つき合い所属

 三世、四世の間では、神道は遠い存在であることが分かる。では、二世にとって、これが一つの心の支えになるような対象であるかというと、これも疑問符がつく。自分の所属する宗教という意識はおそらく極めて薄いであろう。

 日本でも神社の氏子が同時にお寺の檀家ということは珍しくない。ハワイでも似たような状況にあるといえるが、重複所属はもっと極端になる。複数の神社の崇敬者で、複数の仏教教会のメンバーで、さらに新宗教にも関係しているという人にも、よく出会う。神社の崇敬者は、たいていがそうした人である。

 二世のQ氏の例を紹介する。Q氏は小柄な人であるが、高見山が負けると元気がないというほどの高見山の大ファンであった。調査当時は、高見山ファンクラブ会長、ハワイ相撲協会副会長の肩書などをもっていた。彼に面談することになったのは、出雲大社教団の副理事長ということで、宮王宮司から紹介されたからである。彼の自宅を訪れてみると、さすがに神棚はちゃんとあった。しかし、よく話を聞くと、Q氏は金刀比羅神社の副理事長でもあり、本派本願寺の理事でもあり、さらに天台宗のメンバーでもあるという。単に複数の宗教教団に所属しているというだけでなく、さらにそれぞれの教団において重要な役職に就いているという例は、ごく一般的であるようだ。教団の重要な地位を兼任するということは、信仰の問題として考えるよりも、日系人社会内での一種のステータス・シンボルの意味が強いと理解した方が良さそうである。

 似たようなことは、何度も経験した。出雲大社の講社祭で、なかなかしぶいのどを披露してくれた、一人の信者がいたが、彼とは、その後、金刀比羅神社の講社祭でも、大神宮の講社祭でも出会った。「日布時事」の記事をめくっていたら、彼は、ずいぶん前から各神社の講社祭に、宴会係りなどの役で参加していることが分かった。彼は、マッサージ業も営んでいたので、神社の会合への出席は、人々への顔つなぎの意味も大きかったのではないかと思われた。

 だから、神社信仰ゆえの所属は、今はほとんどないとみていいだろう。神主たちもそれを認めている。神道が信仰の中核にあるという人は、信者の中にもほとんどいそうにない。唯一それらしきものとして、「神道文化宣揚会」なるグループがある。これは、一九六七年に発会式をあげた団体で、発足当時、三〇人ほどが集まったという。しかし、現在活動しているのは、十名足らずである。神道を盛んにするための試みの一つであったと聞くと、今は各神社の祭のときに宣揚会のメンバーが神楽を舞うだけである。この組織も、実は中心的メンバーはもと神職の一家であり、純粋に崇敬者のみの団体ではない。神道を支える基盤は希薄なのである。

     初詣と「ボン・ダンス」

 七月、八月は、ハワイの仏教各教会の境内は、連日「ボン・ダンス」でにぎわう。ボン・ダンスとはつまり、盆踊りのことである。日本では、盆踊りはとくに仏教寺院との関係を意識されないが、アメリカでは、盆踊りは、お盆の先祖供養行事の一環として行なわれている。各宗派でのボン・ダンスが重ならないように、時期を少しずつずらしてやるから、夏の間はほとんど毎日のように、どこかでボン・ダンスが行なわれているということになる。

 ボン・ダンスには、若者もやってくる。揃いのハッピ姿が登場することもある。白人や黒人も踊りの輪に加わってくる。やぐらの上では、威勢のいい太鼓が鳴り響き、岩国音頭といった、日本の民謡がリズムに流れる。ゆっくりしたリズムのときは、老人が輪に繰り出し、軽快なテンポのときは若者が興に乗ってくるという光景も観察できる。日系人社会というのは、こうした雰囲気かと思わせるような場面が、そこに展開する。

 日系人移民が持ち込んだ習俗という意味では、初詣と盆踊りは同じような性質のものである。しかし、盆踊りは、仏教教会の活動の一部としてかなり多くの若者が参加するのは、かたや初詣は、その言葉さえ死語に近くなっているという、この現実はどう考えたらいいのだろう。これは、観察の結果だけで言っているのではない。質問紙調査の結果を見ても、初詣に行く人が、世代が若くなるにつれ、確実に減ってきているのに対し、盆踊りの場合、ほとんど変化がないのである。

