日常雑感     

2024.3.24
 他人の悪口や陰口をまったく言わずに過ごすというのは難しい。それでも陰口の類は聞いていていい気持ちはしない。批判と悪口や陰口は違うと思っている。面と向かって批判する人はとくに不得手ではない。もっともな批判であれば受け入れればいいし、的外れであれば反論すればいい。
 付き合いたくないのは、あからさまに態度を変えて陰口を言う人である。たとえば、ある人が話の輪に入っているときは、調子のいいことを言っていたのに、その人がどこかに去ったとたん、悪口を言いだすような人が稀にいる。そういう人とは付き合わない方がいい。自分もそのような悪口の対象になっている可能性が高い。これに関しては、その人の社会的評価などはあまり頼りにしない方がいい。
 裏切られたような気持ちになったことは滅多にないが、皆無ではない。人はまたときに豹変する。何があったのか分からないが、態度が変わることがある。そういう厄介さは一生つきまとうが、避けるべき人を見分けるのはなかなか難しい。いやな経験しないと目が養えないこともある。少し経験して少し目が養えて、まあまあ良かったかなどと自分を慰めている。


2024.2.28
 佐々木宏幹駒澤大学名誉教授のご逝去の知らせが届いた。佐々木教授には東京大学の助手時代からいろいろお世話になった。とてもきさくな方で、またユーモアたっぷりの話が多かった。調査経験が豊かで、人間関係をとても大事にしておられた。
 このところお体がすぐれず、またコロナ禍もあって、お会いする機会もなかっことがとても残念だが、なつかしい思い出をたくさんいただいている。
月並みだが、心からご冥福をお祈りいたしますという言葉しかない。


2024.2.2
 「2月は逃げる」とか「3月は去る」といった表現がある。逆に言えば1月は比較的長く感じるということであろう。だが、今年は1月もとても早く過ぎるように感じた。いろいろな行事が続いたこともあるかもしれない。
 能登半島の地震と日航機事故からもう1か月が過ぎたのかとも感じる。国内外とも暗い出来事をなかなか乗り越えられず、そういう重苦しさもある。
 国学院大学を定年になってからもうすぐ丸6年になる。順天堂大学では非常勤講師を続けていて、来年度もやることになったので、大学教員らしき生活が続くことになる。警察大学校での講義もまた次年度の担当を依頼された。2005年2月からなので、これも19年続け、20年目を迎えることになる。社会の変化を踏まえ、少しずつ講義の内容も変えているが、自身の刺激にもなっている。


2024.1.14
 多摩川の土手をジョギングしていたら、狛江消防団出初式をやっていた。昨年も見たが、今年は見に来た人が多い感じがした。
出初式というと、梯子乗りがすぐ連想されるが、いざというときの訓練が主であるのは間違いない。災害はいつどんな形で起こるか分からないから、日頃の訓練はこうした職業ではとくに重要である。1月2日に起こった日航機衝突事件でも、乗務員が日頃きちんと避難訓練していたので、的確に誘導できたという報道があった。
 そう考えると、ジョギングも日頃の訓練にはいるかもしれないと思う。高校時代から続けているが、足腰を鍛えておくのは、いろいろな場面での基礎訓練になろう。トロトロした速度でも続けるのが大事と思っている。


2024.1.8
 元旦早々の能登半島での地震被害、2日の羽田の日航機衝突事故と、年明けから辛いニュースとの向かい合いだった。自然災害や不慮の事故は常に起こる。
 あちこちで起こる思いがけない災いへの対処だけでも大変なエネルギーがいるのに、人災の極みである戦争がなぜなくならないのか謎である。人間は平穏であることが嫌いなのかと思いたくなるほどである。すでに個人的には経済的な憂いなしで生きているはずの政治的指導者のごく一部が、欲望のままに多くの人々を争いにかきたてる。どのような遺伝子がこの忌々しい行動の源になっているのだろうか。あるいは人間が言語を持ってしまったことの逃れられないツケなのか。
 この業深き人間のもたらす悲惨な結果を少しでもマシなものにするにはどうしたらいいかを考えたいが、絶望的と分かっていても、匙を投げるわけにもいくまいと思う年始めである。

◆2023年
2023.12.25
 12月はやたらと忙しかったが、それぞれに意義あることに関わっていたので、疲れはそれほどでもない。準備に一番時間がかかったのは12月2日に行われた宗教情報リサーチセンター(RIRC)の25周年記念事業の一環として行なわれたミニシンポジウムである。
 1人の発表を10分にして、10人に発題してもらった。学会発表だと短くても15分なので、かなり議論を絞らないといけないのだが、ほとんどの人はちゃんとまとめていた。
 25年も間があると、初期の研究員と現在の研究員とでは一世代違う感じになる。でもなごやかな雰囲気で参加者が話をしていたので、ホッとした。あまり過去を振り返る余裕なく突き進んできた四半世紀であるが、なにより研究者同士の有機的つながりがいくつかできたことは何よりうれしい。
 奇しくも『ラーク便り』が100号を迎えたので、記念号とした。元研究員・現研究員から多くのエッセイを寄せてもらったので、これもいい記録になるかと思う。


2023.11.8
 10月下旬に久しぶりに東大少林寺拳法部の同期(5期)のメンバーが9人集まって歓談した。同期ではすでに2名が他界している。近況が分からない人もいる。老後をそれなりに楽しんでいる感じの人もいる。ただこうした集まりのいいところは、若い頃と同様にさほどの遠慮なく互いに言葉を交わせることである。たまさかにでも、そうした場を持てるのはいいことだと思う。


2023.10.16
 「痛いような暑さ」と表現されたこの夏もようやく去り、涼しい季節となった。少し歩き回りたい気持ちがあるが、なんとも忙しいスケジュールになってしまったので、心のゆとりがなかなか生まれない。ぼやぼやしていると、急に寒くなるかもしれないので、時間をみつけたい。
 世界のあちこちで悲惨な出来事が起こっているので、好きなところを散策できる国に住んでいることは、それだけで運がいいと思わなければならない。半分とまでは言わなくても、2割ほどでも他人のことを思う人がもう少し増えればと思うのだが、それがまたきわめて困難な話なのだろう。楽観論は捨てなくてはならないが、悲観論に浸っていても仕方がない。


