世代問題

 親子の断絶などという言葉はもはや使い古された感じであるが、一つの世代と次の世代が大きく意識のギャップをもつという現象は、社会や文化の変化の著しいときに目立つ。現代日本のようにすさまじい変化であると、親子どころか兄弟姉妹でさえも断絶を感じることがあるようである。しかし、移民社会での世代問題は、そうした同一文化内でも生じうる断絶の問題の他に、もっと複雑な問題をも提供する。その第一は何と言っても言語の問題である。

 一世は当然のことながら、アメリカに渡ったのちも、日本語をしゃべって毎日を過ごした。それで日々の生活に特別の不自由を感じることもなかった。従って、多くの一世は、ほとんどまともに英語を習得することなく、生涯を終えた。彼らには、異文化の中で生活しているというような感覚は乏しかったようである。

 「昔は、どこに行っても日本語で用事が済んだ。この頃は、日本語が通じないことがあって困る。」こんな台詞をはく一世がいる。これを聞いたとき、一世の抱く世界観が少しばかり分かったような気がした。異文化の中にいるということなど、本人がそれを意識しなければ、日常生活に何も関わりをもたない。確かに海を渡ってきたが、周りは日本人ばかりで、日本語ばかりが話され、日本的感覚で事が運ぶとなれば、異文化とかその類のものは、意識する必要がなかろう。

 呼び寄せ移民時代以降、二世の誕生が多くなる。これら二世の場合、たいてい学校に行くまでは、家庭で両親の日本語を聞いて育つ。だが、学校に行くようになると、英語が主体となる。彼らはたいてい放課後日本語学校に通うけれども、やがて日本語はむしろ苦手となってゆく。ただ、二世の中には日本で教育を受けた者がいた。親の希望によって学齢期に達したとき日本に行き、そこである程度の教育を受けたのち、ふたたびアメリカに帰ったのである。そうした人々はたいてい流暢に日本語をしゃべる。その代わり、英語があまり上手でない場合がある。彼らは「帰米二世」と呼ばれる。ふつうの二世と帰米二世とでは、意識の上でもかなりの違いがあることが、しばしば指摘される。

 戦後は三世、さらに四世が登場する。彼らはもうほとんど日本語をしゃべれない。真面目に日本語学校に通った者が、何とか祖父母とコミュニケーションできる位である。要するに日本語は外国語なのである。顔は日本人とそっくりでも、言葉はすっかりアメリカ人のそれである。顔つきにまどわされて、つい日本語で話かけると、とまどいの表情にぶつかってしまうことが多い。

 毎日使用している言葉の違いは、日米それぞれの文化に対する感覚の違いにつながり、さらに自分の日系人としてのルーツをどう考えるかという問題にもつながっていく。これらについても、世代ごとの相違についてのおおまかな特徴づけがいくつかなされている。たとえばこのような説がある。一世は日本人であり、基本的に日本志向であった。二世はアメリカ人であろうとし、アメリカ志向を装うと努力した。だが、帰米二世は日本志向が強い。そして三世は、その思考方式や感覚はアメリカ人のそれであるけれども、日本文化へは、かえってこだわりのない関心を示す、というものである。

 ところで、二世は自分のアイデンティティに関して、かなり屈折した感情を示すことが多い。実際、彼らの多くは当初二重国籍であった。アメリカで生まれた者は、アメリカ市民であったし、また、一九二四年以前の日本の法律では、父親が日本人である場合、その子の国籍は日本人であったからである。こうした身分上のことより、決定的なのは、戦争体験である。ふつうなら、単に親の生まれた国と自分の生まれた国という関係だけの日米が戦争に突入したことで、どちらに忠誠を示すのかという二者択一状況に追い込まれたのである。ときに彼らは、親と対立したし、帰米二世と対立したこともあった。さらに。自分自身の中で激しく葛藤を感じることも稀ではなかった。太平洋戦争がなければ、二世はもっと日系人であるという意識を自然に表明したであろうし、世代間の問題は、これほど屈折することがなかったであろう。

 戦後は、また、以前とは異なった事情によって渡米する人が出てきた。彼らは、戦前からあった日系人社会に受けいれられた場合と、ある種の壁を作られてしまった場合とがある。人々が宗教に対してもつ欲求には、文化を越え、時代を越えて、共通する部分があるのは確かであるが、他方で、ある集団の特有の関心が反映された欲求が観察されることもある。そういう意味で、日系人のそれぞれの世代、また戦後渡米者は、宗教に対しても異なった関わりかたをする面がある。次章以下で、いくつかのそうした事例を扱うことになるが、布教者は、必ずといっていいいほど、信者の側の宗教的欲求の相違、あるいは価値観の相違に直面することになる。

