第三波の教団

 一九五一年に、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日米関係は新たな段階にはいった。翌年には、移民に関する新しい法律が合衆国で施行され、日米間の行き来もまた、繁くなった。日本の新宗教が次々とハワイや西海岸での布教をてがけるようになったのもこのときからである。

 真先に、やってきて、多くの話題を提供したのが、天照皇大神宮教である。教祖の北村さよ自身が、「ハワイの蛆虫を退治に行く」と称して、ハワイに乗りこんで来たため、現地の新聞はこれを大きく取り上げ、戦後ハワイの宗教界における一大問題をひき起こした。(西山茂・藤井健志「ハワイ島日系社会における天照皇大神宮教の伝播と展開」『報告書』)

 北村さよは、一九〇〇年に山口県の田布施に生まれた。柳井市のすぐ近くの町である。太平洋戦争の終戦直前に「肚がものを言う」という奇妙な体験を経たのち、やがて教祖としての道を歩むことになった。空襲によって焼け野原となった、東京は数寄屋橋で、「蛆の乞食よ目を覚ませ」と叫びながら、「歌説法」なる独特の方法で布教を行なったため、璽光尊と並んで一躍マスコミ界を騒がすことになった女性である。「踊る神様」というのが彼女につけられたレッテルであった。

 さよは、太平洋戦争を「蛆の戦い」と表現し、蛆の戦いには負けてよかったのであり、これから起こる「神の国建設」のための戦いに勝つことが重要であると主張して、一部の人々には不思議な感動を与えた教祖であった。彼女は、やがて世界をまたに布教活動を行なうのだということを予告していたが、その皮切りにハワイを選んだのであった。

 ハワイは、彼女にとってかなり縁の深い土地であった。夫の清之進が、一時、移民として働いていた地である。また、清之進の弟夫婦は、そのとき、ハワイ島のヒロの近くで生活していた。

 彼女は、最初の布教をハワイ島を中心に約半年にわたって行なったが、さらに、二年後に第二回目の布教を試みるなど、一九六五年までに計五回の布教を行なっている。彼女の人を圧倒する説教は、日系人の間に、賛否両論のさまざまな波紋を巻き起こしたのであるが、彼女の言葉に感激した人々は、ハワイ島、オアフ島、カワイ島、マウイ島の各島に支部を結成した。

 次いで、一九五三年には、世界救世教がハワイとアメリカ本土で講演会を開いた。その前の年にハワイ在住の日系人が日本で入信したのが、一つの誘い水となったのであった。安食(あじき)、樋口という二人の教師がコンビを組み、安食が日本語での講演、樋口が英語での講演を担当した。

 マウイ島で、この初期の布教のときに入信した信者と面談したことがある。彼の話では、安食の講演には年寄りが多く集まり、「病気が治る」というので入信した人が多かった。一方、樋口の話には、若い人が集まり、一度に五〇人位入信したこともあったという。ただ、日系人の年寄りの場合、「この信仰にはいれば薬を飲む必要がない」という教えについてゆけず、途中で脱落する者が続出したようである。

 他の島でも、二人の講演はなかなか盛況であったらしく、四年後の一九五七年には、約二千人の信者を集めるほどになったという。(石井研士「日系新宗教における青年層の受容」『報告書』)しかし、この二千人という数字は、改宗者の数を示すと考えてはならないであろう。世界救世教に関心をもって教会を訪れた人の総計と考えた方がいい。おそらく、そうした人たちの大半は、以前からの所属教会にメンバーとしてとどまったままでの、世界救世教訪問であったと思われる。

 世界救世教は大本系の新宗教で、岡田茂吉が教祖である。一九三五年に大日本観音会として立教し、戦後一時メシア教と称したこともある。「病気の問屋」と自ら称したほど、数々の病気と闘った経験からか、病気の治療に薬を用いるのは害になるとして「薬毒論」を展開したり、農薬を使わない自然農法を提唱したりした。近年、世界真光文明教団や神慈秀明会が、駅頭などで人々を勧誘しながらデモンストレーションしているので、少しばかり有名になっている「手かざし」のはしりとなった教団である。真光文明教団も神慈秀明会も世界救世教からの分派である。

