V 日系人社会をめぐるジレンマ 金光教の場合

     一人の教師

 サンフランシスコのことを現地の日系人は、今でもしばしば「桑港」と呼ぶ。戦前、アメリカの各都市名を、漢字に直して読んだなごりである。ちなみに、ロサンゼルスは「羅府」で、ニューヨーク派「紐育」、オークランドは「王府」である。サクラメントが「桜府」となると、なかなか乙な命名である。
 東京大学を卒業後、金光教の教師となってまもない福田美亮(よしあき)が、アメリカ布教の決意を胸に抱いて、シアトル経由でこの桑港にたどりついたのは、一九三〇年十一月のことであった。当時、アメリカにおける金光教の布教は始まったばかりで、布教野態勢もまだ整っておらず、ようやく二、三の教会が設立されたばかりであった。福田は、のちにアメリカにおける布教にとって重要な人物となる。興味深いことに、福田は金光教の教師の家に生まれたのでもなく、また、両親が信者であったわけでもない。青年時代に個人的悩みから金光教に触れて、それをきっかけにやがて入信することになったのである。

 彼は、一八九八年、奈良県吉野郡に生まれた。十人の兄弟姉妹のうち五人が早死にする中に、彼自身も中学校を卒業してから肺を患い、闘病生活を送らねばならなくなった。満一八歳のときである。半年ほどツベルクリンの注射療法を受け、医者からは全治の診断を得た。しかしながら、どうも気分がすっきりせず、紀州那智の近くにある温泉で療養をすることになる。そのとき、同宿の一人の元軍人から「死んだ人をでも生かすと云う神様」がいると聞かされ、金光教南牟婁教会を訪ねる。一九歳のときである。初めて金光教の教師と対面したこのときの記憶は強烈だったらしく、福田の自叙伝『我が信心を語る』の中には次のように回想されている。

御結界に御届けすると先生はじっと顔を見られて「あんたはどこが悪いか」と尋ねられた。「私は神経衰弱です」と云った。肺が悪かったと云う事は、なるべく人に云わぬ事にしていたからであった。すると先生は「神経衰弱なら胃も少しは悪いであろう」と云われた。「そうです。少し胃も悪いです」と答えると「胃が悪ければなあ、イロハと云って胃の次にロで肋膜が悪くなる、その次はハで肺が悪くなる。あんたも、肺が悪くならんように、しっかり信心しなさい」と云われたのであった。神徳を以てすべてを看破せられる先生の御言葉に、私は冷汗を催す感じがしたのであった。

 結界とは、金光教の場合、教主や教師が信者や来訪者に対して「取次(とりつぎ)」という宗教的行為をなす場所のことを指す。教祖赤沢文治(一八一四〜八三)の晩年のスタイルにならって、取次者は、ふつう、神前に向かって右側に、横向きにすわる。ちょうど、右の耳で神の声を聞き、左の耳で依頼者の言葉を聞くかのようである。半ば疑いの心をもって訪れた福田に対して、目前の取次者は、それを見透かすかのような言葉をたたみかけたのであった。

 金光教との出会いはまったく偶然であった。悩みは深刻であったが、それを解決するものが金光教でなければならないということはなかった。事実、彼は闘病時代に一度キリスト教会に足を向けたことがある。ところが、「教会は病気を治すところではない。青い顔をして教会にふらふらと入って来ても病気は治らぬ」という牧師の言葉に、これは自分に対する皮肉にちがいあるまいと感じて、その場をいたたまれず立ち去ったのである。彼自身が述懐するように、「若しもその時やさしく慰められたならば、或は今頃キリスト教の牧師になっていたかも知れない」というのが、当時の彼のいつわらざる心理状態であったのである。

 ともかくも、必死の思いですがった金光教で福田は信心に励んだ。ただし、これは福田の回想によれば、信心の「形の真似」であった。とうてい治る見込みのない病人が、信仰の力によって奇跡的に治った話をたびたび聞かされて、そうした人たちの行ないを真似したのである。朝は四時に起き「御祈念」をした。神に向かって、あるいは感謝を込め、あるいは指示を仰ぎ、あるいは願いを込めて、一心に祈るのである。御祈念の前後には教会の掃除をした。食事は感謝をこめて食べた。決して食べ残しはしなかった。七里離れた教会へ自転車で参拝した。こうして一ヶ月後、健康はすっかり回復した。

