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田中敦子

 日々の手仕事

足立茂久商店

地場産業の最後の一軒、灯を守れ。

 今年もまた、伊勢丹の催事に商品をお願いできればと、五月の末に足立さんにご連絡を入れた。一久さんのご病気のことも気になっていた。秋には美味しいお米を送ってくださった。年賀状もいただいていた。電話には奥様が出られた。「ご主人はお元気ですか」という私の言葉に、一瞬声が詰まった。

「ご存じなかったんですねえ」この4月に亡くなったという。

 昨年訪ねたとき、帰りの車の中で、白血病が見つかったと聞かされた。どこも悪いと感じないけれど、数値がね、という話だった。伊勢丹の作品づくりも、快くやってくださった。ただ、会期中いらっしゃるといっていたけれど、電話をくださり、あまり調子がよくなくて、ということだった。暑いからね、と笑っていた。

 足立さんの家は、寺泊の山田という集落にある。良寛様で知られる出雲崎の近く。出雲崎は、松尾芭蕉が「荒波や佐渡に横とふ天の川」の句を詠んだ地でもある。そんな佐渡島が見渡せる海沿いに、30軒ほどの木造の家が道路を挟んで並んでいる。江戸時代より、農業、漁業、篩づくりを兼業する家が集まる村だったが、今は足立さんの家一軒だけがその歴史を受け継いでいる。最後の一軒ではあるが意気軒昂。一久さんは、ずいぶん昔、こんな雛な場所から東京に出て、ふるいやこし器の売り込みをした。新しい製品の開発にも力を注いだ。そのがんばりは、新潟県の伝統工芸関係者の間では伝説に近い。ドイツで新潟物産の見本市をしたときには、山田の言葉(新潟弁とはまたちがう独特の言葉)で説明していたという。

 帰り、長岡まで送ってくださったとき、まだまだがんばらにゃ。息子が一人前になるまではって、そうおっしゃっていたことが忘れられない。地元の催事でモノが売れず、でも新宿伊勢丹なら売れると思う。それでだめなら仕事の行く末を考えるって、そうおっしゃっていて、そして、思った以上に人気があって、お力になれたこと、ほっとしていた。

それなのに。

海沿いの小さな町でこつこつとつくりながら、新しい時代の用途を考え、評価を得てきた苦労人だ。あのがんばりやのお父さんがこの世から消えてしまったのか。再訪は、茂野タンス店を訪れた日の午後。寺泊山田は交通の便が悪い。ローカル線の本数は一時間に一本あれば多いほうで、主な移動手段はマイカーとなるのも無理なからぬところだ。茂野さんに、「足立さんの仏壇にお花をお供えしたいんだけれど、お花を変える場所を」と訊ねたところ、茂野さんも一緒にお参りするとおっしゃってくださり、車で送っていただいた。茂野さんは足立さんのお葬式に参列したという。とても沢山の人々が集まったそうだ。それだけ慕われ、惜しまれた人だったのだろう。

 一年ぶりの寺泊山田。のどかでよいところだ。午前中の雨も上がり、明るくなってきた。日本海が広々と開け、潮の匂いがする。ひとしきり、一久さんの闘病生活の話を聞く。三十代半ばの息子の照久さんは、まだ全ての技術を受け継いでいない。蒸篭やこし器はもうお手のものだけれど、杉でつくった茶道具などはまだだった。お弁当箱は、もうだいぶつくれるようになったが、わからないことは入院先で訊ねた。「自分がいいと思う材を選べ」「退院したらまた教えるいや」そう言っていたという。

 もっと聞いておきたかった、と照久さんは悔やむ。悔やむだけではない、それまで一久さんが主にやっていた田んぼの仕事も今年は一人でやっている。本家としての行事なども仕切る立場になった。大黒柱がいなくなり、次なる柱に掛かる負担はかなりのようだ。「正直、休みが欲しいです」とグチもでる。でも、昨年お目にかかった時よりぐっと大人っぽくなり、堂々とした風情が出てきている。夕飯を、と誘ってくださったが、夜すべき仕事があったし、あまりご負担もかけたくなかった。それでもとすすめてくださり、自家製の空豆や梅酒、漁師さんからいただいたというトビウオのお刺身をいただいた。お米もそうだが、足立家の食べ物は、真面目で野趣に富む正味の美味しさ。どれだけ丹誠込めて米や野菜をつくっていることか。

 篩づくりの仕事を見せてもらった、枠にアミをはめ込む作業が見どころで、木の棒でムラなく丹念に内枠をはめ込む。フランス刺しゅうの枠みたいな感じで、ぴったりはめ込む。この作業が、お弁当箱にも生かされているから、底板は張り付けでなくはめ込みで、ゆえに丈夫なのだ。

「この作業をしていると、篩屋だなって思うんです。いちばん好きな作業ですね」と照久さん。そういえば、以前お伺いした時はばたばたとショールームスペースで打合せして帰った。心残りだったのは、家から望む日本海を見られなかったこと。

 夕日の時刻。すっかり晴れ渡っている。思い切って、この家から夕日は見られるのですか、とたずねた。どうぞ、と続き部屋に通していただいた。窓を開けると、ああ、なんという風景。日本海に堂々たる夕日。「前はこの軒下まで波がきていたんですよ」天気のいい日は極楽だが、嵐のときは地獄だったろう。そういえば、中越地震だってまだ記憶に新しい。

一泊する長岡駅付近のホテルまで、今年は照久さんが送ってくださった。途中、足立家の田んぼを見せてもらった。いったい何枚あるのか、かなりの規模だ。これを一人で手入れするとは。ちゃんと家の収入源にもなっている、本格的な半農生活なのだ。強めの風が吹き過ぎる「ああ、風が心配だな。田植えしたばかりで、苗が倒れないかな」完全有機農法、水は山のわき水。美味しくないわけがない。

 私は地場産業に携わる人と話すとき、ときとして職人が下に見られていた時代のことについて質問する。避けては通れない問題で、これがあったからこそ、子供を後継ぎにしたくないという思いも強く、後継者不足の一因になっている。「篩屋もそうですよ。でも親父が、『おれは篩屋らいや』って自信をもって仕事してましたから、ぼくも同じ気持ちで仕事してますよ」そして、お忙しいのにとお礼を言うと、「いや、おかげで、今日は休めました。どうしてもついつい田んぼが気になって朝夕いっちゃうんで」

 帰り際、おかあさんも「今日はグチをきいてくださって、息子も仕事いただいて,励みになります」と、日々のあれこれでお忙しいはずなのに、私の訪問をそんな風にねぎらってくださった。もう、何度も何度も目が潤んでしまった。

 好きではじまったモノとのつき合い、仕事となって人のためにもなってきて、また伊勢丹の催事を経験することで、つくり手と使い手を結ぶ人となり、たくさんの人のために仕事できるようになった。そして、こんな風にご縁が繋がっていくことも。照久さんのがんばり、応援してゆきたい。

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