にひとつずつ設けられたといいます。年に数回、大きな神事の時だけ「ピテヌワー」から神様をお連れします。
    各御嶽とも拝殿、イビの門、イビを持つ一般的な御嶽の形態をとり、木々に囲まれています。また境内や近くにには神井戸を持っています。これらの御嶽ですら、普段は厳しく立ち入りが制限されています。

    阿底御嶽:冨嘉のトゥニムトゥであり島の創始者の子孫と伝えれるF家に隣接しています。他の4つの御嶽に対して、宗教的な地位が高いと考えられており、神事において重要な役割を果たしています。
    新本御嶽:御嶽の創設者の子孫とされるP家に隣接しており、創設者の墓と伝えられる一角は、現在メーパナツ(後述)として崇拝されています。P家ほか南集落及び北集落の一部は、島の北東岸より移住してきたとの伝承があります。北東岸にはマシク村、シムス村、タカツ村などの村跡が残っています。(後述)
    美底御嶽:15世紀の島東部の統治者ミウスク(ミシュク)シシカドンの屋敷跡であり、また北部落のトゥニムトゥB家の屋敷跡も含まれています。シシカドンの死後、そこに墓を造って崇拝したという伝説が残っており、2つあるイビの香炉のひとつからは、西表島古見も崇拝する形となっているのが特徴的です。これはミウスクシシカドンをはじめとする北部落の旧家の一部が西表島古見より移住してきた史実を反映していると考えられています。(「美底」とは古見の別称でもある。古見はかつて八重山の中心地であったとされる。)そして、北集落が現在の形にまとまったときに、もとからあった美底御嶽を、集落の御嶽としたのでだろうと推定されています。( 白郎原御嶽に対応するブーがないのもそのためと思われる。)
    大底御嶽:「ナーヌ村」(現前集落一帯)の有力者ウヤマシアカダナが創設したとの伝承があります。宮古の仲宗根豊見親軍勢の与那国遠征(1522年)に加勢したウヤマシアカダナを追って、与那国の人々の亡霊が波照間を襲い、ナーヌシー村(ナーヌ村の後ろの村の意。現在の小中学校の辺り)の村民を皆殺しにした。アカダナは村の作業小屋で魚網に隠れ難を逃れた。そこでこの小屋の場所を御嶽とした、とのことです。こちらももとの村の御嶽は「ケイシモリ御嶽」(後述)であり、集落の移動合併に伴って集落の御嶽とされたと推測されます。琉球王府支配時には役所や役人を守護する御嶽でもあったようです。
    大石御嶽:御嶽の東側にある大きな石からその名がつけられたといいます。5つの御嶽の中では最も小規模です。形式的には「名石集落の御嶽」ですが、実際には名石集落の家の大部分が大底御嶽に帰属しており、大石御嶽に帰属している家が少ないのも特徴的です。これは、1771年八重山を襲った明和大津波後に、壊滅状態にあった石垣島大浜集落を復興させるため、「長石村」の住民の大半が強制移住させられ、かわりに前集落やシムス村などからの移住で「名石」として再興したためと伝えられています。この際、石垣島大浜には同名の「大石御嶽」がたてられました。

    2.かつての集落の御嶽〜ケイシムリ御嶽とケーシブチ

    ケイシムリ御嶽は前集落の東方、大底御嶽のほぼ向かいに位置し、前集落の一部の家が崇拝する御嶽です。この御嶽は拝殿がなく、森の中に低い石垣で馬蹄形に囲まれた広場があり、奥に香炉があるようなかたちになっています。そして、「ケーシブチ(アリヤマ)」と呼ばれる森(現在のNTTドコモ電波塔背後の森)を遥拝するかたちとなっています。この御嶽はかつて集落の御嶽だったものが、集落の移動・統廃合により、一部の家の御嶽へと移行したのではないかと思われます。 1500年、オヤケアカハチの乱が平定され八重山が首里王府の実質的支配下に置かれます。波照間では、島東部の支配者だったミウスク(ミシュク)シシカドゥンの3人の息子がそれぞれ「ヤアコ」「カイシモル」「アラント」村(それぞれ島の西部、中央部、東部に対応すると思われる)の「与人」(統治者)として任命されました。王府側の記録(「琉球国由来記:1713年)ではその際、真徳利御嶽、阿幸俣御嶽、白郎原御嶽を村の御嶽として創建したといいます(ただし、首里王府の都合のよいようにあとから史実を変えている可能性が大きい)。記録には集落の御嶽(ウツィヌワー)の名前は現れてきませんが、村の名前から以下のような対応関係が推測できます。


