第一波の教団

 初期のハワイの移民は、主に砂糖きびのプランテーションに従事した。西海岸では、ハワイに比べると、鉄道の仕事など、だいぶ仕事にバラエティがあったものの、やはり農業が主体であった。どちらにしても、無一文からの出発に等しかったから、彼らの生活は厳しかった。そうした中に、宗教的欲求も少しずつ生じ始めたようである。いかに出稼ぎ意識での労働とはいえ、日々の生活のリズムの中に宗教的儀礼や習俗が欠けることは寂しかったに違いない。さらに、現実的な問題として、移民の中に過酷な労働に身体が耐えかねて、あるいは不慮の事故によって、早くも死を迎える人が出てきたこともある。少なくとも、葬儀の際の僧侶は必要に感じられたに違いない。

 ハワイにおいて、日本人宗教家が移民を対象にして行なった布教活動というのは、実はキリスト教がもっとも早かったのである。一八八七年にメソジスト教会の美山貫一がサンフランシスコよりやってきて、移民の生活のすさんでいるのを見て、胸を痛め、禁酒運動を中心に布教活動を展開したのである。キリスト教の牧師がイの一番に乗り込んできたというのは、決して偶然のことではない。ハワイに限らず、どのような人々のところへも、どのような状態のところへも、布教を試みるという点では、キリスト教の右に出る宗教はないであろう。

 開国以来、西洋各国のキリスト教の宣教使は、日本を布教の地と定めて、盛んに活動を行なっていた。むろんアメリカも布教に熱心であったから、自国やハワイにやってきた日本人移民を布教目標の一つに収めるのは、当然のことであった。これに対し、仏教各宗派の正式な布教活動の開始は十年ほど遅れをとる。けれども、正式な布教開始以前に、僧侶による個人的な布教活動があったことが注目される。最も古いものの一つとして、浄土真宗の僧侶、曜日(かがひ)蒼竜の単身布教が名高い。

 常光浩然『布哇仏教史話』によれば、曜日は大分県出身の僧侶であり、その当時にしてはかなり大胆な方針で布教に臨んだらしい。すなわち、新聞、雑誌などによって、キリスト教が盛んな「絶海の孤島」で、同朋が苦しんでいると感じた彼は、彼らを何とか救おうと、一八八九年にハワイ行きを決行する。そして、ホノルル上陸後、「大日本帝国本願寺派布哇伝道本院」という看板を掲げて布教を開始した。曜日の頭には、キリスト教への対抗意識がかなり強くあったようである。今布教をやらねば、ハワイはキリスト教の「伝習所」となり、ひいては、キリスト教の日本輸入という事態を迎えるに違いないという危機感があった。これを阻止するため、実践的な布教方法をとったようである。

 けれども、この積極さが、災いすることにもなった。約半年の伝道を終えた曜日は、日本に帰り、ハワイでの布教活動の援助を本山に求めた。これは多くの反響を呼び、成功するかに見えたが、彼がハワイ布教に当たって、方便とはいえ、阿弥陀仏とゴッドとを同一視するような見解を示したことが判明し、これが本山の逆鱗に触れた。結局、曜日はハワイ布教を断念せざるを得なくなったのである。

 曜日の布教は、こうして挫折するのであるが、彼の行なった活動は、さまざまな波紋を呼んだ。曜日と交際のあった僧侶、あるいは新聞や雑誌でハワイの状況を知って、志を抱いた者などがハワイにやってきた。こうして個人的な布教がハワイのあちこちで始まることになった。しかし、これは必ずしも善意に基づくものばかりではなかった。自称「本願寺派布教使」の中には、あくどいことをやる者も含まれていたようである。こうしたことは本願寺の信用に関わると、そんな意見が日本の本山で生まれ、本願寺派の正式開教を推進する理由の一つになった。

     相次ぐ開教

 本願寺派が、開教に足踏みしているうちに、浄土宗が教団としての開教の先陣を切った。一八九三年には、「布哇宣教会」が結成され、ハワイ開教に仏教家は「一大覚悟」をもって臨むべきだという意見が出されている。海外の移住者、出稼ぎ者のため、「精神上の快楽」を与え、「道徳心の奨励」をなさなければならないという主張である。興味深いのは、この主張の根底にも、移民がキリスト教に感化されてしまうことへの恐れが見え隠れすることである。

 一八九三年八月二五日付けの「浄土宗教報」には、仏教家がハワイで布教しないため、移民は心ならずもキリスト教の教会に入れられ、無理やり十字架とバイブルを与えられ、キリスト教徒とされてしまうので、失望落胆している者が少なくないといった内容のことが書かれている。浄土宗は、翌九四年に松尾諦定を視察に送り、ついで岡部学応を現地に派遣するという対応の速さを見せている。一八九六年には、仏教教団が正式に認可したハワイで最初の寺院であるハマクワ仏教会堂を、ハワイ島に建立している。

