戦後の渡米教師

 サンフランシスコ教会の一角に茶室があって、調査中、私は三週間ほど、そこに寝泊まりさせてもらった。カリフォルニア州の法律では、教会に人が住んでいると、税金がかかるということであったので、夜は身をひそめるようにしての滞在であった。だが、おかげで、教会の一日がどのように過ぎてゆくか、つぶさに観察することができた。また、同じ階の別の一失には、「気持ち会」という団体が事務所を置いていたので、その活動も知ることができた。

 気持ち会というのは、日系三世が中心になって一九七一年に結成されたもので、主に日系一世の老人に奉仕活動を行なうことを主旨とする団体である。こうした類のものの中では、もっとも早く組織された団体と聞く。以後、各地に似たような組織がかなりできている。黒人の「ブラック・イズ・ビューティフル」というスローガン、つまり、少数民族の自文化主張の動きに刺激されて始めたものだという。だが、三世が素直な気持ちで一世を敬うということが、西海岸の日系人社会においては、画期的なことであったという、むしろそのことに驚かされた。

 さて、八畳の茶室で、一人寂しく調査記録をまとめている私を慰問するつもりであったと思うが、松井教会長が、よく缶ビールをさげて夜遅く訪ねてきた。金光教では教師は、つねに取次できるような態勢を整えておくのが原則であるが、当時、その役は若いK氏が担っていて、教会長は自宅から通っていたのである。アルコールが混じっての会話のときには、初期の布教のとき抱いていた意気込みや、これからの教会のあり方への夢を語る言葉が、いつもより熱を帯びてくるのが常であった。

 最近は、どちらかというと、のんびりと教師を勤めているという印象を、周囲に与えているようだが、彼こそ、戦後真先に北米布教に意欲を燃やした人物である。一九五三年、戦後初めて渡米する教師として、サンフランシスコ教会に着任した。やはり金光教教師である夫人も、その翌年、渡米している。

 松井文雄は、一九二一年、岩国市に生まれた。曾祖母の代からの金光教信者で、祖父の代から金光教教師という家に育った。長男であったので、親は教師を継いでくれることを期待したのだが、最初はその気にならなかったようである。早稲田大学の政経学部を卒業してすぐ、学徒動員され、海軍予備学校にはいった。しかし、病気となって除隊となり、岩国の軍需工場に勤めた。こうした中に終戦を迎えるが、戦時中のさまざまな体験が、信心を目覚めさせることになったという。

 一九四七年に、金光教教学院にはいる。半年後、これを終了し、本部に勤め、学院の講師を四年ほど務めている。そうした頃、一九五〇年に、サンノゼ教会の一信者が学院にやってきた。彼から北米における金光教の現状を聞いた松井は、北米布教を決意し、一九五二年に、サンフランシスコ教会にやってくる。同教会内に設置されていた北米教務所の仕事を兼ねながら、布教を始めた。北米教務所は、日本の教団本部と、北米の各教会との連絡のために設置されていたのである。

 四年ののち、シアトルに移った。シアトルは、北米の中では、最初に設立された教会であるが、教会を設立した教師が、戦後、キリスト教に改宗したため、布教ができなくなっていたのである。この改宗には、福田との確執も絡んでいたようである。福田の個性は強烈であったため、これに反発する人もまたあったのである。

 さて、シアトルに着任した松井は、同時にポートランドの教会を手伝い、タコマにも足を伸ばした。また、国境を越え、バンクーバーの布教を手がけた。ポートランドの教会長はすでに老齢で、満足な活動ができなかったので、それを手伝ったのである。タコマでは、教会の土地が没収されていたので、信者の家で月次祭を行なった。また、バンクーバーは、戦前から布教がなされていたのだが、布教態勢が整わず、信者がほとんど来なくなっていた。それに、戦時中に多くの日本人がトロントに移動し、日系人社会そのものが小さくなっていたこともあって、布教を再開したとき、集まった信者は三、四人であったという。ここでも教会が没収されていたので、日本語学校の校舎を借りて祭式を行なった。

 その頃の布教は、経済的にかなり苦しみながらの活動であったと、松井は述懐する。布教先に片道のバス代だけで行き、信者からのお供えで帰りの切符を買ったということも珍しくなかった。また、こういうこともあった。当時は、日本の映画が巡回上映されていた。シアトルから、バンクーバーへと映画を運ぶ車に相乗りさせてもらって布教しようとしたが、映画の主催が仏教会であったため、講演を拒否された。そこで、金光教の教師が来たというアナウンスだけさせてもらったという。それでも、これを機会に、十五、六人が入信した。