2023.10.9
 今年2月に運転免許を返上し、車も手離した。たまに運転していた頃を懐かしむ気持ちになるが、とくに車が必要な生活を送っているわけでもないので、これで良かったと思っている。
 ただ腹立たしかったのは、運転免許を返上すれば、運転経歴証明書が運転免許証の代わりになるという話が、そうでもなくなったことである。運転経歴証明書を渡されるとき、マイナンバーカードに紐づけしていないと、証明書として認めてくれない場合があると言われたのだ。
 要はマイナンバーカードを普及させるためのあれやこれやの一環に組み込まれたわけである。マイナンバーカードの保険証利用もそうだが、いつの間にか話が勝手に進む。デジタル時代、ネット時代の利便性は、恐ろしい落とし穴と同居していることに気付かないと、日本社会はとんでもない混乱に見舞われる可能性がある。


2023.9.24
 今朝、多摩川の土手をジョギングしようとしたら、一部が通行止めになっていた。今日夕方の花火大会の準備のためであった。しばらく土手の下の道を走っていたら、土手にあがれるところに来た。そこらあたりは自由席の区域で、早くも場所取りのシートがあちこちに置いてあった。
 世界の戦禍のニュースを毎日見ていると、こうして平和な光景を楽しめるのはそれだけで貴重なことだと思う。下手な政治家たちによって、これがかつてのようにとんでもない方向へと舵をとられることがないようにと願うばかりである。
 人間の遺伝子には、条件によっては闘いへと突き進むようなプログラムが存在しているのは間違いない。ドラマとはいえ、戦国時代の武将の戦いを好んで見る人は、とりわけそういうプログラムが働きやすいに違いない。そのプログラムはいったん作動すると、止めるのが容易ではないことを歴史が、そして現代世界の様相が証明している。危うさへのセンサーはもっと多くの人が磨いて欲しいと思うが、どうやればいいのか悩む。


2023.8.20
 20代、30代の頃は、夏と言えば調査の時期であった。奄美調査は夏が多かった。ハワイ調査、カリフォルニア調査はまさに真夏であった。『新宗教事典』のための教団調査も夏が多かった。夏は脳の働きも少し鈍くなるから、体力の方を使う現地調査は意外に向いていたのかもしれない。
 しかし、さすがにもう夏だから調査になどという気持ちは起こらなくなった。身体は正直だと思う。身体からの声には素直に従うことにしている。それに昨今のように35度以上が常態化するようになると、屋外の調査は危険にさえなってくる。静かな場所での作業が無難である。
 もう少し辛抱すれば、暑さもやわらぐだろう。コロナ禍もなんとか終息の気配である。そろそろと社会の観察の機会を増やしたいとは思っている。

2023.7.30
 9月上旬に日本宗教学会があるが、パネルにお誘いを受け、加わることになった。「AI 実用化後の社会における宗教の学習と教育」というテーマだが、その打ち合わせを去る28日にZoomで行なった。メンバー及び関係者と2時間ほど語りあったが、なかなか面白い内容となった。チャットGPTへの理解もまた少し深まった気がする。
 情報化の社会活動への影響はこれまでにもいろいろな面に及んできているが、研究・教育面でも、AIの社会への広がりによって新しいフェーズに入ると考えた方がよさそうな気がする。情報化時代には、とにかく頭の切り換えが常に求められる。面倒臭く思うことも多くなったが、楽しみながら悩んだ方が精神的にはいい。


203.7.23
 電子メールを使い始めた頃、迷惑メールに悩まされたものだが、現在でも状況は変わらないというかむしろ悪くなっている。詐欺メールの類は頻繁に来る。「あなたに巨額の遺産を差し上げたい」などありえない話はたいてい英語で来る。ひっかかる人がいるのが不思議だが、稀にいるのだろう。
 ロボットを使って手当たりしだいにメールを送り付けていると思われるものもあるが、AIが普及し、機能が向上すれば、状況はもっとひどくなりそうな予感がする。より巧妙になるだろうから油断禁物である。
 便利なものが発明されると、必ず悪用する人が出てくる。国際ロマンス詐欺にひっかかる人など、どんな間抜けな人かと思うが、引っかかった人が書いた文を読むと、人間の心は古代以来変わっていないことが実証しているかのごとくである。
 相手を騙そうとする人、あるいはつけいれられそうな弱い心を待つ人は、無数にいる。「うまい話は向こうからは来ない」という格言を心に刻むだけで、状況はいくらか変わりそうに思うが、騙される人が無くなることはあるまい。


2023.7.16
 多摩川をジョギングしていたら、この暑い最中にボート競争をやっていた。子どもも大人も混じっての楽しそうな企画であったが、一人担架で運ばれる女性を目にした。十分気を付けてやっているのだろうが、この暑さは甘く見てはいけないだろう。ジョギングもいつもより少しペースを落として走った。
 ボート競技と言えば、大学で少林寺拳法部に入部してほどなく、先輩から戸田で開かれる運動部対抗のボート競技に出ろといきなり言われて面くらったことがある。やったことないですと言ったが、ちょっと練習すれば大丈夫だと言われて参加させられた。現地行って少しだけ練習してすぐ本番だった。オールを漕いで持ち上げて腕を伸ばしまた漕ぐのだが、そのときオールを水面上に上げないと、腹にぶつかって衝撃が来る。これを「腹を切る」と言っていて、腹を切らないように注意しろと何回か言われた。
 競技が始まり必死の思いで漕いでいたが、ちょっと油断して腹を切ってしまった。「あー」と思ったが、ちょうどゴールしたときで助かった。
そのときは何でこんな競技に出なくてはならないのか訳が分からなかったが、少林寺拳法部を設立してまもない時期で正式な運動として認めてもらう段階であったので、そうしたことも関係したのかもしれにない。
 ただおかげで、その後二人乗りボートだったら裕で乗れるようになった。


