●デザインの種類
デザインと一口に言っても様々な解釈がある。大学でのデザイン教育の中では「デザインとは何か」なる講義から始まるが、「計画・意匠・設計の3要素」だとか、「生産者と生活者をつなぐもの」とか、「機能と美の調和だ」とか言われるが、歴史も浅く、様々な解釈の上に成り立っている概念だから、なかなかこれだ、とは言いきることができない。
形を作る事に限っても、グラフィックデザイン、ファッションデザイン、プロダクトデザイン、家具デザイン、インテリアデザイン、建築デザイン、などいろいろなデザインがあり、グラフィックデザインの関連でも、雑誌、書籍に関するエディトリアルデザインや、スーパーマーケットのPOPデザイン、Webデザインなどと細分化されてきている。
昔ながらの陶芸などのクラフトという概念もデザインの一分野だし、自分で形も考えて作る、木工職人もデザイナーだといえる。
さらに形だけではなく操作性やモノとの関係性が重要視されるようになり、インターフェースデザインという心理、生理学の専門知識が必要な分野も生まれてきた。
設計という概念においては、集積回路の回路設計部署をデザインセンターと呼ぶ企業も多いし、自動車産業に於いては、部品の協力工場が設計段階から参画することをデザインインという。
実際にモノの形を描かなくても、生活者がこんなモノを欲しがっているといったことを研究し、企画提案するのもデザインと言えよう。さらに大きな話では、国や自治体などの将来にわたっての展望をグランドデザインという言い方をする。
●デザインは工業化社会の産物
形を作るデザイン、とりわけ工業デザインは、産業革命と同時に、大量生産されたものがたくさん売れるよう、付加価値を与えるために生まれた。それ以前は、職人が特定の顧客の希望に合わせて、注文を受けてから作っていた時代である。この時代は多少多めに作ったとしても、自分の作業場や店に置ける範囲のものだったのではないかと想像できる。これが、大量に作り大量に売らなければならない時代になり、競合他社も増えてきたため、より多くの顧客の希望にあわせるべく、あるいは、競合他社との差別化を図るため、外観の形状に特徴を持たせるようになった。この点と、製造上の作りやすさや、コストを押さえるなどの合理性も求められ、工業化社会の必然としてデザインが生まれたわけである。デザインは、いわば工業社会の落とし子といえよう。
●工業化社会の弊害
工業化社会も成長し、成熟するにつれて、産業が細分化するのと同じように、工業化社会のデザインも、産業のニーズに合わせ、デザインが専門化され、開発スピードを早め、より新しいものを生み出してきた。特に、企業は、開発スピードを高め、企業秘密が漏れることを防ぎ、企業文化を維持するために企業内にデザイナーを配置してきた。
しかし、専門化することによって、スタイリングだけに汲々としたり、コストを下げることだけが主目的になってしまったような気がするのは筆者だけであろうか?
以前、当時東京大学の総長だった吉川弘之氏(日本学術会議会長)が、デザイナー連中の前で講演して「東京大学には、鉄の専門家とか、油の専門家、卵の専門家、熱伝導率の専門家、落下法則の専門家は一杯いるが、目玉焼きを焼くのは一般の主婦のほうがうまい。デザイナーも幅広い領域をカバーしつつ、製品を生み出さなければならず、幅広い見識をもとにどんどん仮説としてのデザインを提示して欲しい」といった主旨の話をされた。(こちらの理解力不足でで先生の講演の主旨と違っていたらお許し下さい)
デザインも細分化すればするほど、生活全体がなかなか見えなくなってしまうものであろう。家電のデザインをみればそれは明らかで、たとえば冷蔵庫や炊飯器のデザインは、家電量販店の店頭で他社製品より立派に見えることを主眼にデザインされているとしか考えられない。家庭に置くとその造形的違和感はかなりなものである。もし家庭に置かれる状況を第一に考えてデザインされてるのならば、建築家、インテリアデザイナーが家電製品を出来るだけ棚の扉の中に隠そうとは言い出さないはずである。これは生活環境の視点からの欠如である。
また、家族が多い家庭、夫婦2人だけの家庭、独身、ほとんど家で料理を作らない家庭、しょっちゅう友人が来てパーティをする家庭、、、、そんな様々なライフスタイルがあるのに、なぜか冷蔵庫は容量は違うが使い方、使われ方はほとんど同じ。ユーザーの意見を一応聞くが、それらの意見を足して割って平均化して終わり。平均化して最大公約数を求めることによって多くの生活感が見えなくなってしまう。これはライフスタイルの視点の欠如と言えよう。
以上の2つの現象、店頭でデザインを競うこと、ユーザーニーズの最大公約数を求めること、は、工業化社会の中では、やむを得ないこととされてきた。いや正しいこととされてきた。しかしこれらのやり方が今後も通用するとは限らない。
●情報化社会のデザイン
工業化社会から情報化社会へと転換しつつあり、アルビン・トフラーの言う「第3の波」をひたひた、ではなく、まともにかぶりつつある現代において、従来の、工業社会の落とし子であるデザインは確実に旧態依然としたものになり、新しいデザイン観、デザイン規範、デザイン力が必要となっている。
その鍵は
