「バッド・ボーイ」の改心

 戦後、日本に多くのアメリカ軍関係者がやってきたのであるが、彼らの中からNSAの初期の活動を支える人物も生まれることになった。そうした人々のことを考えるとき、サンタモニカにあるNSAの本部で面談調査した一人の支部長の話を思い出す。彼は、私が型通りに、最終学歴を尋ねたときに、「教育は、監獄の中で受けたよ!」と答えて、ちょっとびっくりさせたものである。

 彼は、ものごころついたときには、悪の道にあった。一九三七年に、ニューヨークのハーレムに黒人の子として生まれ育ち、教会まで稼ぎの場にしていた。礼拝に来る人たちが脱いだコートや上着から金を失敬していたのである。また、教会のワインを盗み飲んで、酔っぱらうこともしばしばだった。ティーンエイジとなっても、窃盗、暴行や傷害の罪を重ね、まともな教育も職場も経験しなかった彼だが、徴兵だけは免れることはできなかった。空軍を志願した。

 空軍の仕事で、沖之永良部島にいったことがあった。一九五五年のことである。そこには、教師をやっている友人がいて、ときどき、彼の家を訪ねた。部屋には、戸田城聖の写真が、何枚か置いてあった。ふざけてこう尋ねた。「これは君のお父さんの写真か?」それが、日本のある宗教団体のリーダーの写真であることは、初めて知った。創価学会についての説明も受けたが、しかし、そのときは、何の関心も抱かず、それきりであった。

 一九五八年、埼玉県の所沢にある基地に勤務となって、彼は日本にやってきた。だが、ここでも「留置場にぶちこまれるのに二四時間かからなかった」のである。ヤクザとの喧嘩が原因であった。そうしたある夜、彼は、所沢のとあるバーに飲みにいった。一人のホステスがささやいた。「あとで私の家に来ない?」もちろん、彼はうなずいた。こうした状況の下ではまったく正当な期待をもって、彼は教えられた家を尋ねあてた。

 当然、彼女が一人で待っていると思いこんで、玄関に立った彼は、そこに多くの履き物が並んでいるのを見てびっくりした。怒って帰ろうと思ったが、何となく中を覗いてみる気になった。部屋にはいると、いろんな種類の人間が一斉に題目を唱えていた。老人、若者、派手な服装の人、みすぼらしい格好の人。彼にとって、この光景は、少しばかり、ショックであった。というのは、彼の経験では、アメリカで、社会階層の異なる人々が、こうしたまじわりをもつさまは、記憶になかったからである。

 彼が入出すると、人々は題目を唱えるのを止めた。そのときのリーダーは、英語をしゃべれなかったが、彼に向かって、「ユー・ナンミョー・ホーレンゲキョー」とだけ言った。その真剣さに呑まれて、彼もその場で「南無妙法蓮華経」を唱えた。こうして、創価学会の座談会なるものに初めて接した彼は、その二週間後に、御本尊を得た。それからの彼はしだいにおとなしくなっていった。一九六〇年にアメリカに帰る頃は、だいぶ熱心な信者となっていた。

 日本にいた頃、彼は、のちアメリカ総支部が結成されたとき、その婦人部長となる柏原ヤスと会っている。彼女は、創価学会が近くアメリカに進出するのだと語った。実際にアメリカにやってきた創価学会の組織と、彼が出会えたのは、その四年後の一九六二年のことである。そして貞永昌靖を知る。貞永は、それまであまり教学について学ぶ機会のなかった彼に、基本的な教えを説ききかせた。貞永のアドバイスによって確信の深まった彼は、やがて日系人を中心とした座談会活動を自宅で開くようになる。

