GSP Tokyo
column

第4回
江戸時代とバリ島

 直接ガムランと関係が無いようなお話だが、私にとって江戸期の芸能とバリ島のガムランのあり方に大きな類似性を感じている。
 教科書的には江戸時代というものは徳川幕府による専制政治的な部分がクローズアップされるわけだが、「専制」と言うと現在の中国や北朝鮮、或いはロシアのような独裁恐怖政治というイメージが一般的なのではないだろうか。確かに江戸時代の政治の中心は幕府で将軍が最高権力者である点は同じに見えるかもしれない。それでは実際の庶民はどうだったかというと、下手をすると現在の日本よりも自由度が高いと感じる点が非常に多い。もちろん一口で江戸時代と言っても約250年続いたわけで、時期によっては弾圧が強くなったりしたこともあったとはいえ、トータルで考えた場合日本の歴史の中でこれほど庶民文化が花開いた時期は他に見当たらない。しかも表面的な身分制度として士農工商というものがあったにもかかわらずだ。
 芸術面に目を向ければ、江戸期の芸能や美術を見る限りそのほとんどが庶民が創り上げたものだらけなのだ。それ以前の芸能は発祥はともかく、雅楽にせよ能にせよ、支配層によって熟成されたものがほとんどだ。それに対して江戸の芸術は歌舞伎にしても浮世絵にしても、それを支え発展させたのは一般庶民なのだ。細かいことは専門の方々がYouTubeなどで興味深い動画をアップされているので興味のある方はぜひ探してみて欲しい。
 バリ島のガムランの場合もこれに似た要素が多い。バリ島の場合は支配者である各王家が大きな役割を果たしてはいたものの、それらを流行らせたり進化させてきたのはむしろ一般の村々であって、それは現在もなお変化させ続けている。実際私がガムランを始めた80年代から40数年間で用いられる楽器も変化したり多様化してきている。これはバリ島以外のガムランに比べても「極端」と言えるほどの変化だと感じる。もちろん伝統的な儀礼などは綿々と受け継いでは来ているものの、良し悪しはともかく、これだけ自由でアクティブに変化している伝統芸能というのは江戸期の日本を彷彿とさせられる。やはり精神的「自由」は芸能の進化の原動力なのだと思う。
 私がバリのガムランの惹かれる理由の一つはここにあるのだと思う。

第3回
今年も初志貫徹

 2024年もいよいよスタート。と思ったら初っ端から地震やら事故で大騒ぎとは、今年はなにやら気を引き締めてかからないといけない年のようだ。

 今年の抱負としては毎年ほぼ同じながら初心を忘れずに行きたい。ガムランを初めて見た時からこれだけは変わらないのだが、やはり「日本でしかできないガムラン創り」なのである。とはいえ、この歳まで紆余曲折はありながらも、一昨年から汐留に拠点を構えてから1年半、だいぶ下地は出来つつあるもののそろそろある一定の目標をかたちにしたいものである。

 日本の伝統芸能で飯を食ってきたこともあって痛感することは、身の回りで音への感性を大事にしてくれる人が本当に少なくなっていることだ。とりわけアジアや世界各地に根付いた伝統的音楽をやっている人間にとって、この部分を疎かにする人間ばかりだとなかなか共同で魅力ある音楽作りが出来ない。つまり音のコミュニケーションが取れないのだ。
 特にバリのガムランのような使用する楽器の個性が強い音楽の場合は、自分たちの使っている楽器の「特性」を知ることがとても重要な要素になる。もちろん、このことはどんな音楽も同様ではあるものの、バリのガムランのように楽器セット毎にピッチも音程間隔も、場合によっては楽器構成も異なる場合は、何よりも自分たちの使っている楽器の特性を最大限に引き出すことがことのほか重要な要素なのだ。仮に同じピッチと音程間隔であっても、手作りの楽器である以上セット毎に音色などの癖が違ってくる。バリガムランの初歩の初歩として、まずはこの部分を感じ取れるようにすることがグループを育てるための基礎だともいえる。その意味では私たちの使っている楽器はかなり個性的なのでむしろわかりやすいのだが。

 まあ、難しいことをごちゃごちゃと書いても仕方がないが、最低限自分たちの楽器の魅力を最大限に引き出せるようにしたいものだ。その基礎の上に自分たちのグループでしか創造できない「何か」見えてくるはずだ。

