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埼玉県草加市ファクト・シート


■草加市のプロフィール

 埼玉県の東南部に位置し、市域の南部を東京都足立区に接しています。昭和37年の東武伊勢崎線と地下鉄日比谷線の相互乗り入れによって、新田駅、松原団地駅、草加駅、谷塚駅の市内4駅から乗り換えなしで、上野駅まで30分程度、銀座まで55分程度という良好な交通アクセスが可能になりました。

 市域は東西7.24キロメートル、南北7.6キロメートル、総面積27.42平方キロメートル市政施行は昭和33年11月1日で、県内21番目、近隣5市1町(草加、越谷、八潮、三郷、吉川、松伏)では最初、近隣県南5市(川口、草加、蕨、戸田、鳩ヶ谷)では2番目と、比較的早くから市政が施行されました。当時の人口は3万4878人。その後、昭和39年に東日本一のマンモス団地といわれ、システムキッチンなど当時としては、画期的で最も近代的な設備を備えた松原団地がオープンした頃が人口急増のピーク。平成11年には人口22万2661人で市政40周年をむかえました。

 行政運営に関しては、東京都と接している埼玉県南部のまちとして川口市、蕨市、戸田市、鳩ヶ谷市とともに「埼玉県南5市まちづくり協議会」に属しており、衆議院の選挙制度改革以前には、浦和市、川口市、戸田市、蕨市、鳩ヶ谷市とともに、旧・埼玉一区中選挙区を構成していたことから、埼玉県の中心的な広域ネットワークに、今でも関わっています。一方、清掃事業は県東南部の越谷市、八潮市、三郷市、吉川市、松伏町と行政一部事務組合「東埼玉資源環境組合(REUSE/リユース)」の運営をしており、この関連から、5市1町のつながりも実務的にたいへん深く、今後、防災、福祉、医療の分野での地域連合のネットワークがますます広がっていくでしょう。

 もともと江戸幕府の直轄領であったことから、「天領」として比較的恵まれた環境の中で発展してきたことから、農地解放以前からの地元の人々のつながりは深く、草加市の歴史に重厚さを感じさせてくれます。とはいえ、現在では、全人口の7割がその後、この地に移り住んだ人々であり、新しい息吹が新しい草加市の大きな原動力になることが心から期待されているところです。「その日、やうやう草加なる宿にたどり着きにけり」と詠んだ松尾芭蕉が生涯の大作「奥の細道」の最初の宿泊地として逗留したことはまちの誇りであり、日光街道の宿場町として、行き交う旅人たちにホスビタリティと必要な情報を提供したことから、「情報発信の地」として「草加(そうか)」は今でもいち地方都市としては全国区の知名度を誇っているのです。

(解説:瀬戸健一郎)


■市 章

 草加の「草」の古字「艸」と「カ」を図案化したもので、3つの円は2町1村の合併、3つの線は3地区の編入を意味します。合併前の2町1村とは草加町、谷塚町、新田村。(昭和33年11月1日制定)


■市の木「マツ」

 市政15周年記念に市民公募により制定されました。以前には「草加の千本松原」といわれたマツも、人口急増、高度経済成長期の公害で絶滅しかけましたが、市民団体「松原保存会」などの地道な活動によって、今でも草加松原のクロマツは、草加市の歴史と文化のシンボルとなっています。(昭和48年11月1日制定)


■市の花「キク」

 市政15周年記念に市民公募により制定されました。草加市では古くから切り花用の菊の栽培が盛んです。現在も谷塚・新田地区を中心に約70戸の農家で夏菊や秋菊が栽培され、東京の生花市場に出荷されています。(昭和48年11月1日制定)


■シンボルマーク

 市政35周年記念に作成しました。「文化」「自然」「大地」を基本モチーフとしてデザイン化。縦の太い柱は、SOKAの「S」、「草加松原」の松の幹、「綾瀬川」の自然の流れを表現。3本の弦は、草加市が目指す都市像(快適性、都市性、市民性)を表現しています。(平成5年11月作成)


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