T 移民を追って    

   三つの波
 
ハワイの仏教教団の中で、現在もっとも多くの信者を擁しているのは浄土真宗本願寺派である。ハワイでは、本派本願寺と呼ばれている。本派本願寺の開教使になかなかユニークな人がいた。仮にF氏としておこう。開教使とは、海外や新たな布教地での布教に従事する僧侶のことである。F氏は戦後ハワイに渡って布教を行なっている、なかなかエネルギッシュな人であるが、彼が「ハワイの開教使などバーの雇われマダムみたいなもんですよ」と語ったことがある。

 ちょっとどきりとするような言葉であるが、どうしてこのような発言が出てくるかというと、次のような事情があるのである。アメリカのほとんどの州では、日本のように宗教法人というカテゴリーはない。宗教教団は一般に非営利法人というカテゴリーの中に含められている。つまり、利潤を求めることが目的ではない法人組織の一つとして登録されているのである。その運営には理事会が組織され、実質的にこれが決定機関となる。開教使も理事会に加われるが、その発言力は、日本での檀家総代との関係と比べるとかなり低いことになる。たいていの場合、開教使の給料査定や任免も理事会の手にある。理事会は信者の意向をつよく反映するから、悪く言えば、開教使は常に信者の機嫌を気にしなくてはならない。新しくやってきた新任の開教使が気に入らないからと、信者がさっさと別の宗派の教会に鞍替することも珍しくはない。

 こうした状況の下では、開教使は、雇われマダム的に振る舞わざるを得ないという意見も出てくるわけなのである。F氏も、したがって教会の信者との交際にはかなり神経を使う。日常生活のこまごまとしたことで話相手になるし、ゴルフにもつきあう。これが板についていて、われわれ調査団への応対ぶりを見ていても、開教使というより何やら営業マンという感じが強かった。むしろ、そうした雇われマダム的立場を楽しんでいるようにさえ見えた。

 F氏は、傍から見る限り、このハワイ的状況にかなりうまく適応しているのだが、戦後渡米した開教使の中には、こうした理事会主導型の運営に不満をもつ人もないではない。日本での僧侶と檀家あるいは門信徒との関係が念頭にあるからである。だが、アメリカにおける現在のこうした仏教教団のあり方は、単に法律的な事情からそうなったというだけではなく、日系人移民と仏教教団とが、長年に渡って築きあげてきた関係にほかならないのである。

 ハワイやアメリカ西海岸における、日本産の宗教教団の布教の歴史は、すでに九〇年を越えるのであるが、これらの教団は、大きく三つのグループに分けることが可能である。一つは一九〇〇年前後、移民の開始後まもなく活動を始めた仏教各宗派や神道教団である。二つ目は、移民社会が一応定着を見せ、日系人が耕地から都市部、つまりホノルルへと向かういわゆる「離村向都」の時代以後に布教を始めた宗教で、「古手の」新宗教や小さな仏教教団がこれに含まれる。最後のものは、戦後、とくに一九五〇年代以降に、海外布教を開始した教団で、主として新宗教である。本書では、それぞれを第一波の教団、第二波の教団、第三波の教団と呼んでいくことにしたい。

 第一波及び第二波のものは、もっぱら移民を布教の対象としたのであり、日系人社会を発展基盤とした。これに対して、第三波のものは、やはり日系人を主な対象としているが、第一波、第二波のものとは異なる日系人層に対しても、かなり積極的に近づいた。つまり、戦後渡米者、とりわけ国際結婚による移住者への布教に熱意を示したのである。また、第三波の一部の教団は、非日系人布教にも関心を示し、かなりの非日系人信者を獲得したものもある。

 このほか、教団としてではなく、個人的に宗教活動を行っている人もいる。多くは、占い、加持祈祷、病気治し、憑きもの落としなどを行なう霊能者である。こうした霊能者は、今日でもハワイに多く見つけることができる。とくに女性霊能者が目立つ。(中牧弘允「ハワイにおける日系霊能者と民間信仰」『国立民族学博物館研究報告』五―二)

 このように、ハワイ及び米本土における日本宗教の布教は、まずは移民のあと追いをする形で始まり、今日に至るまで移民社会との深い関わりを保っている。それゆえ、それぞれの教団が、どのような理由によって布教に乗り出すことになったかについては、移民史の概略をつかんでおかないと分かりにくいことが多い。とりあえずは、ハワイ及び西海岸を中心とした移民の歴史を簡単に紹介しておこう。