 「女性ばっかりが、集まったよ。でも皆奥さんで、それに赤ん坊までいたよ。」

 彼はおどけた口調で、そのときの様子を説明してくれた。

 彼は、現在は、コンピューター関係の職についている。入信後、勉強をやり直し、最近カレッジを卒業したのだという。面談の終わりに、彼は片目をつぶってこう言った。

 「この話を本にするときには名前を出さないでくれ。今の友人たちが昔の私を知ってこわがると困るから」

 この支部長の場合は、デイターが描いたような、初期のアメリカ人信者像の典型とはやや異なる。人種の面でも、動機の面でもである。だが、これもNSAの草創期における、非日系人メンバーの入信プロセスの一つの類型である。黒人として社会的にはみ出していた階層の出身。軍人として来日、そこで折伏活動盛んなりし創価学会のメンバーと出会う。場所は酒場で相手はホステス。誘われた座談会に、親近感をおぼえて入信。

 このように、黒人が、内面に鬱積したものを表出する場として、創価学会の座談会を、無意識のうちに選んでいたということもあったかもしれない。入信当時、彼は、家族はいなかったし、友人はいなかったし、空軍の仲間は、誰一人として彼のことを快く思っていなかったという。彼自身の表現を借りるならば、創価学会は、「人々と友人になれる最後のチャンス」を与えてくれたわけなのである。

 面談調査の最中、彼はたびたび、自分について、「バッド・ボーイ」であったという言い方をした。すっかり人間が変わったことが、自分でも不思議なのかもしれない。こうした変化は、したがって、以前の彼を知る人にとっても、驚異であった。このような変化は、創価学会の理論に基づいて解釈すれば、一つの「現証」であり、また、人間革命の生きた見本ということになろう。

 現証というのは、文証、理証とともに、「三証」をなし、創価学会の折伏の際には大きな武器となる考え方である。すなわち、創価学会の説いていることの正しさは、文書によっても、論理によっても、また現実の結果としても証明されるという論法である。現証は、英語では、アクチュアル・プルーフと訳されている。文字通り、現実に証明されるというわけである。アメリカにおける体験談においても、しばしば登場する、重要な用語となっている。

 ひどい「悪人」であった人間が、入信後、すっかり人が変わったということになれば、これはNSAの教えの正しさのこの上なき証明という風に訴えることもできる。「私がこのように変わった。これがもっとも良い証拠ではないか。」このロジックは、宗教においては、相手を説得しようとする場合に、比較的よく用いられるものである。こうした変化は、最近では、また「人間革命」としても理解されている。信心によって宿命の転換がなされ、人間が変わるというわけである。

 自らの体験を素材にできる布教者というのは、他者の説得には利点をもつ。なんといっても、迫力が違う。体験に基づいた話とそうでない話というのは、聞き手は何となく判断できるものである。もっとも、聞き手への効果のみを考えれば、体験を一つのストーリーにしたてるテクニック、という問題があって、話術のみで人を感動させられる布教者も中にはいる。だから、体験に基づいていれば、説得力がある、という具合に単純に一般化はできない。それでも、布教者の心の世界に話を限れば、体験に基づいて話せるということは、常に訴えの根拠をもつことになり、うしろめたさは少なくなる。

  
 七年目の転機

 一九六七年は、アメリカでの運動の性格がいくらか変わったと、エルウッドは述べている(The eagle and the rising sun)それはまず、日蓮正宗の僧侶が初めてアメリカにやってきて寺院を建てたことである。これは、アメリカでの活動が、日蓮正宗の活動として正式に認められたことを意味する。そこで、創価学会という言葉は使われなくなる。また、この年、初めて鼓笛隊がコンサートを行ない、サンフランシスコでは、コンベンションが行なわれた。つまり、NSAの組織化された行動が、人々の目を惹き始めたということである。もっと重要なのは、座談会(ディスカッション・ミーティング)における日本語の使用が禁止されたことである。これによって、NSAは真にアメリカの教団になったというのが、エルウッドの考えである。

