第二波の教団
先に述べたように、一九二四年には、いわゆる「排日移民法案」が可決される。新規の移民は一切禁止となる。ハワイにおいては、この頃はまた、プランテーションで働く日系人が減り、彼らがホノルルなど都市部に集中してくる時期でもある。この頃から太平洋戦争が始まるまでの時期に布教を始めるのは、天理教、金光教といった「古手の」新宗教と、天台宗、華厳宗東大寺のような、密教的色彩の濃い宗派などが主体である。一九三六年に、ホノルルとロサンゼルスで誌友会を結成した生長の家もここに含まれる。
天理教、金光教は、幕末維新期に活動の草創期があり、大正期には、全国的な組織となっていた。また、生長の家の教祖、谷口雅春は、大本教の出口王仁三郎のもとで、機関誌『神霊界』の編集などを行なっていたが、第一次大本事件ののち、大本教を去り、一九三〇年に独自に運動を始めた。それからまもない頃に海外布教を手がけたことになる。
ここでは、天理教と華厳宗東大寺の場合を取り上げ、布教開始のいきさつを簡単に紹介しておく。なお、金光教は第三章でくわしく扱う。
天理教は、一九二六年に教祖中山みき(一七九八〜一八八六)の四十祭を行なうが、この前後から海外布教に力を入れる方針を打ち出す。『天理教事典』によれば、四十年祭の前年に、天理外国語学校の設置が青年会事業として立案された。また、一九二七年には、従来の海外伝道規程などが改正され、新たに海外伝道部が設置された。
こうした動きの背景には、二代真柱、中山正善の意向が大きく働いていたようである。正善は、中山みきのひ孫にあたる。初代真柱中山眞之亮の長男であり、父親の死去により、わずか九歳のとき管長職に就任した。早くから責任ある地位についていた彼であるが、教団運営に関してはなかなかの才覚を発揮している。四十年祭には、「倍加運動」、つまり、教会も、教師も、信者も、すべて倍増させようという運動が、基本方針として出された。また、天理教の活動の舞台を海外に広げる方針も示された。教祖四十年祭を終え、東京大学文学部に入学した直後、正善自身も、朝鮮、中国、満州に巡教に出かけている。真柱としては、初めての海外巡教である。その後も、彼は頻繁に海外を訪れている。
天理教のアメリカ布教は、こうした背景のもとに本格化する。一九二七年にはサンフランシスコ教会が設立されている。また、同年にはホノルル教会も設立されている。ハワイの布教に関しては、『天理教ハワイ伝道史』の中に詳しい。それを読むと、天理教の布教の特徴は、次のようにまとめることができる。
@初期の移民の中にいた、天理教信者が小規模ながら布教活動を行なっていて、それが一つの基盤となったこと。
A教祖四十年祭をきっかけとする組織的海外布教の気運が起こったこと。
Bすでに日本国内で教線の拡大を競っていた各教会の系統が、海外布教においても競い合う形で布教を行なったこと。
C日本国内での「単独布教」という布教経験を海外でも活用したこと。
最初の点は、第一波の教団においてもよく見られたパターンであって天理教に特有のことではない。二番目は、天理教が海外布教に目を向けるほど、国内での勢力が伸びてきたということを示している。三番目は、天理教が教団組織を拡大する場合の特徴であり、これがハワイにおいても適用されたのである。また、最後の点は、天理教独特の布教方法である。「単独布教」というのは、まだ天理教の教えが広まっていない地へ、布教者が着のみ着のままで出かけてゆき、布教を試みることである。そのような活動が積み重ねられて、今日、辺鄙な所にも天理教の教会が存在することになったのである。
天理教は、それぞれの教会がどの系列のものであるかを非常に重要視する教団である。一つの教会から、さらに多くの教会が枝分かれしていくということは、その教会の信仰の熱心さを図るもっとも適切なバロメーターの一つとみなされるから、各教会は、勢力の拡張にかなりのエネルギーを使うことになる。
