戦争直前の絶頂期

 「結婚式なら出雲大社」と日系人の間で言いはやされた出雲大社布哇分院は、一九三一年当時、約一万数千人の氏子を数えたことが報じられている。その他の神社もこれに負けず劣らずの盛況であったようである。

 一九三〇年代は、神社神道にとっては、そうした「幸せな時代」が続いたようである。たとえば、一九三六年のハワイの日系新聞の記事を拾ってみると、当時の神社の賑わいぶりがよく分かる。一月三日の「日布時事」には、「当市リリハ街の布哇大神宮の新年祭行事は元旦午前零時より終日厳粛に行われ参詣者は一万余人に及び盛大であった」と記されている。そして、日本の特務艦「佐多」の乗組員水兵が、各分隊長に率いられて、同社に参拝したことも書いてある。

 また、十月五日の同紙には、出雲大社の分院創立十年祭の祭典が盛大に挙行されたことが報じられている。このときの参詣者も約一万人であり、祭員も十五名の多きを数えている。

 この状態はほぼ一九三〇年代を通じて続いた。河田登著『移民の経験』は、広島から移民した著者が、ずっとつけていた日記をもとに出版した本であるが、その頃のハワイ日系人の生活ぶりを知るには貴重な資料である。この中にも初詣風景を描いた箇所が所々にあるが、一九三九年の元旦には、次のように書かれている。

元旦の御祝が済んだ頃H君が迎えに来てくれて、共に神詣に出掛けた。先づリリハ街中程におわす大神宮様へお参りし、過る年一家が恙がなく暮さして頂いたお礼を申上げ又今年も何卒よろしく特に子供等が元気よく育って行きます様にお願いした。其所からベレタニアキング街合流点山手におわす、出雲大社へお参りし、此所でも同じ思いをお祈りし、お神酒も頂いて、Hの宅まで帰り、此所で皆さんとハッピーニューイヤーと堅く握手を交した。

 日本で正月を迎えるときの心情とほとんど差のない様子がありありと描かれている。大神宮、出雲大社、金刀比羅神社はホノルルの中で有名であり、今でもこの三社を正月に順に回るのを「三社詣」と称している人がいる。

 多くの神社はまた、仏教教団と同じように、日本語学校を開いたり、武道の練習場を設けたりした。日本文化を忘れることのないよう、あるいは日本精神にうとくならないよう、日系人としてのアイデンティティ共有の場、もっと正確に言えばそれを維持する舞台装置を提供した。

 この頃、ハワイの神職たちは、将来への不安を抱いたであろうか。少なくとも、アメリカでの活動ということを考えて、何か特別の工夫をしようとした気配は、まったく見られない。

     戦争の嵐

 一九四一年十二月七日の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争は、日系人にとって、「絶対起こってはならないこと」の勃発であった。絶対起こってはならないことが起こってしまったとき、彼らの狼狽は大きく、その後彼らを襲った苦難は厳しかった。

 アメリカ本土では、十一万人とも十二万人とも言われる西海岸の日系人が収容所に入れられた。ハワイでは、しかし、そのようなことは不可能に近かった。もっとも、アメリカ本土、あるいはモロカイ島に隔離せよという案も一部にはあったのだが、移動に必要な船舶がないということもあって、この案は早々と撤回された。それに、ハワイにおいて日系人が占める政治的、経済的比重は大きく、日系人をすべて隔離したら、ハワイ社会は大混乱に陥ることはまちがいなかった。西海岸における日系人の収容が、戦略上の政策であるとする説明は、これだけでもいい加減なものであることが分かる。西海岸の日系人を中西部や東部に移しても、最前線のハワイに日系人がうようよいたのでは何にもなるまい。

 それはともかく、ハワイの日系人の大半は収容を免れたのであるが、宗教家はそうはいかなかった。戦争の嵐に否応なく呑み込まれていった。開戦とほとんど同時に行なわれた宗教家の逮捕は、有力団体の幹部、日本語学校の校長などと共に、日系人の間で指導的人物と見られていた人々についてのFBIの「ブラック・リスト」に基づいてなされたものであった。彼らは、直ちに悪名高いサンド・アイランドへ移され、約二ヶ月半、きわめて過酷な扱いを受けた後、ほとんどがアメリカ本土へ移されたのであった。

