明治6年(1873)、アメリカ長老派教会から派遣された婦人宣教師ヤングマン(1841-1910 写真右)は翌年、東京築地にB6番女学校(現在の女子学院高等・中学校)を開校した。女史の課題は「キリストの精神を社会的に実践する」ことで、この主旨にそった団体を作ろうと生徒に呼び掛けたところ、9名が集まった。これを「好善社」と名づけて発足したのは、明治10年(1877)11月19日のことであった。 初期の活動は一般の伝道と奉仕活動にあったが、明治24年(1891)、一婦人ハンセン病患者との出会いが契機となり、英国MTL(現在のThe Leprosy Mission)の援助により、明治27年(1894)10月13日、東京目黒村に私立病院・慰廃園を開園した。 | ![]() |
運営主体の好善社は明治38年(1905)3月22日、内務、文部両省から社団法人の認可を受けたのである。 慰廃園は私立病院として独自の道を歩んだが、明治40年(1907)に法律第11号の公布により第1区全生病院が東村山に開設されると、政府の委託を受け、患者の一時救護所の役目も果たした。太平洋戦争が勃発すると、アメリカからの援助は途絶え、運営難におちいり、ついに昭和17年8月5日(1942)、患者56名を多磨全生園へ送り、慰廃園を解消した。運営48年間の収容患者数は合計4,159名であった。 | ![]() 慰廃園(昭和初期) |
終戦直後の東京は焦土と化していたが、慰廃園内には社宅1軒が焼け残っていた。これを知った多磨を除く10療養所の所長を始めとする職員は、本省へ上京出張する折、ここに止宿したので、療養所東京出張所としての便宜を10年間提供、急場を支えた。 それが縁で長島愛生園と結んで慰廃園跡地に昭和27年(1952)、児童養護施設・恵光寮を開設したが、5年で閉鎖となった。 | ![]() 慰廃園内礼拝堂(昭和初期) |
このような働きをしながら、好善社本来の活動を始めた。即ち、昭和23年(1948)、American Leprosy Missoin と関係が回復すると、国立療養所内教会堂建設計画を立て、同協会からの援助をうけながら、1966年までに9教会堂と長島聖書学舎を新築、2会堂を増改築し、それらの活動に寄与した。現在では、国立13療養所にあるプロテスタント、聖公会、カトリック29教会と交流関係をもっている。 また、昭和38年(1963)より「全国学生社会人キリスト者ワ−クキャンプ」(別称・人間関係を考える研修会)を平成6年(1994)までに9療養所で58回を開催、約1000名が参加した。これらの参加者からは、入所者と交流関係を持つものが多く出、好善社社員となった人をはじめ、医師、看護師、牧師、等々、人生の方向転換した人たちがいる。100周年(1977)を迎えたところで活動の目が東南アジアへも向けられた。「受けた援助、今度はお返し」しようと、1980年より8年間、台湾麻瘋救済協会の活動を支援した。更に1982年(昭和62)からはタイ国へ手を差し延べ、1987年にはタイ国版好善社「チャンタミット社」創立を助け、財政面の責任を負うほか、タイ国厚生省と結んで、医療活動応援のため看護師を派遣している。2005年からはチャンタミット社の協力を得てタイ国で青少年ワークキャンプを毎年8月に開催している。2014年4月に公益社団法人の認可を受けました。 |
![]() 好善社100周年記念感謝会 |
![]() 国立療養所栗生楽泉園でのワ−クキャンプ |
タイ国で医療援助活動する阿部社員 |
![]() チャンタミット社 カンチャナ先生を迎えて |
![]() 第三回タイ国青少年ワークキャンプ |
![]() 好善社創立130周年記念礼拝 |
![]() 定款第3条 この法人はキリスト教の精神に則り、ハンセン病によってハンディキャップを負った人々にたいして精神的、物質的な支援を行うことを目的とする。定款第4条 この法人は、前条の目的を達成するために、次の事業をおこなう。 1.訪問、交流。 2.ハンセン病の正しい知識の啓発と人権回復の支援。 3.出版、広報。 (刊行誌”ある群像””療養所教会報”発行。毎年6月”ハンセン病を正しく理解する講演会”を開催。) 4.その他、目的を達成するために必要な事業。 公益社団法人好善社は、社員の総意によって運営されています。社員はキリスト者であり好善社の目的を実現するために志願した人たちです。社員は月5000円以上の社費を負担するほか献金、募金、賛助会員の募集に努め、必要に応じて何時でも知恵と時間を提供することが義務づけられています。 ![]() (賛助会員申込フォームはこちら pdfファイルはこちらです。) ![]()
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