 浄土宗の正式開教に続いて、翌九七年には、浄土真宗本願寺派、一九〇一年には日蓮宗、一九〇四年には曹洞宗、そして一九一四年には真言宗が正式開教を行なっている。主要な宗派は、相次いで布教を開始したわけである。真言宗がやや遅れをとっているが、この真言宗の布教開始の経緯は、他の宗派と比べるとちょっと変わったところがある。

 ハワイでは、移民の初期から、弘法大師の不思議なる力のお陰を被ろうという、「大師講」の流行があった。ところが、その実態がかなり怪しげなものであるということから、日系人社会で問題となり、これが真言宗の宗派としての開教を余儀なくさせたということのようである。(星野英紀「ハワイにおける大師信仰の展開と真言宗寺院の活動」『報告書』)

 星野の調査によれば、大師講は、すでに一九〇〇年以前に行なわれていたことは確かで、プランテーションの各キャンプに散在していた。ハワイ全島で百ヶ所以上あったことは間違いないということである。こうした大師講は、正式な僧侶によって指導されたのではなく、移民の中でそうしたことに若干知識をもっている者、霊能力を備えているとされる者などを中心として指導されたため、中にはかなりいかがわしいものが出現することになったようである。とかく、一部分の悪評は全体の悪評へとつながるものである。やがて、大師講全体が、あやしげなものを祀る、「淫祠」のように見られがちとなった。

 そうした中に山口県出身の湯尻法眼が移民としてハワイにやってきた。そして、ハワイの大師信仰の実態を目にする。信仰心の篤かった彼は、こうした事情を改善しようと懸命に活動する。一九〇八年には真言宗醍醐派より印可を受けて布教師となった。しかし、大師講の実態改善に彼一人の力では限界があった。一方、事態を憂えたハワイの日本総領事は、真言宗の高野派、醍醐派の両本山に監督者を派遣するように申し入れる。こうして、一九一四年、関栄覚が両派合同の開教監督としてやってくるのである。

 西海岸で布教を開始したのは浄土真宗が最初である。ハワイの正式開教をきっかけにアメリカ本土にも手を広げた。一八九八年には、サンフランシスコに桑港仏教会を設立している。その後、五年間に、オークランド、サンノゼ、フレスノ、オレゴン、シアトルに次々と仏教会を設立した。初期の教会が西海岸の北部に多いのは、当時の移民の居住地を反映している。現在、北米の仏教教団の中では、圧倒的に浄土真宗本願寺派が優勢である。今日アメリカ本土で「仏教会」と称しているものは、実質的には本願寺派のものである。経済理論用語で比喩をすれば、「ガリバー型寡占」ということになる。

 第一波の教団には、この他、神道が含まれる。神社の設立は全体的に仏教教団の設立よりやや遅れをとるが、そうたいした差はない。神社については、次の章で触れるので、布教開始の状況についても、ここでは述べないでおく。


     同県意識と宗教所属

 これら第一波の仏教教団は、日本国内と同じく、葬儀、年忌法要など、死者儀礼、あるいは先祖祭祀を中心的な宗教活動としている。ただ、それに加えて、日系人のコミュニティ・センターとしての役割を果たすことになったのが、特徴と言える。今日では、どの宗派も、ほぼ似たような活動内容であるが、やや異色なのは、真言宗であろう。密教的な加持祈祷の占める比重がかなり大きい。したがって、今日の日系人には、お盆には、自分の所属する教会で祖先供養をすると同時に、個人的な願望は、真言宗の教会で祈祷してもらうという人が珍しくない。

 現在でも、「きゅうり加持」なる行事が、お盆のとき、真言宗の寺院では評判を呼んでいることを聞きつけ、見学に行ったことがある。どのようにやるかというと、きゅうりに病名などを書き込んだ紙をはさみ、これを輪ゴムでとめ、仏壇の前に置き、加持祈祷を行なうのである。祈祷が終わったきゅうりは、それぞれが持ち帰り、人目につかないように地中に埋めなければならないとされる。ハワイの野菜は、きゅうりに限らず、日本のものと比べてずっと大きい。その大きなきゅうりが、あれこれの病名を書いた紙をはさんで、積み上げられている様子はちょっとしたみものである。

 さて、こうした機能はあるものの、一般には、仏教教団は、移民の生活共同体との関わりを基盤として成り立っている。その中でも注目されるのは、それぞれの宗派が移民の出身地と深い関わりをもつことである。これには、しかし、いくつかの局面があることが、しだいに分かった。

