「ハッピー」信仰

 貞永の講演には、それなりの理論武装があって、それが学生たちを惹きつけた一因と考えられるが、他方に、とにかくこの世で幸せになることが、人生の最大の目的である、というむしろ感情に訴える主張も一貫してあった。これは、セミナー以外の布教の場においても共通していた。

 NSAの信者への質問紙調査の結果を見ると、彼らが、入信時にかなりの悩みを抱えていた人々であり、また入信後は、生活がいろんな面で向上したことを感じている人々であることが分かる。悩みや不満を解決したい人がこうした宗教に入信するのであろうし、それで満足しなかった人は、どんどん教団から離れていくのであろうから、当然と言えば当然の結果かもしれない。それでも、その満足の仕方に、あるパターンが見えてくるのは、布教の場面で強調されることが投影していると考えられよう。

 カリフォルニアの信者を対象に、一九八一年に行なった質問紙調査の結果から、いくつか具体的な表現を拾ってみよう。これは、NSAに入信後、どのような体験が得られたかという問いに対する回答である。(原文はすべて英文)

 「財政状態が良くなり、かなり裕福になった。肉体的にも前より元気になった。ものの見方がずっと積極的になり、希望と活力がぐんと増した。(一九二九年生、男性)

 「家族の状態が一〇〇%改善された。私は、十七歳のとき、両親から逃げて家を出たが、今は幸せであり、私を不幸せにしていたのは、両親ではなく、自分自身であったと気づいた。」(一九三〇年生、女性)

 「題目をあげてから、刑務所を出られた。……ドラッグをやめ、勤行の力を知った。周囲の人とうまくやれるようになり、とても幸せと感じる。自分の仕事をもち、すべてうまくいっている。」(一九三四年生、男性)

 「かろうじて生きているという状態の、脳性小児麻痺の子供が一人いて、夫は去り、お金は全然なかった。仕事も食べ物もなかった。ところが、御本尊を拝んだら、娘はすばらしい病院にはいることができ、新しい夫が見つかり、二人の元気な娘もできた。素敵な家と車三台が買えた。でも一番大事なのは、私が幸せな妻になり、人生は御本尊があれば勝てる挑戦であると気づいた幸せな人間になったことである。」(一九四〇年生、女性)

 「全部挙げたら、千頁位必要だと思うが、重要なものだけいうと、家族の関係がすばらしいものになったこと、自分が価値ある人間と思われてきて自信ができたことである。」(一九四八年生、女性)

 「友人が癌であったのが元気になった。自分は、前と比べて外交的な性格となり、ものごとの結果にくよくよしなくなった。」(一九五七年生、男性)

 このような表現は、ほとんどの回答に見つけることができる。たいていの人が、入信後の変化をこのように記述するというのは、布教・教化の場での一つの訓練の結果であるといえる。チャンティング(唱題、すなわち題目を唱えること)によって、人生があらゆる面で改善されるというのは、NSAの布教者にとっては、いわばセールス・ポイントである。入信した人々がそれを述べたてるのに不思議はない。

 「ハッピー」という言葉は、そうしたさまざまな「現証」を集約する言葉として機能している。健康になること、裕福になることの具体的内容である。幸せにならなければならないというのは、至上命令に近くなっている。

 幸せの象徴は、たとえば「ほほえみ」である。だから、一時期、NSAが発行する報道写真に登場する人々の表情は、つねに笑いで満たされていた。ハッピーという言葉がこれほど重要視されるのは、信者がかつて抱えていた悩みや不満の大きさと背中合わせであろう。信仰の目的を「幸せ」という言葉に凝縮し、その具体的手段を唱題という行為に集中させた。目的と手段の明快さが、この時期にはとくに顕著であった。

     多国籍宗教へ

 ストリート折伏、NSAセミナーなどを契機に入信した非日系人に対しては、その後、座談会が、信仰の継続および深まりに一役果たす。その頃の座談会活動はきわめて盛んで、ほとんど毎日のように人々は集まった。「南無妙法蓮華経」と題目をあげ、体験談を発表し、新しくやってきた人に御本尊の力の偉大さをあれこれ説明した。こうして、非日系人信者は日増しに多くなって行った。信者の中で非日系人の占める割合のほうが多くなり、アメリカ社会になじんだ組織ということになれば、創価学会は「多国籍宗教」化したと言うことができる。