(1)真のユーザーオリエンテッドデザイン
(2)少量生産が成立する仕組みの中でのデザイン
(3)幅広い視野と概念--知力のデザイン
であると考える。
・ユーザーオリエンテッドデザイン
これから必要なことは、多少言い古された言葉になるが、ものを作る側の論理ではなく、真にユーザーの立場に立つこと、に尽きるのではないだろうか。
先に述べたように、店頭での効果ばかり考えたり、複数の意見を平均化することは明らかにユーザーオリエンテッドではない。
今の日本は、アンケートをとったらみんな安いアメ玉を求めているので、各社一生懸命、競って10円のアメ玉を売っている状況に見える。値段が多少高くてももっと美味しいアメや薬用のアメがあっても良い、自分で作るアメがあったって良い、味もいろいろ欲しいし、昔からの職人の作るアメも食べたい、大きなアメ、ちいさなアメ、、、、もちろんもっと安いアメがあったって良い。今は10円のアメで良いかも知れないが、明日はもっと違うアメを食べたくなるだろう。
単なる造形ではなく 置かれる状況などやライフスタイルを見つめつつ、真のユーザーオリエンテッドを前提に、テクノロジー、ブランド、哲学、ユーザビリティ、マーケティング、美、、をつなぎ合わせることが、情報化時代のデザインのありようだと考える。
・少量生産の仕組みの中でのデザイン
大量生産大量消費の時代は終焉を迎えつつあり、少量生産、少量消費の仕組みを作り上げることが、情報化社会の産業に課せられた命題であり、個人個人に合わせたもの作りももう間近かになってきている。
ITの進化に伴い、個人の嗜好をインターネットでメーカーに伝え、直接ものを生産するような仕組みも始まりつつある。メーカーはパーツの提供をするだけでデザインはユーザーが直接行う。そうするとデザイナーは不要で、デザインはメーカーに帰属するのではなく個人に帰属するようになるだろう、といった記事が新聞や雑誌で取り上げられ始めた。その可能性も否めない。
今までは安く売るために大量にものを作らなければならなかったが、少量の生産でも価格が抑えられればそれに越したことはないだろう。その仕組みは、IT技術をベースに、デザインだけではなく設計、生産と一緒に知恵を絞れば可能になろう。
少量故に多少高くても「価値」さえあれば、売れるはずだと信じたい。今までのように一義的に安くなければならない、ではなく、真のユーザーオリエンテッド、なおかつ、作り手の思いもたくさん込めれば、ユーザーに受け入れられると信じている。
これからは、安い、早い、だけの価値観以外の価値観が求められるであろう。高い、希少価値、ブランド、といったバブル期の価値観とも違う、作り手の哲学が使い手に伝わるとか、愛着を持てるとか、といった、実は大昔からあったキーワードが浮かび上がってくる。それを実現するために、デザインの役割は非常に大きいものと考える。
・幅広い視野と概念--知力のデザイン
工業化社会の特徴の一つが消費である。消費の上に産業が成り立ってきた。循環型社会など考えも付かなかった。デザインも包装紙のようなもので、見た目だけで、あとは使い捨てられてきたのではなかろうか?
先の吉川先生が最近のエッセイ(ILLUME 24号 東京電力)で、科学は今まで人間に敵対する未知のもの、たとえば病原菌、スピードに対して解を探れば良かったのが、これからは、たとえば公害、環境ホルモンのように、今まで人間が良かれと思いやってきた仕事をやり直す時代にある、と書いておられるが、あの有名な「ウォークマン」だって見方によっては、若者の閉じこもり現象を生み、コミュニケーションを阻害してきたのではないかという、真摯な再考が必要な時期かも知れない。ただ売れればよいのではなく、売った後、人々の生活がどうなったか、どう社会が変化したかまでも考えなければならない時代なのだ。デザインにおいてだって今まで正しいと思われたことも、間違っていたのかもしれない。
これからの時代のデザインは今までより以上に、幅広い見識、情報力、理解力を持って取り組まなければならない。あくなき好奇心と生き物に対する愛情、人間に対する愛情、実践的ライフスタイル体験、異文化に対する理解、コミュニケーションの大切さ、文化的背景、、、、すべてデザインするときに考えなければならない必要な概念だ。
そして、偏った独りよがりの提案ではなく、複数の仮説を提示すること、複数の評価軸を持つことも重要である。評価基準に対する適切な評価も必要だ。
それらを兼ね備えて生まれてくるデザインが「知力のデザイン」といえる。
●人間優位のもの作り
情報化時代でも、もっと将来どんな時代になっても、人間はものに囲まれて生活する。そのものを作るのもまた製造機械というものである。形あるものがある限り、その形を作ることは将来とも重要である。ただ今までのやり方とちょっと違うだけで大きな違いはない。
自然界で生かされているという意識を持って、普通に生活している普通の人間を中心に考えれば、そんなに難しいことではない。今までを否定することなく、反省の上に立って、素直に考えれば難しいことは一つもない。ものを作るってことは、こんなに楽しいことはないのだから。
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