 こうした布教の対象としたのは、主に一世と帰米二世であった。戦後は、二世は日本社会を出ていこうとする傾向が強かったので、自然そうならざるを得なかった。バンクーバーの場合でも、教会に集まってくるのは、戦後日本から渡ってきた人々がほとんどであったた。だから、戦後は、再建の時期でありながら、数の上から見るなら、全体として信者は減りつつあった。それでも、一九五〇年代の末、シアトル教会の信者は、約五〇世帯ほどになっていたという。

 戦前からの信者を再結集し、いくばくかの新たな信者を日系人の中に求めるという形での布教が、西海岸北部で続けられた。一方、サンフランシスコ教会では、一九五七年に、福田美亮が死去し、夫の死後、教会長を継いだ福田真子も七四年に死去する。すでに六〇年代後半から、実質的にサンフランシスコ教会の布教に関わっていた松井は、そのあとを継いで、サンフランシスコの教会長に就任した。

 松井に限らず、戦後の渡米教師は、日本社会を追って、布教に取り組んだ。福田がそのことの必要性を感じていたということもあろう。現在フレスノ教会長の岡崎勝や、サクラメント教会長の木村弘道は、福田の勧めで、いずれも一九五六年に、サンフランシスコ教会にやってきている。金光教の復興期の主な目的は、日系人社会における基盤を立て直すことであり、戦後渡米した教師にあっても、この路線は踏襲しないわけにはいかなかった。

 だが一方で、腕、彼らは、民族を越えた布教ということにもこだわる。現状は現状として、どこかに金光教は普遍的宗教であるという思いがある。この思いが、日々の活動においてジレンマを起こさせる原因の一つでもある。しかも、普遍的宗教を目指して、非日系人へ布教を試みようとするとき、最大の障害が、むしろ教団組織の内部に存在することを感じるとき、彼らの苦悩は、いっそう大きくなるように思われる。これについては、あとで、もう一度触れることにする。

     「二世教師」

 今日の金光教では、教師は世襲職になりつつある。教師となるのは、親が教師であったからという理由が大半を占めるのである。しかし、アメリカの場合、牧師職の世襲というのは、通例のことではない。カトリックの神父は、もちろん、まったく不可能である。宗教家は、日本と比べると確かにずっと尊敬されるらしい。あまりいい例ではないが、「プリースト(宗教家)である」と警官に言ったら、交通違反を見逃してもらったとか、開教使はゴルフ場でただでプレイできるという話など、当人たちからよく聞かされた。その反面、一般に、経済的には恵まれないことが多い。だから、宗教家の子は宗教家にならない場合の方が多いという。父親の苦労を見て育つからである。

 金光教の教師の子といえども、アメリカで育った二世の感覚は、半ば以上、アメリカ人のものである。子供が後を継ぐのが当然という考え方は通用しないのである。福田にも六人の男の子がいたが(一人は、収容所の中で死亡)、誰も教師になっていない。一九八一年の調査の時点で、二世教師は二人いた。ロサンゼルス教会とサンノゼ教会にである。ロサンゼルスの教師は、露木大一の息子である。サンノゼの教師は、同教会の初代教会長、山田浅太郎の娘である。

 サンノゼ教会の石渡はる子について少し述べてみよう。彼女の父、山田浅太郎は、片島幸吉の感化で入信し、教師となった。山田は、広島県安芸郡出身の移民である。片島幸吉が、シアトルで講演したとき、その話を聞いて納得し、一九二八年に日本に渡り、教学院で学び、教師となったという経歴をもつ。片島がやってきた頃、彼はメソジストの教会とシアトルの仏教会に所属しており、妻はまた別のキリスト教会に所属していた。そんなことで、どれを家の宗教にするか迷っていたのであった。

 一九三〇年頃、バンクーバーに布教に出て、教会設立寸前までいった。だが、当時カナダにおいては、宗教者が、一時的に滞在することは問題なかったが、永住権は容易にはとれなかった。山田はそれを知らず、信者が増えたところで教会を建て、そこへ移り住もうとしたが、入国を拒否された。事は成らなかった。落胆した彼であるが、福田の元気づけもあって、三二年には、サンノゼで布教を開始し、今の教会を購入したのであった。

