U 民族宗教の異文化体験 ハワイの神社神道

     とまどうハワイの神

 一九七九年の夏、ホノルルにある布哇金刀比羅神社(以下、金刀比羅神社と略記する)の大祭を調査に行なったときのことである。大祭であるので、多くの神主が他の神社からも応援にきていた。式次第も順調に進み、祭も終わりの方になって、国旗掲揚の次第となった。スルスルと上っていく旗を何気なく見ると、なんとこれがアメリカの国旗であった。そして流れる曲は、あの「星条旗」であった。

 居合わせた人々は、それがまったく当然のことであるかのように、神妙な顔つきで星条旗を見上げていた。日本とまったく同じような神社建築。賽銭箱に手水所。伝統的装束に身を固めた神主。居並ぶ日系人の崇敬者たち。ときどき響きわたる太鼓の音。そうした舞台設定が、私に国旗といえば日章旗を無意識のうちに予測させたのかもしれない。

 たまたま目にしたこの光景は、しかしながら、しだいにハワイにおける神社の存在様式を象徴しているかに思えてきたのであった。形の上での申し訳程度のアメリカ化の装い。そして実質的には日本でのありかたそのままの踏襲。

 「ここはハワイだから、ハワイの産土神を祀っている」という神主がいる。布哇大神宮(以下、大神宮と略記する)の神主である。ここの祭神にはヂョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、さらにはカメハメハ大王(一世)までが祀られている。ワシントンは合衆国の国父、リンカーンは中興の祖、カメハメハ大王はハワイの功労者というわけである。神主にとっては、一つのアメリカ化の努力なのかもしれない。だが、現実を眺めるなら、どの神社を訪れても、日系人、しかも、日本への愛着を強くもつ人しか、崇敬者に名を連ねていないのがすぐ分かる。

 それは、ハワイの各神社の神職がこれまで、非日系人に対してはもちろんのこと、日本語を話せない日系人に対する布教すら、真剣に考えてこなかったということの結果なのである。各神社の月次(つきなみ)祭はあまり活気がない。神主に合わせて、ローマ字で読み方を示した祝詞(のりと)をぼそぼそと唱える参列者は、たいてい年老いた二世である。

 ときどき、愛国心を失わせまいとして、日本からある団体の講師がやってきて、月次祭の場などを借りて一席ぶったりするそうである。調査中にも、たまたまそうした一人が熱弁をふるう場面を観察することができた。金刀比羅神社の月次祭のときである。

 たとえ、異国の地にあっても、日本文化をきちんと継承しなければならない。とくに、言葉は重要である。イギリスは英語を世界中に広めたのに、日本人は、このハワイで祖父と孫が話が通じない。情けないことである。ユダヤ人は、千年の奴隷時代を耐えたのに、日本人はマッカーサーに六年間支配されただけで腰抜けになってしまった。だらしがない。もっと、自国の文化精神を表現する能力を身につけなければならない。白人文明をくいとめたのは日本である。世界三大宗教を革命する可能性が神道にはあるのだ。おおよそ、そんな話の趣旨であった。

 しかし、熱気を帯びているのは講師ばかりで、十人ほどの聴衆は、分かったような分からないような顔をして、眠気をこらえていた。すでに、日本語と英語が適当にチャンポンになった言葉を日常使っている二世たちは、この熱弁をあまり深刻に受けとめない方がいいのではないかと思ったものである。

 この現況は、民族宗教という枠の中にすっぽり収まってきた神社神道の問題であろうか。ハワイで布教してきた神主たちの布教方法の問題なのであろうか。それとも、もっぱら移民を対象に布教を開始したハワイの日本宗教が歩まざるを得なかった歴史の結果なのであろうか。もちろん、大なり小なり、このすべてが関わっていることは間違いないが、もっとも大きな原因はどこに求められるだろうか。

 ハワイを布教の地に選んだ神主たちにとって、異国での布教はどのような体験として重ねられてきたのであろうか。とりあえずは、その足どりを追ってみよう。

     神社の設立

 移民した人々にとって、神主は欠かすことのできない宗教施設だったのであろうか。あるいは、神主はいないと困るような種類の人間だったのであろうか。僧侶が必要な理由はすぐ推測がつく。葬式は避け難い宗教儀礼だからである。ならば結婚式があるではないか、という意見を持つ人もあるかもしれない。しかし、神前結婚式というのは、日本においてさえ、今世紀にはいってから急速に一般化したスタイルである。明治中期にハワイに移住してきた人は、結婚式であるから、何がなんでも神主に頼まねばという感覚ではない。調査の結果を見ても、大半は、仏式の結婚式を挙げたことが分かる。

 しかし、現実には、ハワイにも次々と神社が建っていった。一八九四年から私的移民時代が始まり、移民の数が急速に増える。その頃から、各宗教の布教伝道活動に拍車がかかる。前にも述べたように、日系人に対する宗教活動は、キリスト教によるものがもっとも早かった。次いで、仏教各派が踵を接して布教に臨む。神社がこれらに大きく遅れをとったかというと、そうしたことはなかった。