 ハワイの神社神道も戦争によって大きな痛手を被ったのであるが、それは、神職が抑留されたということと、氏子が神社に集まることができなくなったという二面がある。戦時中は、日系人が許可なく三人以上集まることが禁じられていたからである。

 神主たちの抑留体験を見てみよう。出雲大社の宮王重丸宮司は、一九〇三年生まれで、国学院大学を卒業後、出雲大社教の教師を勤め、一九三一年に同教の海外布教師として来布した。一九三五年に父親の後を継いで宮司になって数年にして、この出来事に遭遇した。当時は布教の意欲に燃えていたので、沖縄、朝鮮、満州を訪れ、出雲大社本部にも足を伸ばした。これは、沖縄神社の分霊を合祀することなどに絡まる宗教的意味あいのものであった。しかし、運悪く、この旅行が、開戦の一ヶ月ほど前の、一九四一年十一月のことであった。奇襲攻撃にいらだつアメリカ軍にとっては、これはスパイ活動の疑いをかけるに十分な行為であった。

 抑留者は、インタニーと呼ばれた。インタニー経験は、宮王宮司にとっては、まさに屈辱の体験である。たんたんとした口調の中にも、問わず語りに、悔しさを込めて二度までも私に話してくれた出来事がある。

 サンド・アイランドに収容中のことである。あるとき、インタニーたちが使用していた食事用のナイフが一本紛失した。ナイフは、抵抗に用いられるかもしれない。自殺に使われるかもしれない。アメリカ兵は懸命に探した。そしてついには、その棟のインタニー全員を素裸にして調べ始めた。結局これは、アメリカ兵の数え間違いであることが判明して、事件は一件落着するのであるが、なす術のないインタニーは悔しさを噛みしめるのみであった。とくに、それまでは宗教家として社会から尊敬を受けていた身にとっては精神的に耐え難い苦痛であった。自分の行為とは関わりなしに、突然犯罪者並の取り扱いを受けたのである。

 「アメリカ兵は算数もできない。」

 これは、宮王宮司の、時間遅れの悔しさの表明である。

 大神宮の川崎嘉添宮司も、即日の逮捕であった。彼は、父親に呼ばれ、一九一三年、十一歳のとき、ハワイにやってきた。その後勉学のため日本に帰り、国学院大学神道学科に入学した。戦争の始まる前、ふたたびハワイにやってきて、この事態に直面したのであった。

 やってきたアメリカ人は、「少し話があるから来い」と手招きした。言われたとおり車に乗ると、いきなりピストルをつきつけられて、そのまま移民局へ連行された。やはり、サンド・アイランドへ送られた。「ハワイにおける日本精神の根源地は布哇大神宮なり」ということで、大神宮の建物は、すぐさま接収されてしまった。大神宮の文字すら良くないということで、FBIは門に刻んである「布哇大神宮」の文字を布で隠せと命令してきた。しかし、これでは雨が降ると布が濡れて文字が見えるので、次には木で隠せとの命令がきたという。また、神社に寄付した人々は、直ちに逮捕されたりしたので、彼の母は、寄進者の依頼で、彼らの名前が分からないように、寄進物をことごとく焼却しなければならなかった。

 川崎宮司は、しかし、抑留されたときも、御神体だけはちゃんと携帯していった。不思議なことに、白布で包んだその御神体が見咎められることはなかったという。だが、一九四三年、第二回の交換船で日本に渡ることになったとき、初めてこの御神体が見咎められた。係官は、開けて見せろと命令したが、宮司はこれが宗教的崇拝対象であることを説明し断固拒否した。

