生きるための情熱としての一人旅

「ホーカーズ! ホーカーズ! ホーカーズ!」

Part1

[はじめに]

 旅に出ようと思ったのは、疲れていたからです。きっかけは腱鞘炎でした。ライター業を始めて20年、腱鞘炎になったのは初めて。「――炎」という軽い病名の割には右腕が鉛のように重く、箸でごはんを持ち上げられない、と症状はなかなかつらいもので、お医者さんに弱音を吐きました。お医者さんはあっさり「しばらく休むことですよ」。そのときは即座に「そんな。休めませんよ」と答えた私でしたが、お医者さんの言葉は不思議に私の中に残り、しだいに、休めないというのは思いこみかもしれないと思うようになっていきました。いったんそう思い始めると、「そういえばここ5年間夏休みを取ってないし」「腱鞘炎になるなんて尋常じゃないし」と休む口実が私の頭上でどんどん膨れあがっていきました。
 
 そんな折、出張で帯広に行くことになりました。ふと広げたJALの機内誌に載っていたシンガポールのフードフェスティバルの記事。7月、ここは国を挙げて食に関するイベントを展開するのです。「そうそう、7月、シンガはフードフェスなのよねえ」と思い出したらもう矢も盾もたまらずシンガポールに行きたくなって、7月になるのも待てもせずに気がついたら海外格安航空券と宿泊ホテルをオンライン予約していました。
 
 シンガポールを選んだのは、郷愁からです。大阪で生まれて、東京で暮らして、これで第一、第二の故郷は決まりというところでしょうが、第三の故郷を指定していいなら、私にとってはそれは、シンガポールです。まだ回数にすると6、7回しか訪れていないし、ここ5年間は訪れなくても平気だったぐらいの愛情なのですが、自分のお金でどこか海外へ行くとなると、まっさきに頭に浮かぶのがシンガポールなのです。
 
 「ほんとうのフードフェスはまだ先だけど、自分なりのフードフェスを実行すればいいんじゃない?」 行き先をシンガポールに決めたところで、旅のテーマも自動的に決まりました。香港も台湾もそうだといいますが、シンガポールも食べることがほんとうに好きな国です。それはホーカーセンターがあることでもよくわかります。ホーカーセンターというのは、お粥や麺、スープ、焼き飯、スナック、おやつなどがいちどきに食べられる一間間口の小さなお店の集積コーナーのこと。繁華街であろうが、住宅地であろうが、シンガポール人が集まるところには必ずこのホーカーセンターが存在します。一つのホーカーセンターでもそれぞれの店の営業日や営業時間はまちまちで、無休の店もあれば、しっかり週休二日の店もあり、また朝型の店もあれば、夜型の店もあります。そのおかげで、早朝から深夜までいつ行ってもどこかの店で何かが食べたり飲んだりできます。数店だけの小さなホーカーセンターから、ゆうに100以上の店が競い合う巨大なホーカーセンターまでその規模はさまざまなのですが、全部ひっくるめるとシンガポール全体で200ぐらいはあるんじゃないでしょうか。
 
 私はこのホーカーセンターというアイデアがすごく好きなんです。シンガポールを好きな理由の筆頭に上げてもいいぐらい。潮州料理、海南料理、四川料理、マレー料理、タイ料理、インド料理、もちろんシンガポール料理など、ほんとうにさまざまな料理があるし(数は少ないけれど日本の焼き鳥なども!)、安いし(一品平均200円ぐらい)、おいしいし、いつ行ってもなんかあるし、へんに構われないし、食べることの好きな風来坊にとってはまさにパラダイス。しかし、道連れがいると、ホーカーセンター探訪は数あるアトラクションの一つにすぎず、「一回行ったら十分でしょ」という感じになって、ゆっくりしっかり堪能することができず、いつも物足りない思いをしていました。
 そこで今回は、一人旅の利点を生かしてひたすらホーカーセンターをめぐることにしました。題して「ホーカーズ! ホーカーズ! ホーカーズ!」。食べ歩きという言葉がありますが、まさに食べて歩いた旅でした。いや、もっと正確にいうならば、食べるために歩いた旅でした。それでも時間と胃袋に限りがあり、すべてを網羅するというわけには行かなかったのですが、シンガポールの食文化の広さと深さの一端をお伝えしようと思います。

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