2023.7.2
 思いもかげず6月は忙しい月となった。やることがないよりはましだと思いながら、一つひとつ仕事を片付けたが、あっという間に一年の折り返し点を過ぎてしまった。多くのことを並列して処理していく能力は明らかに落ちてきているので、それを考慮しながら、仕事を引き受けているが、一つの予定が狂うと、すぐ次に波及する。それは以前と同じであるが、このことがストレスになる割合は高くなっている。常に調整していかないとストレスは増すばかりなので、それは慎重にやっている。
 今年は学会発表を2回やるが、さすがに国際会議での発表はもう止めることにした。自分が対処可能なことを見定めていくことは大事だと肝に銘じている。


2023.5.21
 いつものジョギングで多摩川の土手を走っていたら、親子連れと思しき二人の会話がちらと耳に入った。二人とも釣りの道具を手にしていた。多分父親だろうが、息子にこういうのが聞こえた。「こういうふうに持っていないと、ころんだとき、リールを壊すかもしれない。」
 走る途中であったから、どう返事したかまではよく聞こえなかったが、このように言われたら、その子はきっと一生覚えているだろうなと思った。適切な状況で適切な指示を与えられたら、それは心に刻まれる。自分にもそういう記憶がある。
 ITC時代だからなどと、ときたまよく分からない主張を聞くことがあるが、情報を伝えるに適切な場と方法があるということに変わりがある筈もない。それを斟酌しないと大事なことも伝わっていかない。


2023.5.7
 出アフリカを果たした現生人類は世界中に広がった。各地で住む人々の言語や生活習慣、文化一般はおそろしく多様になった。進化論的な立場からすれば環境に適応して変わるのが生物であるから、このこと自体は止められるものではない。
 だが、その過程で生じた多様なグループが互いに憎しみあい、闘う歴史がなくならないのも避けられないように見受けられる。ウクライナ、スーダン、ミャンマー、シリア、アフガニスタン、その他世界各地で起こっている無数の紛争、闘争のニュースに接すると、人類はもっとも愚かしい生物ではないかとさえ思えてくる。
 そうした争いのニュースを軍事拡張の好機ととらえる政治家がいる。そして密かにほくそ笑むのは軍事産業で懐を豊かにする人たちである。
 この構図が21世紀も変わらないのかと思うと暗澹たる気持ちになる。そこから目を背けることでしか、束の間の心の平安は得られない。目を背けているという意識すらない人たちこそ、楽しい日々を過ごす準備ができているのかもしれない。


2023.4.28
 今年1月半ばで車の運転を止め、免許も返納した。3ヵ月余が過ぎ、昨夜車を運転する夢を見た。実際の運転を止めてから初めてである。夢の中ながら、もう免許は持っていないのに乗っていいのだろうかという思いがかすめたのを覚えている。
 大学2年のときに免許をとったから55年間免許をもっていたことになる。ほとんど車に乗らない時期もあったが、学生時代のバイトやハワイ、カリフォルニアの調査のときは免許をもっていて良かったと思った。
 まだ運転には自信があったが、判断力はいくらか鈍くなったようには感じていた。早めに対応しておこうと思った。街角をゆっくり眺めながら歩く機会を増やそうと思っている。それが五感を鍛えるにもっとも良さそうに思える。


2023.4.9
 多摩川の土手沿いにある桜もすっかり葉桜になってしまった。先々週は雨で日曜日のジョギングができなかったこともあり、今年は満開をみることができなかった。
 桜の花を楽しむ期間は短いが、見た時の嬉しいような心地よいような気持ちは、感情システムの観点からはムード状態ということになろう。ムード状態は無限にあると考えられている。確かに桜を見たときの感情も、そのときの体調や周りの景色、気温、1人で見るか2人で見るか、大勢でみるかなどでもムード状態は微妙に異なる。
 しかし日常使う言葉は有限なので、多様なムード状態も似たような言葉で表現したりする。ムード状態の多様さに見合った多様な言葉を作り出せるのが詩人ということになるのかもしれない。
 それはそうとしても、詩的な言葉を紡ぎだせなくても、ひととき心地よい気分になっただけでも十分ではないかと思う。


2023.3.26
 WBCで侍ジャパンが優勝した。個人的には優勝そのものより、いくつもの好感のもてる出来事が報じられて、それが良かった。全体を冷静に見通せる栗山監督や大谷選手やダルビッシュ選手のチームをまとめようとする心遣いなど、随所に手本とすべき行動があった。
 日ごろ、情けない政治家の姿を見せつけられ、メディアに露出する人物の品性の下劣さに辟易しているだけに、非常なすがすがしさを覚えた。リーダーや指導的立場にある人たちの心配りと熱意がいかに組織のあり方を左右するか、いい見本であった。
 リスペクトという言葉がよく用いられたのも良かった。これはヘイトと対極に位置するような心の持ちようである。これにいい影響を受ける若い人が少しでもいればいいなと思う。


2023.3.19
 「二月は逃げる」「三月は去る」と昔からから言うが、これはいつも実感する。ことわざというか人口に膾炙した言葉は、人間の感情をうまくすくいとっているものが多い。社会のリズムはそう変わらないということであろうし、日本に住んでいる人の時間への対応の仕方も相変わらずということかもしれない。
 大学での卒業式や入学式に列席していた頃は、それが一つの年間のリズムを作っていた。それがなくなって自由さを感じてはいるが、やはり節目節目の儀式は必要なのだと思う。
 コロナ禍でそうした機会を奪われた人たちには深く同情する。ただそもそも大学に行きたくても行けない人もいるし、国によっては女性が学校で学ぶことさえ許されないところすらある。自分の置かれた環境とずっと格闘していかなければならないのは、いつもどこでも同じである。