 喉もと過ぎれば熱さ忘れる、ということになるのであろうか、健康になった福田はしばらく教会から遠ざかる。ところが、六年後の一九二四年、東京帝国大学社会学科に入学した彼は、肋膜炎を起こし、体がみるみる衰弱していった。その頃、彼はマルクスの資本論を読み、エンゲルスの共産党宣言を読み、無神論的境地の極みにあった。そこから彼を再び宗教の世界へ引き戻したのは母の力であった。母の願いによって、彼は再び信仰に心を向けるようになった。そしてふたたび健康を取り戻した。

 大学卒業を翌年に控えた一九二六年の十二月、卒業後の針路についてさんざん悩んだ福田は、ある決意をもって小石川教会の月次祭に臨んだ。その夜の教師の説教のうち一言でも心を打つものがあったら、それを「御神意」として受けとらせてもらおうと考えたのである。

 「金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる。神を杖につけば楽ぢゃ」というのが、その夜引用された御神訓であった。迷っていた心には、強い響きをもつ言葉であった。彼は金光教教師の道を選んだ。

 こうした紆余曲折を経て、教師となったのであるが、教師としての活動の場を北米に求めるようになった直接的きっかけは、すでに北米で布教を行なっていたロサンゼルス教会の香取敏次やシアトル教会の秀島力松に出会ったことである。岡山にある金光教本部で修行中に、二人からアメリカで布教しないかと勧められたのである。また、ほどなくその勧めに従ったのは、国内よりも、海外の方がやりがいがあると感じたからなのかもしれない。

 福田が、自らの体験に基づき入信した信者であったということは、心にとめておかなければならない。新宗教の発展期の信者は、直接教祖に教えを得て、深くその教えを胸に刻み、信仰体験を経て信者になった人が多い。けれども、新宗教もだんだん規模が大きくなり、草創期の頃からだいぶ時間がたつと、しだいに既成化し、信者も、親が信者であったから自然にそうなったという人が増えてくる。

 そのこと自体は、日本人が宗教所属を決める上での、家族の影響の大きさということを考えれば、ごく当たり前のことである。だが、こうした信者の場合、その人にとって、疑いようのないような強烈な宗教体験に乏しい場合が多い。形式的所属であることも少なくない。教師になる者にも同じようなことが言える。親が教師であったから、教師になったというような人の場合、たとえば、信仰に九〇パーセントの確信をもっていても、どこかに疑いを払拭しきれないといった感じをもつ人も少なくない。それは止むを得ないこととも言える。宗教体験とは、求めさえすればやがては得られるといった類のものではないようだからである。福田の場合は、ぎりぎりのところで、二度までも神の力を思い知らされているので、そうした疑いは、渡米時にはぬぐいさられていたようである。新天地での布教には、確信があったに違いない。

 こうして福田は北米海岸での布教に着手する。サンフランシスコで待ち受ける信者に迎えられた彼は、ほどなく病気治療などを手段に、着実にあらたな信者を獲得していくのであるが、これについて触れる前に、当時、北米における金光教の布教がどのような段階にあったかを述べておきたい。

     布教の草創期

 北米およびハワイにおける布教に、金光教が組織的に乗り出すに当たっては、一九二六年に当時の金光教青年会幹事長、片島幸吉が、両地を視察したのが一つの契機になっている。このときに、シアトル、タコマ、ロザンゼルス、ホノルルに「真道(まみち)会」と称される信者の団体が結成された。もちろん、信者がまったくいない場所への視察が行なわれたのではない。北米においてもそれ以前に、日本にいるときから信者であった人々による自主的な集会が行なわれていた。すでに一九一〇年代半ばには、ワシントン州シアトル市に、二つの別々の人物によって組織された信徒集会所が開かれていたという。(松井文雄「北米布教の回顧とその展望(上)」『読信』第一六号)

 片島のこのときの視察の様子は、のちに『いのりの旅』という本にまとめられている。現地の日系人たちが彼を迎えたときのやりとりは、彼らが金光教を当時どう認識していたかよりも、その頃、一般に日本からの宗教家を、どのような心持ちで受け入れていたかを示しているようで、なかなか面白い。

