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私にとってのもう一つの江の島

 私にとって江の島という場所にはもう一つの因縁がある。江の島が弁財天を祀る島であることは誰もが知っていることと思うが、江戸時代に江戸庶民にとっても身近な景勝地として人も気があった場所だ。
 江戸時代というのは徳川幕府によって支配された封建制の時代であることは教科書で習ったことと思うが、戦国時代が終わり鎖国政策によって日本国内は大変平和な時代となると、戦闘集団としての武士の在り様はそれまでの時代と大きく変化し、商人を筆頭に町民の経済力が豊かになり、場合によっては武士のそれをもしのぐケースも度々見られ、江戸中期以降庶民文化が一気に開花した時代でもある。

 文化政策として江戸幕府は中世から続いていた当道のシステムを継承し幕府による福祉政策として職屋敷(しょくやしき)と呼ばれる役所を上方や江戸に設置した。男性に限られてはいたものの、音曲や按摩や鍼灸などを生業とする者たちを保護したことで、江戸の文化や民間療法として広く親しまれるようになって行く。今の日本人が知る当道座の主人公としては「座頭市」がもっとも知られているかもしれないが、あれは架空の人物ではあるものの、最後に付いている「市」は“いちな”と言って、職屋敷に所属したものが最初に与えられる名前で「一」や「市」の字を充てられた。功績により階級が上がるシステムで最高位は検校(けんぎょう)とされる。

 前置きが長くなってしまったが、江の島には二人の検校さんが深くかかわっている。一人は管鍼術という療法を創案した杉山検校と、江戸中後期に江戸でヒット作品を作曲したシンガーソングライターで山田流筝曲の祖でもある山田検校である。
 当然ながらここで紹介するのは後の山田検校の方である。山田検校は江戸で活躍した音楽家で、京都や大阪で発達した地歌や筝曲に対して江戸風な音楽を作曲し人気を博した。一般的に京大阪(上方)の芸風と江戸の芸風を比較すると、上方が「はんなり」で江戸は「気風の良さ」となるのだが、このような文化的な気質がはっきりとしてくるのも江戸中期ということなのだと思う。
 山田検校の出世作ともいえる「江の島曲」は大ヒットをおさめ、式亭三馬の『浮世風呂』では「江の島曲」の粋な一節である“貝づくし”を女湯で皆で歌っていたという逸話も残されている。これによって江戸時代の景勝地としての江の島の人気はますます上がって行くことになったわけだ。

 そんな江の島と関係の深い山田検校の銅像が江の島にあるわけだが、残念なことに太平洋戦争時に金属不足から没収されていまい長く不在となっていた。
 2004年山田流協会によって再興され、現在江島神社の奥津宮の脇に立っている。実は2004年当時私の母である鳥居名美野が山田流協会会長であったことで、この山田検校碑再興事業と深く関係したわけなのだが、不肖の息子は、これまで何度も江の島を訪れておきながら一度も山田検校を参拝していなかったのだ。まあ、幾つかのグループでのバリサンセットのお手伝いで来ていたこともあって、なかなか時間が取れなかったというのも言い訳になってしまうのだが、今回は主催するGSPの初デビューということもあって、やはり音楽の先達として山田検校碑だけは何があってもお参りに行かねばと思っていた。島の弁天様と同様に私にとって大切な音楽の神様の一人なのだから。
 そんな話を練習中にしていたおかげで、GSPの有志メンバーで念願の山田検校碑参拝が実現した。


山田検校像