Back to IndexColumnTopHomeAlchemy RecordsAlchemy Music Store



第76回
三上寛
推薦盤「ひらく夢などあるじゃなし−三上寛怨歌集−」

  私が三上寛の歌を初めて聞いたのは、小学生高学年の時だと思う。以前のコラムでも書いたが、私には4才違いの姉がおり、彼女が60年代末〜70年代に歌謡曲、フォーク、ロックなどに興味を持ったため、色々な音楽が自宅に持ち込まれた。わけのわからない小学生でも、弟である以上半ば強制的に聞かされる。
  三上寛の歌がなんであったのか、おそらくはレコードではなく、ラジオ放送だったように思うが、格好いいもの好きの姉の興味はひかなかったはずである。しかし子供は過激なもの、暴力的なものにはなんでも敏感に反応する。小学生の私にも、三上寛の歌にはなにがしかの雰囲気を感じていたのではないか。ただ70年代初期は、そういった得体のしれないものが周囲にまだまだ残っていた時代であったために、そこそこ過激な歌謡曲歌手に紛れている三上寛は、そう特異な存在として認識しなかったように思う。
 

  さて、三上寛が凄いぞ、と思うようになるのは、歌っている歌詞が理解できるようになってから、つまりは1973年に自分でもギターを買って、音楽に詳しい友人の家にギター持参で遊びに行くようになってからである。友人の家で聞いた三上寛。「なんだ!?この歌は!」というショックは、頭脳警察や早川義夫の洗礼を受けてはいたものの、三上寛のレコードはそれを上回るものだった。
  このアルバム「ひらく夢などあるじゃなし」は、当時はもちろん、発表されてから30年以上たった現代ですら、人はここまで歌えるものなのかと、それこそ気の小さなインテリ坊やなら硬直してしまうような、人のこころを包丁で突き刺すかのような、濃厚で熱い言葉で満ち満ちている。三上寛は詩人である。そして歌手である。このふたつを10代で完璧に習得した感性には、ひたすら驚くしかない。
 

  最初は、この三上寛という男はどこまで絶望しているのか、と思った。しかし何度も聞いていくうちに、いや、これは絶望などという甘えた気持ちではなく、言葉や歌、人間の奥深くにある、悲しさややさしさの果てなのであるということに気がついた。
  私も10代の頃には何度も安易に絶望的な気持ちになったが、こういう歌があるがために支えられ、崩れずに生きてこられたのではないかと思う。ひらく夢などあるじゃなし、という言葉ひとつに何重にも込められた意味を考えることが出来たのは、少なくとも私にとっては、真っ暗な時代の一筋の光であった。
 

  例えば、最近の三上寛のライブではまず演奏されないが、このアルバム収録曲に「気狂い」という曲がある。「気狂いだから/それでいい」という歌詞は、それ自体は非常に反モラル的な言葉に聞こえるが、実はこの言葉が偉大なる慰めであり、思想や芸術へ向かう者への励ましであり、それでいてあまりにも深い絶望であることは、歌の歌としての可能性や、言葉のイメージングの限界を超えることもできるという証でもあるのだ。
  私はこの歌がたまらなく好きだった。
 

  このアルバムは幾度となくCD化され、今でも簡単に入手できる。この翌年発表されたアルバム「BANG!」と共に、日本の音楽を意識的に聞く人間の家には、絶対になくてはならない作品だ。そして、これも本当に凄いことだが、"今も"歌い続ける三上寛の歌に、もっともっと耳を傾けるべきである。
 

JOJO広重 2005.2.4.



PageTop
Back to Index


Mail to us Mail order