ハワイ布教においても、初期には、この競争原理が働いたようである。天理教としてまとまって布教するというのではなく、各教会が単独布教者をハワイに送り、教会設置に熱意を示したのである。ハワイで最初の天理教教会である。ホノルル教会は、香川県の本島教会の系統である。本島教会の初代教会長の片山好造は、それ以前に朝鮮での布教にも従事していたが、北米に移民していた人とつながりができたことをきっかけに、アメリカ布教に目を向ける。「西に伸びた教線は東にものばす」という願いを抱いた片山は、一九二七年から五年間に、二三人の布教師をアメリカ本土、ハワイへと送り出し、一三の教会を設置した。(『天理教事典』の「本島大教会」の項)
この片山にハワイ行きを勧められた教師の中に、すでに京都で単独布教を行なっていた、福岡出身の上野作次郎がいた。上野は、ハワイに知人もなく、ハワイの事情も知らなかったが、彼の来布前に、ホノルルの新聞が、「日本より天理教の教師来る」と書きたてたので、日本にいたときから天理教の信者であった人々が続々とやってきた。このときは、もとどの教会に所属していた信者であったかは、問題でなかったという。(『天理教ハワイ伝道史』)
上野の活動が始まってまもなく、一九三一年には、四つの大きな島(ハワイ島、カワイ島、マウイ島、オアフ島)それぞれに本島系統の教会が設立される。こうして、ハワイ布教の先頭を切ったのは本島系統であるが、周東系統(山口県)、防府系統(同)、天元系統(奈良県)、尾道系統(広島県)などが続いた。このうち、周東系統の太平洋教会(ホノルル)を開いた三国又五郎は、「ハワイ伝道の先駆者」とも呼ばれ、実質的には、最も最初期に布教活動を始めた一人である。
三国は、一九〇七年、自由移民の最後の項の移民としてハワイに渡った。山口県の出身で、近所にハワイで成功した人がいるのを知って、渡布を思いたったというから、経済的な動機が主であったが、布教活動も少しずつ行なったらしい。彼は一九二〇年にいったん日本に帰り、二三年に再びハワイへ渡った。この二度目の渡布のときは、布教にはだいぶ熱がはいったようである。布教所を開いての伝道となった。
こうした頃、上野の布教活動が始まる。これに刺激された三国は、周東教会に布教師の派遣を願うが、まだ機が熟していないということで許可が出なかった。しかし、上野の成功が山口の教会にも伝わり、負けてはおれん、ということで周東教会からの布教師の派遣が実現したといういきさつをもつ。各教会の布教競争は、この後、次第に激しくなる。一九二九年から三八年までの約十年間に、二一の教会がハワイにできている。
「生き仏」の布教
さて、華厳宗東大寺の方であるが、調査前、「トーダイジテンプル」という名前を、ドフランシス著の『ハワイの日本風物』という本の中に見付けたとき、われわれは少しばかり興味を抱いた。この本は、事前にいくばくかハワイの宗教事情についての知識を蓄えておこうと読んだものの一つであるが、ここに、東大寺のことが、他の宗教と比べて割合多くの頁をさいて紹介してあったのである。本派本願寺流のアメリカ化とは異なり、もっとも純日本的な仏教教団であるとも、述べられていた。尼僧の平井辰昇(たつしょう)がかなりカリスマ的人物であるらしいことも、いっそう関心を惹いた。
正式の名称を東大寺ハワイ別格本山というこの寺院を最初に訪れたとき、ちょっと緊張したのは、門に「ノー・ビジターズ」とあったことである。宗教施設というのは、たいていが出入りは比較的自由である。もちろん部外者立ち入り禁止の場所があるが、境内とか敷地への立ち入りは、たいてい自由である。
何やら秘密めいた教会の感じがしたが、平井尼にあってみると、意外にもきさくな人であった。もっとも信者たちは、彼女を生き仏扱いにしており、一人の宗教者として扱うわれわれに憤りを感じる人もいたようである。そのことは、一九七九年に行なった二年次の調査のとき明らかになった。つまり、一年次の調査の結果をまとめた中間報告書において、彼女の名前に敬称をつけなかったことが、ひどく問題となったのである。一部の信者は訴訟をおこすとまで意気まいた。しかし、このときも、彼女の寛大な精神が発揮され、ことなきを得た。