    村名 御嶽 ウガン
    ヤアコ(冨嘉一帯) 真徳利 阿底
    カイシモル(前一帯) 阿幸俣(orケーシブチ) ケイシムリ
    アラント(南/北一帯) 白郎原 新本

    「ヤアコ村」の名前はパイパティローマへの脱走で廃村になったヤグ村(現・冨嘉集落西側)に対応しています。 「アラント村」の名前は、南集落の「新本御嶽」として残っています。 「カイシモル村」については、村が西にずれ現在の前集落となったという伝承がありますが、実際波照間では首里王府の支配下になって以降、他島への移住政策による人口の変動などに伴って、数回にわたって集落の移動や統廃合がなされて現在の形となっています。ケイシモリ御嶽の南側には「ジッシヌ村」跡があり、ここの住民の移住先は村跡の土地の所有状態から明確にたどることができます。これによるとこの村の住民の大部分は現在の前集落に移住しており、いずれも前集落のトゥニムトゥ(宗家)とされており、伝承と一致します。一方現在の前集落近辺には「ナーヌ村」があったともされます。こうしてみると、「ケイシムリ御嶽」が、かつてのカイシモル村(>=ジッシヌ村)の「ウガン」であり、それが、村の移動によりナーヌ村と合併して前集落が形成され、大底御嶽が新たな村の「ウガン」になったと推測できます。
    また、「ケーシブチ」についても、かつては、ピテヌワーとして扱われていたのではないかと推測されます。ピテヌワーが4つあったのか、それとも後から阿幸俣御嶽が創設され役割が移ったのかはわかりませんが、現在も「ケーシブチ」は聖地として扱われています。また、一角には有力者「クシシアザマグ」の居城跡とされる遺構が残っています。
    なお、ケイシムリ御嶽は冨嘉集落のトゥニムトゥN家の分家が創設したという伝承が残っています。

    3.聖なる井戸と創生神話

    地図
    御嶽ではありませんが、古い井戸や村跡・住居跡なども、聖地とされ、島全体の神行事で訪問されたり、特定の家系の崇拝の対象となっています。特に井戸のいくつかは、聖なる神井戸として大切にされています。西北にある「ミシクゲー」と、島の東北にある「シムスケー」は、雨乞いや天候に関する島全体の祭祀において重要な役割を果たしており、供物が捧げられたり、相互の井戸の間で水を運んだりといった儀式がなされます。

    「ミシクゲー」

    「ミシクゲー」はニシ浜近くの聖地「ミシ(ュ)ク」にあり、「ミシュク」にルーツをもつとされる冨嘉集落の家筋を中心に崇拝されています。海を隔てた西表島南東、南風見村跡の「ボーラケー」という井戸とつながっているという伝承があります。「ミシュク」に関連しては、波照間の創世(再生)神話が伝承されています。

    「島に油の雨が降り、島西北海岸沿いのバショーツィの洞窟に隠れた2人の兄妹を残して島の生物はすべて死滅した。兄妹は洞窟で暮らし、成人して夫婦となった。子供が生まれたが「ボーズ」という魚のような子だった。2人は洞窟の東に移り住んだ。すると今度はムカデのような子が生まれた。そこでさらに上のミシュクという場所に移り住み、掘っ立て小屋を作り、井戸を掘った。ここではじめてまともな子供が生まれた。この子は「アラマリヌパー」と呼ばれ、波照間の人類の祖先となった。その墓は現在でも子孫とされる冨嘉のトゥニムトゥF家により崇拝されている。」