 ハワイにおいても、また米本土においても、浄土真宗本願寺派が、飛び抜けて優勢であることは述べたが、そのことは、移民が西日本から多く出ていることと関係があると考えられる。移民の多い県のベスト・ファイブを挙げると、ハワイの場合、広島、山口、沖縄、熊本、福岡の順となる。これだけで、もう全体の七割以上を占める。浄土真宗は、江戸時代の始めに本願寺が東西に分かれ、京都から西を主として地盤としたのが西本願寺(本派本願寺)である。明治以降、東西両本願寺は、北海道などに見られるように、新たな地域での開教に熱心であったが、アメリカにおいて西本願寺が東本願寺を圧倒するのは、こうした点を考慮せずばなるまい。

 東日本、西日本といった大きな分け方ではなく、もっと細かな、つまり、県とか市郡の単位でも、出身地と宗教の関わりはみてとれる。たとえば、広島県人が浄土真宗の教会に所属すれば、山口県人は、浄土宗に所属するといった例は、その典型である。昭和九年に布哇浄土宗教団本部より発行された『洋上の光』という本のなかには、初期の浄土宗の信者が紹介されている。そこには出身地も掲載されているので、それを都道府県別にまとめてみたところが、予想以上の顕著な結果が出た。ここに載っている信者五八五名の出身地は、二九の都府県にわたっているが、そのうち山口県の出身者は、三二八名(五六・一%)を占める。次いで、広島県の八〇名(一三・七%)、福岡県の五五名(九・四%)となった。ハワイにおいて、山口県人の占める割合は約二〇%といったところであるから、これは、あきらかに浄土宗と山口県人との密接な結びつきを示す数字であると考えて差し支えあるまい。

 また、もっと細かなレベルのものを一つ紹介する。川添崇祐は、ハワイ島ヒロにある浄土宗寺院「明照院」の過去帳を、一八九六年から一九三八年までの分にわたって調べ、信者の出身地を割り出している。(「ハワイ島における浄土宗寺院の展開」『ハワイ浄土宗教団宗教事情調査報告書』)それによると、出身地の明らかな人四三五名のうち、二八七名(六六・〇%)は山口県出身者であるという。さらに、山口県人のうちでも、大島郡の出身者がとくに多く、一五七名(三六・一%)を占める。これは、一つの寺院が、特定のきわめて狭い範囲の出身地の移民と深いつながりをもったという例を示している。

 こうした出身地とのつながりは、優越感と差別意識に結びつくことがあった。広島県人にあらずんば人にあらず、というような表現は優越感に関係する。実際、結婚まで、広島県人は広島県人という意識をもった人も、比較的最近までいたという。このような優越感に反発して、広島県人の所属する浄土真宗には所属しないという他県人も出てきたのである。

 他方、沖縄県人に対する差別ということもあった。その結果、沖縄県人が、まとまって別個の教会に所属するというようなこともあった。ホノルルにある慈光園は、その例である。慈光園は、一九三八年に設立された、本派本願寺に属する教会であるが、ここのメンバーは約九五%が沖縄出身者であるという。

     重複所属

 以上述べてきたことと矛盾するようであるが、複数の仏教教会への重複所属というのも、よく観察される事実である。なぜ、重複所属するのかは、興味ある問題である。婚姻などによって、ある程度やむなく重複所属となっていく場合もある。夫が浄土真宗で、妻が日蓮宗であるというような場合、夫婦とも両方の教会の行事に出席するという方式は珍しくない。

 また、日本での檀家意識というのとはちょっと違ったメンバー意識がある。一面では、教会に対して、「自分たちの教会」という意識がきわめて濃厚であるが、他面、クラブのように好みで所属しているようなところもある。葬式や法事だけのとき寺院に関わるのなら、所属寺院は一つでも構わないであろう。しかし、教会は、同時にコミュニティ・センターである。いろいろな人とつき合うには、そうしたたまり場が複数あった方が便利である。

 開教使(宗派によっては開教師と表記する)の方でも、村落部では、入口の過疎化が進む中で、各宗派の協力態勢は整えなければ仕方がない。葬式においてすら、異なる宗派の開教使が合同で葬儀を営むということがある。死者の所属していた教団の開教使(師)が、主たる役を勤め、他宗派の開教使がこれに加わるといったような形式である。葬儀をしてもらう方も、教義の違いなどは気にしない。数が多い方が儀式上の効果が高まるということで歓迎されるようである。

 出身地を同じくする者が、同じ教会に所属する傾向が依然続く一方で、重複所属もありふれているということは、日系人社会のつき合いの多層性の反映である。つまり、日系人は日系人としてつながるネット・ワークが必要であると同時に、日系人社会内部に形成された小さなサブ・グループは、親密さを保つくつろぎの場として重要である。仏教教団は、この一見異なった目的の双方を満たした。こうして、日系人の生活の諸領域で、仏教教団が、日本国内におけるよりも、ずっとバラエティに富む機能を果たしてきたことは確かである。

【目次へ】     【次頁へ】