top

profile

works

topics

isetan

e-mail

田中敦子

 日々の手仕事

東京 鼈甲細工 磯貝ベッ甲専門店

尊い命から生まれる海の宝石 

 暖かい南の海に棲むタイマイという海亀は、古より人を魅了する存在だった。鼈甲細工は、すでに中国の唐時代にはあったというし、奈良時代の宝物である正倉院御物の中にも残っている。

「飴色に茶色の布(ルビ ふ)(斑点)がある艶やかさと、甲羅に接着質である膠が含まれていることから、細工に向いていたんですね」

 そういう磯貝一さんは、国技館で知られる両国にある「磯貝べっ甲専門店」の二代目。一さんの長男である英之さんも、この仕事を絶やしてはいけないと、大学卒業後、会社勤めを経て、家業に入った。お店の向かいに暮らす初代の庫太さんは、90歳を過ぎてなお仕事を生きがいとしている。伝統技術の継承が難しくなっている昨今、職人三代が揃う安泰な空気に心明るむ。

「江戸時代に鼈甲が流行したのは、南蛮船のおかげ。運ばれてきたタイマイの甲羅が、長崎経由で江戸の町にも入ってきたんです」 

 それゆえ、鼈甲を使った細工ものは、日本ばかりでなく、中国や西欧にもある。しかし、「厚させいぜい5ミリほどの甲羅を重ね、厚みを出して細工したのは江戸時代の日本人なんですよ」 

 英之さんが、タイマイの剥製と甲羅を見せてくれた。

「実際に使っているのは、背中の13枚と甲羅を縁取るようにある小さな爪甲24枚、それから腹や手足の爪も使います。布(斑点)のあるばら甲、黒い部分は黒甲です。最上級は白甲で、べっこう飴ってこの色からきているんですけど、1gで2000円という“金”に匹敵する価格のものもあるんです」

 キューバ産は色白で、インドネシアのものは赤みがある。が、いずれも甲羅の状態では、フジツボがついていたり、傷があったり。これを一週間ほど水に浸けてから、ガンギと呼ばれる鼈甲細工独特の粗いヤスリで手入れをして、また水に浸す。甲羅は、私たちの爪によく似ている。お風呂上がりは、爪がふやけて切りやすい。

 そしてまず、重ねる鼈甲を揃えないといけない。斑があるものは、似た模様を重ねて、一体感を出す。重ねる枚数は、甲羅の厚みや欲しい厚さにより3〜5枚。この時、甲羅の固さも揃えている。というのも、「水でふやかした鼈甲を80度くらいに熱した鉄板で挟み(鉄と鼈甲が直接触れないよう、木板をかませて)、油圧プレスで圧力をかけると、膠質が溶けて甲羅がぴたっとくっつきます。ここで鼈甲の固さが違うと、やわらかい方がつぶれたりするの」と一さん。実際、細かい細工よりも、こうした生地づくりが難しい。だから、鼈甲の質を見極める目がだいじで、これはもう、数を見て、仕事をこなして、経験を積むしかないという。

「特に白甲のかんざしね。生かす色を決めたら、重ねる鼈甲はもっと薄い色にしないと、濃くなっちゃうし、貼り合わせも、熱しすぎると色が濃く変色して、せっかくの白甲が安っぽくなっちゃう」

 一さんは、そんな白甲の名人だが、息子の英之さんは、一さんのデザイン力もまた、特筆すべきものがあるという。

「技はもちろんなんですけど、デザインがね、専門の勉強をしたわけじゃないのに、すごくいいんですよ」と手放しで讃える。そんな息子の言葉に、一さんは照れるが、「デザインはどこにでも落ちてるの。玄関の格子や、風呂のタイルだって、いいのがある」と、これまでたくさんの賞を獲得できたことから、デザイン力への自負をのぞかせる。

 つまりは感じる心なのだと思う。鼈甲は、長い歴史の中で、時代に応じた形をなしてきた。江戸時代なら、髪かざり。花魁の髪を飾った千手観音みたいな櫛こうがい。明治に入れば、メガネやネックレス、ブローチなど。

 英之さんも、昨年、ペーパーナイフをつくって賞を獲得。鼈甲は、たしかに進化を続けている。

 が、大きな問題がある。ワシントン条約により絶滅危惧種となったタイマイは、輸入が禁じられて久しい。石垣島での養殖も始まっているが、今のところは、手持ちの材料でやっていくしかない。また、動物愛護の目から見れば残酷だという誹りも受ける。

 一さんも英之さんも、そうした問題を受け止めながら、けれど長い歴史の中で愛されてきた、温かみある鼈甲の艶を慈しむ。

「とろみが独特だよね。自然光に透かすとすごくきれいでしょ」

 メガネのフレームも、人の体温に合わせてなじんで、つける人の顔にぴたりと合う。プラスチックではどうしても叶えられない自然の妙味。

 鼈甲細工には、20近い工程がある。削って、重ねて、切って、加工して、丁寧に丁寧に磨きをかけて仕上げする。こんなふうに手塩にかけられて、鼈甲は海の宝石へと昇華するのだ。(JR東海、山陽新幹線社内誌「ひととき」掲載原稿より)

isetanbekko