 というのも、その頃は、かなり頻繁に日本から宗教家と称する人物がやってくるので、日系人はその対処に頭を悩ますことが多かったようなのである。宗教家の説教・講話は、一般に劣悪な労働条件の下で厳しい生活を送っていた日系人にとって、一種のくつろぎ、あるいは励みの場を提供することもあったであろう。しかし、反面、その度ごとに寄付せねばならぬとなれば、これは大きな負担である。このことを示すものとして、『いのりの旅』の中に次のようなくだりがある。

スルトえらいもので、寄付金を平にお断りいたしますの一条に至ると、聞いていられた某氏の顔面神経がピリッと変りました、そしてやがて云はれるのに、「イヤ実はその点を心配していましたので、これまで宗教といへば寄付金ですから、真底いふと宗教にはコリコリしていたのですが、あなたの主旨はよく解りました、さういふことなら出来るだけ尽力いたしませう」といふことになって、お世話にちからがいつて四方八方へ走せ廻って下さることになります。

 さて、片島は金光教の布教もさることながら、現地の日系人がどのような状況にあるか、その生活ぶりをも知ろうとした。ホテルに泊まれば、日系人経営のホテルと白人経営のホテルで、どのような違いがあるかを見ようとした。どう見ても、日系人経営のものはおしなべて汚く見えた。生活の仕方を比べても、白人は何となく悠々としているのに、日系人はせかせかしている。そう映った。けれども、それはわずか三〇年ほど前に、裸一貫でアメリカにやってきた人々であることを思うなら、むしろこれからに期待できる。そうも思い直している。

 他の宗教がどのような状況にあるかについてもかなり勢力的に見学している。キリスト教会を覗いて、一同がいかにも楽しそうに讃美歌を歌っているのに感銘したといった記述もある。しかし、特定の宗教に圧倒されたという体験はもたなかったようであるし、また、カルチャー・ショック的なものも、少なくとも彼の日記からは読みとれない。

 こうした、観察の一方で、片島は各地において、多くの講演を行なったのであるが、その結果にはかなり自信をもったようである。講演によって、あらたに四〇〜五〇名の入信者を得たと書いている。また、日系人の大半は、キリスト教あるいは仏教のいずれかに属しているけれども、習慣的に所属している信者が多く、真に神仏を信仰する者は少ないとも述べている。宗教市場は、まだまだ開拓の余地があると感じたに違いない。

 『いのりの旅』の巻末には、「渡米視察報告書」というものがついていて、視察時の北米、ハワイにおける金光教信者の分布状況が分かる。それによると、日本にいるときから信者であった者は、アメリカ合衆国本土で五〇名足らずである。もっとも多いのが、ロサンゼルスで一五名、次いでシアトルに一〇名、以下、タコマ、サンフランシスコ、フレスノなどに数名ずつといった状況である。また、ハワイは一八名で、ほとんどはホノルル及びその近辺に集中している。

 三ヶ月余りにわたる片島の視察を契機に、北米にも三つの真道会が結成されたことは、教会設立の水路作りの役を果たした。ほどなく西海岸の三つの州、すなわち、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州に八つの教会が次々に建てられるのである。最初の教会は一九二八年に、ワシントン州のシアトルに設立された。その頃はシアトルには多くの日系人がいたのである。翌年には、やはりワシントン州のタコマに、さらに、その翌年にはロサンゼルスに教会ができた。こうしてみても、まさに布教の草創期に福田美亮はやってきたということが分かる。

     布教の手がかり

 一九三〇年代といえば、日本人の移民はすでに全面禁止となっており、またカリフォルニアでの日系人への風当たりはだいぶきつくなってくる頃である。その反動ということになるかもしれないが、仏教会を始めとして、日本の宗教が、日系人としてのアイデンティティ確認の場、あるいはコミュニティ・センターとして機能する度合いは、しだいに強くなっていった。つまり、日系人は教会に集まってきては、日本に関する知識を得、互いの情報を交換し、交わりを深めたのである。