    といったものです。(詳しくは「波照間の兄妹始祖創世神話」を参照)細部にはいくつかの異説がありますが、この伝説は東南アジア一帯に広く分布する洪水神話のひとつの類型といえ、島の文化の基層に汎アジア的な要素があることをうかがわせます。洞窟は今では海辺から吹き上げる砂で埋まってしまったといいますが、一帯には「ウチムリ」と呼ばれる13〜14世紀のものと推定される村落の遺構が残っており、ここも聖地として崇拝されています。

    「シムスケー」

    シムスケー
    シムスケー
    「シムスケー」(シムシゲー)は、北東岸にあり、かつての「シムス村」の中心に位置します。「ペーフタツィパー」という女性が飼っていた牛が探し当てたという伝承があり、井戸端には牛の肝を表す聖石が、またすぐそばにはこの牛を繋いだという、穴の開いた石があり、「ペーフタツィパー」の子孫とされる北集落のトゥニムトゥK家を中心に崇拝されています。さらに近くには15世紀頃の集落跡「マシク」(別項参照)をはじめいくつかの集落跡があります。この一帯に暮らした人々に関しても「イシカヌパーとイシカヌブヤー」の神話が伝承されています。それによると、「イシカヌパー」と「イシカヌブヤー」という男女2対の兄妹神が島の南東の高那崎の東側、「ブドゥー」と呼ばれる岩の転がる荒れ地に上陸し、水と暮らすことのできる土地を探して海岸沿いを東周りに北上していったとのことです。彼らは「シライシ(産石)」と呼ばれる大岩の上で子供を産み、「ナビムリ」(鍋の形の窪み)「タナムリ」(田の形の窪み)といった水溜りから水を飲用し、「ブドゥーピキ」(岩盤の裂け目)を越え「カツァツァニ」(雨宿り岩)で一時期暮らしたといいます。ここには痕跡が残っているとされています。その後彼らはいくつか泉が湧き出ている北東岸に到達し、そこに定住し子孫を増やしたとのことです。この一帯にはマシク、シムス、タカツィ、ウダツィといった村々が存在し、一部は早い時期に内陸部(現南集落近辺)に移住、P家は新本御嶽とシサバルワーの創設者となりました。またシムス村は近年(18世紀頃)まで続いたのち、揃って移住し「ペーフタツィパー」の子孫K家をトゥニムトゥとして現在の北集落の東半分を形成しました。

    「ケーラ」

    井戸ではありませんが、「ケーラ」という湧水も聖地となっています。島北岸の大泊(ブドゥマリ)浜東端で海に流れ込む泉(現在、枯渇)ですが、「大泊司」と呼ばれる神女が存在し、崇拝されています。「美底御嶽」の項で述べたように、現北部落の旧家のいくつかは西表古見から移住してきたとの伝承があります。彼らは大泊(ブドゥマリ)浜から上陸し、現美底御嶽の敷地に居住したあとB家をトゥニムトゥとして現在の北集落の西半分を形成しました。また、大泊浜のそばには下田原城跡(ぶりぶち公園)がありますが、それらの旧家のひとつG家との関わりがあるとされています。
    B家については、ブアッテヌザンガラの伝説が伝えられています。「B家の男が大泊浜に寝るザン(マナティ)を捕らえようとしたところ海に引きずり込まれ行方不明となり、10日後別人のようになって戻ってきた。息子は怪力の持ち主で「ザンガラ」と呼ばれ、以後家が繁栄した。」といったものです。

    4.村跡・住居跡

    カンチアザマグ屋敷跡
    カンチヤマ(カンチアザマグ屋敷跡)。

    いままで文中で出てきた村跡のほかにも、古い村跡や屋敷跡が聖地として扱われています。パイパティローマ伝説の残るヤグ村跡は、まわりが土地改良事業でならされ、さとうきび畑となっている中こんもりとした森として手付かずになっており、石垣や井戸などの遺構が残っているといいます。
    他にも冨嘉の南にあるペミシュク(ペミシュクブリャの居城跡)や、冨嘉から名石への道沿いにあるアラブツィヤマ(アラブツィブリャの屋敷跡)やカンツヤマ(カンチアザマグの屋敷跡)といった場所が現在でも手付かずで残されており、神事の際は崇拝されています。
    ペミシュクブリャはアラブツブリャと知恵比べの末殺されたとの伝承が、また、カンチアザマグは現前集落南に居を構えていたユナチブリャと敵対しており、策略によって殺されたとの伝承が残っています。 また、先述したように「ケーシブチ」の西側にはクシシアザマグの屋敷跡と伝えられる一角があり聖地となっていますが、クシシアザマグは真徳利御嶽の創設者との伝承のあるピタブファーメと恋仲にあったとの伝承があります。