     移民の移り変わり

 ハワイと北米への移民は、明治維新の年に始まった。一八六八年に「サイオト号」で横浜港を出港した一五三名の移民がいた。ホノルル港が目的地であった。彼らは明治元年に移民したため、のち「元年者」と呼ばれるようになった。翌年、「チャイナ号」でサンフランシスコ港に入港した一握りの日本人集団がある。両グループは、それぞれハワイ、北米への移民の第一集団ということになるが、その後、盛んになった、農民を中心とする移民とはやや性格を異にした。元年者には、多くの都市住民が含まれていたし、チャイナ号の乗客は、もと会津藩の出身者が大半で、一種の政治的亡命者であったとされている。(ビル・ホソカワ『二世――このおとなしいアメリカ人』)

 ハワイでは、本格的移民は、一八八五年の官約移民開始以降のことである。ハワイは、その頃はまだ王朝時代であったが、ハワイ政府は日本人の移民を強く希望し、この結果、一八八四年に渡航約定書がとり交され、また八六年一月には「日本ハワイ渡航条約」が調印された。これらの協定、条約に基づいて移民した人々が官約移民と呼ばれるのである。官約移民は約十年間続く。

 ハワイ政府と日本政府との関係は、かなり友好的であり、移民はまずは順調にスタートした。官約移民時代に三万人に近い日本人がハワイの地を踏んだとされている。彼らはとりわけ砂糖きびプランテーションにとって重要な存在となっていった。渡航条約の第四条には、「其契約ハ三年間以下ヲ期限トシ」とあったのであるけれども、実際は三年以上住みつく人が多く出てきた。

 ところが、一八九三年にハワイ革命が起こった。有名なカメハメハ一世以来、約百年続いたハワイ王朝は、リリウオカラニ女王の退位によってその幕を閉じることになった。短い共和国時代にはいるのである。問題は、実はしかし、その舞台裏である。この革命には、アメリカが関与していたのである。そして、つまるところ、一八九八年に、ハワイはアメリカの属領となってしまったのである。これは、日本人移民にとってどういうことを意味していたかというと、移民を規制するものが、ハワイ政府と日本政府との間の条約から、アメリカの移民法へと移ったということである。

 こうした動乱のさなか、一八九四年からは政府に代わって移民事業を進める会社が出てきた。「私的移民」時代の始まりである。私的移民時代は、また、ハワイ日系人史において、暗黒時代と呼ばれるときでもある。移民会社の悪徳商法も関わりをもったようだが、さまざまな人々が上陸し、酒、賭博、さらには売春をめぐる乱れが日系人社会を覆った。

 この頃の移民は、ハワイに永住するつもりでやってきたのではなかった。何とか金を稼いで、故郷に錦を飾ろうといった意識が強かった。従って、単身者が大半であった。しかし、移民生活は、描いていたものと大きく異なり、労働条件は極端に悪かった。その上一人暮らしでは生活も荒れ、せっかく稼いだ金も、ばくちや女に使ってしまうという状態であった。このような環境を背景に、女性不足につけこんで、悪らつな方法で女性を集めては、売春をさせたり、またアヘンを吸ったりする輩が集まる「魔窟」がホノルルにできた。たまたま、一九〇〇年、この年流行したペストの防止のため、放った火が燃えさかり、この魔窟一帯を焼いてしまった。これがきっかけで、この魔窟にたむろしていた輩もちりぢりになった。

 一九〇〇年になり、移民会社の斡旋による移民が中止となると、この私的移民も終わり、自由移民時代にはいる。自由移民は一九〇八年まで続くことになる。

 一方、アメリカ本土では、ハワイにやや遅れて、一八九〇年以降、しだいに移民の数が増え出す。統計によりまちまちであるが、一九〇〇年には、移民の累積数は、二万五千人ないし四万人にのぼったとされる。中国人移民への排斥運動が激しくなり、労働力が不足したとき、その代用として日本人が求められたのが一因である。本土組には、直接アメリカ本土に来る者もあったが、ハワイやその他の地域を経てさらに本土に渡ってきた者も少なくなかった。

 伊藤一男著『北米百年桜』によれば、この頃のアメリカ本土への渡航の経路は、次の三つに分けられるとされている。

@「移民」又は「非移民」として外務省発行の旅券を交付され、表門から米本土に入った者。

A直接米本土に渡らず、いったん、ハワイないしメキシコ、あるいはカナダに渡航、そこから米本土に転じた、いわば「脇門組」。

B船中にかくれて上陸する密入国者、貨物船の船員となって渡米、監視のすきを見て、船をぬけ出した脱船組、いわば「裏門組」である。

 最後のカテゴリーにはいる人はそれほど多くはなかったと思われるが、本土へ渡った者もさまざまであったということである。また、ハワイと比べて、移民の働ける職種も豊富であったから、ひと稼ぎしようともくろむ人にとっては、より魅力的に映ったかもしれない。

