W 多国籍宗教化の中で 創価学会・NSAの場合

     布教の拠点――国際結婚の家庭から

 太平洋戦争の敗戦後まもなく、日本が経済復興に懸命な頃、少なからぬ数の日本人女性がアメリカの土を踏み始めた。彼女たちはたいていアメリカ軍兵士と国際結婚し、太平洋を渡ることを決心したのである。やがて、そうした女性たちの中に創価学会の信者も、ちらほら混じるようになっていった。一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本国内で盛んな折伏活動が行われていた頃の会員である。

 彼女たちは、アメリカに渡っても熱心にご本尊を拝むものが多かった。心細げに生活を始めた異国の地で、つらいことが重なれば、信仰によって、その不安の解消を図ったこともあったと思われる。

 江成常夫著『花嫁のアメリカ』は国際結婚してアメリカに渡った日本人女性九一名について、著者が取材を行った結果をまとめた本であるが、この中で著者は次のように述べている。

 さまざまな信仰が、花嫁たちの生活のなかに溶け込んで、日常の心の大きな支えになっていた。そうした多様な宗教のうちでも、とりわけ目立ったのは、日本の新興宗教だった。

 ここで新興宗教といっているのは、同じ頁に載せられた写真から判断しても、明らかに創価学会のことである。その写真の部屋には、ご本尊が置いてあり、創価学会の初代会長牧口常三郎と二代会長の戸田城聖の写真が額縁に収まっている。とくに宗教に関心のない人が調査しても、国際結婚した女性の中における、創価学会の信者は、最近においても目立つということであろう。

 国際結婚によってアメリカに渡った女性の数は、一九五五年ごろがピークとされるが、六〇年代まで余波が続く。当然、アメリカ在住の創価学会信者の女性もしだいに増える。彼女たちのあいだで、渡米後も信仰を続けていくための拠りところ求める欲求はだんだん強くなったと思われる。

 一九六〇年十月、創価学会の第三代会長に就任したばかりの池田大作の一行が、ハワイを第一歩に、南北アメリカの訪問に旅立ったのは、そうした女性たちについての情報が、創価学会の本部にもだいぶ蓄積された頃であった。

 創価学会がアメリカ布教に本腰をいれるようになったきっかけの一つに、こうした国際結婚による、渡米女性の存在があったことは、疑いをいれない。創価学会側の認識でも、また研究者が明らかにしてきたところでも、このことは共通している。

 たとえば、この六〇年の正式布教の直後に、小平芳平が、創価学会の機関誌である『大白蓮華』第一一五号に、「アメリカの学会員」と題して次のような記事をよせている。

 アメリカの学会員のなかには、日本で入信してアメリカへ渡ったものと、アメリカで折伏されて入信したものとがある。

 日本で入信してから、商売の関係や、勤めや、留学のために渡米したものもあるが、一番多いのは、日本の婦人がアメリカの軍人などと結婚して夫の郷里に帰ったものである。

 彼女たちは、日本でも世間からは尊ばれるほうではなかったが、アメリカへ渡ってからも「戦争花嫁」というふうによばれ、この言葉もかというとどち軽べつの意を含んでいる。

 しかし、今回の会長渡米に当たってはこうした学会員がまっ先に先生をおむかえし、指導をうけ、広宣流布を誓ったのである。

 小平も、十月の訪米団の一員であり、現地での見聞をもとに記したのである。ここには、当時の創価学会が、国際結婚した女性の役割をどう認識していたかの、一端があらわれている。

 一方、初期の創価学会のアメリカ人教育についての、学者による研究もいくつかあるが、そのうち、デイターという学者は、次のような見解を示している(Soka Gakkai, builders of Third Civilization)。まず彼は、アメリカにいる日本人の創価学会の信者を、以下の四つのカテゴリーに分けている。

@ アメリカ人と結婚した日本人女性。夫はたいてい軍人であるが、ときには民間人であることもある。

A アメリカに移民した日系人。

B 日本の会社の海外駐在員。

C 日本人留学生

 もっとも、BとCは数からすれば、わずかであると述べている。アメリカ人の信者は、このうち主に@のルートによって入信することになるわけである。ちなみに、デイターは、典型的アメリカ人入信者像というものをこう描いている。すなわち、二〇代及び三〇代の白人で、軍人だが将校ではなく、創価学会信者の日本人女性と結婚した人である。また、彼らの学歴は概して低く、病気や不安から短期間に努力せず救われる何かを信じたいと感じていたとも特徴づけている。さらに、やや皮肉をこめて、彼らの多くは、創価学会の教えを信じて入信したのではなく、自分の妻をなだめるために、入信したのであるとつけ加えている。

     組織的布教の開始

 さて、一九六〇年の海外布教開始の状況がどのようなものであったかについては、創価学会側のさまざまな資料がある。同年十月五日付けの聖教新聞は、まだ比較的痩身であった池田大作のほか、当時副理事長でのち第四代会長になった北絛浩や、同じく青年部長でのち第五代会長となった秋谷栄之助などが機上の人となる写真を載せている。一行は六人であった。