2023.3.11
 東日本大震災から12年経つ。テレビに映る津波の光景は衝撃的であった。9.11の同時多発テロの映像もそうであったが、にわかには現実とは受け入れ難い感じもあった。しかし首都圏でも交通機関が遮断され、大変な状況になったことが分かり、自分の身にも降りかかっている災害であると実感した。
 自然が常日頃とは大きく異なる振舞いを見せたとき、人間はほとんど無力であると感じる。できるのは、そうした事態の経験から何を学べるのかを考えることだけである。
 ところがこれがどうも多くの人間は苦手である。直後は過度の大騒ぎをしたりするが、まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、以前の考え方や行動に戻る。
 むろん千年に1度しか起こらないような事態にいつも警戒して暮らすのは現実的ではない。しかし数年に1度あるかもしれないことには、その都度新しい教訓を身につけるべきだが、なかなかそうならない。
 天災は予測しがたいが、人災はある程度予測できる。たとえば駅のホームドアの設置など急ピッチで進めてよさそうだが、どうしてこれほどノロノロしているのか。アベノマスク騒動もそうであるが、愚策があっという間に実施されることと対比して考えると、国の施策を担うべき人たちの劣化を感じずにはおれない。


2023.2.26
 自分のペースを守ることは大事だと思うが、それも場合によりけりである。頼まれた原稿を大幅に締め切りが遅れても出さない人が、SNSで盛んに投稿しているのを知ったりすると、どうかなと思う。他人に迷惑をかけることはあまり気にせず、自分のやりたいことを優先する生き方は程度問題である。止むを得ないときもあるが、だいたい他人に迷惑をかけることをあまり気にかけない人は、遅れてもたいてい平気な顔をしている。これは経験上言える。こういう人を信頼する気にはならない。誠実さを判断するときの一つの尺度になると思っている。


2023.2.12
 1970年代前半のことになるが、茨城県龍ヶ崎市のとある学習塾で講師をやっていた。日曜日ごとに出かけて行って、午前から夕方まで、小学生から高校生まで対象にしていろいろな科目を教えていた。
 小学高学年のクラスだと、なかなか授業に集中しないときがある。そういうときは、「じゃ、マラソンだ」といって、塾の教室を出て児童たちを10分ほど走らせることがあった。児童たちは「ヤッター」とか喜んで外に出て駆け出した。一緒に走るのだが、近所の人も、「また走っている」と笑いながら見ていた。車もそう走るわけではなく、危ないという意見も出なかった。むろん塾長も黙認であった。
 今思うとずいぶんのんびりした風景である。休み時間はキャッチボールをしたりして遊んでいたが、今の都内の塾では考えられないことである。
 辞めるときはいろいろプレゼントをもらい、抱えきれないほどであった。嬉しかった。あれからほぼ半世紀経つわけで、児童、生徒たちも数えてみれば60代である。今どんな生き方をしているのだろうかと、今朝ジョギングをしながら、ふとその頃を思い出した。


2023.2.5
 コンピュータの操作は便利になるより不便になるのが多いような気がする。たとえばWindows11では、これまでフォルダ名の変更やファイルの削除は右クリックすればそのメニューが出たのに、それが二段階になって、「その他のオプション」を選んでからその中の変更や削除を選ぶようになった。誰がこのような改悪を考え付いたのだろうか。shift+右クリックで一度に見ることはできるが、これもshiftキーという余分な手間を加えている。
 バージョンアップの度に使い慣れたキーの機能が変わったり、メニューが改変されて探し回るといったことは何度も経験している。便利になるなら一時の不慣れは我慢するが、そうでないことがよくある。
 スマホの操作も似たようなことが起こっておりユーザーは弄ばれているような気がする。むろん初めてパソコンなりスマホを手にした人は、そのときに扱い方を覚えるしかないから、便利も不便もあまり言わないかもしれない。しかし長く使っている人間にとっては改悪の類はひどく忌々しい。
 これからもこうした状況が繰り返されるのであろうか。基本的に必要な機能はさほど変わらないので、それについてはあまり改変する必要はない。車はデザインはいろいろ変わるが、アクセルやブレーキ、ハンドルの機能や置かれた位置はそうそう変わらない。そういう発想で製作に臨むメーカーは現れないものであろうか。


2023.2.3
 転居に伴い、いろいろな手続きをしなければならなかったが、かなりの部分がオンラインでできるようにはなっている。ただしその使い勝手はピンキリで、便利になったと感じるものもあれば、おそろしく不親切で誰がこんなまずいプログラムを作ったのだろうと思うようなアプリもあった。
 ある大手銀行のアプリなどひどいもので、写真で免許証を写そうとして30分も苦闘したあげく諦めた。表と裏の撮影は問題なかったが、厚さを見るためスマホを45度にして写せとある。どうやってもシャッターがおりない。ネットで調べたら同様の感想を持った人が多数いたようで、「くそアプリ」と怒っている人もいた。
 たびたびシステム障害を起こしている銀行だから、アプリ作りが下手なのも仕方ないかと妙な納得をしたが、どうもこうしたことは氷山の一角のような気がする。デジタル化、オンライン化と政府や企業は叫ぶが、全体のビジョンとか、実際のシステムはお粗末なものが少なくない。根っこに腐った部分があって、それがときおり表面化するのだろう。金儲けには腐心するが、長い目での研鑽とか教育という面がひどくおろそかになっている。
 この風潮を早く是正しないと、ますます日本社会が落ち込んでいくのは間違いない。


2023.1.20
 研究教育以外の仕事がここ2年ほど忙しくて、本を読む時間が極端に少なくなっていた。ようやく一段落したので、ペースを取り戻したい。日々環境が変わっているのに、脳をアップデートしないと変化を変化として捉えられなくなりそうな気がする。
 それはそれでゆったりとした気分で生きられて悪くはないが、ゆったりとなるのは時々がよさそうである。ずっとゆったりしていると、それが習い性になって、何ごとにも億劫になっていきそうな気がする。体も脳も動きがすっかり遅くなってしまったら仕方がないが、普通に動けているうちは動かしておきたい。その方が負のスパイラルに陥る確率が低くなるというのは経験的感じていることである。


