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第16回
スィサイド
推薦盤「SUICIDE」

 パンク、と、今でもみんな恥ずかしげもなく口にするが、パンク・ムーブメントが音楽業界に起こったのは1975年のことである。つまりパンクは70年代の音楽スタイルであるわけで、もう四半世紀も昔の話だ。サイケもパンクもアートロックも、実はあんまりかわんない時代に排出されているのである。さりとて、ノイズもTGで1976年、非常階段で1979年結成だから、これまた70年代の音楽であるわけで、やっぱり恥ずかしい話だなあと思わないこともない。恥ずかしいと言えば、いわゆる「全身ヘヴィメタ!」という感じのファッションで街を闊歩する若者を見ていると恥ずかしくなるが、やはり「いかにもパンク!」というファッションを見ると、やっぱり時代錯誤を感じてとほほな気分になる。まあ70年代ファッションといえばそれでもいいが、スタイルから入って咀嚼しないからそうなってしまうわけで、まあ、「いかにもノイズ!」とか「いかにもフリージャズ!」というファッションはない分、少しは安心できる、といった程度である。そのうち「JOJO広重風ヘアスタイル!」とか「インキャパのこさかいさんが来ていたあのTシャツ!」とかがヒットして蔓延するとは思えないしねぇ。
 

 さて70年代中頃、もちろんくだらない高校生だった私が読んでいた音楽雑誌「ロックマガジン」が、いままでプログレ中心のマニアな雑誌だったのが、編集長・阿木譲がNYに行って帰ってきたら、いきなりパンク雑誌になってびっくり。もうこれからはプログレではなくてパンクだ!とかなっちゃって、それって雑誌「マーキー」にピチカートファイブが載ったりした時よりもびっくりした。読者への決別!なーんて阿木さんはのたまわっていたけれど、都合良く雑誌と本人がステップアップできたわけで、やがて彼が敬愛するブライアン・イーノがアルバム「NO NEW YORK」をプロデュースした時には『それみたことか!』と有頂天。こんなに読者を楽しませてくれた音楽雑誌はこの時期のロックマガジンだけだった。音楽雑誌も編集者があほうなほうがおもしろい。
 

 でも当時私はパンクはどうも好きになれなかった。つまりいかにもパンク!というファッションが嫌だったのだと思う。いわゆるピストルズとか、クラッシュとかの、錨に皮ジャン、チェーンに安全ピン、ボロT。このかっこうで佐井好子は聞けない。パンクのスピリットはいかにもOKであるが、かっこつけなくてもいいじゃん、って感じだった。実は日本のレコード会社もよくわかっていなくて、日本コロムビアが出したオムニバスLP「決定版!これがパンクだ」という凄いタイトルのアルバムには、ラモーンズのほかにはランナウエイズとかフレミン・グルーヴィーズとか入っていて、ぜんぜんパンクの決定版でなくって、笑えた。
 

 唯一、好きだったパンクバンドは、ラモーンズとスィサイドだった。ラモーンズの単調さに、ミニマルとかプログレの単調なリフの反復を見ていたわけで、同じくスィサイドも、マーチン・レヴの単調なキーボードのフレーズの繰り返しに、引きつったようなアラン・ヴェガのボーカルスタイルがユニークだった。ファースト・アルバムが傑出した秀作で、セカンドも悪くないが、その他のライブ盤、メンバーのソロなどはいただけない。でも金がなくなったら再発、てきとーな編集盤やソロをてきとーに出すセンスは、やはりチンピラ根性丸出しで、痛快だ。
 

 スィサイドは1980年代にてきとーな再結成&小金儲けのために来日、私も京都のミューズホールで共演したが、でぶでぶと太った醜いアラン・ヴェガを見ておられず、彼らが演奏中にそそくさと会場を後にしたのを覚えている。でもこの日の私の出演は、ヴェクセルヴァルグのとほほなスーパーバンド「N.I.L.A.」でのゲスト出演で、これまたてきとーな演奏で、スイサイドの前座ながらスイサイドの出演を心待ちにしていた観客にうけるはずもなく、今でもこの日のお客さんには悪いことをしたと思っている。今更遅いが、許せ。
 

JOJO広重 2001.6.26.



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