小川未明の童話は、不思議である。
ひとつはその内容。幻想というよりは、なにか怖い心霊体験談の秀逸な一遍の読後のような、不思議でありながらリアルな印象をうけるストーリーが多い。現実にこのような世界を見て来たのではないか、と思わせるような、我々の生きるこの世界とその隣にあるミステリアスな世界との接点のような、そういった位置の作品である気がしてならない。
童話である以上、教育的な教訓や道徳が織り込まれた作品もあるが、むしろそういったものが感じられない、センチメンタルとファンタジックを融合させ、意味性を持たない作品の方が、読後にとてつもなく深い印象が残る。
またもうひとつの魅力は、その終わりの唐突さ。「え?これで終わるの?」というインパクト。ストーリーが中途で尻切れトンボに終わるようなエンディングについては、小川未明の右に出るものはないのではないか。
例えば小川未明の作品では「赤いろうそくと人魚」が有名だが、このお話はエンディングが"ちゃんとある"からこそ、この話が絵本で再構成されたり他の作品集にも取り上げられることが多いのであって、小川未明の書いた他の童話と比較すると、むしろ異色作であるように思う。
つまり、小川未明の童話は、本当のところは"よくわからない"。そこが何度読んでも新鮮であり、そしてどうしてこんな話が書けるのかがまた不思議であり、読み手側の空想力や想像力を試されているような、そんな気がしてならないのである。
世の中は本当にわかりやすくなり、隅々まで明るくなり、あたりまえでなかったものもあたりまえになり、つまらないものしか産出されなくなり、作り手も受け手も、つまらなくなることを強制されているのではないか、と思う時がある。
そして小川未明の書く話のように、中途で意識をブツッと切られた時、そのあたりまえの連鎖にいる自分に気がついて、その流れから脱却できる気がするのである。
この「日本幻想文学集成」で最も心に残る小川未明の作品は「金の輪」という、わずか4ページの短編である。
病気でふせっていた太郎が、ようやく起きれるようになり、まだ早い春の日、外で誰もいない往来を見ていると、遠方から金の輪を2つ転がしながら駆けてくる少年がやってくる。その少年は太郎の前を通り過ぎるが、通り過ぎる時に懐かしい微笑を見せる。太郎はその金の輪を転がす遊びをとてもうらやましく思う。次の日も同じ時間に、太郎は同じく金の輪を転がす少年に再会し、また微笑をもらうのであるが、その少年はなにか言いたげな表情で、少し首をかしげながら通り過ぎるだけである。帰ってから太郎は母親に二日続けて金の輪を転がす少年に会ったことを話すが、母親は取り合わない。太郎はその少年と友達になり、金の輪をひとつ譲ってもらい、ふたりして金の輪を転がしながら走る姿を夢想する。
ここまで読んで感の良い方なら、ストーリーの終焉を予測できるだろうが、実際はもっと唐突である。
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明くる日から、太郎はまた熱が出ました。そして、二、三日目に七つで亡くなりました。
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「金の輪」の話は、これで終わりである。
金の輪がいったい何であったのか、そもそもこのお話が、いったい何であるのかは、読者の想像力にかかっている。
21世紀に生きる凡な我々には、この大正八年に書かれた非凡な秀作は、永久に理解できないのかもしれない。
JOJO広重
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2002.6.25.
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