「別荘スタイル」(エイ出版社 エイムック1392)
軽井沢について簡単な文章を書きました。


「別荘のススメ・・・特にカルイザワの。」

  別荘に来ると・・・・、
バーベキューが出来ます。暖炉で薪を燃やしながらワインを楽しめます。煩わしいDMは届きません。朝起きると「今日も良い日になりそうだ」とつぶやけます。友人を呼んで夜遅くまで飲んで騒ぐことが出来ます。小さな子供が遊びに来ても思いっきり近所を走り回らせることが出来ます。東京の最高、最低気温が違う意味で気になります。雑草にも名前があることを知ります。小鳥と仲良くなる方法を真剣に考えます。毛虫や蛾を見ても大騒ぎすることはなくなります。ちょっとカビくさくなった布団を干す楽しみがあります。どうやったら薪をうまく割ることができるか考えます。薫製でも作ってみようかななんて考えます。新聞なんか読まなくたって生活はなんら変わらないことに気が付きます。木彫でもしてみようかと思います、もちろんすぐ挫折しますが。うちより立派なベッソウを見ても羨ましく思ったりしません。うちより貧弱なベッソウを見ても、何にも思いませんが、うちより手入れの行き届いていないベッソウを見ると悲しくなります。灯りのついているベッソウを見るとほっとします。別荘地内ですれ違う知らない人にも挨拶をしてしまいます。地元の野菜を食べたいと思いますが葉物野菜の採れる時期が短いことに気づきます。リゾートマンションの乱立に眉をひそめつつも、メンテナンスが楽でいいかしらなんて思いを巡らす楽しみがあります。ベランダにリスが来ようものなら家族で大騒ぎです。満天の星を見上げて、東京でも僕の小さな頃はこんなだったよなあと感慨にふけることが出来ます。ベンツやBMWをたくさん見ることが出来ます。観光バスに乗って団体で来ないで欲しいと思います。絶望的な渋滞を回避する方法を考えるようになります。ウエディングドレスの店がたくさんあるのでビックリします。たまにはカミさんに料理でも作ってあげようかなと思いますが、すぐ挫折します。マイナス10℃を超えると富良野に住んでいる友人を思い出します。観光土産も横文字にすると格好良いモンだと思うことが出来ます。隣の家が連れてきた犬が吠えるので猿が近くに来たことがわかります。東京で読めなかった本をゆっくり読むことが出来ます。ちなみに今読んでいる本は「憲法九条を世界遺産に」(太田光・中沢新一、集英社新書)。自分の趣味ってなんだろうって改めて思い、これで良いんだなんて自分で納得することができます。アウトレットでお買い物が出来ます。大きなスーパーマーケットではお盆の頃だけキャビアが買えます。

  人がいない白糸の滝は心が洗われます。4月の末に枯れ木の中に咲く白いコブシの花に一年の始まりを感じます。うっすらと積もった家のまわりの雪に動物の足跡を見つけると何故か感動します。カラ松の紅葉は黄色い葉が舞ってくるので金色のシャワーと言われていることを実感します。

  明治時代、外国人宣教師A.C.ショー達に避暑地として見いだされた軽井沢。その後、上流社会の夏の交流の場として、文学作家達の創作の地として時を刻みました。
カルイザワが、避暑地か、交流の地か、創作活動の地か、別荘地か、観光地か、人によって感じるところは様々ですが、いずれにしても、自然を大事にすることが唯一無二、カルイザワにとって必要なことだと思います。都会と同じものは要りません。都会と似たような環境は要りません。

  インターネットの発達のおかげでこちらにいても仕事が出来るようになりました。メールで頻繁にやりとりをして携帯電話で連絡していれば、僕がカルイザワにいることはバレません。新幹線のおかげで苦もなく東京でのミーティングに出席できます。夜9:30まで都内で杯を傾けてもカルイザワに帰宅できます。
  都会も自然も両方ともそれぞれ、私にとってはかけがえのない環境です。カルイザワにいても仕事をしているので、ONとOFFというのとちょっと違い、両方ともONなのですが、リズムが違うと言おうか、呼吸が違うと言おうか、ペースが違うのを愉しんでいます。

  ネットや新幹線、高速道路という便利な文明の利器あるからこそ、都会と両立出来る。だからこそ、もっともっと、自然についても深く考えないと押し寄せて来る文明の荒波に飲み込まれてしまいます。

  A.C.ショーは「娯楽を人に求めず、自然に求めよ」という言葉を残しています。軽井沢の山荘で有名な建築家吉村順三は「簡素にして品格あり」という言葉を残しています。
  この二人の言葉を肝に銘じ、素敵なカルイザワライフを!


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