 ここで、一九六七年が、正式の布教開始より満七年が経過した年であるということは、注目してもよかろう。創価学会には、その活動を七年ごとに区切る考え方がある。「七つの鐘」という言葉があるが、これは、創価学会は七年ごとに大きな歩みをしてゆき、それが七回重ねられることによって、大きな目的が達成されるという考えである。第一の鐘は、創価学会の前身である、創価教育学会が創立された一九三〇年から七年間の時期である。第七の鐘は、一九七九年に終了した。この年、池田は三代会長を辞任し、名誉会長となっている。

 アメリカの布教においても、このときは、七年を一つの区切りにするというやり方が適用された可能性がある。一九六七年五月、カリフォルニア州エチワンダにある妙法寺の「御本尊入仏式」に当たって、池田が述べたメッセージについて、NSAの機関誌である、『ワールド・トリビューン』は、次のように紹介している。(五月十八日付)

  池田会長は、アメリカ本部の非常な発展について語り、この七年間に大いなる生長の家をとげたことに関して、メンバーを祝福した。(中略)会長はまた、われわれの活動が新しい段階にはいりつつあると述べ、困った事態が生じないように、常識をもって行動すべきことを勧めた。(原文英文)

 たまたまの偶然と表現していいのか、実際に、七年目あたりで、NSAが大きな転換期を迎えたことは確かである。一言で言えば、それは、創価学会のアメリカ支部という形から、アメリカ日蓮正宗としての、独自性の強まりである。英語が、種々の活動の際の第一言語となったことは、教団内におけるコミュニケーションにおいて、非日系人が、むしろ優位な条件の中に置かれたことを意味する。支部長や地区長の中で、非日系人の占める割合が増えてきたのも、重要である。

 国際結婚した女性たちが、活動の中心的メンバーであり、指導的役割を果たしている時期は、数年にして急速に終わりを告げる。圧倒的な数の非日系人が、日蓮正宗という耳なれぬ仏教宗派に所属するようになった。もっとも、大部分のアメリカ人にとっては、そもそも仏教という概念にしたところで、何やら神秘主義の匂いのする東洋宗教、というほどの認識がせいぜいであったから、どれが伝統的な宗派で、どれが新興勢力かについての判断など生まれようもなかった。多くの日本人が抱いたような種類の警戒心はなかった。ともあれ、こうしてNSAに転機が訪れる。

     「時の利」

 布教第二期の一九六〇年代後半は、信者の構成に劇的な変化が見られたのだが、とりわけ、非日系人、それも白人の信者の比率が急上昇してきた。まず、ロサンゼルス近郊の町、たとえば、ハリウッド、サンタモニカといったようなところで、その傾向が現れ始めた。白人のとくに若者たちが、熱心に座談会に出てくるようになるということは、NSAの日本人リーダーたちにも予想外のことであったようである。このように、非日系人の間に急速に信者を得た背景には、初期の活動の蓄積と、日本の本部からの組織的テコ入れがあったことは言うまでもない。だが、それと同時に、NSAの布教者たちにとっては、当初予測しなかった有利な状況が、アメリカには進行しつつあった。

 布教第一期から第二期にかけて、つまり一九六〇年代は、アメリカの若者の間に、いわゆる「対抗文化(カウンター・カルチャー)」が流行した時期でもある。既成の価値観に反発し、新たなる体験を求めるこの突然の文化現象は、西海岸を中心に、主に若者の間で起こったのであるが、その一部として、東洋宗教への関心も高まりを見せた。チベット仏教、禅、あるいはカルトと称されるさまざまな宗教運動が若者の間に人気を呼んだ。これを、創価学会への入信動機との関連で見ると、規制の文化に対する抵抗の一形態としての東洋宗教への改宗と理解される場合や、ドラッグに逃避したり、ヒッピー生活を続けることに飽きての宗教的探求と理解される場合などがあったようである。ともかくも、東洋宗教ブームはNSAにとっては「時の利」であったと考えることができる。