 手かざしによる病気治し、悪霊のとり除き、あるいは自然農法、などが、ハワイ及び北米の日系人にも人気を呼び、やがて何人かの非日系人信者の顔も見えるようになった。ロサンゼルスの場合、今では信者の八五%近くは日系人であるが、韓国系人、タイ系人、メキシコ系人などもいるという。(山田裕“Healing, Conversion and Ancestral Spirits”『英文報告書』)

 立正佼成会の布教については、森岡清美の詳しい報告がある。(立正佼成会ハワイ教会の形成と展開」『報告書』)それによると、ハワイ在住の熱心な女性会員の要請によって、たまたまブラジル移民五十年祭に招かれた庭野日敬会長が、一九五八年六月、ハワイに立ち寄ったのがきっかけで、公式的な布教の開始となる。すなわち、庭野が、帰国後、新潟支部の地方布教大会に出かけ、「仏教の本質と移民」という法話をし、その折に、ハワイで撮影した8ミリ映画を上映した。そのときの新潟支部長は、父親がハワイ移民であったこともあり、これに特別の関心を示した。庭野の勧めで、その場でハワイ行きを決心したという。彼の渡布ののち、五九年にハワイ支部の発会式が行なわれ、その五年後には、二百世帯余りの信者を得たということである。

 庭野は、長沼妙佼という女性とともに、一九三八年に霊友会から離脱してあらたに大日本立正佼成会を組織し、今日の立正佼成会を育てた人物である。先祖供養を中心とした在家仏教運動を広めて、とくに中高年の女性を中心とした信者を集めている。そうしたこともあり、非日系人を対象とした海外布教を組織的に推進しようという試みは、今まであまりない。ハワイへの布教は、したがって、当地の会員へのサービスという色彩が強かった。

 一九六〇年には、創価学会とパーフェクト・リバティ(PL)教団が組織的な布教を手がける。創価学会については、後述するので、ここでは触れないでおく。PL教団は、御木徳近教主夫妻が世界巡教の途中にハワイと北米に立ち寄ったのが契機となって、布教が始まった。教師の派遣は一九六四年からである。ブラジルではかなりの非日系人を集めているようであるが、アメリカにおいてはそれ程でもない。ハワイよりむしろカリフォルニアにおいて多くの信者を集めている。日系人、戦後渡米者が多いが、非日系人信者もいくらかいる。

 その後も、新宗教はアメリカ、とくにハワイを目指し、一九六八年には本門仏立宗、一九七〇年には真如苑、一九七二年には、キリスト教系では珍しく、日本で組織された教団であるイエス之御霊教会、また、一九七四年には弁天宗と天神教、七六年には世界真光文明教団といった教団が、それぞれハワイで布教を始めた。このうち真光文明教団は、北米でも布教を行なっている。

     海外布教のきっかけ

 これらの教団は、かなり大きなものもあれば、日本でもほとんど知られていないものもある。大教団が、海外布教に手を伸ばすのは比較的理解しやすい。海外に渡った信者がいるとすれば、そうした人々への心配りもしなければならない。また、海外に支部が設置されたということになれば、その教団の国際性を示すことになり、たとえ経済的には負担となる面が多くても、イメージアップの効果はあるからである。しかし、国内においてもさほど名前が知られておらず、また、ごく一部の地域にしか信者がいないような小さい教団の場合、海外布教に必然性があるとも思われない。一体どういうきっかけによって海外布教を手がけることになったのであろうか。

 おそらく、ここでも教団側の海外布教の意図と、現地にいた信者の要望という二方向が考えられよう。戦後になると、戦前とは異なった形での移住者が現れたが、そうした人の中には、絶対数はそれほど多くないにしても、さまざまな宗教の信者がいた。たとえ小さくても、ハワイや西海岸に布教所をという要請は当然に出てこよう。ただ、具体的にどのような理由でということになれば、それはさまざまである。ハワイに布教を始めてまだ日が浅い天神教の場合を例にとってみよう。

 天神教は、一九五九年に、常理教として川口市で発足し、現在箱根に本部のある小教団である。教祖は、荷田亀代治(かだきよじ)、管長は荷田鶴麿(亀代治の夫)であり、つまりは夫婦で教団を運営しているのである。この教団がハワイに支部をもつようになったきっかけは次のような事情である。