◆2022年
2022.12.31
 コロナ禍でオンラインでの会合や講義が増えた。そのせいだろうが、記憶が刻まれにくくなった。オンラインでは確かに行き帰りの時間がかからず、用意した資料もチャット欄にアップすればいいので、事前の印刷も不要である。便利な点はいくつかあるが、他方で、臨場感は著しく損なわれる。オンライン授業だと、画面には名前しか出ないから、自分が本当に人を相手にして話しているのか分からない。
 対面状況での会議では、どんな場所に誰が座っていて、その部屋がどんな状況であるかは、ゆるやかに記憶される。誰が誰の話に反応したか、あるいは反応しなかったかなどもなんとなく分かる。それが会議の記憶を奥行きの深いものにする。オンラインではそれがほとんど失われる。
 したがって、複数の会合の順番や、はなはだしくは今年だったのか去年だったのかも判然としなくなる。たんに加齢による記憶力の弱まりだけでない。人間の記憶は意識的無意識的な認知の総合的な産物であるというのが身に沁みて分かる。
 遠方の人が参加しやすくなったなど、オンラインの利点には捨てがたいものがあるから、今後はオンラインと対面の使い分け、あるいは共存が増えるだろう。いろいろ工夫すべきことも出てきそうである。

2022.12.25
 RIRCチャンネル番外編として、自分の研究・調査歴とRIRC設立との関係を述べて質疑応答を加えた形式のものを6回に分けて作成中である。3回までユーチューブにアップしたが、これまでの研究を振り返るいい機会にもなっている。動画の中で使う写真や資料を探しながらの制だが、もうすっかり忘れていたこともあって、記憶の頼りなさを実感している。動画の編集作業をしたことで思い起こされたこともある。
 本当は一緒に調査した人や事典の編集に携わった人などの写真も多く入れたいが、肖像権の問題もあるから、問題はないだろうと判断した範囲で掲載している。


2022.12.18
 四半世紀ぶりの引っ越しで、ジョギングコースが多摩川の土手に変わった。10代半ばには川内川の近くに家があり、よく土手を走っていたので、川の土手というのは馴染みを感じる。
 多摩川沿いはかっこうのジョギングコースなので多くの人が走っている。かなりのスピードで走る人もいればのんびりと走っている人もいる。それぞれのペースでジョギングを楽しんでいるようで、少しホッとする。
 というのも電車に乗っていると、コロナが3年も続いているせいか、なにかギスギスした雰囲気の人が少なくないように感じるからである。適度に体を動かし、適度におしゃべりするのは、生物としての人間にとって必要なことである。

2022.12.2
 11月以降、統一教会に関連した取材が増えたが、聞いてくる人が基本的なところをおさえていないとしばしば感じる。新聞社でも宗教担当の記者を置いていないところが圧倒的に多く、宗教に関する報道の質が落ちたのも、これが関係しているかもしれない。政治、経済、そしてときには犯罪にも宗教が関わっていることのある時代に、宗教の基本的知識を備えた記者の不在は、社会の変化の趨勢を読み間違っているのではないか。
 統一教会問題でも、欧米のメディアの方がはるかに的確な報道をしており、なにがポイントなのか気付いている。早くこの時代錯誤に日本のメディアも気付いて欲しいと思っているが、道は遠く険しい、が残念ながら実感である。


2022.11.2
 10月30日に森岡清美先生を偲ぶ会が神田の学士会館でおこなわれた。昨年12月に一度入院され、退院して1月に自宅で亡くなられたということであった。退院して自宅に戻ったとき、這うようにしてまず書斎に向かわれたという話をお聞きし、いささかの驚きとともに、先生らしいとも感じた。
 ハワイ調査にご一緒しただけで、教わる機会があったわけではないが、いろいろ気にかけていただいた。
 晩年までまさに研究第一という姿勢を貫かれたが、このような先生は滅多にいなくなって、尊敬の念を抱くばかりである。


2022.10.29
 大学生が本を読まなくなったと嘆く大学教員がいるが、大学自体が学生に本を読ませる態勢になっていない。本務校だけでなく非常勤となった大学で、長年にわたり書籍部をチェックしてきた。多くの場合、その貧弱さに驚いたものである。教科書だけ扱うという大学や、教科書すらおいてない大学もあった。そもそも書籍部がない大学もあった。
 このような環境を改善する風もなく、学生が本を読まないなどと教員が言うのは無責任に感じる。今の学生はネットでほとんどの情報を入手する。紙の新聞は読まない。書店に行けば、学術的な内容の本はきわめて少なく、下手するとヘイト本が山積みになっていたりする。
 大学の書籍部こそ学術的な書籍をそろえてあって、そこに行けば読むべき本が多い、という態勢にすべきである。採算度外視とまではいかなくても、大学もそれなりの支援をすればいいのだ。
 自分たちが学びにくい環境を作っておいて、学生の怠惰を嘆くような教員も少なくない。大学の書籍部調査のような企画をどこかの雑誌かメディアがやらないものかと思うが、企画を立てる世代がひたすらスマホを眺めているので、それも望み薄かなと悲観的である。

2022.10.9
 Zoomでの研究会が普通になり、一年に何回も参加している。会場まで行かなくていいのは唯一のメリットで、あとはデメリットばかりである。まずもって会に参加したという実感が乏しい。発表者、司会、コメンテータ、それに質問者以外は画像もオフにしていることが多いので、臨場感が乏しいことこの上ない。また発表内容に対し、そのときどきに聞いている人がどんな感想を抱いているのかは質問以外に知りようがない。対面なら、頷く人が多かったり、退屈そうにしている人が多かったりすると、その話がどう受け止められているかの指標になる。
 会が終わったあと、帰り道に一緒になった人と、今日の話はどうだったかを語りあうのも、けっこうおもしろく、そこでまた意外な話が聞けたりする。
 こうしたものがすべてそぎ落とされるのはZoom会議である。画面を見ていても視覚と聴覚以外からの情報は入ってこないから、会の記憶も何か浅い。
 これに慣れてしまうのは、危険に感じる。むろんこの新しい方式も適宜取り入れるのは構わないが、学術発表のようなものは対面で実施して、会に付随する雑多な情報を無意識のうちにでも得るのが望ましいと思う。
 対面とオンラインの上手な組み合わせは、社会全体にとっても大きな課題で、それぞれに工夫していくことになろう。