 NSAの信者が、カリフォルニア州にかなり集中しているという事実は、この一つの傍証となるだろう。移民社会を基盤に布教活動を行なっている教団であれば、カリフォルニア州への集中は、容易に説明できる。カリフォルニア宗は、米本土では、最も多くの日本人が住む州であるからである。現在では、二〇数万人と言われる。だが、NSAは、日系人移民社会の外に信者の基盤を築いた。とすれば、カウンター・カルチャーのメッカであったという、カリフォルニアの地域的特質は、この時期のNSAの発展と無関係ではないのは明らかである。

 現在のNSAの教団本部は、サンタモニカの美しい海岸線から、東へ垂直に伸びるウイルシャー通りを四〜五〇〇メートルほど進んだ所にある。一九八一年の七月に、ここで約二週間かけて、十五人の信者と面談調査を行なった。そのうち、十一人は非日系人の信者であった。彼らの中にも、この頃の対抗文化の影響を受けたことのある人が、一人混じっていた。

 H氏は、一九四五年生まれの白人である。クリスチャンの家に育ったので、小さいときは、長老派の教会に所属し、サンデー・スクールにも通った。十五歳の頃教会に通うのをやめた。機械工学の専門学校を卒業してからヒッピーとなった。当時、多くのヒッピーが集まっていたサンフランシスコあたりでぶらぶらしていた。ここには、さまざまな新宗教や瞑想集団があった。一年近く、これらをめぐった。彼らが説く精神世界の話は、ときに非常に関心を惹くものがあったが、気に入るものはなかった。インド系の新宗教であるハレ・クリシュナから誘いを受けたこともあった。ハレ・クリシュナは、ひところ日本でも、弁髪に黄色い衣という人目を惹くいでたちで街頭布教をしていたことがあるから、目にした人もいるであろう。

 H氏は、彼らから誘いを受けたとき、彼らが、この宗教にはいると幸せになると言っていながら、彼ら自身が少しも幸せそうに見えなかったので、これは口先だけのことだと感じ、誘いを断った。また、瞑想によって人間の潜在的能力を引き出すというTM(トランセンデンタル・メディテーション)の教祖、マハリシュがきたときも話を聞きに行ったが、教義が単純だと感じ、この集団が多くの金を要求するのも気にいらなかった。

 この他にも、東洋系の宗教にいくつか顔をのぞかせながら、ヒッピー生活を続けていたが、そのうち病気になった。そこで、両親のいるロサンゼルスに戻ってきた。機械工学関係の仕事は制約が厳しいから、その方面では働きたくないと思い、タクシーの運転手となった。その仕事仲間に、NSAのメンバーがいたのである。彼から「仏教の会合に行かないか」と誘われた。一九六七年のことである。

 それまで、いくつもの東洋宗教に接しながら、信者とはならなかった彼が、NSAに入信する動機となったのは、座談会で出会った人々の親しげな、暖かい態度であった。彼らを信じられそうな気がした。仏教の説明もきわめて明快であった。題目をあげるようになってから、人生への態度が積極的になったと、彼は言った。仕事にも意欲が出て、以前は働く気にならなかったエンジニアの仕事に就いた。

 H氏のような例は、いくらもあったようである。既成の文化に対抗しているうち、NSAに接し、何か自分の感覚と合うものを感じ、入信したというパターンである。

     ストリート折伏

 「ストリート折伏」は、多くの非日系人をNSAにひきいれたが、反面、NSAへの悪評も高めた。日本でも、昭和三〇年代から四〇年代前半にかけて激しく行なわれた「折伏」が、多くの人を創価学会へ入信させたけれども、同時に世間からの強い反発を買ったのと似ている。日本では、折伏は友人や知人を座談会へ連れてきて、集団で説得を続けるという形が多かった。また、他宗教の教団へ行って、論争をふっかけるということもあった。アメリカのストリート折伏は、主に、街頭及びレストラン等で声をかけ、関心をもった人を座談会へ誘うというのが通例であった。