 多国籍宗教という概念は、まだ新しいものである。宗教学では、世界の宗教をいくつかの類型に分けるということをときどきやる。その分け方の一つに、世界宗教と民族宗教という区分法がある。民族の枠を越えて広がり、普遍的な性格をもっているか、そうでないかが基準である。世界宗教の代表はキリスト教、イスラム教、仏教であり、民族宗教の例としては、神道、ユダヤ教、道教、ヒンズー教などが挙げられる。原則としては、この考え方に同意しても、実際に、個々の宗教を詳しく見るなら、この分け方は、ずいぶん問題が多いことに気付く。

 ややもすれば、世界宗教の方が優れていて、民族宗教は十分発展していないものという価値判断が、無意識のうちに生じてしまう。また、民族の枠を越えるとは具体的にどの程度のことを指すのかというと、判断がひどく難しい。道教やヒンズー教の信者が、すべて同一民族に属するというのは、中国や、インド亜大陸の民族的複雑さを無視している。また、現在のユダヤ教など、方向が逆で、ユダヤ教に改宗したからユダヤ人なのだという考えがある。さらに、近年は、小さなセクトでも、民族や国境を越えて広がるケースが少なくない。宗教そのものが、非常に国際化してきている。それらをいちいち世界宗教と呼んでいては、従来の概念に必要以上の混乱を招く恐れがある。

 そこで、近代の宗教現象を考えるには、こうした古典的な二分法に固執せず、多国籍宗教という新たな概念を導入したほうが、便利ではないかということである。この言葉自体を初めて用いたのは、中牧弘允である。「多国籍企業」からの借用であるが、単に思いつきの借用ではない。今日、多国籍化は、さまざまな分野にほぼ同時進行しているように思われるので、たいそう適切は言葉ではなかろうか。

 多国籍宗教という概念は、もちろん、それ自身特別な価値が与えられた用語ではない。民族宗教から多国籍宗教になったということは、レベルが進んだという意味ではない。信者が民族または国家の枠を越えて分布しているかどうかによって分けただけである。価値の問題が加わってくるとすれば、それは、多国籍化によって生じるさまざまな現象をどう評価するかという視点を定めたときからである。

 たとえば、異文化の地に布教すれば、必ず、その宗教は変容する。変容しなければ根付かない。というのは、古今東西の宗教文化の交流史が証明しているところである。その変容の一つ一つの局面を肯定的に見るか否かが、多国籍宗教の評価につながる。だから、民族を越えて広がる面は良いが、教義が表面的理解になっていくのは悪いといった、相反する評価が生まれることもある。

     信者の増加曲線

 この二〇年余りの間に、NSAの信者数が急激に増え、非日系人信者の占める割合もどんどん大きくなったことは繰り返し述べてきたが、ここでその変化を数字で眺めてみることにする。

 一九七二年に刊行された『リポート』は、また、その当時のNSAの教勢に関する調査報告書を兼ねていた。この調査は、その前年に、アメリカの全支部に調査表を配布して回答結果を集計した、きわめて大がかりなものであった。そしてこれ以降、七七年までは、二ヶ月ないし三ヶ月ごとぐらいに全米の信者数の増減に関する統計がとられた。一九七〇年代前半は、依然、信者数が増加を続けていたので、統計作成にも熱がはいったと思われる。

 一方、アメリカの研究者もNSAの急成長に注目し、とくに非日系人が増えていることに興味を示した。日本の創価学会についての研究は数多くあるが、一九七〇年以降は、アメリカにおける発展の実情と、その要因について実証的研究をするものもいくつか出てきた。のちほど参照する二つほどの例は、それぞれ独自の調査表を作成して、信者の特徴をつかもうとしたものである。私自身も、質問紙調査を二回試みた。一回はハワイで、もう一回はカリフォルニアにおいてである。

