Back to IndexColumnTopHomeAlchemy RecordsAlchemy Music Store



第60回
AUSCHWITZ
推薦盤「DESTINY MOON」

  『人生など、アウシュビッツのようなものだ。無理矢理連れてこられて、散々痛めつけられて、身ぐるみはがれて、最後は虐殺される』
 

  大阪のミュージシャン・林直人くんが、こんな意味をこめて自分のバンド名に「アウシュビッツ」とつけたのかどうか、故人となった今ではもう確かめようがないが、おおよその意味はあっている気がする。私の持つ、また彼の持つ、根底的な厭世感は、常に一致していたように思えるからだ。アウシュビッツと名付けられたバンド名のイメージは、そのバンドが演奏するストレートなロックミュージックとは一致しなかったため、よく「バンド名を変えれば売れる」「これではメディアに紹介できない」「ハードコアのバンドと思われるぞ」などど周囲に言われたものだった。しかし林くんはバンド名を変えようとは、1度たりとも思わなかったに違いない。
 

  林くんは1978年に関西で初のパンクファンジン"アウトサイダー"を創刊、関西初のパンクギグを主催、80年にはやはり関西初の自主制作レーベル"アンバランスレコード"をスタートさせた男である。我々が関西でライブ演奏など出来る場所もなかった時代から、マントヒヒ、スタジオあひる、エッグプラントを経て、現在のベアーズ、ファンダンゴ、クアトロなどのラインを築いたのは彼の功績である。アンバランスから1984年にはアルケミーレコードを共に設立、その後のインディーズレーベルのラインを築いたこともそうだ。現在にみられるように、ロック、パンク、サイケ、フリージャズ、ノイズに至るまで、商売のためではない音楽がこんなにも交遊交差した関西の音楽世界が出来上がったことも彼の影響なくしては語れない。そしてそして、etcetc。羅列すれば彼の功績や功罪はもっともっとあるが、つまりは彼が1978年にアウトサイダーというミニコミをスタートさせたことが、全ての始まりであったように思う。誰もやらなかった時代に、誰かがやること。それを選んだのは、林くんであったことは、間違いない。
 

  しかし、我々が林くんから教えられたもっと大きなことは、「自分で自分の歌を歌え」ということである。それが歌であれ、楽器であれ、パンクであれ、ノイズであれ、ロックであれ、インディーズであれ、メジャーであれ、声にならない歌であれ、文章であれ、絵であれ、映像であれ、写真であれ、編集であれ、行為であれ、思いであれ、仕事であれ、ライフスタイルであれ、それが何であったにしても、「自分の歌を歌う」ということが、なによりも大切であるということだ。その歌がなにかを伝え、なにかを起こし、なにかを動かし、なにかに繋がっていくことを、私たちはもう知っているだろう。
 

  アウシュビッツは、林くんが1980年から1993年まで演っていたバンドである。その音楽はいくつかのオムニバス盤に収録、シングル盤などもあるが、スタジオ録音のフルアルバムはアルケミーレコードから発表されたこの「ディスティニー・ムーン」「ソングス」の2枚だけだ。自戒も含めて、最近はろくな音楽もろくな歌も存在しないが、この2枚には、本当に気持ちの入った、こころの"歌"が収録されている。そのアルバムへの解説など、それだけで十分だろう。いつかどこかで、耳にしてくれたら、私も少しはうれしい。
 

  2003年7月25日、林くんの死を知った夜、私はライブのステージにいた。そこで「死んだほうがましさ」と、何度も何度も、声の限りに歌った。「お前なんか死んだほうがましさ」と怒鳴り散らして歌うことが、私にとって林くんへの供養であり、贈る言葉であったと信じているからだ。この意味がわからない人には、わかってもらわなくてもかまわない。どうせ私も、仲間も、あんたも、お前も、貴様も、あと何年、何十年かすれば、林くんと同じく冥府に行くのだ。彼はそっちで自分の歌を歌っているだろうし、それまで、我々はこちらで、自分の歌を歌うのだ。それだけのことだし、それでいいのだ。
 

  質素な葬儀の後、私は挨拶をし、棺桶を担ぎ、火葬場まで同行した。火葬の最中に、林くんが「ふん、最後は火あぶりかい」とつぶやいた気がする。そう言うな、林くん。誰でも最後は灰になると相場は決まっている。でも、アウシュビッツはここでおしまいだよ。また逢う日まで、しばしのお別れさ!
 

JOJO広重 2003.7.31.



PageTop
Back to Index


Mail to us Mail order