 ストリート折伏がきっかけで、入信した女性との面談例について、一つ紹介しよう。彼女は、一九四四年、ロサンゼルスの生まれである。スコットランド系とアイルランド系の混血の父と、フランス系の母をもつ。南カリフォルニア大学で国際関係論を学んだ才媛で、現在は、教団本部に勤務している。彼女は、われわれの調査に対して、いろいろアレンジしてくれたのであるが、面談調査のインフォーマントとして現れたときは、いつもの丁重な応対とは少しばかり雰囲気が異なった。入信前後の体験となると、しだいに話が熱を帯び、どんどん早口になっていった。ついには、筆記するのをあきらめたほどである。体験談になると、急に人が変わったように勢いよく話し始めるというのは、このときに限らず、創価学会の信者の面談調査のときはよく経験した。一種の条件反射のようなものがあるのであろうか。

 彼女がストリート折伏に出会ったのは、一九六九年のことである。夫と二人でレストランで食事をしているときであった。食事が終わるのを待ちうけて、一組の男女が近づいてきた。二人は自己紹介したのち、仏教哲学を知っているかと尋ねた。それから人生について、いろいろ説明があった。話の内容には、訳の分からないところもあったが、二人の快活そうな雰囲気に親しみを感じて、そのまま、とある家で行なわれていた座談会にまでついていった。

 座談会の光景は、まったく見なれぬものであった。先の黒人支部長と同じように、まるきり異なった種類の人間が一ヶ所に集まっていることにも、驚きを感じた。質疑への応答の中には、そんなことはあり得ないと思えるようなものもあったが、反面、なんとなく気に入るものであった。それは、あとから考えれば、少しばかり異様な状態であったという。彼女は、それまれカトリック、バプテスト、長老派教会、ルーテル教会など七つの教会を遍歴した経験があった。しかし、表面はきれいごとを並べる信者たちも、裏に回れば、他人のゴシップに時を費やしているということが分かり、しだいに遠ざかった。人生の問題、死の問題は、当時彼女にとって重要な問題であったが、キリスト教会では満足のゆく答えを得られないでいたのである。そうしたとき、突然異質な世界を覗かされた彼女は、まもなく入信を決意し、夫と共に、御本尊をもらいに行く。そのとき、四〇名の人が一緒に御本尊をもらったという。この頃は、初めて座談会に連れられてきてから、一週間ないし二週間で御本尊を手にするというケースが多かったようである。その日のうちにもらいに行ったという人もいる。

 ストリート折伏がきっかけで座談会にやってきた人々に、どのような方法で、入信の勧誘がなされたのであろうか。仏教哲学を論理的に説明するというやり方も一つであったし、親しげな雰囲気を強調するのも一つであった。最も一般的であったのは、ともかく御本尊に向かって「南無妙法蓮華経」を唱えれば、必ずそれが結果となってあらわれてくるという論法である。三ヶ月題目をあげてごらんなさい。それで効果がなかったら止めたらいい。そんな説得の仕方も用いられた。日本の創価学会でも、題目の効果は体験してみなければ分からないということで、「饅頭がうまいかどうかは、食べてみなければ分からない」という勧誘のしかたがあった。論理の運び方としては同じようなものである。

 折伏されて入信し、御本尊を得ても、やがて去っていく者がある。彼らは、そのままほっておかれたのであろうか。ふつう座談会に来なくなった信者に対しては、座談会に出席するようにと再三の勧めが繰り返される。説得に応じる者もいるが、断固拒否する者、転居し、逃げる者もいる。激しい布教法は、中にとどまった者と、外に去った者との差をくっきりと浮かび上がらせる。

 脱会したもの、NSAの用語でタイテン(退転)した者の御本尊をそのまま放っておくわけにはいかない。その場合は、責任者が、なぜ御本尊を返却するかの理由を書いて、「御本尊返却願い」を提出する。それは、たとえば次のような文面となる。ハワイのホノルル支部に所属していた信者の例である。