 こうした教団内外のいくつかの調査結果を見比べてみると、多少数値に違いはあるものの、一九六〇年代後半から一九八〇年頃にかけての、NSAの信者の量的変化、および民族構成上の変化の様子がほぼ推定できる。

 図7で実践の部分は、NSAが集計した数値をそのまま利用したもので、破線の部分はいくつかの判断材料をもとにしての推測によるものである。こうして見ると、信者数の増加が顕著なのは、一九六〇年代後半から七〇年代半ばまでであり、七七年以降はむしろ減少気味となっている。

 一九六〇年代初めの信者は、大半が国際結婚により移住した女性である。したがって、折伏の対象も、主に同じような境遇の女性や、自分の夫などであった。それでも信者の増加はかなり急テンポである。一九六〇年十月の段階で、全米の信者世帯数は三〇〇であったとされている。約一年後、世帯数は二〇〇〇になったと報告されている。一九六〇年頃というと、創価学会の支部ごとの折伏成果が、聖教新聞に毎月掲載されていた。これを見ると、一九六一年十一月の月間折伏成果は、アメリカ総支部が八八世帯と記録されている。内訳は、ロサンゼルス支部が三八世帯、サンフランシスコ支部が二五世帯、ワシントン支部が十五世帯、シカゴ支部が一〇世帯である。

 ちなみに、このときのトップは、関西第一総支部で、五七四〇世帯である。また、支部単位では、熱田支部が七四七世帯を記録している。他方、最小のものは、沖縄総支部で三六八世帯、支部単位では両毛支部の五六世帯である。国内の成果からすれば、まだだいぶ見劣りがした。しかし、翌六二年十二月になると、アメリカ総支部は、一二三世帯で、そのうち、ロサンゼルス支部は五八世帯を占める。同支部は、日本国内でももっとも少ない記録を凌ぐようになっている。

 一九六〇年代後半からの信者数の急激な伸びは、先に述べたように、NSAが非日系人の間に浸透していったことの反映である。アメリカの日系人社会へは、反発力が強く、余り多くの入信者は望めない。国際結婚した女性の数にも限りがある。残る道は、市場を非日系人社会に求めるしかなかったのである。

 さて、実線で描かれた時期はまた、ストリート折伏の盛んであった時期でもある。入会者も多いが、実は、脱会者も相当なものであった。たとえば、一九七三年四月から翌年三月までの一年間で見てみよう。約三万世帯があらたに入信して御本尊を受持する一方で、約一万三〇〇〇世帯が脱会している。このときの信者の全世帯数が五万余りであるから、一年間で、入会者が全体の六割ほど、脱会者が四分の一ほどを占めたわけである。大変な変動である。この数字だけで考えれば、三、四年のうちに信者がすっかり入れ替わってしまう可能性もありうるわけであるが、実際は、入会してすぐ脱会する人が多く、周辺部分が絶えず流動していたと考えなければならない。

 七七年以降信者数が減った主な原因は、ストリート折伏を中止したことである。一九七三年から七六年までは、毎月の入会者が、少なくても一五〇〇世帯、多いときは三〇〇〇世帯と報告されていたのが、七七年の九月から十二月までの三ヶ月で七七五世帯しか入会していない。他方、脱会者のほうは一九七七年になっても、それほど大きな変化はない。このことから考えると、脱会者が増えたからというより、入会者が減ったから、全体として信者数が減少傾向になったと解釈するのが適切なようである。

 信者の増加には、ストリート折伏という方法は決して悪くない筈であるのに、なぜ、この方法が中止となったのであるか。信者を増加させるということのみを目的とするなら、ストリート折伏的な布教活動は、やらないよりやった方がいいと言えよう。しかし、そうしたことにエネルギーを集中させることによって失われるものもまたある。信仰を自分なりに咀嚼している余裕がなくなってくる。どうしても勧誘結果に関して他の信者との競争心がわく。それに、社会的な批判を浴びることも多くなる。

 どのような布教方法をとっても、見方しだいで、メリットとデメリットがでてくる。NSAは一九七六年から七七年にかけてを境に、ストリート折伏のメリットとデメリットの評価法を変え、それがストリート折伏の中止につながったということであろう。さらにこの頃は、日本国内での折伏が、それまでのような激しさをしだいにひそめた時期でもある。あるいは、日本から何らかの示唆があったのかもしれない。