 「あなたも自分の十字架のロケットを開けろと言われたら、ノーと言うであろう。」

 この論法には、相手もまいったらしい。違法であるけれども、道理に合っているということで、そのまま日本に持ち帰ることができたという。

 ラハイナ大神宮の酒井宮司もタイミング悪く逮捕された。彼は、一八九九年生まれで、山口県熊毛郡の出身であるが、光市の早長八幡宮で神職をしていた経験があった。それを生かすべく一九一七年単身ハワイに渡ってきたのであるが、あいにく神社に空いた職がなかった。そこで店員として働いていたが、あるとき、仕事の関係でマウイ島に行ったとき、八幡宮での神主時代に氏子であった人と出会い、マウイ島のラハイナ大神宮の神主が高齢のため、後継者を捜している話を聞かされる。たびたび頼まれるので、結局一九三七年一月にラハイナ大神宮の神主となる。苦労の末、一九四一年六月に遷座式を行なうのであるが、それから半年もたたないうちに開戦となるのである。

 収容されると、家族との面会も一切許されず、いろんな質問がなされた。中には「この戦争に日本が勝った方がいいか、アメリカが勝った方がいいか」などという露骨なものさえあった。

彼は、両国は自分にとっては父母の如きものであると答えて、その場をしのいだ。また、アメリカへの忠誠を確かめるため、天皇の写真を踏ませるというアメリカ版「踏み絵」もなされたらしい。

 神主たちは、こうして、異国での宗教活動であるがゆえの問題を、突然に、そして暴力的な形で突きつけられれることになった。神職たちの異文化体験は、実質的にはこのときから始まると考えていいだろう。だが、外国で布教しているのだということが、外部から、異常な形で迫ったため、これが布教方法の問題へとつながることがなかった。異文化の中での布教の意味を、深刻に考えるようになるのは、終戦後かなり経ってから、つまり日系人の世代交代がはっきりしてきてからである。

     「勝った組」

 ブラジルの「勝ち組」は有名であるが、ハワイにも、「勝った組」、「必勝組」、あるいは「布哇大勝利同志会」などと称される人々が各島にいた。日本の敗戦を信じないのである。もっとも、時間の流れと共にこれらの人々の主張にも変化が見られ、当初は、文字通り、日本の勝利を唱える活動であったが、やがて戦後の日本の経済的繁栄をもって勝利の証としたり、精神的勝利を説くようなものもあらわれた。しだいに質的変化が生じたのである。ハワイ島のヒロでは、一九七〇年代後半まで、「必勝会」なるものがあったそうであるから、その根強さには驚かされる。

 ブラジルに比べれば、日本の事情に関する直接的情報がずっと豊かなハワイにあって、文字通りの戦争勝利を唱える勢力は急速に衰えるが、終戦直後は、日本が負けたとの報道を信じない日系人の間で、さまざまな憶説が島を飛びかった。

 ユキコ・キムラは、終戦直後、日系人の間で流れた噂について扱った論文を、Social Process in Hawaiiという雑誌(一九四七年)の中に発表している。この中には、今日からすると滑稽とも思われるが、しかし、当時の日系人にとっては、切実な願いのこめられた噂が紹介されている。そのいくつかを、紹介してみよう。

 「ハワイはもう日本の一部だから、日本領事館なんかもう必要でない、などと言っている人々がいる。」

 「トルーマン大統領が、アメリカの無差別爆撃によって生じた損害について天皇に謝罪するために、日本へ向かうのを見た人がいる。」

 「最近聞いたうわさでは、山下元帥はフィリピンに御存命である。日本に行こうとするアメリカ軍は、まず元帥の許可を得なければならない。だから、アメリカ軍はフィリピン経由で行かなければならなかったのだ。同志会会員は、「山下」のサインがある大きなスタンプが押された紙を確かに配布しており、それが自分たちの言っていることの証拠だと話している。」

 「高松宮殿下がハワイ訪問をするという噂が広まって、皆それを信じた。近所のほとんどの家は、殿下の歓迎パーティーのために最低十ドルを献金した。同志会会員がそのキャンペーンの主催者だった。」

 キムラが挙げたものより、もっと凝った噂があったようである。日本海軍がフィリピン海軍に変装して、ハワイにやってきた。これには深い訳があってそれは秘密であるなどと、今日からすると、なぜそのようなストーリーをしたてなければならなかったのか、と考え込まざるを得ないようなものまである。

 こうした「勝った組」は、けっしてごく一部の日系人だけが抱いた幻想であったのではなく、一時は、かなりの勢力をもったようである。先程紹介した『移民の経験』の中にも、そのことが記されている。

