二十世紀

corridor of memories in a century (i)
corridor of memories in a century (iii)

 二十世紀が間もなく終わろうとしている。今回はその百年という時間をふり返ってみたい。そうはいっても百年は決して日常的な時間ではなく、実感を持つことは容易ではない。
 まずは百年を実感するための方法から考えてみた。長い時間を身近に引きよせる方法として、地球の歴史などを一年に置きかえることが行なわれる(カール・セーガンが考案したのだろうか。似たようなことを距離の話で小松左京も書いていた)。それを実際にやってみると今ひとつピンとこない。そこで二十四時間にしてみても「ふーん、そんな感じなのね」という域を出ない。時間的な遠近感を単に写しかえただけで、実感が増すというふうにはならない。――地球の歴史ほど劇的でなく、なんだかんだ云っても十九世紀と二十一世紀にはさまれた百年にしか過ぎない。区切りは恣意的で、写しかえに根本的な転換の意味合いがないためのようだ。
 そこで、起点を自分の誕生日にしてみるのはどうか、と思いついた。世紀初頭の出来ごとは物心つくまえで、最近のことは実年齢に接近してくる。いい感じでいけそうなのだけども、ぼくの誕生日での話を聞かせられるだけでは他人ごとで終わってしまいそうなので、みなさんが自分の誕生日で確認できるよう付録を用意してみた。
 そこにはぼくなりの気になる出来ごとを列挙してある。これもみなさんご自身が関心にあった手直しを試みてほしい。あなたにとっての二十世紀をふり返っていただきたいのだ(付録参照)。
 ぼくにとってはマルコーニの大西洋横断無線実験の成功にはじまって、ヒトゲノム概要解読完了で終わることになった。なかなかに象徴的だと感じているのだが、いかがだろう。
 特殊相対性理論が一歳半、不確定原理が十歳、ENIAC運転開始が十六歳、DNA二重らせん構造決定が十九歳――こうやって書き出してみると、成長にともなって着々と「現在」が準備されてくる感慨がある(たまたまかなぁ)。
 あらためて思ったのは、原子核の存在確認が今世紀に入ってからで、現在の物質観が思いのほか歴史が短いということだ。クォーク理論が二十三歳に相当して大学卒業の頃。そろそろ現在と地続きの感じがしてくる。カオス、フラクタルの二十七歳になると、まさにその連なりのなかで今があるという感じられる。――この方法で自分にとっての時間的な遠近感が実感的になってきている。みなさんにとっても何か感じるところのあるものになればいいのだけど。
 距離感として残念ながら視野に入れることができなかったのが映画の発明だったりする。また、この百年内で対を成しているものとして、超伝導現象の発見と高温超電導体の発見、ソビエト連邦の成立(十月革命)と崩壊がある。
 二十世紀的な巨大技術に起こった三大事故というべき、ジャンボ墜落、スペースシャトル爆発、チェルノブイリ原発事故はすでに十五年前とはいえ、年齢的距離感では五年前のことで決して遠い過去とはいえない。三年前くらいは最近であって、それが九〇年代に対応しているのは納得できる。
 やや意図的に選んだ面もあるのだけれど、冷戦終了後、危機に対する意識は確実に変わってきている。小惑星、彗星の地球接近を警戒する国際スペースガード財団、地球温暖化防止会議はそうした変化の反映だろう。国際宇宙ステーション計画やヒトゲノム解読計画も大きくはそうした流れの別側面と思える。
 世紀をふり返るということは次の世紀へのつながりを見出すということでもある。二十世紀最後の十年に次の世紀への準備が確かに現れている。ただし、それも百年の累積のなかで到達されているのである。
 二十世紀も余すところ二週間ばかり。この連載が新しい世紀をむかえるにあたってのみなさんの参考になれば幸いです。それでは、よい百年を。

corridor of memories in a century (ii)
graphics : 記憶の回廊――百年の
(i), (ii), (iii)


top page

back to home