 ある女性信者、仮りにMさんとしておこう。彼女は、一九六五年頃、テレビで荷田管長をみかけ、その折紹介された『あなたも霊能者になれます』という本を読んだ。ちょうど結婚問題で悩んでいたときであったので、管長に相談に出かけた。その際、管長の言うことがよく当たるので、以来信者となり、管長の勧めに従ってハワイの日系人と結婚することにした。そしてハワイに移ってきたのである。ハワイに住むようになった彼女は、霊能者と称する人々が非常に高い金をとっているのに驚いた。彼女の知っているある霊能者は、一回三五〇〜四〇〇ドル(一〇万円前後)を受け取るのが普通で、特別なものには五〇〇〜六〇〇ドル(一五万円前後)を要求したという。それにも拘わらず、多くの人が集まってくるのは、日系人の間でこの種の欲求がかなり強いのではないかと思い至る。そこで、天神教の教祖と管長に、是非ハワイにきてもらおうと計画したのである。

 一九七四年、荷田夫妻が二度目の来布をしたとき、夫妻はKIKUテレビと、ラジオのKOHO放送、KZOO放送に出演の機会を得た。これらは、いずれも日本語放送を行なっている局である。夫妻は、日本国内でもときおりテレビ出演しており、俳優などにも信奉者がいるようである。このときの出演は、かなりの反響を呼び、多くの人がM宅に集まってきた。ごく少数であるが、その場で信者となった人もあった。

 こうして布教の核ができた。Mさんは、一九七八年に、教団本部から「行通力者」として認められている。天神教でいう行通力者とは、たえず心に神を慕い、清らかな心で、清らかな行動を志す人であり、神霊の感応が生じ、色々なことが分かるようになった人のことである。一般の教団の教師に当たると考えればよい。

 これを見ると、天神教がハワイに布教するようになったきっかけは、かなり偶然的要素が多い。一人の信者の、ハワイの宗教事情に関する独特な状況判断が、そもそもの発端となっている。また、天神教は、因縁を切ることによって「さわり」をとる、という説明を与えながら、病気治しを行なう。Mさんが感じたように、ハワイの日系人社会では、依然として、こうした行為への潜在的欲求は高いことが分かる。

     アメリカ化の努力

 第一波の教団の中で仏教教団は、二世の数が増える頃、かなり熱心にアメリカ化の努力を始めた。子どもたちが、学校でキリスト教についての考え方になじんでくると、それと極端に異なるような活動は遠慮するような雰囲気が生まれる。また、戦後、クリスマス・ツリーに対抗して、ボッディ・ツリー(仏陀の木)をクリスマスの夜に飾るようになった宗派もある。讃美歌に対して讃仏歌が歌われるようになる。仏教教団の教会の外観も内部も、最近は、キリスト教の教会のそれらの様子とよく似たものが多い。ハワイは暑いので、開教使は、白い半袖シャツに黒いネクタイといういでたちで説教壇からしゃべることが多い。信者の方は、長椅子に腰かける。オルガンに合わせて讃仏歌を歌うさまを眺めていると、ふとキリスト教の教会に来たような錯覚に陥りかねない。

 仏教会のアメリカ化の努力は、アメリカに定住する意思をもった移民が増え、日系人社会全体がアメリカ社会へ適応しようという傾向をもちだした時期に始まった現象の一つである。だが、この場合のアメリカ化というのは、二世の出現に対応するという側面と、仏教をキリスト教なみの宗教としてアメリカ人に認知させようという側面が強かった。

 仏教教団のアメリカ化の努力は、その後も絶えず続いていると言ってよい。だが、それと同じくらい、あるいはときによっては、それよりずっと大きな日本志向の力が働いてきたことも事実である。日本とのつながりを象徴する場所、日本人がくつろげる場所として、宗教施設が存在して欲しいというのは、移民の側の当然の欲求かもしれない。だが、開教使の中には、単にこうした欲求に応え、日本とのつながりを維持するというだけではなく、愛国者の意識を過剰にもっている人物もいた。それは通常はあまり問題とはならなかったが、戦時中は、こうした人々が、日系人社会の分裂を激しくさせてしまうような結果となることもあった。収容所生活は、人々の心をいびつにする力をもっていたし、開教使は、オピニオン・リーダーの役割を果たしていたからである。

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