    5.ビッチュル御嶽と港周辺の聖地

    ビッチュルワー
    ビッチュルワー。奥に見える細長い石がビジュル。
    イナサイ
    イナサイ
    「ビッチュル御嶽」は島の北岸、港から集落に向う道(祖平花道)の途中にある、航海安全を祈る御嶽で、陽石(ビジュル)が祀られています。ビジュル信仰は沖縄全般に見られますが、このビジュルに関してはヤマダブファーメという女性が頭上に乗せてこの場所まで運び、恋人のイナフクサトゥヌシを守護する御嶽として祀り始めたという伝承が残されています。イナフクサトゥヌシはもともと首里王府の貴族で、政争に破れ波照間に島流しにされたと伝えられています。港周辺にはこの他にも首里王府支配時代につくられた貢納品収容小屋が拝所となっている「イナサイ」や、低い石組みに茅葺の屋根を載せたヒヌカン(火の神)の拝所、竜宮祭の際に儀式が行われる「マドゥマリ」と呼ばれる場所など、崇拝施設が点在しており、まとめて「イナマ」と呼ばれています。いずれも航海安全を祈る拝所であり、琉球王府時代に派遣される役人の無事を祈らせたのが始まりと思われます。

    6.そのほかの御嶽・拝所

    いままで述べてきた聖地の他に、一部のゆかりのある家系だけが信仰していたり、特定の行事でのみ拝まれる御嶽・拝所も存在します。それらは「ヤマ」「プー」と呼ばれています。たいていは拝殿はなく、ちょっとした石で香炉が組まれているだけの簡素なもののようです。
    民宿「たましろ」のある冨嘉集落には「プーニヤマ」(共同売店のそば、ゲートボール場の横の小さな林)や、「アサトゥンヤマ」(冨嘉集落から「モンパの木」に向う道に入ってすぐ、左側のこんもりした茂み。よく見ると香炉があります)、「ピィタ・プー」(P家本家の敷地内)などがあり、それぞれ関連する家筋によって崇拝されています。
    名石集落の大石御嶽のそばには島の「ヘソ」とされる「マニヤマ」がありI家が祭祀にかかわっており、また一部の神行事で拝まれます。
    同じく大石御嶽のそばには「ミヤラドゥンチ」と呼ばれる拝所があり、石垣島の「宮良殿内」への遥拝所と推測されています。(「宮良殿内」は石垣島の旧家の屋敷で、波照間出身の家筋と伝えられています。)
    ナビムリャ
    ナビムリャ
    フナミ
    阿底御嶽前のフナミ(画面右下の石が逆U字型に並べられている所)

    前集落、「星空荘」の向かいの長田御嶽(ナータヤマ)は史跡にも指定されており有名です。15世紀に石垣島の石垣地区を支配していた波照間出身の有力者「長田大主(ナータフージィ)」を祀っており、家系的につながりがあるといわれているM家によって崇拝されています。また、琉球王府支配期には、大底御嶽や港近辺の拝所と連携して公的機関や役人を守護する拝所としても機能しており、重要視されていたようです。
    また、「ゲート・ホーラーの墓」(島に住んでいたオランダ人の墓だという伝説がある⇒別項参照)のように、墓に対して子孫がツカサをたてて御嶽として崇拝する様になった例もあります。ここまでの記事で触れた、ピッチュル御嶽の創始者「ヤマダブファーメの墓」、冨嘉集落の創世伝説に関わる「アラマリヌパーの墓」、シムスケーに関わる「ペフタツィパーの墓」といった墓も、普通の墓とは別に崇拝されています。

