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PC処世術 - 雑感:普及と進歩に“必要”は必須か


 よく、新製品に関わる評論や将来に関する展望に関する記事などで、「…の必要はない」とか「…が必要とされているといった記述を良く見かける(当サイトでも見かけることがあるかもしれないが)。前者は比較的先進の能力を持つ製品に対する論評に用いられ、後者は何故必要なのかが良く分からない製品に対する論評に良く見かけられるように思う。
 そして、しばらく時間を経過して後に市場を見渡すと、全てがそうだと言うわけでもないが、必要ないとされた製品が繁栄し、必要だと叫ばれた製品なり機能がトーンダウン,ということも珍しくない。

 例えば、100メガバイトのHDDが初めて消費者向けに出回り始めた頃、「そんな大容量を埋めるようなデータはなく、必要性が感じられない」といったような論調もあったりした。だが、その後HDDの不足を体験しなかったという人はそうは居ないだろう。また、携帯電話にしても、「必要ない」とされていた時期が長らく存在した。少なくとも、携帯電話は“みんなが待ち焦がれていた”という類の製品ではなかっただろう。
 逆に、必要性と効能が説かれながら登場した BlueTooth とか IEEE1394 とか、一時標準装備にまでなった IrDA といった I/F の類や、あるいはかつて「32bitの能力を活かすのには必要で、将来OSの本命」と長らく叫ばれていたOS/2はどうなったのだろうか。そして、各所でその必要性と効能が力説されていた RDRAM はどうなのだろう。これらは、あたかも“みんなが待ち焦がれていた”かのようにも言われたものだったと思うが、現状は甚だトーンダウンしていると言わざるを得ない。

 こうした“必要性”に根ざした論調に触れている時は、あたかも“必要”であることが必須のように感じてしまうものだ。確かに、“必要性”があることは進歩や普及にとって重要なことであり、関係が無いとは筆者も思わない。
 しかしながら、筆者の見るところ、巷で言われる“必要性”と“進歩や普及”との間の関係には強い非線形性がある( すなわち、相互に作用を持っている)ように思われる。つまり、進歩や普及が新たに必要性を生んだり,必要なくしたりするのではないか、ということだ。
 例えば携帯電話の場合、当初はあまり必要性を感じなかったものが,普及が進むにつれて必要性を強く感じるようになった。あるいは、前出のOS/2の必要性は32bit試行期に皆が感じていて,本命だと目されていたわけだが、代わりになるもの(この場合はWindows)が強く前面に出てきたために誰も必要としなくなった。
 このようなことが起こると、世の中ではパラダイム・シフトなどと呼んで過去の論調に対する言い訳をするのが通例だが、筆者の目には“必要性”と“普及”との間にある非線形性が生んだごく自然な現象であるように映るのである(もっとも、予測するのは難しい,あるいは不可能ではあるので、「必要だ」「必要で無い」の接頭辞として“現時点で”がつくことが多い)。

 さて、雑誌をはじめとする“必要性に根ざした論調”について考えてみると、そういった論調自体も“必要性”との間に少なからず相互作用があるかもしれない。つまり、「必要だ」「必要で無い」と叫ぶことによって需要を喚起したり,既存のものを保護したり、という効果を期待する一面があるように思えてならないのである。つまり、その論調のヌシの利害を表面化した表現である疑いがある。
 そして、上述のように「必要」の“現時点”での有無は必ずしもその後の普及や進歩を決定しない。したがって、筆者は“「…の必要がある」「…は必要が無い」”という論調に触れるたびに眉に唾をつけてみることにしている。(12. Mar, 2005)

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