インタニーに

 戦争開始とともに、ハワイを含むアメリカ全土で、日系人一世のうち、FBIからマークされていた人物は直ちに逮捕され、審問を受けたのち、一部の人を除き抑留された。さらに、翌一九四二年には、西海岸の第一軍事地区に住む日系人は、すべて収容所への道を余儀なくされる。第一軍事地区とは、西海岸に面する三つの州、すなわちワシントン州、オレゴン州、及びカリフォルニア州のそれぞれ西半分と、アリゾナ州の南半分を含む地域のことである。この方針は、以前から準備されていたものではなかったし、十一万人余りの人間を一挙に移住させるのは、困難であった。そこで、地域単位で移動を命ぜられ、仮収容所に入れられたのち、結局十ヶ所の収容所に分けられた。(図5参照)仮収容所は、競馬場を改造したものなども含まれており、ずいぶん、ひどい環境であった。もっとも、アメリカ側は、収容所という言い方はせず、戦時転住所センター(War Relocation Center 略称WRC)と呼んでいた。各WRCには、八千人ないし二万人の日系人が収容されていた。

 戦時中の収容所体験は、日系人にとって、精神的屈辱であった。また、経済的にも、事実上財産を奪われるに等しい事態に見舞われ、大きな損失を被った人もいた。しかし、何事にもいろんな評価があるもので、収容所経験をそれほど否定的にとらえない人々もいる。そうした日系人の語るところでは、収容所時代は、「一息つけた」時代でもあった。住居は汚く、始終見張られているという環境は決して心地よいものではないが、移民以来、毎日が稼ぐために懸命の日々であった人々にとっては、生活の糧を求めるためのこと以外のことをできる余暇が、初めて得られた時であった。収容所時代に、お茶や、お花、あるいは三味線などの稽古ごとを学べたという女性も少なくない。連日のように野球をやっていた、という男性もいた。

 こうした、なつかしげな語り方は、過ぎ去った昔が、つらいことでも美化されてしまう一例と考えることもできよう。自由を束縛されているということは、どう埋め合わせすることもできない苦痛の筈である。ただ、収容所生活の中にも、小さな利点が、人によっていくつかあった。それを楽しみとするようなたくましさが、人間にはあるということになるかもしれない。では、北米の金光教の教師たちは、収容所時代をどのように過ごしたのであろうか。

 真珠湾攻撃の日、福田はサンノゼ教会の教祖大祭に出席していた。要注意人物とみなされていたのであろう。大祭直後に逮捕されている。地元の新聞、エキザミナーとクロニクルは、福田が日本のスパイであると、翌日の朝刊一面に大きく扱ったという。福田が、サンフランシスコにおいては、かなり著名人であったことを物語っている。

 十日後、モンタナ州のミゾラに移され、審問を受けた。この審問によって、抑留されるか釈放されるかが決定されたのである。彼は、日本軍へ慰問袋を送っていた。日中戦争に関して愛国者的記事を書いていた。また、日本海軍との接触もあった。これらはすべてFBIが掌握していることであった。

 慰問袋や戦線慰問は赤十字と同じ活動であること、日本海軍の歓迎は、アメリカ政府やサンフランシスコ市もやっていることであって、国際的礼儀であること、さらに金光教会は、アメリカ軍のためにもいろいろ協力してきたこと、などを申したてたが、しょせん無駄なことであった。

 抑留されること、すなわちインタニーになることが確定した彼は、一九四二年四月に、ミゾラからテキサス州サンアントニオのキャンプ、さらに一ヶ月後、ローズバーグのキャンプに移される。翌四三年七月に、ニューメキシコ州のサンタフェ、そして、四四年二月にクリスタル・シティの家族キャンプに移され、ここで終戦を迎える。しかし、キャンプを出られるのは、終戦後二年たった、一九四七年のことになる。彼が、ストロング・プロジャパニーズ(強い日本贔屓)と判断されていたためである。このストロング・プロジャパニーズという表現は、帰米二世に対してよく使われた、非難がましい言葉でもある。

 開戦と同時にインタニーになった教師には、福田のほか、ポートランド教会長の平山文次郎、シアトル教会長の秀島力松、ロサンゼルス教会の露木大一、そしてソーテル布教所の後藤勲も含まれていた。そのほかに金光教の信者も何人かいた。

