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第11回
富士に立つ影
白井喬二著 沖積舎 1998年刊


  長編の小説というものに、最近はめったに出会わなくなった。長編小説自体が世の中から必要とされていないのだろう。私が読んだ最長の小説は中里介山の「大菩薩峠」で、これも非常におもしろい小説ではあったが、中弛みがあること、未完であることが少々残念なところである。それでも傑作であることは間違いないので、こちらも読書の時間がある方には読んで欲しいところだ。 

  今回紹介する「富士に立つ影」もかなりの長編で、文庫で10冊程度。しかし中弛みがなく、日数さえあれば一気に読める"超"のつくおもしろい作品である。娯楽時代小説と言ってしまえばそれまでだが、登場人物のキャラクター設定が見事で、全編を通して飽きさせない。  

  登場人物は3代にわたる。徳川幕府が富士山の裾野に練兵のための訓練城を建設するにあたり、その責任者を決めるための問答が行われ、佐藤菊太郎と熊木伯典が争ったのがこの大長編の始まりで、この二人、息子、孫、その妻や家族が仇討ちをベースにドラマを重ねていくストーリーである。  

  菊太郎は善人、伯典は大悪人なのだが、菊太郎の息子の佐藤兵之助は悪人、伯典の息子の熊木公太郎は超善人と、まるで逆の設定がおもしろさを加速させる。そして公太郎の妹のお園と兵之助は、父の仇討ちの相手の子供同士と知りながら恋に落ちてしてしまう。しかし出世欲にかられた兵之助は、後にお園を捨てて政略結婚をしてしまうのである。  

  私がこの小説で一番好きなのは、さらに時代が過ぎ、もう老人となった兵之助が若き日のあやまちを悔い、お園を探し出して再会し、詫びに行くシーンである。相手も老婆となったお園の姿にも驚きながらも、若き日の非礼を詫び、本当に愛していたのはお園だったと告白する兵之助。その告白を聞きながらも一言も発さないお園。くっくっく、とふるえるお園を見て、感動して泣いているのかと思った兵之助の意図に反し、実はお園は笑っていたのである。ついにがまんしきれなくて笑い出す、お園。その笑い声に傷つき、呆然とする兵之助。  

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「そういうお答えをいただいても、どうにもこのお婆さんでは使い用がないじゃありませんか。ですからあの時はやっぱりあの時、今はやっぱり今、それよりか人間はどうすることもできないのですよ......。」
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   時は取り戻せない。どんな思いも、気持ちも、真実も、『あの時はやっぱりあの時、今はやっぱり今』なのだ。本当の愛、本物の恋、それはその時にこそ輝くものであり、その後の思いが時間に費やされた後の姿を知る小説はいくつかあるが、この「富士に立つ影」もその中の秀逸な一編である。


   いつまでも想っているのは、やっぱり男のほうかもしれない。
   違うかな?どうだろう、ねえ?



JOJO広重 2008.8.20.



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