     多様な民族構成

 もともと民族国家アメリカでの布教である。NSAの非日系人信者が増加するにつれ、信者の民族構成も多様化して行った。その変化の度合いがどんなものであったかにも触れておこう。図8を見ていただきたい。

 NSAが一九七一年に行なった調査においては、一九七〇年の時点での実態を報告するとともに、その五年前および十年前の状況を、各支部が推定によって報告するようになっていた。その結果が最初の三つの分である。一九七二年以降のものは研究者によるものである。ただし、対象地域が異なるので注意が必要である。オーのものは、サンタモニカ、シカゴ、ニューヨークの各本部に依頼した質問紙七〇〇部の結果である。パークスのものは、ロサンゼルス、ニューヨーク、および南部の都市で配った質問紙二一五部の結果である。また私のものは、カリフォルニアの信者二八八人からの回答である。

 特定の地域での調査は、その地域の民族構成を反映するので、比較には慎重にならなければならない。ハワイで、私が行なった調査では、NSAの信者のうちで、日系人の比率が四九%となった。これは当然、ハワイでは全人口の約四分の一が日系人であることを考慮に入れなければならない。ハワイの特殊性については、あとで少し触れる。

 図8では、日系人と非日系人の比率の逆転は、六〇年代後半のできごとであったことが分かる。七〇年代前半には、日系人信者は、二〇%以下になり、以後この状態が定着しているようである。また、非日系人の中では白人が大半を占めるが、アメリカの人種別人口比から見ると、黒人の多さが目立っている。

 こうして見ると一九七〇年代には、数の上からは、NSAは非日系人中心の教団になったかのように見える。しかし、すべての面でそれが均一に進行したのではない。図9に移ろう。

 これは教授から助師に至るまでの教学試験を、受験者が日本語で受けたか、英語で受けたかを示したものである。一九七一年から一九七七年の六年間に英語による受験者がずいぶん増えたことが分かる。日本語による受験者は、三五%の増加であるが、英語による受験者は一二六%の増加である。これは非日系人の量的増大の直接的反映である。こうして教学部のメンバーも全体としては非日系人が増えてきたが、上級の地位には日本人が多いという傾向はなかなか崩れなかった。これは、ある意味で、当たり前のこととも考えられる。教学試験となれば、仏教についての常識が、少しでも豊かな方が得だからである。

 けれども、それとは別に、リーダーの上層部には、やはり日本人が占めていることが必要であったと思われる。教学部だけでなく、組織の構成から見て、最上層部は、日系人が占めているという傾向は、今日でも崩れていない。一九八一年の調査時点でも、理事長のG・ウィリアムスは言うまでもなく日系人であるが、その下にいる五人の副理事長もすべて日系人であった。多国籍宗教化しても、布教者の源泉はまだ日本に多くを求めているということであろうか。

     民族の影

 いろんな人種の信者がいることが特徴のNSAであるが、布教する側にとって、民族の壁は問題にならないのであろうか。一般に折伏に際しては、同じ民族の人間を相手にする方がやりやすいことは確かなようである。それは、ストリート折伏を除き、折伏の対象が、基本的には日ごろのつきあいを反映してくるからである。だが日系人は例外である。

 K氏は、一九五〇年生まれの日系人である。九歳のとき、一家が和歌山県からロサンゼルスに移住したので、アメリカに渡ってきた人物である。一九六二年に、母親が、やはり和歌山県出身の日系人の知り合いに折伏されてNSAに入信する。K氏とその父親も同年続いて入信する。それゆえ、彼はかなり若いときから折伏活動に加わる。一九六〇年代前半に活動していた頃は、NSAの中でもっとも若いリーダーであったという。ジュニア・カレッジ(短大)に在学中、教授たちを折伏しようとしたつわものである。彼は。各地で布教に従事してきたので、折伏に際しての、民族ごとの反応の違いなどにも詳しい。