 この頃はすでに多くの仏教会が存在していた。浄土真宗本願寺派で刊行した『海外開教要覧』によれば、同派に属するものだけで、一九三〇年までに北米に三七の仏教会が設立されている。けれども、片島幸吉も感じたように、多くの場合、教会への所属は、信仰を求めてというものではなかった。しかし、だからと言って、葬式や先祖供養のときだけやっかいになるという、日本の多くで見られるような関係であったのでもない。一つの精神的より所が求められていたのである。信仰を同じくするがゆえの結束ではなく、コミュニティの中にいることを確認することによって得られる精神的安定を求めて、人々は教会に集まったのである。

 すでに仏教会がそのような機能を果たしているとすれば、新たに布教を始める教団が同じようなことだけしていては、なかなか太刀打ちできないであろう。福田はどのような手段を武器にしたのであろうか。

 サンフランシスコに到着したその夜、福田は早くも治病行為を行なっている。十年あまりも蓄膿症に悩んできたという一婦人に対して、「此の道は病気治しの道ではない。心治しの道である。然し、心が治れば病気もよくなる。」と説ききかせながら、彼女の鼻に御神米(ごしんまい)を貼ってやったのである。福田は、渡米にあたって、教えを受けた東京教会のある教師から、御神米を二千体渡されていた。その教師は、「此の御神米が無くなるまでには道は開ける」と言って励ましたのである。その御神米の初めての使用であった。

 蓄膿症の婦人は、これまでの長年の悩みが嘘のように、たちまち不快感から解放された。びっくりした婦人は、ケガのあとに二ヶ月も膿がたまって困っている自分の娘を連れてきて治病を依頼する。これもほどなく全快する。さらに、婦人の夫も脱腸が治る。こうした「おかげ」が連続したため、この一家は以後熱心な信者となる。

 このような布教活動が続けられ、福田は次第に信者を増やしていった。持ってきた御神米二千体は、一年三ヶ月余りで使いきってしまう。布教活動は精力的であったことが察せられる。

 治病行為は、福田の一つの強力な武器であった。これによって直接的「おかげ」を得て入信した人々の中に福田を個人崇拝する者もいた。これは、教祖が周りに崇拝者を集めていく仕方によく似ている。とくに新宗教の草創期には、こうした弟子が生まれることが多い。彼らは教祖がどのように信者に接したか、直接見聞していることが多いので、教えの説き方を自然に会得する場合がある。教祖の行為を真似ながら、信者を新たに獲得していくのである。弟子たちにとって、教祖は模範であるから、話し方、立居振舞、ときには顔つきまでが教祖に似てくるのも不思議ではない。教祖の時代から、だいぶ時を経ても、依然、布教者にとって教祖は模範的な存在である。そこへ一歩でも近づこうとする営みは続く。だが、教祖のもつカリスマ性までを分有している布教者はそう多くない。このカリスマ性までも備えた布教者を、「ミニ教祖」型の布教者と呼びたい。

 福田は、もちろん、教祖の赤沢文治に会ったことはないが、渡米してからの彼を、ミニ教祖型の布教者として規定することはできそうである。彼の周りに急速に信者が集まるのは、彼のカリスマ性を多少なりとも想定しないわけにはいかない。ただ、信者集団の形成が比較的スムースにいった理由を考えるに際しては、もう一つ別の要因を考えねばならない。それは、移民の中にいた以前からの金光教信者の存在と、彼らの果たした役割である。

 福田は、どうも、異国の地での布教ということにあまり神経を使わなかったようである。アメリカの生活様式や思考方法になじみつつある人々に歩調を合わせる、ということをしなかったと思われる。戦後、北米金光教の機関誌『天地の恵み』に連載された、福田の「桑港布教の回顧」(一九五五年)には、その辺の事情を推測させる箇所がある。

 彼は、日系人が学校の先生、あるいは僧侶や牧師を、様づけで呼ぶのは普通で、君づけにしたり、あるいは酔ったときなど呼び捨てにさえすると不満そうに述べている。これは、アメリカが大統領をミスター・ルーズベルトとか、ハロー・フランクリンと呼ぶ自由平等の国であるせいと考えている。こうした状況を「礼儀の乱れ易い植民地気分」と形容している。

 ところが、ここに福岡県出身の一人の女性信者がいた。彼女は、日本にいるときから、甘木教会に所属する熱心な信者であった。教師に対する接し方を心得ていた。福田に対しても「先生」と呼び、やがて周りの信者も福田をそう呼ぶようになった。呼び掛けの言葉のみならず、教師にどう対するかの手本を彼女が示してくれることになった。福田が好ましいと感じるような、教師と信者との関係へと方向づけがなされた。