    このほか海岸沿いにも各地に拝所があり、神事の際に立ち寄られます。例えばニシ浜東端の浜辺のすぐそば、プリマリ岬の西側には「ブトゥングパナ石」があり、特定の神事の際、供物が捧げられます。この石の沖合には「バラシフツィ」と呼ばれる淵があり、ここで漁網にかかった稲穂が冨嘉の稲栽培の起源となったという伝承があります。ペムチ浜からやや東の海岸沿いには石で囲まれた「ナビムリャ」と呼ばれる鍋底状の窪みがあり、起源は不明ですがやはり特定の神事で崇拝されています。

    7.波照間独特の祭祀施設

    フナミ(フナミツキ、フナミシキドゥリ)

    波照間独特の拝所で、道端や曲り角にひっそりとある小さな祭祀施設です。珊瑚石を積み上げたりU字型やO字型にならべてあるものが多いようです。ニライカナイ(ネーラケーラ)の国にいる神まで願いごとが聞こえ通っていく道が通じている地点とされ、地面に口を近づけ地中に向かって願い事をつぶやきます。ニライカナイが沖縄本島のように海の彼方にあるのではなく、地底にあると考えられているのが特徴的です。主に、海伏せ風伏せの神行事の際に、これらの場所を回って祈願が行われます。その際に特徴的なのが、風の動きが目にみえるのを避ける点です。煙がたなびくのを避けるため線香は燃やした後の灰を使い、また、風に飛ばされぬよう石の下に入れるそうです。タオイズム(道教)の影響(エネルギーが地面から空気中に出て風になり散るのを防ぎ、土地の吉兆を維持する)の可能性が指摘されており、「フナミ」という呼び名も「風水」が関連しているのではないかとの指摘もあります。個々の屋敷の中にも同様のものがある場合があり、「フナムトゥ」と呼ばれています。

    メーパナジ

    「前拝所」の意。阿底御嶽、美底御嶽の入り口の「フナミ」や大底御嶽の向かいにある「ケーシムリ御嶽」を指す場合もあれば、新本御嶽のように、御嶽の創設者(新本与人?)の墓と伝えられている珊瑚石を積んだ一角を指している場合もあります。

    8.石垣島白保の「波照間御嶽」

    1771年の「明和大津波」の後、壊滅状態の石垣島白保に、被害が軽微であった波照間から強制移住が行われました。その際移住した島民が「波照間御嶽」を建てました。この呼び名が「アスクオン」であることから、冨嘉集落の阿底御嶽の分神を祀ったものと考えられます。 また石垣島大浜には「大石御嶽」があり、これも先述のように「明和大津波」後名石集落から移住させられた者が祀った御嶽です。
    ちなみに、西表島の最高峰、「波照間森」も、強制移住させられた波照間島民の若者が、そこに登って波照間を眺め、懐かしんだという故事によって名付けられたそうです。

    おわりに

    ふつうに滞在している時にはなかなか気付かないかもしれませんが、波照間島には上に記した場所の他にも数多く聖地が存在します。それらは今なお島の人々にとって大切にされている場所であり、そうであるが故に旅行者に対してはあまり多くが語られません。それでも、聖地や神事を垣間見るときのみならず、静かで濃厚な空気をたたえた森や、夜の風景を鮮やかに浮かび上がらせる月、潮の満ちひきで絶えず姿を変える海の色合いなどを目にしたなら、波照間をはじめ、八重山の島々にはいまなお、「神様」がいるのだということが旅行者にも感じられるのではないでしょうか。

    参考文献:
    牧野清著 1990「八重山のお嶽」 あーまん企画
    宮良高弘著 1972「波照間島民俗誌」 木耳社
    住谷一彦、クライナー・ヨーゼフ著 1977「南西諸島の神概念」 未来社
    国分直一著 1972「日本民族文化の研究」 慶友社
    馬淵東一 1965『波照間島その他の氏子組織』
    コルネリウス・アウェハント 1967『波照間島の神行事について』
    Cornelis Ouwehand 1985
    "HATERUMA :socio-religious aspects of a South-Ryukyuan island culture"
    Leiden, The Netherlands: E.J. Brill

    大藤・小川編 1971「沖縄文化論叢3ー民俗編2」所収 平凡社
    谷川健一編 1987「日本の神々 神社と聖地13 南西諸島」 白水社

    Menuへ
    波照間島あれこれ


    HONDA,So 1998-2004 御感想はこちらへ