     収容所の中で

 各地を転々とした福田であったが、キャンプを布教の場としても活かした。ローズパークでは、毎朝五時半の礼拝と週三回の集会講演を行なっている。秋の祭典には千名近い人々が参拝したという。サンタフェに移っても、礼拝と集会講演は欠かしていない。ここでは、ときには、ほとんど全員が祭事に参加することがあったと述べている。もちろん、単調な収容所生活であるから、気晴らしに集まったということも考えられよう。だが、布教者の側にそうした熱意がなければ、事は始まらない。こういうときには、宗教者の個性ははっきりするらしく、開教使の中にも、宗教行事をきっちりやる者もあったが、声色を使っての講談まがいの説教に熱を入れる者もいたという。

 ツールレーキは、もっとも日本寄りの人々が集められた収容所として有名である。ストライキなども頻繁に行なわれた。ここに二人の金光教教師がいて布教活動をやっていたことを、マーヴィン・オプラーが記している。(“Two Japanese Religious Sects, Southwestern Journal of Anthropology,6)オプラーは、収容所にいる日系人についての情報を得るために、収容所内に人類学研究所を設け、ときどきセミナー式の討論を行なっている。自らの収容体験を綴った、白井昇著『カリフォルニア日系人強制収容所』の中には、著者がこの研究所のスタッフになったことが書かれている。それによると、希望を募って集められた少数の日系人のスタッフと共に、収容所で起こったさまざまなことについて、自由な討議がなされた。同じ日系人でありながら、キリスト教の牧師は親米的であるのに、仏教会の開教使はなぜ親日的なのかといったことなどへも議論が及んだことが記されている。

 さて、この論文の中で、オプラーは、解脱会と金光教の活動の概要について簡単に紹介している。金光教の二人の教師はイニシャルで、YとGとされているが、これは、サクラメント教会長であった安村安吉とロサンゼルス教会で活動していた後藤勲である。集会は、定期的に開かれており、集会所には畳が敷きつめられていたという。日曜日の集会には午前四時から熱心な信者が姿を見せ、夕方五時まで続いた。ときには夜の集会ももたれたそうである。ツールレーキでも、金光教の教師は、熱心に布教を続けることができたと推察できる。ただ、オプラーは、金光教の活動には、指導法、社会活動、知的刺激という点ではあまり見るべきものがなく、もっぱら精神的励ましに終始しているという印象を述べている。

 信者数は、子供を除くと約五〇人とされている。その多くは一世であり、帰米二世はいたとしても見物程度の参加であったようだ。また、二世は一世に連れてこられた小さい子供たちばかりであって、この点が青年たちをひきこんでいる仏教会や基督教と異なると、オプラーは述べている。

 このように、収容所においても、宗教活動は何らかの形で続けられた。少なくともそれまで信者であった人々には信仰を維持する場を提供されたことになる。またこのような状況下に置かれて、初めて信仰に目を向けるようになった人もいた、福田のようなかなり強い個性を備えた布教者には、かえって布教には好都合な面もあったのではないかとも思える。『我が信心を語る』の中には、クリスタル・シティの収容所で、ペルーから連れてこられた沖縄出身のインタニーを入信させた話が出ている。

 あるとき、収容所の中に設けられた水泳場で、二人の少女が溺死するという事件があった。二人とも沖縄県出身の日系人の娘であった。そのうちの一人の母親は、心痛の余り、自らも病気になってしまった。そんなある朝、福田が四時頃「御祈念」をやっていると、その母親の義父、つまり死亡した少女の祖父がやってきて、取次を依頼した。神前に備えてあった水を渡すと、彼は家に帰って苦しむ嫁に飲ました。飲むと、彼女はトイレにゆきたくなり、そこでカチリという大きな音とともに腎臓結石が出て、腹の痛みはたちまち止まったという。このおかげ話が伝わって、当時収容所にいた八、九軒の沖縄出身の人々は、皆福田の所に参拝するようになったという。

     転換期

 太平洋戦争が終わり、収容所に入れられていた日系人が元の家に帰ると、教会の活動も、以前の姿を目指して再開される。戦後の布教に従事した金光教の教師は、大きく三つのカテゴリーに分けることが可能である。第一は、戦前から布教に従事していた人。第二は、戦後アメリカに渡ってきた人。第三は、「二世教師」、すなわち、アメリカで生まれ育った二世で、親の後を継いで教師となった人である。

 戦前から布教を行なっていた人たちは、当然収容所を体験することになる。日系人の苦しみをいくらか共有したわけである。戦後渡米組は、ウォルター=マッカラン法案(新移民帰化法)が可決された一九五二年以降に、次々とやってきた。五二年から五六年にかけて、六人がやってきている。その後も、新たな教師が渡米し、一九八〇年までに二〇名がアメリカの土を踏んでいる。最初の六人は、全員がアメリカにとどまっているが、六〇年代後半以降に来た教師の場合は、過半数が短期間の渡米の後、日本へ帰っている。また、数は少ないが、戦前からアメリカで布教を行なっている教師の子供で、岡山の金光教教学院で修行し、教師の資格をとった人も出てきている。

