雪の日の土屋さん事件 その1

 雪の札幌から帰ってきたら、東京が大雪なのでおかしくなってしまいました。東京の大雪といって思い出すのは、土屋さん事件です。私がまだ東京に来てまもない、“若い娘さん”だったころのお話。私の友人の間では有名な逸話なんですが、せっかくの大雪にちなんでここにご紹介いたします。長いので、2分割にしますね。

 東京で最初に借りた住まいは、文化住宅の1階でした。1Kの、玄関から10歩も歩いたら外で出ちゃうようなささやかで古びた部屋でしたが、私には晴れて一人暮らしを始められた喜びの方が大きくて、“中華鍋買わなくちゃ”とか“押し入れを収納に最大限活用しよう”とか、いろいろ構想が次から次へと浮かんできて、とにかく毎日が新鮮でした。

 引っ越しして一週間ほどたった土曜日のこと。夕方ぐらいだったと思いますが、私は文化住宅の入り口のところにある郵便箱から郵便を取っていました。すると後ろから男の人の声がしました。
「最近引っ越して来られた方ですよね?」
 振り返ってみると、背広を着た色黒で中肉中背のおじさんがそこに立っていました。
「そうです」
と答えると、そのおじさんは一枚の紙を私に差し出しました。
「僕はこういうものです」
「はあ」
 みると、それはそのおじさんの“着任通知はがきの見本紙”でした。そのはがきには、おじさんは山一証券の国際なんとか部の課長の土屋さんという人で、新潟から東京に転任になったと書いてありました。 それにしても、自己紹介に名刺ではなくて着任状をもらうのもけったいなら、その着任状が見本紙で青いというのもけったいで、私はどう対応していいかわからなくて、その着任状の文面を繰り返し目で追いかけていました。すると土屋さんは自らを励ますようにいいました。
「僕は単身赴任なんですよ。まあ、同じアパートになったのも何かの縁だから、お互い助けあっていきましょう。」
 なんだか一人で盛り上がっています。そのままいると、ずっと話していそうな雰囲気でした。
「…よろしくお願いします」
 私はそれだけいって、郵便箱の前を離れ、自転車で駅前に向かいました。“なんじゃ、ありゃ”というのが、私の土屋さんに対する第一印象でした。

 翌日曜日の午前11時ごろ、廊下に面した台所の窓を開け、私がお昼ごはんの準備をしていると、そこに真っ赤なラコステのゴルフシャツとグレーのゴルフズボンを身につけた土屋さんが現われました。
「おはよう! パチンコに行かない? 昼メシもご馳走してあげるよ」 
 土屋さんにも、パチンコにも、ご馳走してくれるという昼メシにも興味がなかった私は、
「いえ、今自分で作っていますから」
 といって断りました。
「いいじゃない、それは晩メシに使えば」 
しばらく土屋さんは粘っていましたが、私は何があっても行く気はありません。
「…そう。残念だな。じゃ、また今度ね。」
 そういって土屋さんは去っていきました。

 数時間後、土屋さんはまた現われました。今度は両手に重そうなビニール袋を提げて。
「パチンコでとったんだ。こんなにはいらないから、一つキミにあげるよ。」
 とビニール袋を差し出します。
「もらういわれはありませんから」
「そんな堅いこといわないで。ほら。ほら。」
 と私に持たせようとします。心の中では“いらん、いうとろうが!”と怒り始めていたのですが、あくまで穏やかに
「いや、いいです。お気遣いなく。」
 といって戸を閉めました。すると土屋さんは私の部屋のドアノブにビニール袋をひっかけて、2階の自分の部屋へ帰っていってしまいました。そんなものがドアノブにずっとぶらさがっているのはかっこう悪いので、しかたなくビニール袋を部屋に入れました。中には、サランラップやスプーン印の上白糖や一房のバナナが入っていました。
「これは新潟の風習かなんか?」 
 ダイニングテーブルに置いたビニール袋を前にして、私はあきらかに困惑していました。

 その翌週も、土屋さんは私の部屋の玄関のドアノブにビニール袋を引っかけていきました。だんだん気持ち悪くなってきた私は、その前にもらったものも合わせて、いないころを見計らって土屋さんの部屋のドアノブにひっかけ返して帰ってきました。また、顔を合わせないのが一番、とできるだけ土日は出かけるようにしました。幸いコピーの仕事が忙しかったので、それは休日出勤すればすむ話でした。

 それでも会っちゃうことがあるもんです。やはり郵便箱の前でのこと。私の姿を見つけると、
「あのさ、お願いがあるんだけど」
 といって土屋さんは近寄ってきました。そして信じられないことをいったのです。
「鍵を預けるから、僕の部屋を掃除してくれない? お金は出すから。一人だとアイロン切り忘れて出勤しちゃったりして、危ないんだよね。そんなとき電話するから、僕の部屋へ入って確認してくれるとありがたいんだけどなあ。」
 “何いってんの、こいつ? 私を現地妻にしたいわけ?” あきれてものがいえないというのはこういうことね、と思いました。むかむかきたんですが相手にしたら負けと思って、
「いえ、そんなことはできませんので」
 とさっさと立ち去り始めました。後ろから土屋さんの声が追いかけてきます。
「キミの流儀で掃除してくれればいいんだよ。いいアルバイトだと思うけどなあ」
 引っ越しを考えた方がいいかもな、と思い始めていました。でも、なぜ私が引っ越ししなくてはいけないのか、という気持ちもありました。しかし、やはりというか、できごとはこれで終わりではありませんでした。それが東京では珍しい深い深い雪の日に起こったのです。 

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