 若い世代への宗教的習俗の伝達がうまくなされていない、あるいは、宗教所属がつき合い上のことであることが多い、というのは、仏教教団においても、神道教団においても、共通して抱える問題のはずである。にもかかわらず、こうした差が生じるのは、まずもって、組織的布教態勢がいくらかでも整っているかどうかの違いであろう。だが、これと共に、信仰形態の違いということも大きいのではなかろうか。仏教教団は、祖先祭祀に関与している。祖先とのつながりを大事にするという感覚は、アメリカで生活を営むようになっても、そう簡単に消滅あるいは希薄化しないようである。祖先祭祀の原理自体が、根底からつき崩されつつあるという印象はない。

 これに対して、神道の場合、地縁的な関係に依存した。かなり漠然とした習俗に基づいて信仰されているのが普通である。一世や帰米二世と違って、アメリカ生まれでアメリカ育ちの二世、あるいは三世は、鎮守の森とか、小高い山の上にある社といった景観になじみがないのはもちろんのこと、鳥居をくぐり、参道を歩いていけば社殿がある、という情景を、自然に記憶の中に蓄えておくということもない。町や村のどこかに神社があるのを当然と考える感覚を喪失している。

 この当然の光景に見慣れているはずの日本人は、だからといって、神道の教えに共鳴したり、神主の人格に惹かれて神社に参拝するわけではない。習俗として、つまり年中行事や、通過儀礼、すなわち七五三、成人式といった、人生の節目に行なわれる儀礼、の一つとして、受け入れているのである。場面がハワイとなり、この自然に伝達されていく雰囲気が断ち切られたとき、神主のとまどいは大きくならざるを得ない。

     適応の試み

 氏子が全般的に高齢化し、若い日系人がほとんど神社に来ないし、関心も示さないとなると、神主の危機意識も高まらざるを得ない。戦前の活況が、戦争によって一挙に失われたのは、神主の布教方法のせいではないから、運命のようなものとして納得できよう。しかし、神道が自由に活動できるようになってから、かえって衰微がはっきりしてきたというのは、いささか厳しい現実である。一九五五年当時は、かなり盛んであった神社の祭礼は、しだいにそのにぎにぎしさを失っていく。日系人が日本文化にうとくなるときが、神道の衰退のときでもあると考えねばならないのか、試練のときが巡ってきたわけである。

 神社祭祀、あるいは崇敬者による講社という形での神道が、非日系人への布教をも含んだ海外布教にはなりえないことは、最初から明らかである。神職は、建前は別として、本気で非日系人への神道の布教を試みたことはない。あくまで、日系人社会が活動の土俵であった。そして、人々が移住前の生活様式を持続し、日本人的感性を保つことに貢献してきたのである。これは、仏教教団にもある程度共通することである。しかし、神道の方が、ずっと徹底している。

 仏教の場合、すでに戦前に白人の開教使が本派本願寺に生まれている。また、アメリカ本土においては、一九六〇年以降、かなりの禅ブームで、各地に「ゼン・センター」ができている。ゼン・センターで修行するアメリカ人は、ほとんどが非日系人である。浄土真宗、浄土宗、日蓮宗、曹洞宗など、アメリカで活動している仏教宗派は、日本に土着化した仏教である。それゆえ、かなり民族宗教の色彩が強くなっている。それでも、これらの宗派の教えの中には、日本にたどりつくまでに、幾多の民族を経由し、鍛えられてきた思想が内蔵されている。日本から、さらに異文化への地へと布教されたときにも、適応可能性を残す、柔軟な部分があるのではないだろうか。

 ともあれ、神社神道は、これまで民族宗教として純粋培養されてきた。そうした神道が、これまでになかった局面に出会ったとき、どういう適応力を見せるのか。戦後のハワイの神主たちの布教方法の中に、その答えの一部がみつかる筈である。とはいえ、すべての神主が、現在の状況を危機的であると真剣に考えているわけではない。これまでのやり方でいっこうに差し支えないという感じの神主もいる。異国にあるということを、あえて意識しないようにする立場もあるのである。また、新しい状況に対応しようとするにしても、何が問題で、それをどう変えればいいと考えているかは、それぞれに違う。現在活動中の神主からいくつかの例を見ることにしよう。