 日本人を労働力として入れてはみたものの、その働きぶりに恐れをなした一部の白人は、すぐさまこれに日系人排斥という形で対抗し始めた。排日運動の芽生えである。ハワイ同様、単身渡米者が多いがゆえの売春業等の横行も、反感に輪をかけたようである。早くも一九〇七年には、ハワイからアメリカ本土へ転航するのを禁止する法令が施行された。


     写真結婚

 一九〇八年になると、日米紳士協定により、ハワイにおいても米本土においても、新移民の渡航が禁止となり、以後、呼び寄せ移民時代にはいる。この紳士協定は、在米日本人の家族、再渡航者、結婚による渡航者、旅行者などを除く日本人の渡航を、日本側が自発的に禁止するという内容であった。呼び寄せ移民の時代にはいると、アメリカ人の間では悪名の高かった、いわゆる「写真結婚」がはやった。写真の交換のみで結婚を決め、その花嫁を日本から呼び寄せるのである。彼女らはピクチャー・ブライド、あるいは「写真妻」などと呼ばれた。

 結婚は個人と個人の意志に基づいて行なわれるものだと考えている人にとっては、一度も直接的に意志の交換がなされずに行なわれるこの結婚形態は、ひどく野蛮な風習に見えたらしい。だが、意志を交わそうにも日本に帰る余裕のない移民にとって、これは最も都合のよいやり方であった。

 しかし、写真結婚にまつわる悲劇は別のところにあった。何とか嫁が欲しい男たちは、インチキな写真を作りだした。上等の服を友人から借りて、金持ちに見せかけたというのは良心的な方である。二〇年ほど前の自分の写真を送ったものがいる。ひどいのは、男前の友人の写真を送ったりした。だまされた女性にすればいい迷惑である。長い航海ののち、やっとの思いで港についてみれば、写真とは全然違う男が迎えにきていたのであるから。

 このような悲劇的な例がどれほどの割合を占めるのか、それは分からない。岸壁で待ち受けていた夫が、写真と余りに違うので、日本に帰ると言いはったり、悲観して海に飛び込んだ女性もいたといった類の話が語り継がれている。しかし、そうした話は、口コミでどんどん広まるものであるから、実際あった以上にそうした例が多かったような印象を与える危険性もあろう。また、これとは逆のケースもある。女性の側が、船旅の途中で同乗の男性といい仲になり、上陸すると、待ちに待っていた夫にさっさと別れを告げて、その男性とどこかに行ってしまったという話も伝えられている。常に女性の側が悲劇の主であったとは限らないのである。

 しかし、そうした暗い影を落とした面とは別に、こうした結婚により、ともかく家庭を持つことのできた男性が増え、長い目で見るなら、日系人社会が、しだいに落ち着きを備えてきた、という効果が生じたことにも注意を払わねばならないであろう。

 家庭内での落ち着きとはうらはらに、白人社会からの排斥は次第にその激しさを強めていった。排日運動の高まりは、西海岸においてはことに強烈であった。一九二四年には、排日移民法案が合衆国議会で承認され、日本人の移民は全面的に禁止されるという事態を迎えた。こうして、アメリカでの日系人の居心地は、悪くなる一方であったが、これはとくに西海岸においてはなはだしかった。白人労働者たちが、自分たちの生活が圧迫されると考えたからである。これに追い打ちをかけるように、日米関係も悪化の一途をたどり、やがて太平洋戦争の勃発となる。日系人移民は、最悪の条件下に置かれる。

 戦争中、ハワイの日系人は、大部分が収容を免れたが、西海岸の日系人は、中西部に強制収容され、つらい時代を過ごさなければならなくなる。日系人社会の一大転機でもあった。

 終戦後、一九四七年には、国際結婚による女性の入国が許可となった。進駐軍として、あるいはその関係者として日本に滞在していた、白人、黒人、あるいは日系二世などと結婚した日本人女性が、夫の帰国にともない、次々にアメリカに移り住むことになった。一方、一九五二年に、ウォルター・マッカラン法案が可決されたが、これによって、日系人一世のアメリカ帰化が可能となり、また年間一八五名の割り当て移民が許可となった。

 こうした移民を取り巻く状況の移り変わりに対応するかのように、宗教の側も少しずつ性格の異なるものが、ハワイ、アメリカ本土へと足を運んだ。ほとんどの教団は、ハワイを足がかりに、アメリカ本土へも教腺を伸ばした。ハワイとアメリカ本土では、日系人社会の宗教事情に、だいぶ違いもあるが、移民と宗教との関わりの時代的変容の概略をつかんでおくには、とりあえずは、ハワイの事例を整理しておくことが便利であろう。以下、三つの波について、ハワイの場合を中心に、順に説明していくことにしよう。

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