 これは一つのエピソードに過ぎない。しかし、これが意味していることは重要である。新たな布教師の周りに形成された集団の中核部分に、すでにその宗教の基本的マナーを心得た人間がいて、その布教師の活動をやりやすくしてくれる。これはまったくのゼロから出発するよりは、はるかに楽である。

 福田自身が述懐するところによれば、初期の布教は艱難辛苦の連続であったようだが、結果としての教勢の拡大ということに話を限るなら、むしろ順調に発展したと言える。渡米の翌年の一九三一年三月にはサンフランシスコ教会が設立されている。信者は増加を続け、月次祭には教場にはいりきれず、廊下や食堂あるいは台所にまであふれるほどであったという。その年の十一月に行なわれた布教一年祭には、約四〇〇名が参拝したとある。


     病気治しの説明原理

 宗教の研究者の間で、俗に「貧病争理論」と呼ばれるものがある。すなわち、人々が宗教とくに新宗教に入信する動機としては、貧困、病気、人間関係といった問題を解決しようとするための、いわば現世利益的な目的が大半であるとする解釈である。この解釈自体は、多少修正が必要であると、最近は、言われている。つまり、経済的に豊かになった今日、経済的問題の解決を求めて入信する人は減少する傾向にあり、他方、精神的な空虚さを埋めるため、さらには一つの遊び、あるいはレジャー的機能を求めて入信するケースが多くなりつつあるのではないか、ということが言われている。

 もっとも、こうした論議には、絶えず研究者の解釈の問題がからまる。仮に、家にいると嫁から嫌みを言われるので、仲間が多い教会に来るようになったというような老婦人の例一つを考えても、これが、人間関係の問題なのか、精神的安らぎを求めるものなのか、余暇の過ごし方の一種なのか、難しいところである。判断に際しては、むしろ、研究者の人間観なり世界観なりが試されているのではなかろうか。

 それでも、依然、病気という問題が、人々が宗教に関わるときのもっとも大きな動機であるということには変化はないようである。ところで、病気治しを求めて、宗教へ向かう人々に対する視線の中には、「困ったときの神頼みに過ぎない」とか、「現世利益を求めて入信するのは、不純である」といった批判が込められていることが少なくない。そうした見方について、ことさらここで論ずる必要はない。おそらく、病気治しを求めて教会の扉を開ける人の多くは、切羽詰まった悩みの直接的解決こそが関心の的なのであろう。けれども、われわれにとっては、それが現世利益を求める行為か、そうでないか、といったことよりも、病気治しという行為のもつ意味を、宗教者がどう説明するのかが、主たる関心の対象となる。

 病気が治るという事実のみが問題の核心であるとすれば、医学の発達は、病気が治ったことをきっかけに宗教に入信する人々を減らさなければならない筈である。しかし、現実を見ているとどうやらそうではなさそうだ。不治の病があるからだ、あるいは、医学では解決できない病気があるからだ、という反論も可能だろう。確かに、宗教教団に足を向ける人の中には、医者に見放されてという人も少なくない。だが、この反論に対しては、さらにでは医者に見放された病気を、信仰によって直したと思っている人がいるのはなぜか、という問いかけが新たに生じる。

 医学の治療と信仰による治療はどこが違い、どこが共通するのかという問題は、容易には論じられない。だから、そのことに立ち入るつもりは毛頭ない。ここで、述べておきたいのは、病気治しに対して布教者が与える説明の仕方である。

 福田は、先に述べたように、自ら信仰によって病を治すという経験を青年時代に積んでいる。そしてそのときのプロセスも、単純ではなかった。『我が信心を語る』の中では、やや洗練された書き方がなされているが、一九三八年に、サンフランシスコ教会の機関誌『天地の恵み』に連載された、「二十年前乃思ひ出」という記事を読むと、もっと生々しい表現が出てくる、南牟婁教会の教師から自分の肺病を見通すかのような言い方をされたときにも、冷や汗をかきながらも、「いやに皮肉を云ふなあと思ふだけで先生の御神徳に平伏する気にはならなかった」と回想している。