さて、この教団は、いくつかの点で、他の仏教教団とは異質なものをもっているが、とにかく、全面的に平井辰昇のカリスマ性に依存した教団ということができる。布教の開始も、彼女の個人的な事情によってなされた。
平井辰昇著『母の信仰に導かれて』によると、彼女は、熊本県の生まれで、高等女学校卒業後、ハワイに渡り、二世と結婚する。しかし、十一年目に離婚し、このことで自殺を図るほどのショックを受ける。しかし、母の願いもあって、奈良の東大寺で修行することになる。四年の修行ののち、一九四一年、東大寺初の海外派遣開教使となってふたたびハワイの地を踏むことになる。太平洋戦争の始まる直前のことであった。「不動院」の看板を掲げての布教であった。
彼女の活動は、先祖供養と加持祈祷にある。今でも、お盆のときには、地獄図を出してその説明をする。一種の「絵解き」的なやり方である。聴いている人は老人が多いのであるが、若者もいくらか混じっている。だれしもが、固唾をのんで彼女の説明に耳を傾けているという感じである。
信者の要望があれば、加持祈祷や憑きもの落としもやる。蛇の霊とか狐の霊とかいった動物霊の存在、あるいは人間の恨み、つまり「生霊」のたたりの話などを、われわれにも、とくとくと聞かせてくれたものである。「あなたがたは、本当に霊を見たことがないのですか?」と、さも珍しそうに言われて、かえってこちらが特殊な人間のような気がしてきた位である。
彼女の布教方法は、最初からこうした特徴をもっていた。日本の寺院に関して、先祖供養を中心的機能とする「供養寺」と、加持祈祷などの祈祷行為を中心的機能とする「祈祷寺」という、よく用いられる区分法があるが、ここの寺院は、この両方のバランスがとれている。であるから、真言宗の寺院の機能と似ていると言えるが、さらにそれに彼女のカリスマ性が加わっているのが特徴である。それゆえ、数はそれほど多くはないにしても、熱烈な崇拝者を集めているのである。
なお、同寺は一九四八年に「東大寺ハワイ別院」となった。
割り込み教団の機能
第二波の教団が、第一波の教団に割り込むことが可能だったのは、なぜであろうか。もちろん、これらの教団の側が海外布教ということに関心をもつことが第一に肝要である。天理教や、のちに詳しく述べる金光教の場合は、すでに、かなり国内での教線が伸びてきていた。大正期は、両教団にとって飛躍的に信者数が伸びたときであり、国内での発展が必然的に海外にも目を向けさせたようなところがある。
これと並んで、新たな教団群を受け入れる移民の側の事情も重要である。これにはさしあたって、次のようなことが考えられる。
@宗教生活への潜在的欲求。これは、具体的には、移民の中に、日本にいるときから、天理教なり金光教なりの信者であった人が少数ながらいて、彼らが自分たちの教団の教師の渡米を望んだということ。
A祈祷的機能の需要。すなわち、第一波の教団は、真言宗を除いて、加持祈祷的な側面が弱い。これらの教会は、コミュニティ・センターとしての役割を果たしていたが、宗教者には、病気治しなどの機能も期待される。程度の差はあれ、そうした欲求に応える意味をもっていた。
Bハワイ内での一種の社会変動の影響。砂糖きびのプランテーションが衰微する頃になると、日系人は新たな職場を求めて都市部に出ていった。プランテーションのキャンプを単位に形成されていたコミュニティが再編成されることを意味する。既存の宗教宗派に新しい教団が割り込む可能性が生まれていた。
こうして、第二波の教団も、しだいにその信者を増やしていったのであるが、第二波の教団が、第一波の教団と決定的に違うというふうに考えるべきではない。どちらも、移民社会を布教の基盤としたことは同じであるし、布教者が誕生する過程もよく似ている。日本から布教者が出かけていくか、もしくは移民の中にいた信者が、日本で修行なり、訓練なりを経て布教者としての資格を得るという形が一般的である。日本国内での宗教分布に、ある程度対応する形で、移民社会での宗教所属も再編成されつつあったと見るのが、もっとも適切なところであろう。
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