     固定崇敬者への依存

 マウイ島は、ややうつむきかげんの人の胸像を、横から眺めたような形をしている。それでいえば、ちょうど、首根っこに当たるところにワイルクという町がある。この町にあるマウイ神社を調査に行ったときのことである。月次祭が終わり、社殿の隣の建物の中で「直会(なおらい)」が始まった。直会というのは、神道で使う言葉であるが、祭のあとで、神に捧げた供え物のお下がりなどを使って、皆で会食することを言う。信仰のレベルでは、このとき、目には見えないが、そこで神も一緒にこの食事を楽しむとされているのである。宗教的な行事が終わったあとで、皆が材料を持ち寄って作った料理を、一緒に食べるというのは、日系人をメンバーとする教会ではごく普通のことである。たいてい、のり巻き、フリフリチキン(鳥のから揚げ)、刺身、あえものなどが出る。好きなものを選んで、めいめいの皿に盛って食べるのである。だから、ここまでは見慣れた光景であった。ところが、ふと、かたわらに目をやると、一団の老人が花札を始めているではないか。実際に金を賭けているようだ。

 宗教的行事に賭事が付随するのは、カリフォルニアではよく見られた。教会の資金集めのため、公認されているのである。カトリック教会でも、神父が、ディーラーになってのトランプ賭博というのも珍しくないそうである。カリフォルニアの仏教会だと、「ビンゴ」という賭事が盛んである。一枚二五セントないし五〇セントほどで配られるカードを各自が手にする。それぞれには、異なった組み合わせの数字が縦横に五個ずつ、計二五個並んでいる。この数字が、場内で示されていく数字と合うたびに印をつけ、縦、横、斜めのどれか一線にその印が並ぶと、ビンゴ!と叫ぶ。そして、配当金がもらえるという仕組みである。お盆行事よりこちらが楽しみで集まっている人も少なくないようで、一日中、会場にいる人もいる。また、開教使もこれに加わっている。さきほどまで講壇の上から有り難い説教をしていた開教使が、ビンゴ!、ビンゴ!と叫んでいたり、ドネイション(寄付)だから一枚一ドルのくじを買いなさいと、懸命に勧めているのを初めて見たときは、なんとも違和感を覚えたものである。

 もっとも、資金集めにはバザーが代表的で、ハワイではしょっちゅうやっていた。アロハ・シャツなど、店で買えば十ドル以上するものが、多少古いが、一ドル以下で売っているので、われわれ調査団もずいぶんお世話になったものである。

 しかし、マウイ神社のものは、どうやら資金集めのためではなく、老人たちの楽しみのためのようであった。かたわらには、「馬哇神社長寿会」のはり紙がある。彼らが実質的な氏子であり、この神社を支えている人々なのである。

 有根刀良子宮司は、一九一四年生まれの二世で、やはり神職であった夫が、一九七二年に死去したので、後を継いで神職となった。戦前、終戦直後は、生活は厳しく、有根一家は、神社の拝殿で寝泊まりしたこともあった。一九五四年に、一部の崇敬者の協力があって、それまで借地に建てられていた社殿を、現在の場所に移転するが、そのときも、日系人の間からさえ、今さら神社を建ててどうするのだという声が少なくなかったという。そうした体験が背後にあるからなのだろう、彼女は、この神社は自分が守ったという意識がずいぶん強く、また、自分の使命は、昔からの氏子とのきずなを保つことにあると確信している。

 現在でも、彼女は、十一月末にあると、約千体の大麻を各家に配り始める。そして正月が済むと、今度は、一月から五月にかけて、大麻を配った家の約七割ほどの所を訪れ、祭式を行なうという。崇敬者一人一人とのつき合いを大事にしようというやり方である。それでも、神道だけの家というのは、わずか七軒であるというのが、彼女の話であった。

 元旦には、「一月一日」の歌を崇敬者と共に唱和し、万歳三唱する。正月第二土曜日には、「どんどまつり」をやり、竹の先に餅を刺し、これを焼いて食べる。二月の節分のときは、裃姿の年男が豆まきをする。そのための裃も、戦前からのものが約十人分揃っており、ちゃんと手入れが行き届いている。雛祭、端午の節句なども、丁寧にやっていると、いささか誇らしげに語る彼女にとって、おそらく神道の非日系人への布教など、頭にのぼったこともないであろう。古くからの崇敬者とともに、昔からの宗教習俗を守ろうとすることに専念する姿が、ここにはあらわである。