 福田美亮は、一九五七年十二月に五九歳で死去した。アメリカに帰化してから二年後のことである。福田の死は、北米の教会が復興期から転換期へさしかかった頃であった。日米関係が新たな段階にはいり、日系人社会も落ち着きを取り戻しつつあった。そして、一世に代わって、二世が中心となりつつあった。二世の出生は呼び寄せ移民後急増するが、太平洋戦争が始まった頃、彼らの平均年齢は、十七歳、ないしは十八歳と言われた。二一歳という説もあるが、ともかくそのとき、二世の多くは、まだ青年期であった。けれども、それから十五年以上がたてば、たいていが三〇代、あるいはその前後である。しだいに日系人社会において、中心的役割を果たすようになってくる。教会は、帰米組を含めて、二世の意向を重視せざるを得なくなってきた。

     祭式を通じてのつながり

 ロサンゼルス教会の露木大一は、静岡県の出身である。一九三六年に渡米し、初めサンフランシスコ教会で布教に従事した。四〇年二月からロサンゼルス教会に赴任している。福田の意向を受けての渡米であったから、福田の下でアメリカにおける布教法を身に付けたと考えられる。彼はインタニー時代、福田と同じ収容所にいたこともある。収容所内のもめごとで、福田がやみうちに会いそうになったことがあるが、これを知って真先に飛んで来て、福田にこのことを告げたのは露木であった。

 インタニーから帰り、一九四九年にロサンゼルス教会長となった露木は、今日に至るまで、儀礼を中心とした活動を行なってきている。戦前には、西海岸にも、北米大神宮本院、米国神道教会、出雲大社北米教会、あるいは稲荷神社などの神道教団があったが、戦後は、すべてなくなってしまった。ハワイでは、神社神道の復興がなされたが、本土では壊滅してしまったのである。そうなると不便を感じるのは、地鎮祭や落成式、各種お祓い、あるいは結婚式のときである。金光教の教師の祭服は、神主のものとよく似ている。素人にはほとんど区別がつかない。また、神前の様子も似た雰囲気である。当然、金光教教師には、神主の代理の機能が求められた。一般の日系人には代理という意識すらないかもしれない。金光教教師も神主の一種であると考えられている人が少なくないようである。

 露木は、このことを別に否定的にはとらえていない。こうした形で人々と接するのも、布教の一つのあり方と考えている。だから、わざわざ、これまで自分が司式した儀式を「コミュニティ・サーヴィス」と命名して、そのリストを作成しているほどである。このリストを見ると、最初の晴れ舞台は、一九五〇年五月に、リトル・トウキョウにおいて行なった、日本劇場の落成式となっている。その後、デパートの地鎮祭、日系企業の落成式など、数多くの式典をとり行なっている。元総理大臣が被告になるという事件を生んだ、かのロッキード社の飛行機を日本に送るときも、露木がお祓いを行なったそうである。

 もちろん、こうしたコミュニティ・サーヴィスの他にも、個人の家の新築の地鎮祭、新車のお祓い、結婚式の司式などはしょっちゅうである。

 金光教教師が、神主の代理機能を求められているのは、何もロサンゼルスに限らない。サンフランシスコ教会の場合も、同じである。ここには、はっきりとした日本人町が形成されているので、町中でそうしたことをやるのに抵抗は少なく、日系人からの需要は多い。教師の側は、あまり乗り気ではないのだが、付き合い上、そうせざるを得ない面がある。カナダのトロントのように、日本人町のない所でも、この種の問題はおこっているようである。ここの教師の岸井貴雄は、新しく入信した白人信者が、金光教の教会があまりに日本的な造りであることに抵抗を覚えると、言ったことを紹介したのち、次のように述べている。(「北米布教の回顧とその展望」『読信』一七)

 私が日本にいた時、装束があまり好きでなかったのは、神社の神主さんと一緒にされる思いからです。あちらへ行くと、日本古来の伝統的な衣装を着ているのは金光教だけです。案外賛成の人が「先生、あれをやめてくれるな」と言う。「あんな素晴らしいガウンを着てる宗教家は他に無いんだから、続けてくれ」。どちらを取ったらいいのか、一概に結論は出ない。実はこれが日系人社会への布教と、他の人種への布教を、どうやっていくのかという問題にからんでくる。

 岸井は、戦後一九六二年の渡米であるので、日本的装束で身を固めてしまうことへのためらいがある。露木には、そうしたためらいはない。自分自身の活動範囲を、もっぱら日系人社会に限っているからである。


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