  一九七二年に、I氏がわれわれのもとに来たとき、彼は精神的に不安定で、御本尊を守っていくことができないことが分かった。自分でそれを守ることができる日が来るまで、彼のリーダーが代わりに御本尊を守ることになった。それ以来、われわれは、何度も彼の家を訪ね、信心するように励ましたが、今にいたっても彼は精神的に不安定で、信心に何の関心も示さない。残念ながら、この御本尊を本山へ返却することをお願いいたします。(原文英文)

 ストリート折伏が、アメリカ社会における布教方法として有効であったかどうかはなかなか判断が難しいところである。これが信者の増加に貢献したことは、まちがいない。他方、入信者の定着率ということになれば、こうした形で入信した人々の場合は、効率が悪かったのは確かである。サンタモニカで面談調査した人々にはストリート折伏の経験者が多かったが、そのうちのある人は一〇〇人以上を入会させたと言い、もう一人は一五〇人以上を入会させたと語った。しかし、二人とも、そうして入会した人のうちで、現在まで信者であるのは、ほんの数人であると述べた。

 けれども、見方を変えれば、たとえほとんどは去っても、いくらかは残るのであり、現にその中から、熱心な信者、さらには布教者的人物が出てきている。たとえば、ストリート折伏を行なった当の本人はNSAを去ったのちも、勧誘されて入信した者が信仰を続け、さらに多くの人を折伏したという例も少なくない。布教者を再生産していくという点では、ストリート折伏は、効果の大きいものであった。

     NSAセミナー

 ストリート折伏は、質より量をという形の布教方法である。この激しく、それゆえ反動も大きかった方法と並行して、より着実な方法もまた、とられていた。それが、貞永を中心として行われた、NSAセミナーである。主に大学生を対象としたこのセミナーは、一九六八年から七四年にかけて、全米の大学六九ヶ所において開催され、合計八四回に及んだ。貞永が直接英語で語りかける「説法」であった。

 一九六七年元旦の『ワールド・トリビューン』には、カリフォルニア州知事就任が決まったレーガンが、同紙の読者に対する新年の挨拶のメッセージを送っている。その他、カリフォルニア所在の銀行の頭取、新聞社社長などからの、読者または、貞永昌靖あてのメッセージが、顔写真共々掲載されている。これは、NSAが、カリフォルニアにおいて、ある程度宗教団体としての『市民権』を得つつあった証拠とみていいであろうが、一般のアメリカ人には、まだ馴染の薄い教団であったというのが事実である。したがって、貞永のセミナーも最初は、それほどの聴衆を集めなかった。しかし、回を重ねるごとに聴衆は増加の傾向にあった。二~三〇〇人が集まったこともある。

 セミナーの活動の記録は、一九七2年に、NSA Seminar Report 1968-1971(以下『リポート』と略記する)として、また、一九七四年に、NSA Seminars(以下『セミナー』と略記する)という本になって、いずれもワールド・トリビューン・プレス社から刊行されている。これを読むと、貞永が、どのような内容のことをアメリカ人相手に講義したのか、おおよそ見当がつく。

 二冊の本に述べられていることが、セミナーで講義された内容とほぼ同一であるとすると、講義のレベルは、大学の一般教養での仏教学概論程度であろうか。だから、仏教にうといアメリカ人学生には、必ずしも、平易でない面もあったろうと思われる。内容は大きく分けると、仏教の基本的概念、天台大師の役割、日蓮の生涯、法華経の内容、日蓮正宗で重視する基本的用語などについての説明となっている。次のような用語は、日本文化を知る講座人でも知らない人が多いのではあるまいか。

