「縁むすびの神」の進出

 他の神社では、設立の事情を知れるような、直接資料を手に入れることはできなかった。したがって古い事情を知る人から聞くしかなかった。とくに、親子二代にわたって布教に従事してきた人の方が、一貫した話を聞きやすい。親子二代の布教といえば、出雲大社と大神宮の神主がそうである。出雲大社の宮王重丸宮司は、父親の布教の意図をおおよそながら伝えてくれた。

 布哇出雲大社は、出雲大社教の布哇教会所として出発した。宮王勝良がハワイに渡ったのは、一九〇六年八月のことであった。宮王宮司は広島県比婆郡の出身で、もともと神主であった。四つの神社の社掌を兼務するかたわら、出雲大社教の教師免状も得ていた。出雲大社教というのは、教派神道の一つで、一八八二年に千家尊福によって組織された教団である。

 さて、ハワイに渡るとあって、親類縁者からは猛反対がでたが、それをおしきっての海外布教であった。ハワイに来てまもなくは、夕暮れどき、日本人街の中心にある公園で、ランタンを携えながら街頭説教を行なった。この頃、同じような街頭説教は、すでに浄土宗の僧侶や、キリスト教の牧師が行なっていたという。信者獲得に各宗派がしのぎを削っていた様子がしのばれる。

 宮王宮司の活動は精力的で、オアフ島のみならず、ハワイ島のヒロ、コナ、マウイ島のワイルクなど、日系人が多くいるところには必ず出かけていって、布教活動を行なった。また、当時は、写真結婚のはなやかなりし頃であったから、結婚式の司式を担当した。むろん、写真結婚の場合、書類上は、婚姻は済んでいるのだが、実質的な式はハワイに到着してからということになるからである。

 当時は、この結婚式のほか、新生児の初参りの受け付け、日本人街の同士会への参列、日本から艦隊が到着したときの、お守りの授与などといった活動を行なっていたという。さらに、相撲や碁の大会を開くなど、レジャーの場を提供することもあった。

 こうした多彩な活動の甲斐あって、一九一九年には、ホノルルの教会所は出雲大社布哇分院に昇格し、オアフ島のワイパフ、ハワイ島のヒロ、コナ、それにマウイ島のワイルクにできた布教所・教会所を併せて、布哇出雲大社教団が結成される。

     伊勢信仰の伝播

 もう一人の親子二代の神職は、大神宮の川崎父子である。現宮司の川崎嘉添の父、川崎正郷は、高知出身者である。一八七九年の生まれで、神道本局の教師でもあったという。ハワイにやってきたのは、一九〇七年である。大神宮は、そもそも、神道崇敬者が相談して、仮社殿を建築したものであるが、それが、いつのことなのか、諸説あって判断に苦しむ。一九〇三年から一九〇六年の間のことらしいのは確かなのだが、紹介してある本ごとに、発足の年が違うので、特定できない。

 最初掲げられた看板は、「神宮奉斎会賛成員募集事務所」というものであったようだが、とにかく、神宮奉斎会が絡んでいたことは間違いない。初代の祭員は、千屋まつえという女性であり、川崎正郷は、ハワイに来て早々、そのあとを継いで着任した。千屋も高知県出身であったため、川崎が信頼され、すぐ引き継ぎがなされたようである。

 川崎は、ここを一世たちの心のよりどころにしようとの発想に基づいて、活動を行なった。宗教的な方面だけでなく、武道を盛んにすることをも努めた。たとえば、土佐の山内家の家臣の出であるという人物に頼んで剣道場を開き、日系人たちに剣道を指導してもらった。

 一九一八年頃に、ようやく土地が求められ、仮社殿から、正式の神殿建築へと遷座式を行なった。新しい神殿は、神明造りで、拝殿は入母屋造りであった。しだいにメンバーも増え、一九二〇年には、神道本局の布哇分院として、布哇大神宮教団が結成されることになった。

     神社を欲する日系人

 これ以外の神社の設立事情は、伝える人がいない。戦前に刊行された本の紹介から、わずかにそれを推測するしかない。

 ヒロ大神宮は、もっとも早く設立された神社であるが、設立当初は、大和神社と呼ばれていた。この神社の設立に力を注いだのは、熊本県出身の合志覚太・実行父子である。布哇日々新聞社編『布哇成功者実伝』によれば、合志家は、もともと神職の家であったらしい。合志覚太は、ハワイに渡って以来、前章で述べた曜日蒼竜的な活動をしたようである。耕地を回って人々に神霊の広大なることを説き、自ら、材木をかつぎ神殿建築に苦心したとある。努力が実り、一八九八年に大和神社ができる。一九〇一年に、後継者として、息子の実行を呼び寄せたのち、翌年死去している。

 大和神社は、一九〇三年にヒロ大神宮と改称された。

 ラワイ大神宮の成立については、『布哇群嶋誌・第壱巻加哇(カワイ)島』の中に短い記述がある。それによると、移民の中に敬神の念が篤い人がおり、彼が同志と語らって、移民の幸せのためには、天神の冥護を祈るべきで、それには、天照大御神の鎮座が大事という考えを抱いた。この趣旨を耕地の人々に発表したところが、多くの協力が得られ、また、金品による援助も多く寄せられた。社殿は、一九八九年に、三〇〇人が二四〇日かかって完成したとある。

 今日でも、日系人は教会のためによく労働力を提供する。金を寄付して済まそうという態度は少なく、実際に教会のために、時間と労力を提供する。これは、移民の初期、人々がまだ経済的に貧しかった頃、財力でなく、労働力によって教会を盛り立てた名残りであろう。また、教会に対して、自分たちのものであるという、強い愛着をもっているからでもあろう。

 熊本県出身者のまとまりのシンボルとされた加藤神社は、熊本市にある県社の加藤神社を一九一二年に分祠したものである。熊本市の加藤神社が、その前の年に設立されたばかりであること、また、崇敬者が二千名を越えたことを合わせ考えると、移民の間での県人意識の強さをひしひしと感じる。

 金刀比羅神社は、一九二〇年に設立されたが、その前年には、同じホノルルにカカアコ金刀比羅神社が建てられている。いずれも漁師たちの信仰を集めたという。ただ、今日の金刀比羅神社には、そうした特色はない。

 もっとも多く設立された稲荷神社は、仏教で言えば、大師講的な存在に近いかもしれない。だが、それぞれがどういう経緯で設立されたのかは、知ることができなかった。もう、大半が祀る人もなくなっているからである。

 少し変わった設立のされ方をしたのは、布哇石鎚神社である。広島県出身の三宅志奈が、突然神の声を聞いたのが、一九一三年のことであった。彼女は、翌年日本に帰り、四国の石鎚神社で修行し、その分霊を受けてハワイにやってくる。彼女は、病気治しや祈祷によってしだいに信者を集め、一九一八年に石鎚神社を設立したのである。三宅は、神職というよりは、霊能者と考えた方が適切であろう。

 この他、厳島神社、黒住教社、恵美須神社も設立されたけれども、すでに消滅しており、どのような人々がこれに関わったかほとんど知ることができない。

 しかし、数だけみても、かなりの神社が建てられたことが分かる。一世にとっては、やはり神社も存在して欲しい宗教施設であったと言えよう。

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