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PC処世術 - 雑感:パソコンは普及したのか - 習熟のハードル編


 最近、パソコンやインターネットは「普及した」とよく言われるようになった。内閣府による 調査(Excelファイル)によれば、1997年(平成9年)頃から急激に普及率が上がり,平成16年3月の時点で普及率は65%を超えていることになっている。
 確かに、8bit や 16bit パソコンの時代と比較すれば,間違い無くパソコンは普及したと言える。インターネットを見渡せば、コンピュータ関連の話題に限定されず、人の生活の話題が網羅されているし,大抵のものはネットで購入できる時代が到来している。そして、その入出力の主役がPCであることに間違いは無い。
 その一方でネットを離れてみると、「パソコンは果たして本当に普及したのか?」という疑問を抱くこともある。例えば、(特に非技術系の方と)やり取りしていて,「では、メールで連絡します」と言うと、「電話かFAXにしてくれ」と言われることもある。あるいは相手が若かったりすると、「メール=携帯メール」という前提のもとに話が進行することもある。また、昨年の台風の折には「会社の重役が何処そこへ出かけると言っているのだけど、現在の交通状況をパソコンで調べて欲しい」という電話が知人宅からかかってきたこともあった(その知人宅にはパソコンが鎮座していたのだが)。もちろん、技術系でない方々も大勢パソコンを利用されているのだが、「パソコンはあるけどあまり使えない(使いたくない)」というケースも未だ決してレアではないようだ。

 「パソコンは普及」し,パソコンが持つ多くの機能は「機能として」常識化したとはいえ、一般の人々の間では必ずしもその機能の多くは常識になったわけではなかったのだ。筆者からすると,パソコンは本当に普及・浸透したのか、疑わしいと思っている。前出の 内閣府のデータには、パソコン以外の耐久消費財の普及率なども記されているのだが、それを見ると2005年現在のパソコンは「電気カーペット」と同じくらいの普及率でもあるし、1985年頃の「自動車」と同じくらいの普及率でもある(現在の自動車は86%)。
 これを筆者なりに解釈すると、「誰でも買える値段だが、必要な人は買い,要らない人は買わない」レベルであるともとれるし,「買えるのだが操作に習熟できた人だけが買う」というレベルであるともとれる。
 パソコンの場合,電気カーペットよりは操作が煩雑であろうから、やはり「その普及と習熟のハードルの高さの間には関係あり」と見るべきだろう。右図は、前出のデータをプロットした、パソコンの普及率の変遷を示すグラフである。
 パソコンの操作やインターネットへの接続はWindows 95の登場によって(昔と比べて)飛躍的に簡単になり、習熟のハードルは下がったのだが、これに伴ってパソコンの普及率も急激に伸びた様子が良く分かる。そして2004年3月のあたりを見ると、頭打ち感が見られるのだが、これは32ビット時代の Windows がもたらした「習熟のためのハードル低減効果」の限界がそろそろ近いことを示しているのかもしれない。

 パソコンを始めとする計算機に対する習熟のハードルは、これまで常に下がりつづけてきた。古くは,(パソコンではないが)スイッチのON/OFFによって直接的に機械語を送り込んで操作したり、ニーモニックに対応する機械語コードを紙に穴として穿孔したりして動作させたわけで、普通の人にはどうやって使うかすら分かりにくいものだった。
 いわゆるパソコンの 8bit 時代(FM-7とかMSX)も、「パソコンを使う=プログラミング」という意味合いが強く、それが仕事や趣味の人にとっては受け入れられても普通の人には親和し難いものだった。普通の人にとっては「ゲームする機械」程度のものだったかもしれない。
 それが 16bit時代になると「アプリケーション・ソフトを動かす装置」にまで昇格する(もちろん、これ以前にもアプリはなかったわけではないが)。自分でプログラムして動かすというよりは、ソフトウェアを購入してそれを使うという使い方だ。これに伴って,パソコン習熟のハードルは,「ソフトの操作方法を覚える」ところにまで下がったわけだ。ただ、そうは言ってもアプリを満足に動かすには相応の知識が必要だったことも事実である。素人から見れば、キーボードへのアレルギーもあったし,第一どのキーをどう叩けばいいのかすら分からなかったかもしれない。このあたりが当時のパソコン普及の足枷だったように思う。
 さて、32bit 時代には Windows によって相当に習熟のハードルが下げられたのは前述の通りだ。巷に溢れる入門書をパラパラめくってみると、“計算機システム”に関する概念の解説などは殆どなく,操作手順がひたすら書かれていたりする。既に計算機の中身などは知る必要も無く、手順さえ知っていれば操作できるという程度にまでパソコン習熟のハードルは下がったということだろう(そういう学習方法が良いかどうかは議論の余地があるが)。Windows はその代償として相当なマシンパワーを浪費したが,PCを簡便に扱えるようにしたことは間違いない。

 だが、この頁の前段で書いたように、パソコンはそれでもやっぱりバリアフリーではないようだ。未だ、各種ソフト・ハードのインストールやら設定やらには、「“計算機システム”に関する概念」をある程度理解していないとつまづくことがあるのも事実だ。
 来るべき 64bit 時代には、このあたりがどのように解決され,ユーザーから隠匿されるのか、非常に興味深い。パソコンが前述の「電気カーペット」の道を辿っていくのか、それとも64bit 時代は「自動車におけるオートマ・パワステ・カーナビ」をもたらすのか、はたまた「趣味の装置」として(前出のデータにおける)「ミシン」の道を歩むのか、その岐路に立つのはそう遠い話ではないと思う。(23. Jan, 2005)

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