 彼の体験から得られた感想によれば、もっとも折伏がやりにくいのは、日系人である。比較的やりやすいのはユダヤ人である。黒人やラテン系の人は、日系人ほどは難しくないが、白人よりはやりにくい。黒人やラテン系の人は、しかし、ユダヤ人などに比べると、信仰を持続したり、深めたりするのが困難である。日系人とドイツ系人とユダヤ人は、向上心があるという点で共通性がある。おおよそこんな印象を述べてくれた。

 民族によっては、折伏がやりにくいというのは、布教の入り口での困難点である。入信した人々が民族ごとの壁を築いてしまうというのは、次の難関である。カリフォルニアでは、比較的組織の問題は少なかったようであるが、南部の保守的な町では、最初白人と黒人が同じ座談会に集まることに心理的抵抗を示し、しばらくは別々にやったという。カリフォルニアでは、あまりそうしたことが問題にならず、南部では問題になったということは、民族の問題が、それぞれの地域の特性と深く結びついていることを物語っている。

     土地柄の差

 アメリカは広大で、何事にも地域の差は大きい。座談会の雰囲気も地域ごとにだいぶ異なるようである。それはまた、布教方法にも関わってくる。一般的にみた地域的特性ということからしても、やはりハワイの特殊性はきわだっている。

 ハワイでは、日系人の占める比率が、他の州に比べて格段に高い。日系人の人口が、全体の四分の一ほどを占めると言われている。アメリカ本土であれば、日系人の多いカリフォルニア州の各都市でも、大体一%前後といったところである。少し古いが、一九七〇年のセンサスでみると、ロサンゼルスとサクラメントは一・五%、サンフランシスコとシアトルは一・〇%である。

 多国籍宗教となったNSAであるが。このことにはかなりの影響を受けている。本土では、日系人社会は、少数派であるので、かえって非日系人主体に切り変えるのが容易であった。ハワイでは、どこに行っても日系人の姿があり、社会構造に大きな役割を果たしている。布教に際しても、日系人社会の動向は、どうしても無視できない。

 非日系人より日系人のほうが、布教がやりにくいとは、ハワイのたいていのメンバーが述べるところである。非日系人には、NSAは日蓮正宗という仏教の宗派であると説明できる。日系人はそうはかない。どうしても、創価学会のイメージがある。勧誘にうるさい新宗教教団として見る。そういう日本での状況の延長みたいなものをひきずっている。

 また、信者の中で日系人の占める比率が今でも多いということは、日系人対非日系人という図式がだいぶ大きな問題となることを意味する。これは、アメリカ化の不徹底に起因するという言い方をしてもよいであろう。ホノルル以外の村落部のほうが、これはより大きな問題となる。

 マウイ島には、一九七三年に完成したマウイ・コミュニティ・センター(会館)がある。ハレアカラ山中腹の、風光明媚な所に建っている。マウイ支部は、一九七九年の調査当時で、約二四〇名の信者がいるとされていた。支部長はもと軍人。大阪で知り合った現夫人に勧められての入信である。マウイ支部は三つの地区に分けられていたが、ここでの座談会には、日系人と非日系人との壁が感じられる。つまり、一つ一つの座談会が、日系人中心のものと、非日系人主体のものとに分かれる傾向がある。

 ハワイではきわめて混血が進んでいる。「人種のるつぼ」というのは、まさにハワイのためにあるような言葉である。アメリカが人種のるつぼというのは、正確ではなく、アメリカ社会は、「サラダ・ボール」と見るべきであるという説は、最近とみに説得力を増している。つまり、複数の民族がその特性を失うことなく、アメリカという皿の上に共存しているというわけである。これは、調査をやったときに実感したのであるが、面談者や質問紙調査への回答者は、たいていほとんどためらわず、また簡単に自分の民族的背景について、語ったり記述したりする。「黒人」「白人」「ラテン系」「ユダヤ人」。あるいは、スコットランド系とフランス系の混血とか、白人と日系の混血とか。つまり、容易に民族的ルーツを語れるほど混血の度合いは少ないのである。