大多数が隣家の顔馴染で話題は終戦と勝敗、話は仲々どうして日本勝利党が有勢だ。現今ホノルル日本人社会では勝敗論で不仲に成ったと云ふ人も多い。此のお目出度い席へ異論故出席しないとまでがん張ってる者さえ居る始末だ。うかつに口も開けられないので僕は笑って聞いていた。疑問として居る方が、二三年も経てば判るだろうしと云ふ。日露戦後ロシヤ国民の多数は三年後頃やっと敗戦を知ったと聞くと。米国の敗戦も其の位い経たねば判るまいと云ふ方も居る。だが、三十五年前のロシヤの田舎人民と、太平洋の真唯中に戦争を毎日感じて住んで居た。現代日本人と同程度視して良いかしらと僕は一口云って置いた。此んな事を此処へ書くと笑ふて読むだろうが、現今は此れが偽らざる日本人社会相だから仕方はない。

 これは、一九四六年一月二八日の日記である。終戦から、五ヶ月経ってもこうした状況だったのである。

 勝った組のルーツの一つは、戦時中に求められよう。すなわち、収容所にいれられた日系人、とくに一世や帰米二世の一部は、ラジオの短波放送で大本営発表などを聞いて、日本の勝利を確信していた。それは、ときとして悲しいばかりの思いこみに基づいていた。小平尚道著『アメリカ強制収容所』は、こんな体験を載せている。アイダホ州のミネドカ収容所にいたときの「勝った組」の話である。

 ある朝、勝った組の指導者である人物が、デザートのオレンジを食べながら、「あっ!このオレンジはフロリダからきたのだ」と叫び、続いてこのように説明した。「カリフォルニアはもう日本軍に占領されてしまったので、カリフォルニアから来なくなったのです。日本軍がメキシコとカナダに上陸し、カリフォルニアをはさみ打ちにして取ったのです。」同席の人々たちさえ、吹き出したくなるような説明であったが、当人はしごく真面目であり、笑うとなぐられそうな雰囲気であったという。

 こうした、勝った組の行為をあれこれ批判するのはたやすいが、そうした心持ちを支える、彼らの深層心理を理解するのは容易なことではなかろう。

 西山茂と藤井健志は、この「勝った組」と天照皇大神宮教の教祖北村さよの主張との関わりについて、興味深い説明を行なっている。(前掲論文)北村さよは、早くから、太平洋戦争のことを「蛆のけんか」と解釈し、本当の戦争はこれからであると主張していた。つまり、神の国を建設するための精神的戦いが始まるのである。日本はその精神的戦争に先頭に立って戦う義務があった。こうした解釈は、戦争終了後、数年たち、必勝会の主張を収める時期に来ていた人々にとっては、またとない考えであったというのである。

 確かにこうした状況はあったかもしれないと推測されるのである。文字通り戦争に勝ったという信念は通用しにくくなっている。しかし、日本の敗戦をそのまま肯定したくはない。そうした人々にとって、さよの解釈は、一つの救いになったと思われる。「日本の勝利」を「日本の使命」へと転化し、日本へのアイデンティティという力は、持続させたまま、ベクトルの方向だけを、時間的に過去から未来へと転換させる効果をもったと、解釈できよう。

 神職たちは、しかし、勝った組へのかかわりを一様に否定する。神社が、そうした人々の結集の一つのシンボルに用いられたことは認めるが、神職が勝った組の運動を支援したことはないと言う。おそらくこれは真実であろう。ただでさえ、FBIからにらまれていた神社が、戦争が終了したとはいえ、そうした活動に関与したなら、神社神道の復興は道が遠くなるばかりであったと考えられるからである。

     神社神道の再興

 終戦後、十年たった一九五五年になって、アメリカ司法省は、「ハワイ神社神道は反米的ではない」という見解を出した。司法当局の提出した覚え書は九項目からなっていたが、その最初の項には次のようにあった。