     儀礼への専念

 出雲大社の社殿の片隅には、小さなファイル・ボックスがある。この中には、親子二代にわたって、司式してきた結婚式のカップル名が記されている。初代の宮王勝良は、七九〇〇組を、また宮王重丸は、戦前に一二〇〇組、戦後に四〇〇組余りを司式した。

 日本の出雲大社教は、一八八二年に一派独立した教団である。教派神道の一つということになっているが、実際は、出雲大社の崇敬者がその構成メンバーの大半を占める。出雲大社教の組織者は、千家尊福である。彼は、明治末期に、西園寺内閣のもとで、司法大臣を務めたこともあり、政治家でもある。いわゆる「教祖」とは異なったタイプの人間である。また、出雲大社教の組織も、たとえば金光教や天理教のように、教義が明確で、入信した人の生活や考え方に共通性が多いということもない。

 だから、ハワイでの布教といっても、それほど教義的に体系立ったものを携えていったわけではない。むしろ出雲大社といえば、「縁結びの神」として知られているわけで、そうした面がハワイにおいても強調されたのである。

 結婚式のほかにも、これまでにもいくつかのイベントを企画してきた。戦後、もっとも大きなものは、一九七六年に、アメリカの建国二百年祭と、出雲大社のハワイ鎮座七〇年の祝典とをからめて行なった大祭である。このときは、日本の大相撲協会がハワイ場所を開催したのを機に、社前で、神前奉納相撲を行なった。同年五月二九日付けのハワイタイムスは、これを「前代未聞有史以来の大行事」と形容して前宣伝し、六月九日付けの同紙は、当日の見物人は数千人に上った、と報じている。このときの横綱が輪島であったので、輪島は、ハワイではその後しばらく、高見山ほどではないにしても、かなり人気を博したようである。

 大祭のプログラムを見ると、実際にアメリカ建国に関わりあるようなことは、式典の最後の、「米国建国二〇〇年万歳三唱」だけである。けれども、宮王宮司が、アメリカ建国二百年の祭と、出雲大社のハワイ鎮座七〇年の祭を結びつけたのは、たまたまの思いつきというわけではない。出雲大社はハワイの総氏神であるという意識が背後にあり、少なくとも宮司の意図では、ハワイの氏子、つまりはハワイの全住民の発展を祈り、日米の親善が深まるような企画を立てるのは、当然の義務なわけである。

 今日、宮王宮司は、ハワイではかなりの著名人である。多くの建造物の地鎮祭とか、お祓いに出掛ける。面白いのは、これをハワイ人のキリスト教の牧師とペアになってやることである。キリスト教式の祈りと神道式の祈りとで万全というわけである。調査中にも、日系新聞に、この種のお祓いをやる彼の名前をよく見付けることができた。そんなことまで、新聞に載るのかと疑問に思う人がいるかもしれないが、今日の日系新聞の記事の中では、宗教関係の行事が占める比重はかなりのものである。それは、宗教教団が日系人社会で果たしている比重の大きさということ、また、日系新聞を読む人と、日本産の宗教に所属する人との重なりの多さといったことを示している。

 こうしたお祓いが盛んであることについて、宮王宮司は、ハワイという土地がそもそも、こうした呪術的な風習の多くあった所であると説明する。そういえば、ハワイはポリネシアに属し、ポリネシアは、「タブー」という概念が重要な役割を果たす地域である。宮王宮司のような活動がまだ多くの需要があることに関しては、日系人が伝来の宗教習俗を持ち込んだということの他に、ハワイのこうした土地柄を考える必要もあろう。

     「教え」へのこだわり

 大神宮の川崎宮司の崇敬者への接し方を観察していると、ときとして、一種のカウンセリングに近いものになることがある。若い日系人に話をするときはどのような方針でやるのかと尋ねたところ、いろんな方法で、とにかく具体的に分からせるようにするという答えが返ってきた。その際によく用いられる小道具の説明もしてくれた。

 たとえば、重箱ほどの大きさの二つの箱が登場することがある。一つには、立方体が四つ収まっている。もう一つには、球が四つはいっている。玉突きに使うに手ごろな大きさである。それぞれは、エゴイストの集団と、調和をもった人々の集団を比喩している。宮司の説明はこうである。