 石渡は、十九一七年に生まれ、こうした環境の中に育った。若い頃の教会の雰囲気は活気に満ちていたという記憶をもつ。皆熱心な信者であり、活動も活発であったので、彼女自身、集会があるのが楽しみであったという。十九四〇年に、日本に渡ったとき、戦争が始まってしまった。そこで、東京の麹町教会で、修行生として、教会の手助けをやっていた。ここで結婚して石渡姓となる。十九五〇年に、朝鮮戦争が起こったので、このときアメリカに帰った。

 ところが、五二年に父親が死去し、母親があとを継いだが、心臓が悪く、思い通りの活動ができなかった。そこで、教師の検定試験を受け、五八年頃から教師として活動を始めたのである。彼女は、アメリカで教育を受けているが、日本での滞在も長い。バイリンガル(ニヶ国語常用者)である。

 サンノゼは、サンフランシスコから南東に五〇マイル(八〇キロ)ほど離れた所にあり、コンピューター産業が花形となった最近では、むしろシリコン・バレーとして有名である。ここも、日系人が比較的多く住んでおり、かなり強い結束をもっている所である。栗田靖之は、二世の婦人が死亡したとき、その葬儀に六〇〇人の日系人と一〇〇人の非日系人が参列したことを紹介しているが(「カリフォルニアの盆踊り」『季刊民族学』二一)、それほどに、日系人は日系人同志のつきあいが多い。

 こうした土地の雰囲気であるから、彼女の活動に対しても、最初からいろんな制約があった。母親の信者をひきつぐのが精一杯であった。二世としての平均的な年齢であり、それゆえ、二世の一般的な心情が、彼女の心情でもあったということが、さらに足かせとなったかもしれない。

 露木大久は、同じ二世教師でも、年齢は、三世に近くなる。一九七一年に、金光教の教典を英訳しようという話が起こったのには、彼のような立場の人間の存在したことが無縁ではない。彼は、大学時代に精神的スランプにおちいり、これを克服するため、教祖赤沢文治の伝記である、『金光大神』の翻訳を個人的にはじめたという。ちょうど、この頃、別に、教外の人が中心になった、同書の翻訳の動きがあった。露木もこれに加わった。この計画は、その後、多少変更され、教内者だけのプロジェクトになるのであるが、露木大久、及び彼の弟は、このプロジェクトにかなりのエネルギーを注ぐことになる。『金光大神』の抄訳は、一九八一年に完成しているが、この翻訳作業の過程で、一九七五年には、Konko Reviewという、英文機関誌が発刊となっている。露木は、この雑誌の編集にも力を注いだ。

 教師にはならなくても、初代の教師の子供たちは、教団の運営に指導的役割を果たすことが多い。むろん、ほとんど教会とは関わりをもたなくなっていく者もいるが、多くは、父や母が教師であることの意味を重く感じている。福田の息子たちも、サンフランシスコ教会の信者たちの中ではリーダーの役割を果たしている。二世教師とはならなくても、親は親、自分は自分と、すっかりアメリカ式に割り切ることはないのである。布教者の末裔にもまた、日本式とアメリカ式の混在が観察されるのである。

     信者の要請

 これまでは、もっぱら教師に焦点を当てて、布教の問題を眺めてきた。ここで少し、視点を変えてみよう。信者の側からするならば、教会はどのような場として映るのであろうか。あるいはどのような機能が求められているのであろうか。

 このことを考える手掛かりとして、一九八一年夏に北米金光教団の協力を得て行った、アメリカ本土在住の信者に対する質問紙調査の結果を見てみよう。この調査は、『北米金光教務所名簿』に記載された五〇〇余りの世帯全部に郵送法で行なった。しかし、郵送法というのは、もっとも効率の悪い調査法の一つであると言われているが、実際そうで、このときもわずか一〇〇通あまりしか返ってこなかった。サンフランシスコ教会の同意を得ての調査であることを明記しておいたのであるが、それもさほど効果がなかったようである。そこでたまたま行われた、金光教青年会の夏期セミナーのときに質問紙を配ってもらい、主として若者層からの回答を集めた。結局、両方あわせて、一五六人分が集まったのであるが、記入不備などの集計に適さないものを除いて、一四六人分を集計した。

 質問項目には、どのような人々が信者であるのか、つまり、年齢、性別、民族的背景などを知るための設問、入信の経緯を知るための設問、家族の宗教状況を知るための設問、金光教の教えについての意見を求めるため設問、金光教以外の宗教との関わりについての設問などを掲げておいた。