 「神道は国家神道と宗教的神道、すなわち国家神道的神社と宗教的神道神社とに分けられる。前者は国体を目指しているが、後者は宗教そのものだけが目的である。」

 簡単な表現であるが、神職たちにとっては、これはありがたいお墨付きであった。ハワイの神社神道は、国家神道とは関わりのない、宗教的神道施設と認められたわけである。「神社にお参りすると、柱の影からFBIが見張っているぞ」といった類の噂に悩まされてきた神社にとって、大手を振っての活動が可能になったことを意味する。

 祭そのものは、比較的早くから再開されていた。たとえば、出雲大社の宮王宮司は、一九四七年夏に、宗教家としての免許を衛生局からもらった際、「神道が害毒であるという書類はない。免許をとりあげることはしないので、どんどん布教しなさい」と言われ、その秋にはこじんまりと大祭をやっている。ただ、宗教活動が一応可能になったということと、一般の人々が、ためらいなく神社に足を向けるようになることには、だいぶ隔たりがあった。この溝が埋まるのに、十年近くかかったのである。

 神社への参拝を妨げる心理的要因がすっかりなくなったことで、一番喜んだのは一世である。初詣がにぎわいを見せ、大祭にも多くの参列者があった。しかし、一見はなやかに感じられた神社の再興風景であったが、その蔭では、静かに世代交代の動きが進行しつつあった。

 だが、収容所から戻った神職たちは戦前の状態に「復旧」させるのに懸命で、そのことに注意を払う余裕はなかったようである。出雲大社の場合、一九四四年に、教団が解散し、土地と建物はホノルル市郡政府に寄付したことになっていた。同じホノルルにある大神宮は、宮司夫人が残っていたので、教団を解散しなかった。金刀比羅神社の場合は、崇敬者たちが教団の存続に奔走した。だが、出雲大社の場合は、宮王夫妻ともインタニーとなり、解散を余儀なくされる状況に追い込まれたのである。

 戦後はまず、この状態を何とかすることから始めねばならなかった。そこで、一九五三年に、訴訟を起こした。市郡政府に土地と建物の返却を求めたのである。はじめ、状況は必ずしも有利ではなかった。一審では勝訴したが、二審では敗訴となった。そして大審院にまで持ち込まれた。ところが、ここで戦前の書類をいろいろ整理するうち、教団宛の未払い分の請求書を一枚見つけだした。この一枚の請求書をたてに、支払いが完了しないままでの、戦時中の教団解散は無効であった、という主張を申し述べた。長い法廷闘争ののち、裁判は劇的な勝訴となった。こうして一九六二年、出雲大社教団はふたたび正式に存続を認められたのである。

 教団の存続が法的に認められ、祭も賑かに行なわれるようになったが、実質的な崇敬者の減少はどうしようもなかった。戦争が始まる直前には、講社員一、四〇〇名、神道婦人会メンバー六五〇名を抱えた出雲大社教団であったが、この規模を再現することは、望むべくもなかった。

 ホノルルの出雲大社は、その活動を再開できた。しかし、他の島にあった同教団の布教所は、ふたたび社前に人を集めることはなかった。また、カワイ島のラワイ大神宮、マウイ島のラハイナ大神宮など、いくつかの神社が、復興の道をまったく閉ざされてしまった。戦時中、一部の神社は、日系人の手で破壊されたり、売却されたりした。戦後、津波に襲われ、社が流失した場合もあった。このように、社殿という「物」がなくなったことも、その一因である。また、戦時中、収容所にいた神職で、交換船で日本に帰り、ハワイに戻らなかった人や、収容所から戻ってのち、神職を辞めた人もいた。「人」が失われたというのも、復興がなされなかった、より大きな理由である。

 戦争の衝撃をもっとも手ひどく受けた宗教が、神社神道であった。

     忘れ去られた神社

 最近では、神社の月次祭に出てくるのは、ごくわずかの一世、それとたいていは、五〇代、六〇代の二世である。若者が月次祭にあまり出席しないのは、ハワイに限らない。日本でもそう若者の姿が目立つわけではない。ただ、若者の姿が見えないのは、単に忙しいとか、宗教にあまり関心がないとかいう理由からだけなのか、その辺を確かめてみる必要がありそうに思えた。