 立法体は、角があるので、この狭い箱の中では互いに身動きがならない。それに対し、球は同じように互いにぴったりとくっついていても、それぞれが自由に回転できる。世の中が円滑にいくためには、各人がこの球のような心をもっていなければならない。

 また、こんな問答を仕掛けることもある。

 「あなたの体のうち、一番上にあるのは何ですか。」

 質問された方は、あまりの簡単な問いにとまどいながらも、「頭です」とか、「髪の毛です」とか答える。すると宮司はさらに問いを続ける。

 「ではそれはどこにあるか、自分の手で指してみなさい。」

 言われた本人が頭を指さすと、「今、私の目には、指が一番上にあるように見えるんだがね」と宮司から追い打ちがかかる。ちょっとした動揺が相手に生じる。そして、この何気ない気づかせが話の導入部となるのである。

 神道には寛容の心が必要であるとか、あるいは物事を自由に眺める目が必要であるとかの抽象的な話に終始しても、少し固苦しくなる。小道具や、トリックじみた会話をきっかけとする方が、若者は心を開きやすくなるのであろう。

 これは一つの例であって、川崎宮司は、神道において、教化のもつ意味はかなり重要であると考えている。単に祭式をやっているだけでは駄目で、神道の精神を論理で若い人々にも説明できなければいけないというのが言い分である。また、神の概念についても、これを普遍化しようという意図が見受けられる。大神宮の趣旨を書いた、「大神宮の栞」には、次のような記述がある。

天祖天照国照皇大神様は、やゝもすれば日本人だけの独専神で日本民族だけの御祖神の如く誤解されて居る向きもありますが、皇大神様は、各家々や、皇室や、日本民族だけの神であってはならないのでありまして、古典を謙虚な、素直な心で見ると全宇宙本源神であらせられるのであります。

 川崎宮司は、若い頃、一種の宗教的回心を経験している。国学院大学に在籍中のとき、神道学者の田中義能から、「神社は日本にのみあるもの」という教えを受けた。また、折口信夫からは、「国体神道では、ハワイはだめだ」と諭された。いささか葛藤に悩みながら、その後、坐禅、キリスト教なども遍歴し、何かをつかみたいと考えていた。

 あるとき、生まれた子どもを前にして、助産婦と会話を交わす中に、突然、「皆等しい心で生まれてくるのだ」ということに気がつき、同時に、当時熱心に読んでいた古事記の内容が急に分かった。そして、「世界の人類を救うのは神道しかない」ということを確信するに至ったのである。

 ヤマタノオロチは、悪のシンボルである、といったような、古事記の独特の解釈まで考えついた宮司であるが、教義を論理的に説明する態度を全面に出すことが、必ずしも、ハワイでの布教に際して有利に働くとは限らない。出雲大社、金刀比羅神社、大神宮の三つに顔を出すある二世は、「大神宮は、理屈が多いので、人が行きたがらない」と評していた。教義が理屈と受けとられることもある。そうした人は、神主は教えを説くために存在するのではない、と考えているのである。

     布教する神道教団

 明治初期以来終戦のときまで、日本国内の神社神道は、「神社は宗教にあらず」という宗教政策のもとで、神官が説教を行なったり、葬儀に関わったりすることは禁じられていた。神社は「国家の宗祀」、つまり、国家が主体となって行なう祭祀、であることが、宗教行政上の理念であった。布教を行なおうとすれば、教派神道の支部教会、あるいは神宮奉斎会という社団法人所属の講社などの形をとらざるを得なかった。戦後は、そうした制約はなくなった。公務員的存在であった「神官」は存在しないことになり、宗教家としての神職は、布教活動が自由になった。

 日本におけるこうしたいきさつが、ハワイにおける神職の活動にも、何らかの影響を及ぼしたことが考えられる。神主は、積極的には布教に関わらないという意識が、どこかにあったかもしれない。しかし、川崎宮司は、こうした傾向の中にあっては、やや異色である。彼は、神明教という、高知に本部をもつ教団の支部長も兼ねていた。この教団は、戦前は、「神明教院」という宗教結社であった。そもそもが、布教への意図を強くもっていたと考えられる。

