第27回

5月号


 『オアシス』

 『オアシス』を見だして2時間、ここまではすごい映画ではあっても決しておもしろい映画ではないと思っていた。五体満足のハン・ソリも出てくるが、知らない人が見たらこの人は身体が不自由な人と映るであろうし、ソル・ギョングも役柄ではなく、こういう人という印象が強い、私も多少チクノウの気があるのでだらしなく鼻をすすったり、鼻をかんだりするが、そういう人という風に見えてしまう。さて最後の12分、警察から脱走してソル・ギョングがハン・ソリの元へ行くであろうことは明白であった。しかし、それは、ロミオとジュリエットのように上と下とで目を見交し、当然張り込んでいるであろう警察に再逮捕されてエンドマークであろうと予測した。

 しかし、ここからが私の想像とはまったく異なる展開が始まる。なんとソル・ギョングは、ハン・ソリのアパートの部屋のオアシスのタペストリーに不安な影を落すアパートの前の立木の枝を切り出したのである。それに答えるようにハン・ソリは、ラジオのボリュームを最大にして、おそらく2人でカラオケ屋で唄ったであろう唄を深夜の外にまで流して、その愛に答える。ここで私は涙が止まらなくなった。それまでは、泣くこともなく、わずかにたいくつして映画を見るままであったが、ここからは、もう涙で答えるしかなかった。『半落ち』も泣けた、しかしその涙は劇場を出ると同時に止まりもしたが、『オアシス』の涙は、映画館を出たあとB1Fのドゥマーゴで2人で昼食をとっている時でさえ、止まらなかった。

 不具の愛と言ってしまえばそれまでである。しかし、2人の男女は、それぞれのために、それぞれにとっての幸福のためにのみ、行為していたのである。狭い方丈に救いのようにかけられた1枚の砂漠のタペストリー。オアシス、それを見るのが救いであるハン・ソリが、夜、そのタペストリーに木の影がゆれてかかり不安で眠れないと言っていたので、ソル・ギョングは脱走して小枝を切った。もとよりその強姦容疑も不当逮捕である。2人に和姦などありえないという社会の不具が抗弁する口をもたない2人を強姦として、男を逮捕したのである。2月7日から9週間でこの映画は終わってしまったが、その短さが、日本の社会の不具をも表わし、だからこそ、私は2重の意味で泣き続けた。

 2時間12分『オアシス』は見終わってみれば傑作といえる1本であり、多くの観客をはじき飛ばすほどの強い力を持った映画と向き合った2時間12分は幸福であった。

 『オアシス』は5/8(土)〜21(金)広島サロンシネマ、5/15(土)〜21(金)大分シネマファイブ、山形フォーラム。他全国順次 お問い合わせ03-5458-6574 シネカノン

 写真は『オアシス』の2人。

●市井義久の近況● その27 5月

 3月13日初日の映画の監督は、石井隆、崔洋一、石井輝男とめずらしい名前が並んでいた。3月8日発売の「Caz」という女性情報誌では、石井隆の紹介とともに『天使のはらわた 赤い教室』というタイトルもあった。又、3月20日発売の「キネマ旬報」にも熊谷秀夫のインタビューページに『天使のはらわた 赤い教室』というタイトルがあった。その映画は1978年の作品である。脚本は石井隆そして監督は曽根中生、主演は水原ゆう紀と蟹江敬三である。

 私はこの作品と出会わなければ、明らかに30年後の今は別の仕事をしていた。それ程に映画が人の生き方を変えることもあった時代の映画である。28才、今よりもはるかに、はるかに感受性が豊かであった時代の映画である。