2022.9.25
 自分の言動や容姿などについて悪しざまに言われて腹を立てない人はほとんどいないだろう。多くの場合、悪意が底にあるからである。ただ批判となると批判する人の真意は一括りにはできない。嫌悪や悪意が底にある批判にはやはり腹が立とう。中には忠告のつもりでなされる批判もある。むしろ自分のためを思って言ってくれるのだと感じたら、たとえ耳に逆らうような言葉でも受けとめるべきと思うが、これがまたなかなか難しい。
 この心のあり方は、愛国の議論に直結しているから厄介だ。「日本は美しい国である」「日本はすばらしい国である」。こういう類の信条(?)をいささかでも削ぐような言説に目くじらを立てる一群の人々がいる。そういう人たちを常連執筆者とする雑誌がある。
 どの国にも秀でた部分と劣った部分とがある。真に国をより良くしていこうと思うなら、劣った部分を改善するよう努めるのが筋である。そういうつもりでなされた至極まっとうな言動に対し、すぐ「反日」とか「自虐史観」とかレッテルを貼って攻撃するのは、自分の言動を少しでも批判されたらカッとなる心と共通の根がある。
 歴史上の優れた宗教者はそれを克服するすべを示そうとしたに違いないのだが、現代世界にはむしろ怒りに火を注ぐのに熱心な宗教家があちこちにいる。
 そうであるなら、たとえ相手が宗教家という肩書をもっていても、それはあまり考慮せず、まずは人間としてどうなのかという観点から、相手の言動と向かい合う態度を常日頃から養った方がいい。


2022.9.10
 適度に食べ、適度に運動し、適度な睡眠をとり、過度なストレスを抱えないようにする。心身のバランスを保つにはこれが基本だと思う。しかし人生は甘くない。事情によりどれかがうまくいかないときがある。そういう時は、その部分を是正できるように努めるしかない。
 ところが、暴飲暴食を重ねたり、運動できるのにまったくやらなかったり、夜更かしを重ねたり、自らトラブルを起こしたりしながら、他方で健康になる、癒されるといった口上のあやしげな誘いに乗る人がいる。
 食べ過ぎている上に運動不足な人が、奇跡的なダイエット法を探し回るというのが分かりやすい例だが、まず基本に立ち戻ってはどうですか、と言いたくなる。
 生きていく上の基本的知恵は、おそらくどの文化の中に伝えられてきている。うたい文句につられて高額なものを購入したり、ハウツー本を探し回る前に、自分がこれまでの人生の過程で、その基本的なことを上の空で聞いていなかったかどうか、思い返してみるのがいいだろう。
 基本を守らなかったために困った状況になったのに、ひたすら特効薬を求めるというのは、やはり悲しい対処法である。


2022.8.21
 マスメディアの凋落は社会的な使命をなおざりにして営利主義に走ったことが大きな理由だが、21世紀に入ってからは政権与党への忖度の度が過ぎることが、凋落に輪をかけた。かつてニュース発信においてBBCに次ぐ信頼度と言われたNHKに、もはやその面影はなく、まるで自民党御用新聞と同じ次元になりさがった。いい番組もあるので、受信料を払ってはいるが、ニュース番組、討論番組の酷さには呆れて最近は見ることも止めた。
 信頼を維持することは非常に難しい。中立的な報道はもともと無理な話だが、かくも露骨に政権擁護のスタンスを続けると、信頼性は確実に失われる。自浄作用は働いているのかどうか。良心的な人もいる筈だが、内部の構造はどうなっているか、うかがい知ることはできない。
 民放では統一教会問題で、地道に取材を続けてきたジャーナリストの登場があって、それまで毎週のようにテレビに登場していたコメンテータの質の悪さが浮き彫りになった。どれほどの人がそれに気づいたかであるが、SNSではそれを指摘する声が多い。マスメディアは信頼性の面で、かつてない危機的状況あるのだが、その理由の1つに信頼性の著しい低下があることをどれほど真剣に受け止めているのだろうか。


2022.7.26
 統一教会の話題は一挙に30年前に戻ったような感がある。だが深刻なのは政治家への影響力である。ほぼフェイクニュースに近いような話をメディアで大量に発信してきた一群の人たちのつながりが見えてきた。少しはましな言論空間に転じればいいのだが、楽観的にはとてもならない。
 RIRCチャンネルでは、今日カルト問題についての動画をアップしたが、ここに込めたメッセージがどれほどの人に届くやらである。


2022.7.12
 7月8日に安倍晋三元首相が銃撃されたが、犯人の山上徹也容疑者の母親が統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の信者で、そのために家庭が破壊されたことを恨んだのが動機と報道されている。安倍元首相が統一教会と関係が深かったことは現代宗教の研究者の間では周知の事実であるが、当初日本の新聞やテレビはある宗教団体としか表現せず、統一教会とは明記しなかった。しかし海外の多くのメディアがすぐ母親が所属していたのはunification churchだと明記した。
 これは日本のメディアの退廃を象徴するように感じられた。忖度というレベルではない。横並びで自粛など、もはやメディアの機能を果たしていない。ネット上ではすぐ統一教会の名が飛び交ったし、新聞やテレビが報じないことへの疑問や批判が多く見られた。
 20世紀後半と比べるなら、新聞、テレビは報道倫理や意気込みなどに関しての凋落は明らかである。それが次に何を招くかは想像がつく。踏ん張りを期待したいが、ネット情報がもう少しマシになるのとどちらに可能性があるか。RIRCチャンネルを始めたのは後者にわずかな望みをかけたという面もある。


