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波照間港から集落中心部に至る道(祖平花道)の途中に珊瑚石を積み上げてつくられた見張り台「コート盛」があります。島の数少ない「観光ポイント」のひとつとしてたまに旅行ガイドなどにもとりあげられています。 このようないわゆる「遠見台」は、17世紀半ば、江戸幕府の命によって八重山の島々全域にわたってつくられました。有名なものでは竹富島の「クースクムイ(小城盛)」や、黒島の「ブズマリ」といったものがあります。 その目的は外国船や琉球から中国への進貢船、大和の船の通行を監視し、烽火(のろし)により、その通行を石垣島にある蔵元(八重山をとりまとめる役所)に通報することにありました。その際、島によっては直接石垣島まで見渡す=烽火をかざすことができないため、島伝いの烽火リレーによって通報が行われました。難破船の救護にも利用されたようです。 このような遠見台は、17世紀半ば以前にもいくつかあったようですが、琉球王府がこの時期に全域に整備したのには、東アジア地域の国際情勢に大きな変化があったという理由がありました。
一方でスペインが、台湾北部やフィリピンのマニラを占拠し、琉球へも軍事的進出をはかろうとしていました。特に、マニラを拠点とするキリスト教の布教活動は、琉球経由で日本布教をはかろうとしていました。1641年、幕府は鎖国を完成し、その直前には「八重山キリシタン事件」を口実に、琉球でも本格的な禁教政策がしかれることとなりますが、そんな中でも台湾、フィリピンに近い八重山にスペイン船が頻繁に出没していました。 このような緊迫した状況のなか、1644年に初めて「遠見台」が設立されました。遠見番人が配置されて交代で見張りが行われ、不審な船の通行が発見された場合、烽火によってすみやかに通報がされました。
「遠見台」は、島のなかでも見晴しのよい高台や丘につくられましたが、平らな島の場合、多くは石積の遠見台が村番所(役所)に併設して築かれました。波照間島の場合、「コート盛」が村番所に併設された遠見台だと考えられています。
波照間島に特徴的なのは、「コート盛」の他にも遠見台の遺構が多く存在していることです。現在5つある集落のそれぞれに、遠見台があり、またその他にもかつての集落跡に遠見台の遺構があるといわれています。以下にそれらを紹介していきます。 |
![]() ・コート盛
波照間北側の海全体への眺望に優れている。
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![]() ・ホタムリ 冨嘉集落外れ。 名前は冨嘉集落の宗家「保多盛家」に由来。別名「アスク盛」(阿底御嶽から由来か) ニシ浜方面の眺望に優れている。 高さ2.9m、直径5mほど。 |
・マンジヌヤムリ 前集落の南外れに位置。 「真地家のおじさんの盛り」の意味。 高さ2.7m、直径7m ペムチ浜方面の眺望に優れている。 農地改良により取り壊されてしまい、小柄な塚が復元されているというが、確認できなかった。 |
![]() ・カッチンヌブヤムリ
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![]() ・ミザトゥムリ
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この他島の東北部に「ウヤームリ」「カビッチィムリ」の2遠見台が存在するといわれています。これは、シムス村、タカツ村、マシュク村といった東北沿岸にあった村を統合した「平田村」の番所跡と関係があるのではないかといわれています。(17世紀半ばに島中央部の集落が波照間村、他の集落が平田村という行政区にまとめられ、17世紀後半にさらに平田村が波照間村に統合されたと推測されている)
2002.5.18追記
参考文献:
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HONDA,So 1998-2002 | 御感想はこちらへ |