 だが、そのとき彼らを迎えた各地の信者は、まだ微々たるものであった。たとえば、ハワイのホノルル空港に出迎えた各地の信者は、わずかに三〇名ほどであった。それがこの地の全会員であった。また、彼らは、ほとんどがこのとき、初めて顔を合わせるという状態であった。

 このホノルル空港での出迎えのときは、迎える側に、今日のように組織や情報システムが整っていなかったから、迎える側が到着時間の時差を計算に入れず、訪問した一行は、空港を降りたものの、出迎えを見つけることができず、途方にくれるというハプニングさえあった。(溝渕弘志著『世界平和への旅路』)

 それでも、国内での折伏活動の成果の余勢をかうかのように、一行は、訪問地において次々と支部や地区の結成を表明していった。ハワイ、サンフランシスコ、ネバダ、シアトル、シカゴ、ケンタッキーワシントン、ニューヨークに地区(支部より一つ下位の組織単位)が結成され、ロサンゼルスとブラジルに支部が結成された。1ヶ月近い訪米の最後には、これらを統轄する「アメリカ総支部」が結成された。海外初のこの総支部は、国内のものを入れて数えると、十一番目に当たった。発足したアメリカ総支部の全世帯は約三〇〇であった。

 もちろん、こうして即座に支部や地区が結成されるのには、国内および現地での、それなりの下準備があってのことであるが、ともかく、アメリカでの組織的な布教はこのときに始まる。今日では、NSA(アメリカ日蓮正宗・創価学会)の信者数は、教団の発表するところで、二〇万人以上を数えている。そしてその八割以上が非日系人信者である。実質的信者数は、その半分以下とみなすのが適当であると、私は考えているのだが、それにしても、この数、そして非日系人の占める割合は、日本から布教を試みた教団の中では、群を抜いて多い。

 創価学会自身が、アメリカ布教開始当初から、やがてこうなることを予想していたかどうか定かではない。池田大作にとって、会長就任以来、初めてのことであったこの海外布教の目的は、公式的には次の三点であったと発表されている。すなわち、大客殿を建立するための材木の買い付け、海外会員の指導と外国人の折伏、そして、創価学会の国際化を前にしての外国事情の研究ということである。

 一番目の点は、海外布教に直接には関係ない。二番目と三番目の点が、海外布教の内容を示している。最も緊急の課題だったのは、海外会員の指導、つまり実質的には、国際結婚して海外に渡った女性会員たちへの教化活動ということであった。外国人の折伏と、創価学会の国際化が、具体的にどのような形で進行することになるかまでは、はっきり予測できなかったに違いあるまいが、これ以降、創価学会が、海外布教にかなりのエネルギーを費やすようになるのは確かである。

     急速な変容

 NSAというのは、Nichiren Shoshu Sokagakkai of Americaの略称である。教団発足当初のNichiren Shoshu of Americaであり、その後、一九七三年から七九年までは、Nichiren Shoshu Academyとしていた。だが、略称はいずれもNSAで通している。

 今日では、SGI(創価学会インタナショナル)という国際的組織があって、創価学会もNSAもこの傘下に属するシステムとなっている。だが、布教当初は、むろん、創価学会の海外支部という性格であった。一九六三年五月に、アメリカ創価学会としての法人格を取得し、六六年十二月にアメリカ日蓮正宗(NSA)という名称を掲げているので、形式的に言えば、それ以降がNSAということになるのであるが、以下ではとくに区別する必要のない限り、初期の活動も含めて、NSAとして総称していくことにする。

 NSAの歴史は、その前史を含めても、まだ四半世紀ほどである。しかし、この短い間にかなりの変容ぶりを見せている。あらかじめ、これまでの展開過程をいくつかの段階に分けて紹介しておいたほうがいいであろう。

@ 布教前史――一九五〇年代後半。組織だった布教は、まだなされず、個々の信者があまり相互の連絡なく存在していた。大半は、アメリカ人と結婚した日本人女性、もしくはその夫である。彼らの結集が着手され始める時期である。

A 布教第一期――一九六〇年〜六〇年代後半。前述のように組織的布教が開始され、支部や地区が相次いで結成された。当初は、国際結婚した女性の組織化が主たる目的であったが、やがて非日系人への布教へも力が注がれるようになる。

B 布教第二期――一九六〇年代末〜一九七〇年代半ば。創価学会のアメリカ支部というより、アメリカ日蓮正宗という独立性が強まり、非日系人信者、とくに白人の信者や学生信者が急激に増加するときである。「ストリート折伏」と呼ばれる、街頭やレストラン等での、見知らぬ人への折伏活動が始まった。これによって多くの人がNSAを訪れたが、また、多くの人はごく短期間で去っていった。

C 布教第三期――一九七〇年代後半以降。信者の増加曲線は、停滞もしくは下降の傾向を見せ、新たな信者獲得よりも、内部固めに力が注がれるようになった。「ストリート折伏」は中止され、座談会の回数も減った。アメリカ社会に定着する、あるいはそこで生きのびるための方策が探られ始めた時期である。