 この二重性が、川崎宮司の活動を、複雑なものにしている。神社であることはまちがいないから、一般の日系人は、そこでは、もっぱら、祭式が行なわれると考える。けれども、宮司の意識としては、教えを伴った神道教団の教師でもある。しかし、これは、日系人が頭に描く、神主の活動内容とは、少しずれている。「こうるさい神主」といった印象を抱かれたりもする。固定観念を打ち破るのは、そう簡単なことではないようだ。


     孤独な闘い

 日本で教化にたずさわる神職は、「言挙げせず」の世界に住むことができる。言葉でもってあれこれ言い争いしないことを美徳とできるのである。これは、日本がほとんと同じような民族から成り、同じ言語体系のもとにあることによって生まれた主張であることは言うまでもない。複数の言語が併存する社会で、「言挙げせず」などと言っていては、話が始まらないであろう。

 ハワイの日系人社会は、相変わらず日系人社会の壁をいくぶん残しながらも、ハワイに住むさまざまな民族の文化をどんどん吸収している。この点では、カリフォルニアよりもずっと民族間の交流は盛んである。混血もどんどん進んでいる。ハワイでは、民族間の融合は、一つの避け難き趨勢であると考える人も少なくない。Jan Ken Po という書を著した、デニス・オガワもその一人である。オガワは、ハワイの日系人は、もはやその民族的アイデンティティにこだわらなくなってきており、それがまた好ましいことであるということを主張している。つまり、複数の文化が複合してできた文化的混成物をアイデンティティとしているということである。

 たとえば、ジョークの中である民族がからかいの対象になったとしても、それはむしろそれぞれの民族性に対する親しみの表現であると解釈している。こんな例を彼は同書の中で挙げている。

中国系と、日系と、ハワイアンの三人の少年が、一緒に遊んでいた。中国系の少年が言った、「大きくなったら宇宙飛行士になって火星へ飛んでいくんだ。」次に日系人の少年が言った。「僕も宇宙飛行士になるけど、水星にいくんだ。」次にハワイアンの少年が言った。「僕も宇宙飛行士になるけど、一番有名な宇宙飛行士になるんだ。太陽に行くぞ。」最初の二人が笑い出した。「なんで笑うんだ」とハワイアンの少年が聞いた。日系人の少年が答えた。「だって、太陽に近づいたら、熱くて焼けちゃうぞ。」ハワイアンの少年が言い返した。「僕を馬鹿だと思ってるのかい。僕は夜に出かけるんだ。」

次の例では、日系人もやゆの対象である。

 中国系と、ポルトガル系と日系人の三人が、一緒に小さな船に乗って海で釣りをしていた。ところが、船が浸水してきて、三人とも溺れてしまった。中国系人は、ポケットにコインをいっぱい詰めていたので、沈んだ。ポルトガル系人は、おしゃべりをやめられなかったので、水をたんと飲んで沈んだ。そして日系人は、何をしていいのか分からなかったので、二人の真似をして沈んだ。

 思わず笑ってしまうが、こうしたやりとりの底にあるのは、あざけりではなく、親しみであるという。オガワの主張を、多少一般化していうと、こういうことになるだろう。すなわち、ハワイに住む各民族の固有の文化様式を相対化し、それぞれの特質を認めた上で、そのどれを優位とするでもない、文化的混成物が成立するのは必然的プロセスであると。

 開教使の中にも、ハワイの仏教はやがて「ハワイ仏教」という形になるべきだということを主張する人もいた。そうでなければ、三世、四世の時代には生き残れないというのである。これが果たして正しい「予言」かどうかは別として、今日のハワイの文化状況に接すると、こうした発言も決して唐突とは思えないのである。

 すでにこうした見通しも出されている一方で、神社神道の神職たちの闘いは、あまりに孤独である。新宗教教団はもちろんのこと、仏教教団の多くも、海外布教に当たっては、組織的な対処がなされている。教典の翻訳とか、英語で布教できる開教使の養成とかは、布教者の個人的な努力では、限界があるからである。戦後、何人かの神職がハワイに来ている。実際布教に従事している人もいる。ただし、それはきわめて個人的つながりで渡米したのである。一貫した布教方針が存在するのではない。それぞれの個性にすべてがゆだねられている。

 ハワイにおける、九〇年近い活動にもかかわらず、神社神道の「異文化体験」は、実は始まったばかりであると言ってよい。

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