 これに対して、ハワイは混血が多いし、ときにそれは極端なまでに進んでいる。アンケート調査の結果を見ていたら、十四歳の少女が、父親がフィリピン系、スペイン系、ドイツ系、イタリア系、中国系、フランス系、イギリス系、ノルウェー系の混血であり、母親がフィリピン系、中国系、スペイン系の混血であると回答していた。こうなると、白人とか、黒人とか東洋系とかの区別は不可能、あるいは意味をもたなくなる。そうであれば、民族の壁は、用意に取り除かれてもいいのであるが、日系人の側に、むしろ抵抗があるようである。

 マウイ島の場合、日系人信者に一種の本家意識のようなものが感じられる。つまり、日蓮正宗の教えは、日系人でなければ本当には理解できないというような感情である。これはちょっとうがち過ぎかもしれないのだが、柔道が国際化したときに、国際化は好ましいが、外国人にタイトルを取られるのは悔しいというのに似ているような気がしたのである。本当の教えは日系人でないと分かりにくいという意識の裏には、自分たちが経験した熱心な活動への、懐かしさとか誇りとかがあると思われる。

 ハワイの人々は、本土の人々に比べて、のんびりしている、とよく言われる。いく人かの日系教団の布教師が、「ハワイの人々は向上心が乏しいので、宗教家は苦労する」と言うのを耳にしたが、そうした雰囲気は、勇猛邁進的な宗教活動を鼓舞するNSAの日系人リーダーたちにとっては、余計勝手が違うところがあるのかもしれない。とくに、日本で入信してハワイで信仰を続けているような日系人にとっては、ハワイののんびりムードがいらだつこともあるようだ。沖縄で入信して、結婚後、ハワイに渡ってきたというある日系人女性は、「ハワイでは、あんまり一生懸命勤行しないし、座談会もしまりがない」と、だいぶ不満気に語っていた。

 のんびりムード、あるいはリラックス・ムードは、非日系人の信者ではとくに目立つ。マウイ島のNSAの場合の、日系人、とりわけ戦後の渡米者からの非日系人に対する壁には、生活テンポ全体の問題を含めて考えないと、よく理解できない面があるように思えた。

     アメリカ文化の中での変容

 ロサンゼルスのある支部での座談会の様子を見るため、NSAの中では重要なポストにある、日系人のS氏に車で案内してもらったことがある。その途中で、S氏がハンドルをさばきながらボソッと言った。「昨日、北絛先生が亡くなりましたよ」。北絛先生とは創価学会の第四代会長北絛浩のことである。一九七九年に池田大作が辞任した後を継いで会長となってから、わずか二年後のことである。突然のことでどう答えてよいか分からなかったが、一体このことをアメリカの信者はどう受けとめるのか、そんな関心が急にわいてきた。

 郊外のやや大きな家屋敷のたち並ぶ一角に車が止められ、歓迎の挨拶をする女性に導かれて家にはいった。座談会が始まると、S氏がその場の信者に告げた。「昨日北絛先生が亡くなりました。それで今日は五分間のスペシャル・ゴンギョウ(勤行)をやります」。十数人ほどいた信者の間から軽いどよめきに近いようなものが聞こえた。でもそれはそれ以上の話題を呼ばず、深刻な雰囲気が支配するでもなかった。その日、北絛会長の死が話題とされることは二度となかった。

 創価学会は、会長制をとっている。初代が牧口常三郎で、二代が戸田城聖、三代が池田大作、四代が北絛浩、そして五代が現在の秋谷栄之助である。しかし、これだけの運動体の形成には、強力なリーダー・シップが必要である。とくにカリスマ的指導者が必要である。それを求めるなら、戸田と池田であろう。創価学会の前身である、創価教育学会を一九三〇年に創立したのは、牧口と戸田であるが、実質的な面から言えば、戸田城聖が、創価学会の草創期のカリスマ的人物といえる。彼の死後、第三代会長になった池田大作は、発展期におけるカリスマ的人物ということになる。しかし、四代会長の北絛浩以降は、会長のカリスマ性が重要視されるということがなくなっている。既成仏教の管長のあり方に似た状況となっている。創価学会自体が既成化した証拠ともされる。北絛浩の死が、アメリカの信者にさほどショックを与えなかったというのは、こうした背景も考えなくてはならない。