  きわだった変化は、一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて生ずるのであるが、そこに至る過程には、さまざまな問題が含まれている。すでに述べたように、アメリカへの進出は、アメリカ軍の日本占領、その結果としての国際結婚の多発ということが、一つの引き金になったということは間違いない。けれども、アメリカを含めて、海外へ「市場」を拡大するという方針が出されるのは、国内での入信者の増加がもたらす、必然的ななりゆきであったとも解釈できる。

  事実、池田は、アメリカ巡教に続いて、世界各地への巡教を、その後かなり精力的に行なっている。一九六一年の十月には、西ドイツ、フランス、オランダ、イタリア、イギリスなど、欧州九ヶ国を歴訪している。また、アメリカ総支部の結成に続くかのように、六一年一月には、香港地区が、アジアで初めての海外地区として結成されている。海外進出は、いわば、教団としての「意志」であったといえる。

  一方、受容された宗教が、その後どのような展開をたどるかは、現地の文化的、社会的状況にも左右されることは言うまでもない。一九六〇年代は、アメリカにとっては、変動期であった。とくに西海岸はそうであった。以上のような、さまざまな要因が、この新来の教団の展開に関係している。

     最初の杭

 NSAの現在の理事長が、ジョージ・ウィリアムスという名前であると聞けば、たいていの人はアメリカ人を連想するであろう。もちろん、G・ウィリアムスは、現在はアメリカ市民である。だが、もとは日本人である。貞永昌靖というのが最初の名前である。彼は、一九七一年にアメリカ市民権を獲得し、名前をジョージ・ウィリアムスと改名したのである。

 貞永は、NSAの草創期を考えるに当たっては欠かすことのできない人物である。彼は、一九三〇年にソウルで生まれた。明治大学四年に在学中の一九五三年に、母親に勧められて、創価学会に入信した。大学卒業後まもない、五五年一月に、アメリカ留学を決意した彼は池田のところを訪ねた。池田は、このときの思い出を、後年次のように綴っている。(『ワールド・トリビューン』一九八一・一・一・)

 時計の針はすでに午前零時を回っていた。「アメリカに留学したいと思います」

 彼は胸に秘めたアメリカ永住の気持ちを熱を込めて打ち明けるのであった。当時、海外渡航といっても、まだ夢のように思われていたころである。

 「どんなに苦しくとも頑張れるか」

 「頑張ります」

 彼はきっぱりと言い切った。

 私は心ひそかに“彼ならば何かを成し遂げるにちがいない”と直感した。いな、その燃えるがごとき瞳の奥に、一身をなげうっての渡米の覚悟をみた。

 「よし、君が行くならば、私も必ずアメリカに行こう」

 こう固く約した。私はこの一瞬、アメリカ広布の展望を胸に描いていたのである。

 だいぶドラマチックに表現されているが、実際この通りの会話が交わされたかどうかは知るよしもない。ただ、このときの貞永の渡米決意は固く、その後の貞永のアメリカにおける活動が、創価学会のアメリカ進出の足場を築いたことは疑いない。

 一九五六年十二月の男子部総会で、渡米決意を語った彼は、翌年五月、ロサンゼルスへと飛びたった。アルバイトをしながら、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、ジョージ・ワシントン大学、さらにメリーランド州立大学大学院に進んだ。こうした一方、国際結婚して渡米した女性及び彼女たちの夫を、座談会へ集結させるための活動を開始する。貞永は、一九六〇年に組織的布教が始まるその直前の折伏活動や座談会の様子について、次のように述べている。(聖教新聞、昭和三五年三月一〇日)

 わたくしのいるワシントン近郊の学会員は、毎週一回の座談会と月に一度の幹部会を開いて、本部幹部会の指導をわれわれにあてはめてやっています。

 折伏はアメリカ人と結婚した日本婦人のお友だちをたずねて、百マイル、二百マイルの先まで車をとばして行く。まず、日本人を見つけようというのが、現在精いっぱいの活動ですね。座談会はご主人同士の座談会と、奥さんたちばかりの座談会とに分けてやっています。ほかに行事がありませんから、会いたくてたまらないという気持ちが、座談会に満ちています。

 それに読むものがありませんから、聖教新聞は広告まで読むということになっちゃいます。

 この頃、貞永が知っていたアメリカ人は七名で、すべて日本女性の夫で三〇代であったという。非日系人への折伏は、まだ本格化していないことを彼は述べている。

 一九六〇年にアメリカ総支部ができたときには、北絛浩が総支部長になっているが、北絛は日本在住であり、実際は貞永が、総支部幹事と男子北米部隊長を検認して、指導に当たった。その後、六三年八月に欧米本部が設置されたときは、その本部長に任命され、また、現在はNSAの理事長である。

 貞永は、NSAの草創期に重要な役割を果たしたが、六〇年代から、非日系人の信者が増加する時期にも、特筆すべき布教活動を行なっている。それは、一九六八年から、七四年にかけて、全米各所で大学セミナーを開催したことである。これについては後述することにする。

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