2022.6.11
 ロシアによるウクライナ侵攻は、武器商人以外には苦しみのみをもたらす。それなのに、この事態を日本の防衛費増額のチャンスと捉える政治家がいる。またそれを支持する人の数も少なくはない。
 人間は過去の歴史に学ぶことはしないというのは、21世紀になっても変わらない。ほんの一握りの人だけが、そういう人間のありように警鐘を鳴らすが、あまり多くの人には届かない。
 このまま武器の性能だけが向上すると、いずれ破滅的な事態が起こるに決まっている。最強の武器をもった国なら安全でいられるというのは大きな幻想である。テクノロジーの発展はたぶん止められない。とすると、多少の可能性があるのは、明らかに不適格な政治家を議員でなくすことである。一人のきわめて不適格な政治的リーダーが、多くの国民を死に追いやった事例は国内外に数え知れない。
 若い世代が、SNSは不適格な政治家を落選させる道具にもなる、ということを認識してくれるだけでも、事態は変わりそうに思う。だが、もっぱらロクでもない情報が炎上するのを見るたび、その道のりもなかなか遠いと感じる。

2022.6.2
 ウクライナを思えば平和な日本ではあるが、いろいろな社会システムの老朽化、政治の劣化はじわじわと進行している気がする。
 弱者切り捨てという言葉があるが、その方向に舵を切ったような気がしてならない。悪辣な人間が跋扈し、長年コツコツと働いてきたような人が追い詰められる。
 過日、近くにある銀行が現金での振り込みをやめたとかで、高齢の男性が機械での振り込みにとまどい、行員に一々尋ねながら、ずいぶん時間をかけて振り込んでいた。後ろに並んでいて、じれったいというより、やるせない気持ちになった。
便利になるのはありがたいが、それについていけない人たちへの顧慮はほとんどない。一事が万事だから似たようなことはいくつもある。
かつて流行った「おもてなし」の言葉は、その行為を支える社会のシステムであってこそ誇れるものになる。
お金を落としてくださいだけが目的の「おもてなし」は、持たざる者を一切顧慮しない。


2022.4.29
 昨年12月にYouTubeに開設したRIRCチャンネルに、この4月までに12本の動画をアップロードできた。収録自体は30分程度で終わるのだが、その後の編集がなかなか大変である。冗長な部分のカットは根気がいる。話の内容を分かりやすくするため、パワーポイントで作図してそれを挿入しているのだが、作図には頭を使う。どういう図にしたら見て分かりやすくなり、かつ誤解が生じないか。これはしかし、自分の頭の整理にもなる。
 いったん編集したものをRIRCの研究員の人たちに見てもらい、修正を重ねた上で最終版としている。
今は「宗教ニュースを読み解く」シリーズを続けているが、いずれ別のバージョンも考えてみたい。


2022.4.8
 京王線を利用しているが、次にやってくる電車の表示が不親切である。8両編成と10両編成の2種類があるのだが、やってくる電車がどちらなのかの表示が直前になるまで出ないことが多い。
 8両編成か10両編成かによって、乗車位置が変わる駅がある。ときには2両分違ったりする。到着直前になって移動しなくてはならない羽目になる。次に乗れる電車の表示が出た場合に8両か10両かを同時に表示してくれれば済む話なのであるが、なかなか表示されない。
 おそらく乗客の立場に立って表示を考えている人がいないということである。技術的な話ではない。想像力の話である。小さなことだが、その小さいことにどんな体質の会社なのかが透けて見えることがある。
 果たしていつ改善されるのか?


2022.3.18
 櫻井義秀・平藤喜久子編『現代社会を宗教文化で読み解く』(ミネルヴァ書房)がこの3月に刊行された。その第10章に「宗教文化をどう捉えなおすか―認知宗教学」を寄稿した。認知宗教学関連の論文は少しずつ書いているが、今回のものは今後の研究の一つの見取り図になるかもしれない。自分なりの整理を始める段階に来たかなと感じている。
 なかなか学術研究に集中できない出来事が続く。ロシアのウクライナ侵攻は人間が古代以来心はほとんど進歩が見られないということを痛感させられる。そしてこれが進化心理学や進化生物学、脳科学などの知見に裏付けられそうなのが、余計憂鬱な気分を誘う。だが現実から目をそむけるわけにはいかない。世界の出来事に対し美しいストーリーを作ってそこに浸れる人はいいが、自分はそういう性格の人間ではない。じっと見つめて何が見えてくるか。限界はあるのは分かっているが、そういう立ち位置の方が性に合っている。


2022.3.4
 ロシアのウクライナ侵攻は人間の持つ欲や暴力性を突き付けられる感じである。それと同時にこうした事態に悪乗りするかのような日本の政治家がいることに強い憤りを覚える。彼らの知識の乏しさ、世界を見る目の浅薄さ、とりわけ他者を思いやる心の欠如に暗然たる思いである。ロシアの人々がなぜプーチンを支持するのかという疑問は、こうした日本の政治家を支持する日本人がどうして一定数いるのかという疑問になって返ってくる。
 他人のことなどどうでもいい人が一定数いるのはどこも同じだろうが、その一定数が1割なのか5割なのか9割なのか、それが趨勢を決めていくのだろう。SNS時代はこれを良き方向に改善していくようにも見えない。むしろ事態を厄介にする方向に働きそうな気がする。


2022.2.18
 珍しく体調を崩して、1週間ほど静養したが、最近少しオーバーワーク気味だったのかなと感じたりした。ゆっくり睡眠をとると体の調子もよくなる。数年に1回ほどどこか調子が悪くなることがあるが、一病息災とはよく言ったものである。何も疲れが表面にあらわれてこないと、ついやり過ぎてしまう。それが蓄積するのだろう。
 マイペースでとは心がけているが、やはり定期的な執筆とかあったり、やるべき作業があるすると、どこかで無理をしてしまう。その点でいうと、RIRCチャンネルの立ち上げは、予想以上に心理的負担があったかもしれない。ただもう6本を制作しユーチューブにアップし、ソフトも使いこなせるようになったので、今後は少し楽に制作できるだろうと思っている。
 新しいことへの挑戦は楽しいけれども、やはり自然に生じる心身への負担にはもう少し気を付けようと自戒した。