 日本の組織に、さほど関心とか知識のないメンバーは、池田大作、そしてG・ウィリアムス(貞永昌靖)を指導者のイメージでとらえているようである。G・ウィリアムスの存在は、日本の創価学会の現会長の存在よりもずっと重い。母胎であった組織からの独立性が、かなり徹底してきたことの現れであろう。

 スペシャル・ゴンギョウが行なわれているとき、一人の青年が遅れてはいってきた。すでに勤行を始めていた婦人が立ち上がり、大きく手を広げて彼を迎え入れた。二人はしばらく抱き合っていた。日本の座談会の様子を見なれた者にはこれはちょっとびっくりするような光景であろう。「さすがカリフォルニアですね。」帰りの車の中でS氏にそう言うと、「パリでは座談会中に平気でキスしてますよ。これは習慣の違いですからね。」と、こともなげな返答が返ってきた。

 S氏は、私の目からすると、かなりさばけた考え方をする人で、こんなこともあった。サンタモニカでの調査のあと、サンフランシスコに場所を移すことになっていた。そのことを話すと、彼は、「あそこは同性愛者が多いからね。気をつけなさいよ。」と冗談混じりに言った。私は、ふと多少意地の悪い質問を思いついて、こう尋ねた。「NSAの信者で、同性愛者がいたら、どう指導するんですか。」彼は、「同性愛者かどうかは問題ではない。その人が幸せと考えているかどうかが問題だ。」とあっさり答えた。こうした断言ぶりは、NSAの指導者の特徴なのか、アメリカで布教するとならば、これ位のことは常に考えておかねばならぬのか、今度は私が考えこむ羽目になった。

 だが、何人かの信者と面談を重ねているうち、一つの原則が見えてきた。それは御本尊唯一主義と、個人主義の合体である。アルコール中毒の患者がいようと、ドラッグの常用者がいようと、教団としてその人に、飲酒やドラッグをやめた方がいいといったような指導はしないそうなのである。本人が幸せになりたくて、そのために、たとえば禁酒することが必要であると思ったら、そのことを御本尊に対して決意する、それが重要であるという原則が存在している。

     キリスト教文化との訣別

 アメリカの貨幣には、IN GOD WE TRUST(われら神を信ず)と刻んである。大統領が聖書に手を置いて就任の宣誓をする国である。そうした国での仏教への入信は、たいした問題とならないのだろうか。西南部の保守的な土地だと、かつて仏教者だというだけで、家に爆弾が投げこまれた例があるというのだが。

 今日、多くのアメリカ人は、形式上だけのクリスチャンであることが多くなっていると言われる。それでも、基層文化としてのキリスト教の力は大きい。日本でも仏教宗派への所属は形式的なことが多く、信仰心は希薄であるとされる。だが、たとえば、先祖の位牌を捨てるということになれば、これは周囲に大変な騒動を起こすことは間違いない。同じようなことがNSAに入信したアメリカ人にも生じなかったであろうか。

 入信したら、両親が非常に失望したとか、家庭内でかなりの摩擦が生じたという話はよく聞いた。しかし、カリフォルニアあたりであると、信仰は個人の問題であるという通念が強く働き、決定的な障害は少ないようである。もっともこれは、NSAに現在所属している人ばかりからの情報であるから、入信したもののすぐやめた人の話となれば違った局面も聞けるかもしれない。

 形式的な場合もあるにしろ、それまでキリスト教に所属していた人が、NSAに改宗した理由としては、大きく二つのものを見てとることができた。一つは、キリスト教会の現実の活動のあり方への不満なり、批判なりに基づくもの。もう一つは、キリスト教の教義への疑問が介在しているものである。前者は、たとえば、教会は単なる社交の場であるとか、牧師や神父の言うこととやることとが違うという類のものである。であるから、とくにキリスト教会だけが非難の対象となるようなことがらではない。一般に、既成宗教にあきたらず、新宗教に向かう人の一部には、このような不満を見つけることができる。また後者は「なぜキリストは十字架にかかって死んだのか」という問いに牧師が答えられなかったとか、キリスト教の創造説や処女降誕説はおとぎ話のようなものであるといった批判である。