 彼は、小さい頃、曹洞宗の本山、永平寺にいって、一週間おこもりをやっている。そして、日置黙仙により授戒している。そんなわけで、自分の名前がようやく書ける位の南牟婁教会の教師を、最初はむしろ軽蔑していた。ただ、治りたい一心での行には、熱心であった。その教師は、「生神様」の如く崇拝されており、中には、その教師のはいった風呂の湯を飲む者もあった。福田は汚いと思いながら、それもやったと述べている。

 福田のこのときの病は、一応治ったが、熱心な信者とはならなかったことも述べた。病気が治ることと信心の深まりとは、そう簡単な関係があるわけでないのである。こうした、経験をもつ布教者は、逆に自分が病気治しを行なう側になったときに、病気を契機とした入信者の微妙な心の動きを理解しやすいと思われる。

 同じ『天地の恵み』八号の中に、載せられた信者の体験談は、その辺のことを考えるのに、なかなか適切な材料となってくれる。

 「医者に見放された眼病のおかげ」という題の体験談に登場するのは、サンフランシスコ教会の信者K氏である。K氏は、まず、十数年前に亡くなった兄の夢をたびたび見るようになり、その度ごとに腰が痛むという状態に悩まされる。たまたま、友人に金光教の信者がいて、これは「みたま祭」をしなければならないと諭される。さっそく金光教会で先祖祭をやってもらったところが、兄の夢も見なくなり、腰も痛まなくなった。しかし、教会へは、それきりであった。

 ところがが、その後、半年に一回ほど、ふたたび腰が痛むということがおこり、福田に「御祈念」をしてもらう。信心すれば治してもらえるかという、K氏の問いに、福田は、神がこれまで、この人を信心に導くのに長い間辛抱していたことを告げ、さらに、「家業につとめたらその間に病気もだんだんよくならして下さいます」と、答えている。

 福田の諭しに従い、苦しさを我慢して働いていたK氏は、やがて元気になった。しかし、今度は左の目が腫れあがり、伊丹がひどくなるという事態にみまわれる。日本に帰って治療を勧める医者の言葉を気にしながら、K氏は、ふたたび金光教会を訪れ、治してもらえるかどうかを尋ねる。福田は、治るでしょうか、治らないでしょうか、というような信心では駄目で、どうでも治してもらわずにはおくものか、という心でなければいけないと力づける。

 このときは、痛みは遠のいた。だが、また痛みが再発することがあり、そうした状況になると、信心が揺らぐという繰り返しの時期が続く。けれども、やがて、痛みを感じても、「有難うございます」と言えるようになって、ようやく、日々元気で働ける状態になったのである。信仰にはいったにもかかわらず、こうして次々と苦しみが襲ったことに対して、福田はこう説明したという。

信心は剣道の稽古をするのも同じ事だ。これは見込があると思ふと、よけい厳しく仕込む。一寸座りやうがわるくても、たたき、その他ほんの僅かな事でも見のがさずに叱られる。信心もだんだんに進んで来るにつれて、おかげも頂くが少し間違ふときびしく、お気付も頂くものだ。

 病気になるということが、神の人間に対する「気づかせ」であり、行の一種であり、そして究極的には、人間に対する愛の一形態であるという解釈は、別に福田の専売特許ではない。また金光教に限らず、天理教やその他の多くの日本の新宗教において、こうした説明の仕方は、むしろ常套手段であると言ってよい。

 布教者の課題は、このことを、適切な時期に適切な表現で、信者あるいは信者になりつつある人に説き示すことであろう。この論理が背後になければ、病気治しは、単に一つの「特殊技能」になってしまう。福田が、日系人のみならず、非日系人の中にも信者を広げていった理由の一つは、こうした説明の仕方の巧みさにあったと考えられよう。