 そこで、一九七九年に、ハワイの日系人大学生と高校生に質問紙調査を行なったおりに、彼らの神社に対する知識、関心の度合いを調べてみた。ハワイ大学の場合は、ちょうどサマー・セッション(夏学期)の時期であったので、六人の教授に依頼して、それぞれの講義の最後の十五分ほどを拝借し、日系人の学生のみに質問紙を配り、回答してもらった。また、高校生に対するものは、われわれの調査の現地協力者の一人になってもらったディーバー神父に依頼して、三つの私立高校を対象に、質問紙の配布、回収を行なってもらった。有効回答数は、ハワイ大学が一一二名、高校生が一六八名であった。

 この質問紙調査では、主として、@初詣やお盆などの宗教儀礼への参加の度合い、A家族の宗教所属、Bハワイで活動している日本の宗教についての知識の度合い、の三点を調べることにしてあった。

 ところが、いざ教室で調査票を配ってみると、学生たちが、次々に思いがけない質問を発してきた。

 「ハツモウデというのは何のことか。」

 「シントウ・シュライン(神社)とはどういう意味か。」

 これにはいささかあわてた。日系人も三世となると、日本語がしゃべれず、日本文化についての知識をわずかしかもたない者が増えているとは、調査の事前にしばしばきかされたことであった。だが、実際にこうして質問項目に含まれている神道に関係する基本的用語も理解不能といった形で、これが具体的につきつけられると、自分がこのことを頭でのみ理解していたのだということが反省させられた。

 そんなわけで、質問項目に説明を加えながらのアンケート調査となったのであるが、結果を見ると、ときどきにでも初詣に行くという者は、二割にも満たない。また、ホノルルにある神社の名前を知っているだけ列挙してくれという問いに対し、正確な名称を一つでも挙げられたのは、わずか三名であった。たいていの回答はD.K.(知らない)と返ってきた。たまに、固有名詞が書いてあるので、読んでみると、「ホンパホンガンジ」であったりする。神社と仏教教団との区別も定かではないのである。もっともこれは日本の学生においてもよくあることだから、そうびっくりすることでもないのかもしれない。ともかく、このような実情であるから、そのあとに設けた、「ハワイにおける神社の社会的機能は何であると考えますか」という問いは、まったくもって虚しいものであった。

 そこで、引き続き行なった高校生に対する調査では、少し質問形式を変えることにした。ハワイで布教活動を行なっている日本宗教のうち、十八教団をリスト・アップして、それらについての知識の度合いを調べる形にした。回答には、@その教団について何か知っている、A名前だけは知っている、B何も知らない、の三つの選択肢を用意した。神社では、出雲大社、金刀比羅神社、大神宮、の三社を含めておいた。

 予想通り、神社の知名度は、他の日本産の宗教に比べてだいぶ低かった。新宗教と比べても見劣りがする。出雲大社と金刀比羅神社は二%以下であった。ただ奇妙なことに、大神宮は二割ちょっとの生徒が少なくとも名前は知っていると答えた。なぜ、大神宮だけが飛び抜けたのか、その理由は分からなかった。立地上、とくに目立った場所にあるとか、建物が際だって立派であるとか、それらしき理由も思いつかない。何か特別の条件が働いたのかもしれない。参考までに、そのときの結果を表1に示しておく。

 若者の間では、派和の神社はその存在さえ、ほとんど知られていない。あるいは神社という概念さえ知られていないという方が適切かもしれない。これは戦時中、および終戦後しばらくの間、神社信仰が世代から世代へと継承されなかったことを物語っている。戦時中は、仏教教団もほとんど活動できなかった。その点はそれほど差がないのに、現時点で、若者の認識にこれほどの差を生じさせたのは、どういうわけであろうか。神職だけの問題ではない。各家庭においても、親から子へ、世代から世代への神道的習俗の伝達がうまく行なわれなかったことを意味している。

 さきの調査の結果を見ても、初詣に行くという習慣が、すでに一世から二世への段階で、かなり弱まっていることが分かる。回答者たちの祖父母の世代では、初詣に行く人は、行かない人よりずっと多いが、回答者たちの両親の世代となると、行かない人の方が多くなっている。回答者は大半が三世であるので、つまりは、一世と二世の間でだいぶ変化があったということになる。

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