第2回
ガムラン製造と世界経済

 最近インドネシアの錫の品質が著しく低下しているという。このところのインドネシア政府の錫の地金輸出厳格化に伴なうものと考えられるが、インドネシア国内において輸出用の純度の高いものと国内向けの低品質のものとに分類していることにも一因がありそうだ。とはいえ、ガムランは青銅の楽器であるため錫の品質低下は楽器の品質低下に直結するわけで、関係者の間では頭を抱えているという話なのだ。
 何年か前にスラカルタのパンデで聞いた話では、地元中部ジャワのガムランのみならず、バリに供給している銅と錫の合金(青銅)の素材はこの中部ジャワで製造されているという。大型のゴングの鍛造は現在バリではほとんど行われておらず、最近のバリのガムランで使用されているものは全てジャワで製造されているが、鍵盤や小型ゴング用の青銅の素材も中部ジャワで合金を作成してバリで鍛造していると聞いている。このことはバリのガムランの品質低下に直結していそうだ。
 現在GSP Tokyoのスマル・プグリンガンや、音工場のゴング・クビヤールは古い鍵盤(おそらく製造は100年前ぐらい)のものなのだが、最近製造された鍵盤はゴング・クビヤールやゴング・スマランダナのような大型編成のものだけでなく、古典的なスマル・プグリンガンなどでも鍵盤がかなり大型化している。そのためなのか必然的にパングル(撥)も大型化していて、自分たちの使用している古い楽器にはやや大きすぎて少し難儀している。
 一つの要因として90年代頃から世界各地からのガムランの注文がかなり増えていることに加え、2000年前後からバリ島内のガムランが5音中心から7音に変化してきている事も、バリのガムランメーカーが多忙となっている原因と考えられる。このような大量発注を受けて、以前からも鍛造時間の短縮などで鍵盤の品質低下が懸念されていたわけだが、ここにきて錫の品質低下というさらなる問題はガムランの楽器にとってはダブルパンチと言える。これはあくまでも推測でしか過ぎないが、確かに鍵盤が大きくなれば音量も大きく広い場所での演奏に向く事は確かな反面、強度確保のためということも大いに考えられるのではないだろうか。事実、新造して日本に到着した楽器で練習中に鍵盤が真っ二つになってしまった事もあった。特に力んで演奏していたわけでもないのにだ。幸いGSPや音工場の古い楽器ではこのような事例は発生していない。鍵盤が小ぶりにもかかわらずだ。
 こういう視点で考えると、ガムラン製造は確かに工業製品の一つではあるわけで世界経済との関係で変化していくものと言えるのだが、ガムランのような文化的な側面では是非インドネシア人ならではの「音へのこだわり」を発揮してもらいたいと願っている。

純銅の計量
電線の廃材?から持ってきているようだ

錫のインゴット

砕いた錫を計量中

炉で溶かして青銅の合金を作る

ほぼ完成したゴングの仕上げ

第1回
7音にこだわるわけ

 GSP Tokyoの楽器は、バリ島のガムランの中でもほぼ1世紀近くほとんど忘れられていた7音のスマル・プグリンガンと呼ばれている編成の楽器です。バリ島のガムランの歴史についてはここでは詳しくはお話しませんが、ペロッグ音階と呼ばれる7つの音を全て持っているのがこのスマル・プグリンガンの特徴です。
 7音とはいうものの、バリ島やジャワ島の伝統的な音階は5音階(ペンタトニック)です。それではなぜ7音必要なのでしょうか?
 これは7つの音から5つの音の選び方によって、異なる構造の5音階を奏でることができるからで、一口にペンタトニックといっても幾つかの特徴的な5音階が存在します。
 言葉で説明するのはなかなか難しいですが、例えば日本の音階、というより日本の伝統的な音楽も、基本的にはペンタトニックで出来ています。もう少しわかりやすく言えば、日本には以下の特徴的な三つの5音階が存在します。
1:民謡音階
 実際には日本の民謡が全てこの音階ではありませんが、ちょうどピアノの黒鍵の音階(半音を含まない)がこの民謡音階です。
2:都節音階
 「よさこい節」や「東京音頭」がまさにこの音階です。半音を含むちょっとメローな感じの音階です。
3:沖縄音階
 これは言うまでもなく沖縄の民謡の基本的な音階です。実はバリ島のペロッグ音階の主流もほぼこの音階でできています。

 では、ちょっと専門的になっちゃいますが、この三つの日本の音階を7音のスマル・プグリンガンでいうと
民謡音階→lebeng調(23467)・baro調(13457)
都節音階→tembung調(12456)
沖縄音階→selisei調(12356)・sunaren調(23567)
 となります。細かい事はともかく、日本でバリ島のガムランを実演していく上で日本の三大音階が全て使えるということが、GSP Tokyoの将来的な活動には大きな意味を持って来るわけです。

つづく