 最初の神社創立は、一八九八年のことで、ハワイ島に大和神社(のちのヒロ大神宮)、カワイ島にラワイ大神宮が創立されている。注目したいのは、ホノルルよりも、ヒロとかラワイとかいった、初期の移民のキャンプがあったところにまずできていることである。その後、しばらく間をおいて、一九〇六年以後ホノルルにも神社が見られるようになる。したがって、全体として仏教教団よりは少し遅れるが、それほどの目立った差はない。

 やはり、その当時の日本人にとっては、移民社会においても、神社は生活のリズムに必要な存在であったと考えてよさそうである。であるとすると、神社設立に際して、具体的にはどのような力が働いたのであろうか。

 海外進出の意図が介在したかどうかということを基準にして、一応二つに分けることが可能である。すなわち、国内での活動を海外へも広めようという意図が働いたものと、そうでないものである。明治期は、神道教派、あるいは神宮奉斎会などの活動は、今日に比べれば、かなり活発であった。神宮奉斎会は、一八九九年に組織されたのであるが、ハワイへも活動の手を広げている。教派神道の中では、出雲大社教によるものが代表的である。黒住教や神道本局所属の教師も布教を試みた。だがこれら教派神道の布教は、教団側が仏教宗派ほどの力を入れて行なったものではない。

 もう一つの、海外進出の意図がほとんど関係していないものというのは、むしろ移民の方が主体的に建てた神社である。これはさらに細かく二つに分けられる。それは、移民の出身地域ごとの結束を高める機能を果たすものと、移民の出身地域において信仰されていた、半ば民間信仰的なものを、祀ったものである。

 前者の例としては、たとえば、熊本県人が中心となって造った加藤神社、もと大竹市の住民が中心となって祀った大瀧神社などを挙げることができる。ハワイに渡った日系人は、初期は他の民族と交わろうとしないばかりでなく、日系人の間でさえ、さらに細かな仕切りを作った。県人会がその代表的なものである。そうした出身地域の人々がまとまろうとするときに、神社もまた、そのまとまりのシンボルを提供した。このタイプの神社は、現在は独立の社をもたない。他の神社に合祀されたのである。

 後者の例としては、金刀比羅神社、石鎚神社、稲荷神社などがある。金刀比羅神社、石鎚神社は、移民の出身県とも多少かかわりがあったようだが、それほど強くはなかった。金刀比羅神社は漁師の信奉者が多かったという。稲荷神社は、日本でも広い地域で信仰されているから、その反映であろう。ハワイには、割合多くの稲荷神社が建てられたのであるが、現在ではほとんどの社が崩壊したり、祀る人がいなくて放置されたままの状態であったりである。

 一九一〇年代になり、日系人移民の間で、耕作地を離れ、都市部へと向かう「離村向都」の時代がやってくると、ホノルルにも神社が次々と建てられるようになった。一九二〇年には、ハワイ神道連盟が結成され、神主同士の互助も盛んとなった。

 このように、神社設立を促した要因はおおよそ分かるのだが、それぞれの神社の詳しい設立事情となると、はっきり確認できないものが多い。布教の意図をもって設立された神社においてもそうである。初代の神職は死去しているので、直接話を聞けないのは、仕方がないが、問題はその初代の話が伝わっていないということにある。それでも、後継者が息子である場合は、布教開始のいきさつなど、大体は伝わっているのだが、他人となると、前任者のことを詳しくは知らない。日記や設立当初の事情を示す文書があればいいのだが、そうした神社の歴史を記す文書は、ほとんどがFBIの目を恐れて、戦時中に焼却処分されてしまった。したがって、当時の状況は、戦前にハワイで刊行された移民史に関する本の中から神社関係の記事を拾うか、長くハワイにいて布教活動を行なっている神主の話から推測していくほかない。


     帝国臣民のための神社

 神社創設の様子をうかがい知れる直接的文書資料が唯一残っているのは、マウイ島の馬哇(マウイ)神社である。

 これは、初代の宮司であった、松村正穂によって書き残されたものである。たいした量のものではないが、これを読むと、設立に当たっての意図や雰囲気がおのずと伝わってくる。文書は、「馬哇神社建設趣意書」、「馬哇神社建設賛助員」、「馬哇神社諸規定」、「馬哇神社維持講規定」、「馬哇神社敬神講社」などの項目に分かれている。

 たとえば、建設趣意書には次のような文句がみられる。

 実ニ大正四年ハ対日本帝国ノ世界的紀元タルナリ……(中略)……以テ永久ニ好機ヲ記念シ且ツ将来在留民ノ崇敬誠意ノ中心タラシメ併セテ我国固有ノ精神ヲ発揮セシムルニ勉メン事ヲ期ス……(後略)

 大正四年といえば、日本が第一次世界大戦に参戦した翌年である。そのような国際情勢を背景に「世界的紀元たるなり」という表現が生まれてきたのであろう。

 また、馬哇神社講規定の第一条には、「馬哇神社ハ馬哇島在留日本帝国臣民ヲ以テ氏子トス」とある。つまり、日系人はたとえその身はハワイにあろうとも、れっきとした帝国臣民とみなされ、布教の目的は、日本固有の精神を移民に保たせることであることが分かる。外国における神社設立であるから、そのことについて何らかの配慮を払う、というようなところはどこにもない。趣意書の底に流れる意識というのは、たとえて言うなら「ハワイ内日本人村」の住民への呼び掛けとでも表現できようか。

【目次へ】   【次頁へ】