 「五綱」、すなわち教、機、時、国、教法流布。「因果倶時(いんがぐじ)」。「色心不二」。「一念三千」。「十界互具(ごぐ)」。「依正不二(えしょうふに)」。

 最初の頃はやさしく。そしてしだいにレベルを上げていったようである。説明の仕方次第では、抽象的で、きわめて分かりづらいものになるようなものも含まれているが、貞永は、非常に噛みくだいて説明している。これは、教義を現実生活にひきつけて説明することの巧みであった戸田城聖以来の伝統をふまえている。十界論を例にとってみよう。

 六道輪廻で知られる、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六界に、声聞、縁覚、菩薩、仏の四界を加えた、いわゆる十界は、言葉としては、日本人には比較的知られた方である。一般的には、これは一種の世界観として捉えられている。だが、戸田は、十界を、現実の人間の有様と重ね合わせて説いた。貞永も基本的にこの立場を守っている。十界はいずれも人間の心の状態を示しているという解釈が根底にあるから、十界それぞれの訳語は、著しく心理的説明に偏っている。

 『セミナー』に示されている、十界それぞれについての定義的部分を、ふたたび日本語に訳し直してみると、次のようになる。

地獄……地獄、すなわち絶望的苦難の状態。

餓鬼……渇望、すなわち、欲求不満の状態。

畜生……動物性、すなわち、本能に支配された状態。

修羅……怒り、すなわち、尊大で自己中心的状態。

人………静寂、すなわち、もっとも平和で落ち着いた状態。

天………歓喜、すなわち、望みが達せられた喜びの状態。

声聞……学習、すなわち、何かを探求する心の状態。

縁覚……専念、すなわち、何かを達成する充足感。

菩薩……悟りへの熱望、すなわち他人の幸せのために尽くす状態。

仏………悟り、すなわち、人生のあらゆる局面を思うままにできるエネルギーと喜びと力をもった状態。

 これらのそれぞれには、さらに具体的な説明が加えられている。たとえば、修羅のところを見てみよう。

  たいてい相手を打ち負かそうという歪んだ欲求によって動機づけられているから、怒った人は、心が乱れ、自分の行動を、たとえ間違っていても、それを正当化しようとする。今日、これほど多くの離婚が起こるのは、これが一つの原因である。一人の女性が高速道路をまちがって進んだ、燃料切れを起こした、あるいは電話料金を支払うのを忘れたとしよう。彼女の夫は、すっかり腹を立て、急にえらそうにする。逆に、もしこの男が、妻の誕生日を忘れたり、突然のお客を夕食に連れてきたりすると、「愛らしい女性」は悪魔と変ずる。怒った人間は、新しい考えや建設的な批判にも耳がふさがってしまう。

 言うまでもなく、伝統的な教義解釈からすれば、多々異論が生じよう。そこまで立ち入ることはできないが、こうした解釈をしたことによって、少なくとも、アメリカ人にはきわめて分かりやすいものになったという点だけを指摘しておきたい。

 『セミナー』の助言には、このセミナーがどういう意義をもつものであったかの、貞永自身の解説がある。彼は、アメリカの若者が、現代社会の病根や社会の非人間性を解決しようとして、社会から落ちこぼれていったということ、そして、既存の学問や価値体系を破壊するなかに、コミューンや非暴力主義の道の代わりに、ドラッグや自己放棄の道を選ぶようになったことを指摘したのち、次のように述べている。

  一九六七年と六八年にNSAのメンバーとなった、最初の若いアメリカ人たちは、日蓮大聖人の人生哲学を実践したことによって、自分たちの人生に重要な発見をし始めた。彼らは自分たちの存在に新しい価値を発見し、放棄していた学校、家族、仕事へ戻り、真の世界市民としての責任感を抱いた。彼らが「ヒッピーからハッピーへ」と変貌した話は、アメリカの教育の革新における、新たな一章となり始めた。

 序言はさらに、このセミナーから、NSAの学生組織が育ったこと、そして、こうしたグループが、六〇の大学で活動していることを述べている。若者たちの間に、メンバーが増える背景には、貞永のこうした活動があった。

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