 その頃私はスーパーマーケットの店員をしていた。学生時代の200本には及ばないまでも確実に年100本は映画を見ていた。あたりまえである。邦画は今だ2本立、3本立の世界であり、日活ロマンポルノならば1本1時間15分、3本立で3時間45分、仕事を終わってから見ても終電に充分間に合うタイムスケジュールである。又その頃はオールナイト興行など、どの映画館でもあたりまえであった。その頃の勤務先は阿佐ヶ谷、電車で1駅の高円寺ロマン劇場で、3本立、他の2本は忘れてしまったが、そのような頃に見た『天使のはらわた 赤い教室』である。私はその日帰れなくなってしまった。正確には電車では帰れなくなってしまった。どうしてよいやらこの身の処理に困惑したのである。映画の終了が11時過ぎ、しかたなくその頃住んでいた井の頭線富士見ヶ丘まで高円寺から歩き出した。青梅街道、井の頭通りと、それ程わかりにくい道でもなければ、何10時間も歩いた訳でもない。夜、映画を見て電車で帰るという昨日までのルールを踏みはずしてみたくなった。と同時にその時、映画の側で生きることを決めた。しかしそれから3年はスーパーマーケットの店員であった訳であるから、さしあたって映画を見続けることを決めた程度である。しかし見続けることだけは決めた。

 『天使のはらわた 赤い教室』は一言で言えば男と女は永遠にわかり合えないというそれだけの話である。なぜそれだけの話に、肉体をもて余す程の狂おしさを感じたのか、涙を流すとか笑うとか、感動するとかの、ありきたりの整理されたリアクションでは対応し切れない狂おしさを、その映画から感じ取ってしまった。言葉で表わすとこういうふうにしか言えないが、私は今だ、私の生き方で、その映画のリアクションを発信し続けているつもりである。

 3月27日(土)成蹊大学を卒業して30年ということで記念のパーティが開催された。小さな大学なので1974年の卒業生は全学でも何千人、その中の200名が出席という事であった。会場は桜満開の品川 開東閣、貴族も、賤民も存在しないという事になっている日本であるから、建物はベルサイユ宮殿やリュクサンブール宮殿と比較すべくもないが、3時開場 4時開宴 6時閉宴までの3時間、知っている人が1人もいない。19才から23才まで、感受性が最も豊かであった、時代をすごしたにも関わらず思い出す人が1人もいない。(唯一私に話しかけて下さった、1人の女性と男性に心から感謝します。それがなければ、私はまったく、キリンビールを飲む以外は口を開くことすらなかったと思います。)1971年から74年までの4年間、71年の入学式の時、私は何者でもなかった。74年の卒業式、私も何者でも無い。高校の卒業式と成人式は欠席だったが大学の入学式と卒業式だけは出席した。そしてそれから30年、今もまだ何者でもない。53才、さあ今が桜満開の下、再出発だと思う。


市井義久(映画宣伝プロデューサー)

1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。
キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。
1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。

2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。

●2001年 宣伝 パブリシティ作品

3月24日『火垂』
(配給:サンセントシネマワークス 興行:テアトル新宿)
6月16日『天国からきた男たち』
(配給:日活 興行:渋谷シネパレス 他)
7月7日『姉のいた夏、いない夏』
(配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:有楽町スバル座 他)
8月4日『風と共に去りぬ』
(配給:ヘラルド映画  興行:シネ・リーブル池袋)
11月3日『赤い橋の下のぬるい水』
(配給:日活 興行:渋谷東急3 他)
12月1日『クライム アンド パニッシュメント』
(配給:アミューズピクチャーズ 興行:シネ・リーブル池袋)


●2002年

1月26日『プリティ・プリンセス』
(配給:ブエナビスタ 興行:日比谷みゆき座 他)
5月25日『冷戦』
6月15日『重装警察』
(配給:グルーヴコーポレーション 興行:キネカ大森)
6月22日『es』 
(配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:シネセゾン渋谷)
7月6日『シックス・エンジェルズ』
8月10日『ゼビウス』
8月17日『ガイスターズ』
(配給:グルーヴコーポレーション 興行:テアトル池袋)
11月2日『国姓爺合戦』
(配給:日活 興行:シネ・リーブル池袋 他)

ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。

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