今一度――Kはまだ明るいうちに緑の谷間を見渡しておきたかった。視線をめぐらせるごと、さまざまな生命ある存在が多様なジオメトリーを生成していることが感じられた。
「わたしはあした、彼らといっしょに帰ります。お気づきとは思いますけど、あなたも彼らとともにこの場所を構成するおひとりです。帰ってからもよろしくお願いします」
 コーディネイターが副所長とともに来ていた。終わりの近い安心感が両者にみえる。
「今回の体験は所長のおかげです。ただ、わたしにははっきりした確信がありません」
「所長に対して記憶の混乱があるのはわたしもあなたと同じです。その意味ではあなたも所長の息子なのですよ」
 副所長はKにそう応えた。「こんなに遠くまできてしまって、なんて無茶なことをしてしまったんだろうと毎日思っていました。でも、そうしなければ自らを閉ざしてしまった界域からの出口は見つからない」
 木々の緑に満たされたこのせまい谷間は内側なのか、外側なのか。――おそらくそのどちらでもなく、閉塞を乗り越えるための何かを得る場所なのだ。Kの視野を解放してくれた彼らの屈託のなさは場所が彼らに与えたものに違いない。
 Kがひとり想いにふけっていると、それに決着をつけるかのように副所長が告げた。
「ここは場所です。すべてはここに記憶される。わたしたちがここにいてもいなくても」
 帰路の案内役は女性だった。
「ゲートが開かれるのは三年に一回です。今回はまもなく閉じようとしています。ルートはだいぶ闇くなりますが、なにか悪い記憶をお持ちですか」
 ふつうパイロットはそうしたことは聞かない。Kは気にすることもなく答えた。
「水中の闇さに照応記憶がありますが、このタイプのルートなら大丈夫なはずです」
「では、通常の航程で進入します」
 会話を終えてKは思った。どのようにして緑の谷間に到達したかすら、Kは意識できていなかったのだ。往路も確かに同じ女性パイロットに導かれていたはずにもかかわらず、それを意識できていなかった。彼らが最初、ゆるやかに曲がった空間の均質な照り返しにまみれて見えなかったように。
「往路と復路の相互変換性は保証されていないんです。時間の順番とは関係なく、どちらかが他方にかたちや記憶を与えることはめずらしいことではありません」
「ネットワーク・リスニングでも同じことがいえます。ネットワークが元型を創出するのを往路とすれば、リスニングは復路にあたります。その相互変換性は保証されていない」
「徹底しなければコミュニケーションは実現しない。副所長はそうおっしゃるかも知れません。ああ、もう所長になられたんですが」
「そうですか、所長になられましたか」
 その意味ではあなたも所長の息子なのですよ――Kは彼のことばを思い出していた。
 数日、仕事場にいてもKは緑の谷間のことが頭を離れなかった。谷間を満たす緑の光、木々の、一枚一枚の葉のその姿に気づけば空間は決して均質ではなく、彼らの姿や心も個別の参照光を放っていることがわかる。参照光に照らし出される測地線は、単一でない無数のジオメトリーの存在をKに伝えている。
 そうなのだ。この検体の女性もまた彼らのひとりなのだ。Kはようやくその事実に思い到った。今たまたま手もとにあるものだけではない。これまで検体を通して出会ってきたすべての人びとが彼らと同じなのだ。――ネットワーク・リスニングもDNAインフォマティクスも全く同じだった。単に数学的に共通のジオメトリーを持つだけではないのだ。
 Kは次に何をすべきか気づいていた。
〈看守〉を〈看守〉から解放する物語を見つけなければならない。
 これがそのはじまりとなるのである。