     「皇民」意識とのはざまで

  月が出ましたドームの上に 金門橋にも灯がついた

  僕も勉強がすんだから ママがつくった柔らかな

  ベッドの中で寝ようかな けれども今頃北支那や

  上海などで幾日も 大砲のとどろくその中で

  焼けつくやうな炎天と 胸までひたる泥沼に

  屈せずたゆまず勇ましく たたかふ日本の兵隊さん

  その方々の御苦労を パパから聞いた今日の昼

  どんなにえらい事かしら 思ってみたらこの僕は

  ゆっくり寝てはいられない 僕も戦争に行かうかな

  けれどもパパが云ったけ その分一生懸命に

  学校の勉強に精出して 立派な偉い第二世に

  成る様に努力することが 今のお前の務めだよ

  そうすることが日本の お国のためにもなるんだし

  陛下へ忠義となるのだよ そうだやっぱりそうしよう

  日本のお国の尊さと 立派な兵士の働きが

  世界の誰にも知れるやう お祈りいたして寝みませう

 これは、一九三七年九月に発行の『天地の恵み』第四号に掲載された、「僕も非常時」という題の、二世信者の詩である。まだ、学生それも小学生か中学生位と思われるが、日々どのような教育を施されていたかが、推測されるような内容である。

 同じ号には、「守れ我が生命線」という題で、もう少し過激な内容のものが載っている。「支那の兵隊は熱いのでだらしがないそうだ」とか、「毛唐が何だ!大和魂を以て突進せよ!」とかいった表現が出てくる。これもやはり、二世の書いたものである。

 一九三七年七月には、日中戦争が始まっている。その直後の号であるから、そうした日本の緊迫した空気が、太平洋を隔てたカリフォルニアの日系人社会にも伝わらざるを得ない。アメリカとの開戦ではないから、まだ、はばかることなく、日本軍の正統性を主張できたのである。金光教会でも、愛国献金を大本営に送ったり、慰問袋を多数送ったりしている。また、そのことを誇りにしている。

 日本人としての意識が明確であった一世が健在なこの時期に、愛国的雰囲気が支配的になること自体は少しも不思議ではないのだが、こうした民族意識は、とくに外国で布教する者にとって、ある種の葛藤をもたらすことはなかったのであろうか。つまり、民族主義と普遍主義の間での葛藤である。福田は、僅かとはいえ、非日系人へも教えの輪を広げている。金光教の教えは民族の枠を越えるものという思いもどこかにあった筈である。

 ちなみに、生神金光大神、すなわち教祖赤沢文治の「神訓」には、「大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ」、また「天が下に他人ということはなきものぞ」という教えがある。文治自身が、「天が下」という言葉で何を考えていたのかはさておき、海外での布教に携わる者ならば、これを、布教に当たって、民族ということにこだわってはならないということを意味していると解釈してもおかしくない。

 『天地の恵み』第十号には、「非常時局と我道の信心」という福田の教話が、冒頭に載せられている。こうした事態を前にしての、金光教の教えと民族主義の問題を、福田は次のように解決したのであった。

 彼は、日本の金光教本部の教監が、「平生の通りの信心でよろしい」という指示を出したことの意味を、説明している。教内には、滅私奉公の精神を鼓吹すべきで、教会において、病気や家庭内のことなど祈願すべきではない、という意見もあったようだが、これにたいしては、異を唱えたのである。

 では、信仰と国家的問題とを切り離していたかというと、そうではない。要するに、「健全なる個人によって健全なる家庭がつくられ、たしかな家庭が集まって国家の基礎が益々固きを得るのである」という発想である。個人的な病気治しの伺いをして一向に差し支えない。それは、元気な体をつくっておくことが、結局は国家のためになるのだという論理である。福田の頭では、人間のつながりは、個人から家庭、家庭から国家・社会へと広がっているが、それ以上には行かなかった。つまり、国際的なレベルまでは到達しなかったのである。個々人の信者をとってみれば、非日系人の信者も福田の周りに集まっていたが、目前に日中戦争という出来事をつきつけられてみると、民族主義があらわになってきた。

 金光教の神訓の中にはまた、次のようなものをみつけることもできる。

 「わが身はわが身ならず、みな神と皇上との身と思い知れよ。」

 「信心して、まめで家業を勤めよ。君のためなり、国のためなり。」

 また、「慎誡」には、「神国の人に生まれて神と皇上の大恩を知らぬこと」というのがある。

 『天地の恵み』第八号の冒頭には、数多くある神訓や慎誡の中から、「君」とか「国」とかいう言葉が含まれる、この三つの文が、選び出されて並べられている。これはもちろん意図的な配置であると考えなければならない。福田の意識には、信仰者としての思いと愛国の情念が交錯していた。

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