 キリスト教会の実情と対比されて、NSAの座談会は活気があり、暖かい雰囲気に包まれている、といった具合に、その良さが強調される。また、キリスト教の教義面での非科学性に対しては、仏教哲学の論理性と、科学との整合性が主張される。けれども、入信者が最も魅力を感じているのは、「現証」という思考法である。これはその理論的支柱には、「因果」という考えがある。ご本尊に題目をあげるという「因」によって、幸せという「果」がもたらされるというわけであるが、これは明らかに信仰のレベルでの論理である。仏教哲学の論理性に魅力を感じたとすれば、最も論理的にとまどう筈のこの部分が、むしろ中心的なものとしてとらえられている。それは、祈るだけでその結果を保証しなかった、彼らがかつて接したキリスト教の聖職者の姿と、強いコントラストを感じるからなのではなかろうか。

     万人布教者主義

 NSAの布教のやり方のモデルは、もちろん創価学会のそれである。創価学会の布教法は、言ってみれば、すべての会員が布教的行為を行なう点に特徴がある。その発展期には、折伏は実質的にほとんどすべての会員に義務づけられていたに等しい。NSAにおいても事情は似ていた。

 創価学会にしろ、NSAにしろ、日蓮正宗の僧侶と一般信者という区別はあるが、これは布教者と布教・教化の対象という区別につながらない。支部長、地区長などの役職者を布教者と考えることも可能であろうが、たとえば、金光教の教師と一般信者のような明確な区別はない。言い換えれば、あらゆる信者が、新たな信者獲得に熱意を燃やす布教者となる可能性をもつ。貞永のような布教のベテランは、あえて言えば、布教者の中の、より洗練された布教者ということになろう。

 信者すべてに布教者への道が開かれているので、布教者の再生産は、枝分かれしながら連鎖していく。次のような例は頻繁に起こることになる。

 TVプロデューサーの例である。彼女は、仕事の関係で、有名なジャズ・ミュージシャンにインタビューする機会をもった。彼には前にもインタビューしたことがあった。ところが、今回は、以前とまったく感じが異なった。違う人間になったように思えた。落ち着きと穏やかさが感じられ、幸せそうに見えた、一体、彼に何が起こったのか。それを知りたい気持ちに駆られた。

 そして、彼がNSAに入信していることを知った。座談会に誘われついていった。最初は、なぜ皆が早口に題目をあげるのか分からなかったが、座談会の雰囲気は気にいった。六ヶ月間座談会に出席した。疑いながらの信仰であった。なぜこんな疲れた夜に題目をあげなければならないのか、疑問に思うこともあった。

 六ヶ月後、突然、テレビのショーの誘いがあった。二時間半のインタビューを企画した。これが彼女には、題目の効果と思えた。それから、いろいろな仕事が舞い込み、給料もぐんと上がった。確信を得た彼女は、さらに他の人への布教を手がけ、仕事仲間の内気な女性を座談会に誘った。この女性も、六ヶ月かかって確信を抱くようになった。

 このように、すべての信者が、さまざまな機会を通して実質的に布教的行為をなし得る態勢になっていることが、NSAの特徴である。神道や仏教宗派では、ふつう宗教活動に専従する者と、そうでない者、つまり、聖職者と一般信者がはっきり分かれている。信者が布教的役割を果たすことは稀である。NSAの場合は、これと対照的に、どこからを布教者と呼ぶべきなのか、分け目の線を引くことが難しい。

 NSAの母胎となった創価学会では、新たな会員を獲得することを含めて、信者間での競争原理と実力主義が貫かれている。今日はそれほどでもないが、一時期はすさまじいものがあった。NSAにも、この影響は強く及んでいる。こうしたシステムの中で、信者は、とくに意識しないうちに布教者的役割を担ってしまう。

 組織の特質から生み出された、布教者の枝分かれの連鎖は、その過程で、アメリカ社会の中にある、目に見えない民族ごとの仕切りを横断する効果をも、もたらしたのである。

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