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PC処世術 - 雑感:デジタル化の双極にパソコンの未来は見えるか


 計算機の進歩によって、近頃は何かと「デジタル化」流行りである。音の世界を見ても、アナログ盤レコードが駆逐されてCDにとって代わられたのは随分前のことだし、最近ではシリコン・オーディオやiPodのようなHDDオーディオの類が、カセットテープから置き換わりつつある。また電話においても途中にデジタルが挟まることで IP網で音声通話を行わせるということがあたりまえになっている。
 絵の世界に目を向けると、デジカメが銀塩写真にとって代わる勢いの普及をみせていることで分かる通り、著しいデジタル化の波が押し寄せている。動画の世界でもビデオテープからDVDやHDDレコーダへの移り変わりがはっきりと感じ取れるし、テレビに至ってはあと数年するとアナログ放送は終了するということになっている。

 こうしたアナログ情報のデジタル化は、こちらでも書いたように、HDDに代表されるストレージ容量の増大と,それにつられて進歩してきた入力デバイスに支えられて可能になったものだ。その方向は、文字から音へ,音から絵へ,絵から動画へという「高い次元」を目指すとともに、より高いサンプリング,より高精細な記録という「緻密さの向上」もまた同時に目指している。
 この方向は、詰まるところ「世の中にあるアナログ情報を尽くデジタル化してしまえ」という方向であり、その究極は「あらゆる対象を可能な限り緻密に記録する」という物量志向だ。このような志向の背景には、コンピュータの演算スピードとストレージの容量の指数関数的向上がある。その物量志向コンセプトが発表されていた時代には困難とされていた記録も、やがては容易にこなせるようになるというわけだ。逆にいえば、そうした物量志向が計算機やその周辺デバイスの進歩を支える需要を創生してきたとも考えられる。
 そして、来るべき 64bit 時代には、現在の NTSC/PAL(アナログ放送)レベルよりも更に高精彩の画像(つまりHD-TV)の記録・再生という機能が期待されているようだ。これは、物量路線で今考えられるデジタル化の究極とも言える。間違いなくこの 64bit 時代には現在よりも緻密で多様な情報をデジタル化して保存しておくことが一般的になるだろう。

 しかしながら、あらゆるアナログ情報をデジタルで記録・再生できるようになったからと言って、それが果たしてゴールであろうか。筆者は必ずしもそうではないように感じている。デジタル化にはもう一つの「極」があると最近つとに思うようになった。

 筆者が最近思う、もう一つのデジタル化の志向は減量志向である。データの圧縮というのもこれに近いが、少し違う。一般的な音楽や動画の「圧縮」が行っている「データの質を落として単に記録容量を減らす」という作業は、「物量志向」を補完する程度のことだ。筆者の思う減量志向は、感覚的にはデータのベクトル化である。例えば「画像」をトレースして線画にすることであったり、「音楽」から音階と音色に分解することであったり、あるいは紙文書に書かれている文章をテキストにすることだ。物量志向が元のアナログ情報を正確に記録するものであるとすると、筆者の考える減量志向はエッセンスを抽出することであり、物量志向の対極にある。
 そんなことを思うようになったキッカケは、こちらに書いたようなデータの数と質について考えたことにある。ストレージの容量は対象とするデータ1つあたりのサイズによって必要量が決まってくるが、データの数はストレージの容量にあまりインパクトを与えない。このことの裏を考えると、データの質については物量作戦が解決してくれるものの、データの数に対しては物量は何らの対応策になっていないのではないか、と考えたわけだ。
 データの数が増えることがストレージの容量に与えるインパクトは小さいが、人間に与えるインパクトは大きい。既にして個人で所有する数十万以上のファイル群から目的のファイルを探すという作業は困難になりつつある。今後、今以上にデジタル化が進んでデータの数が増えていくということは容易に予想されるが、これに対して物量だけで解決になるとは思えないのである。
 例えば、紙文書をスキャナで読み取って画像として保存することを考えてみる。確かに、保存すること自体は物量が可能にしてくれるだろう。しかし後からデジタル(画像)化した文書を探すことが出来るだろうか。少なくとも、筆者には難しい。この問題を解決するには、減量志向のデータのエッセンス抽出による被検索性の向上が不可欠と考えるわけである。文書であれば OCR などでテキスト化されていなければ、画像の文書データなど意味がないストレージの肥やしになることうけあいだ。
とある音楽データのMMLの一部分  実は、このような減量志向の歴史はけっこう古い。それは、かつてパソコンを含む計算機の能力が著しく乏しく、減量しないことには記録も再生もままならない時代が長く存在していたからだ。文書だって、画像として保存することなどは考えられなかったし、画像だって極力線画として表現したものだ。
 右の図は、筆者が十数年前に入手したある音楽データの MML(Music Macro Language) の一部である。当時はPCで「録音」などままならぬ時代であったので、音楽は音階と音色で記述したものだ(今でも携帯の着メロなどはこれだ)。このため、数分の音楽にもかかわらずデータサイズを数KBに収めることが出来たわけだ。
 当時、このような減量志向は足りない物量を補うものではあったが、物量が充足している現代においてはデータをデジタルとして活かすために再び注目を集めても良いように筆者は思うのである。また、かつてはこの「エッセンス抽出」作業は人力だったわけだが、これを行うために計算機のパワーをもう少し傾けても良さそうにも思う。

 2004年現在、PCの機能としては何かと物量志向が宣伝されがちなように思われるが、その路線だけでは「ただ単にデータがデジタル化した」というだけでデジタル化のメリットを本当に享受できるのかどうか、少々疑問である。来るべき 64bit 時代には、データがリアルかどうかという物量路線だけでなく、データのエッセンスを抽出してデータの被検索性を上げるような減量志向の工夫を、筆者としては期待したいところだ。たとえば、鼻歌から音楽を検索する、とか似顔絵から写真を検索する、とか,そういう機能が提供されるようでないと、PC関連ベンダが思ってるほど64bit時代は明るくないことにもなりかねないのではないか・・・?(3. Oct, 2004)

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