 細かな数字は、差し控えるが、回答結果は次のようにまとめることができる。

@ 全員が日系人である。父母のいずれかが非日系人という信者が九%いるが、あとは両親とも日系人である。

A 帰米二世、戦後移住者といった、日本との文化的つながりが深い者の占める割合が多い(三分の一強)。
B 親の影響で入信した者が、約六割である。最近は、金光教が「家の宗教」となっている家庭が多い。

C 他の宗教には余り関心がなく、また余り知識もない。

D 教えが厳しくない、実践しやすい、日常生活と結びついている、といった理由で金光教に好感をもっている人が多い。E 教会は、一つのコミュニティ・センターの役割を期待されている。

回答結果を、そのまま北米の信者の全体像に直結させるわけにはいかないが、回答者数は、全信者の約一割に当たるし、比較的熱心な信者たちからの回答であるから、ある程度、全体の傾向を推し量ることができると考えていいであろう。とすれば、これによって、どのような人々がアメリカの金光教会を支えているのか、彼らは教会に対して、どのような』イメージをもっているのか、といったことの輪郭が掴める。

     家の宗教としての金光教

 まず、図6を見ていただきたい。これは回答者の入信年である。一九三〇年代前半が最大のピークであり、次いで、終戦後まもなくがもう一つのピークを形成している。最初のピークは、布教開始直後である。日本にいるときから信者であった人が、アメリカに教会ができたのを機会に所属するようになった、という場合もあったが、図で見る限り、現在の信者は、むしろアメリカで初めて入信した人の方が多い。終戦直後の新たな入信者は、日系人社会の再編成期と関わりがあろう。

 福田美亮を初めとする、初期の布教師たちの活動によって入信した人々の多くは、親譲りの信仰としてではなく、個人で選択した宗教として金光教を選んだのである。しかし、最近は、そうして形成された集団が固定化し、各信者は、金光教を家の宗教とする度合いが強まった。つまり、家族ぐるみで信仰していることが多く、若い世代は、親が信仰しているから所属するということが多いという意味である。

 これは通常、新宗教の既成化と呼ばれる現象の一つに類比させることができる。新宗教は、発生期には何らかの魅力によって、人々を新たに引き込んでゆく。けれども、それからかなりの時がたち、教祖も死去し、信者も「二代目信者」となると、初期の流動性が失われていくことが多い。これは、一面では社会の中で安定化することであり、多面では、運動体としての側面が弱まることである。日系人社会に布教を始めた頃の金光教は、一種の新宗教的役目を果たしていた。すでに存在した宗教界への挑戦機能ももっていたと思われる。今日では、それは大きく変質している。

 「家の宗教」ということは、単に家族が同じ教会に所属するということを意味するだけでなく、さらに互いに親しい家族同志が、心おきなくつきあえる場、ということへと広がっていく。そのためには、金光教会が、「日系人のための教会」であることを人々は欲する。現実にアメリカの金光教が、日系人のための教会になっていることは、非日系人の極端な少なさから明らかである。この点では、仏教会の機能とも、ほとんど差がなくなっている。布教のスタート時点においては、仏教会が果たしていない機能に惹かれて入信した信者もあったが、今日の信者は、もはやそうしたことも期待していないかに見える。

 これは一面、布教者側の問題でもある。福田以後、ミニ教祖的な布教者が出現していないことに関わる。具体的にいえば、新たな種類の信者を求めるかなり強烈な個性をもった布教者が出現しなかったということである。それ以上に、この事態が物語っていることは、いったん形成された信者集団は、それが固定化すると、教団のあり方についても、方向性を決定する大きな力をもつということである。

     寄り合い所としての教会

 われわれは、ふだんどんな動機で自分の所属する教会や寺院、あるいは神社を訪れるであろうか。真剣に祈りたいからとか、題目あるいは念仏を一心に唱えたいからなどといった、宗教的目的をもって来る人も中にはいるであろう。日常のリズムから離れて、聖なる雰囲気の中に、何かを感じたいという精神的欲求に基づく人もいるだろう。親に連れられて仕方なくという若者もいるであろう。

 しかし、宗教施設が、信者の集会場所を備えているような場合、そこでの知り合いとの歓談が、一つの大きな楽しみとなることは、ごく普通のことである。どちらかというと、それが楽しみで教会等へ足を運ぶ人を、身の回りに見つけることができるに違いない。戦後の金光教会がしだいにこうした傾向を強くもつようになったのは、特殊なことではない。