     仏教離れ、キリスト教化の傾向

 仏前結婚式といえば、たいていの日本人は、何となく意外な顔をする。結婚式は神前で、葬式は僧侶を招いてと、宗教の役割分担を当然としている人には、仏前結婚式というのは、晴れやかな席に場違いな人が紛れこんでいるような、変な気がするのかもしれない。だが、仏前結婚式は地域によっては別段珍しいことではないし、また、神葬祭というのもある。それはさておき、北米やハワイでは、この仏前結婚式の方が、むしろ一般的である。とくに、アメリカで生まれた二世は大半が仏式で結婚式を挙げている。冠婚葬祭すべてを仏教会において行なうというのは、少しも珍しくない。これは、仏教教団が、日系人社会において果たしてきた役割の大きさをあらわしていると言える。

 このように二世に対するまでは、日系人社会で圧倒的な影響力をもっていた仏教会であるが、最近はかなり様変わりしている。三世、四世となると、しだいにキリスト教に所属するようになる。もはや仏教教団は若者の間ではもっとも所属者の多い宗教ではない。当然のことながら、結婚式もキリスト教式が幅をきかせてくる。図3を見ていただきたい。これは、一九七九年の調査時に、ハワイ大学の日系人学生とハワイにある三つの高校の日系人学生を対象にしたアンケート調査の結果である。ここにはそうした若者の行動・意識の変化がはっきりと現れている。

 これを見ると、仏教の信者の比率が、確実に減少してきているのが分かる。すなわち、回答者の祖父母の世代では、仏教教団に所属する割合は、約四〇%であったのに、両親の世代では、二〇%強、そして回答者自身の世代では二〇%未満となっている。これに対し、キリスト教への所属は増加の一途である。祖父母の世代では、一〇%未満であったのが、両親の世代では二〇%前後、そして回答者の世代では、四〇%を越えている。完全な逆転現象である。

 このような現実を、とくに第一波と第二波の教団は、厳しく受け止めている。おおげさに言えば、一世、二世を中心の宗教活動を行なうか、それとも、三世、四世を主とした活動を行なうかの瀬戸際にあるともいえる。一世と二世はそのパーソナリティにおいて、かなりの違いがあると言われるが、こと宗教所属に関しては布教者の側からは、ひとくくりにできるようになっている。それに一世の数はもうすこぶる少ない。

     布教者の軌跡

 以上述べてきたように、今日アメリカで活動を行なっている日本産の教団は、ほとんどが、移民社会を基盤として、存在してきた。移民社会の変化が教団の変化のときであったし、日系人と教団との関係の変化のときでもあった。これが布教者の置かれていた大前提でもあった。

 さて、布教をする立場にある人間は、たとえ、これを親譲りの職業として継承せざるを得なかった人であろうと、信者集団と向かい合ううちには、布教・教化の意味をその人なりに捉え直す場面があるのではなかろうかと推測する。まして異国において新たな信者集団を形成しようとする試みは、思いがけぬ局面にぶつかることもあるだろう。

 以下では、ハワイにおける神社神道の神職、北米金光教教団の教師、そしてアメリカにおける創価学会・NSAの中心的会員の活動に焦点を当てて、海外における布教活動の諸側面を眺めていきたい。三つの波の教団から一つずつを選んだ結果となったが、この三つの事例を対象に選んだのは、第一に、これが、三回に渡る日系人の宗教調査において、私が主として分担した教団であるからである。そして第二に、この三つによって、海外布教している日系教団の抱える問題のうち、少なくとも中心的なものは拾いあげられると思ったからでもある。また、ハワイと西海岸の地域的差をも比較する意味を込めて、神社神道はハワイを舞台に、金光教は西海岸を舞台に、また創価学会は、主にアメリカ本土を舞台に設定するという形をとった。

 個々の布教者のパーソナリティの違いによって起こる問題というのも、一つの面白いテーマであるが、本書では、布教者を包みこんでしまう「状況」の重さということに、スポットを当てたい。各教団の布教史をたどりながら、同時に、布教者たちの軌跡を追っていくことにする。

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