 サンフランシスコ教会の結界の裏手には、小さな部屋があって、人々は、取次の席のうしろを何げなく横切ってこの部屋にやってくる。そこにはモニター・テレビが置いてある。これは、以前、教師がホールド・アップにあい、賽銭を強奪されたという事件があって以来のことなのだそうである。誰がはいってきたか監視するというわけである。

 このモニターテレビつきの部屋に、入れ替わり立ち代り信者が訪れる。特に用がありそうに思えない人も来る。そこに居合わせた教師や信者仲間とひとしきり雑談をしたり、コーヒーを飲んだりして、やがて去っていく。そうしたくつろぎの場としても、教会は機能している。そのような場面に見慣れると、信者たちが、異質な人々が教会に所属するのを嫌うという理由が、感情のレベルで理解できる。彼らにとって異質な人々というのは、つまるところ異なる民族の人々である。

 フレスノは、カリフォルニア中部の町である。日系人が比較的多いことで有名である。ここの教会長が語っていたが、フレスノ教会にかつて、信者になりかけたメキシコ系の人がいたそうである。しかし、日系人の信者たちはそうした人間が教会に来ることを好まず、結局そのメキシコ人は、締め出された形になった。以来、その教会長は、非日系人に対する布教を断念したという。

 異民族の人間が所属すると、布教者は緊張する。異なる文化的背景を備えた人間が含まれることは、布教する側からすれば、あるいはよい刺激になるかもしれない。けれども、一般の信者にとっては、別に布教上の問題はどうでもいい。教会がくつろげる場であってほしいのである。これも一つの欲求である。捨て去ることはできない。まして教会の設立当初から協力してきた信者たちの意向となれば、そちらを優先したくなるのは、当然であろう。

 サンフランシスコに限らず、古い日系人はまた、とくに黒人に対しては嫌悪感をもっている人が多いように聞いた。黒人の間に犯罪が多く、日系人がしばしばその餌食になるということが、その一つの大きな理由であると思われる。しかし、それにとどまらない、ある種の差別意識が、背後に存在することもある。

 サン・ディエゴには、一九八〇年に布教所ができて、若い教師が奮闘している。彼は夫人が白人であり、そうしたこともあって、ここの布教所には、若干の白人の信者がいる。彼は非日系人信者の獲得に熱心であるが、彼の場合も、メキシコ人、黒人への布教は自分の力では不可能であると述べている。また、国際結婚した人々も、一つの布教対象であると述べたが、その場合の国際結婚には、いわゆる「戦争花嫁」は含まれない。戦争花嫁でない国際結婚者が、戦争花嫁と混同されるのを嫌うからなのだそうである。

 信者の側に形成されている差別意識を乗り越えて布教するのは容易ではない。あえてやろうとする場合、もっとも実現性が高いのは、異なった信者集団、とくに非日系人には、そうした人々だけが集まれる教会を別に作ることである。信者の心の中にある人間のカテゴリーに合わせて教会を別々に作るのである。実際、世界救世教や生長の家などは、こうしたやり方で非日系人への布教を推し進めている。

     信者集団の重み

 布教者は、教祖の説いた理想的な世界へ少しでも近づこうという思いが胸にあっても、布教の現場では、信者という人間を相手に、彼らが差し出す具体的な問題に現実的対処をしなければならない。ごく当たり前のこの事実が、しかし、もっとも布教者を悩ます問題であることを、北米の金光教の事例は示している。信者集団は、それ自身が一個の生きものであるかのようである。場合によっては、布教者を呑み込んでしまう。

 布教者と信者の結びつきが、どれ位強いかは、教団によって異なる。金光教においては、教師と信徒の距離はかなり近い。取次の場を通して、信者は日々のこまごまとしたことについても、教師に相談をもちかける。教義上は、取次者は「神意」を取次ぐに過ぎないのであるが、実際のコミュニケーションは、教師と信者との間で行われているのであり、果たしている機能としては、カウンセリングに近くなる。

 こうした親密さは、一面で、一人の教師と、それを囲む信者集団のまとまりの強さとしてあらわれるが、多面で、新たな種類の訪問者への壁をも形成することになりがちである。北米布教においては、このことは、非日系人布教に対する、一種のバリケードとなって、顕在化してきている。

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