2022.1.21
 昨日、ある会合で政治家の長めの挨拶を聞いた。恒例の会議でもあり、かなり内部事情に立ち入った内容であった。やはり話は上手で、聞いていると、その主張を支持したくなるような話の運びである。
 ただ冷静に聞いていれば、あくまでその人からの事態の説明と切り取りであることはすぐ分かる。たぶん、それをそうだと思わせないのが話術なのだろうと思った。
 人間は論理的に納得して行動することより、感情で共感して行動することの方が多いような気がする。むろん論理的にも納得し、感情的にも共感したら、行動に移す割合は高くなろうが、感情の占める割合の高さには十分気を付けた方がいい。SNS時代にはとりわけこの点への注意が必要と思うようになっている。


2022.1.9
 1月2日に今年初のジョギングをしたので、今日で2回目のジョギングであった。6日に雪が数センチ積もったが、それが所々残っていた。雪が降った2、3日後にジョギングをするということがたまにあったが、そのたびに日光の影響の大きさを実感する。野川という小さな川沿いを走るのだが、川のやや北側に当たる土手は陽当たりがいいので、雪はすっかり溶けていた。しかし南側は建物に遮られてほとんど陽が当たらず、まだ雪が残っていた。
 すべるといけないので、いつもと違うコースにした。いつもは先に川の南側を走って反時計回りに帰りは北側を走る。自然とトラックを走るときの回り方と同じになっていたわけである。
 今日は行きも北側を走ったが、すると景色が変わって見える。同じ道でも進む方向が反対になり、右と左の光景が逆になると、別の場所を走っているような感覚になる。人間の知覚は面白いものだと思う。

◆2021年
2021.12.29
 日本の教育が長い展望を持ちえない政治家や、それに唯々諾々と従う一部の官僚のせいで、ずいぶんひどい状況になっていると感じる。大学教育については実際に関わりをもち、また知人友人から嘆きの声を聞くことが多いので、問題の深刻さは肌で感じている。
 数値目標だとか事後評価だとか、形式的な数値を並べることはできる限り早くやめて、教育や研究により多くの時間を割けるような仕組みにすべきである。いらぬ書類づくりで教育の場がどれだけ疲弊しているか、少しは実情を踏まえた議論をしてほしいものである。
 自分は学生アンケートなどは30代の非常勤時代に自主的に行なって、何を改善すべきかの材料にしていた。無記名だったので学生もいろいろ書き込んでくれて少しは講義方法の改善に役立ったと思う。今の学生アンケートなどは教員がやらされているという感じであり、改善につながるとは到底思えない。


2021.12.2
 宗教情報リサーチセンター(RIRC、ラーク)で計画していたRIRCチャンネルを、昨日YouTubeにアップロードできた。本年度新しくスタートしたプロジェクトの成果である。10月から制作にかかり、公開にこぎつけた。RIRCの現研究員と元研究員に希望者を募ってプロジェクトと立ち上げ、準備してきた。
 用いる動画ソフトを探したが、Power Director19を使うことにした。ずいぶん前に別の動画ソフトを使って半分挫折した経験があるが、だいぶ使いやすくなっていてかなり満足のいくものを作れそうである。初回の動画に続いて2本を編集う中だが、その後は月に1~2本を目指せばいいかなと思っている


2021.11.7
 先週、京王線特急電車内で刃物を1人を刺し、ライター用オイルに火をつけて10人以上に負傷させた男がいたが、電車内のこうした事件への対応は真剣に考えるべき時代になった。とくに自殺予防や転落防止のためのホームドアが避難を妨げることになったわけなので、緊急事態への対処が今後どう検討されるのか気になる。
 停車位置が少しずれるとホームドアや電車のドアが開閉できないというのは、通常の対処としては理解できるが、緊急事態のときまでそうであるというのはやはり問題である。
 監視カメラもあちこちに設置される時代になった。あまり居心地のいい話ではないが、プライバシー問題を無視する形で設置したカメラなら、それなりの納得のいく使い方をしてほしいものである。ハード面にだけ金をかけてソフト面がおざなりという社会にはなってほしくない。


2021.10.17
 哺乳類の先祖が鳥類の先祖と枝分かれしたのはいつだろうか。2億年前か3億年前か、鳥類の由来が複雑で推定も難しいようだ。しかしドローンの映像を見て、このように飛んで上空から景色を眺めていけたらなと思うのはなぜだろうか。鳥類への道を選ばなかったヒトの先祖であるが、そのDNAのどこかにそれが可能であったかもしれない記憶が隠れているのであろうか。
 山や川の景色どころではなく、日本列島を、そして地球を眺める映像が存在する時代になったのに、人間は相変わらず自分の視覚でとらえた日々の情報で世界を勝手に理解し、自分の都合のいい解釈を重ねる。それは仕方のないことではあろうが、たまにはドローンから世界を眺めるような気持ちで自分自身の姿を想像してみるのもいいと思う。


2021.10.9
 1980年代にコンピュータを使い始めた頃は、その便利さや機能の多様性にいささか興奮したものである。ちょっとしたプログラムを自分で勉強して、授業の資料を作ったり、本の表紙の装幀に使ったりした。その後、コンピュータの機能はどんどん向上し、Windows95の登場以来、非常に手軽なものとなった。
 いろいろと使い道が増えたが、高度な機能をもったコンピュータに振り回されることも多くなった。一番忌々しいのは、周辺機器がわざと互換性がないように作られているのではないかと思われる点である。プリンターなど、なぜあれほど 多くの型が必要なのか分からない。またトナーの料金はとても高い。プリンター本体は手ごろでも、トナー代がすぐプリンター代を超してしまう。そういう戦略なのだろうが、釈然としない。
電子メールは罠だらけである。個人情報もどんどん筒抜けである。悪賢い人はこの仕組みをうまく利用するので、性善説では生きていけない世界になった。情報リテラシーだけでは対処できない事態になりそうで、やや気が重い。


2021.9.30
 通説では細菌は生物だが、ウイルスは生物とはされていない。生物の定義にあてはまらないからと説明される。細胞を持たないし、代謝もしないというのがその主な理由らしい。進化するかしないかを、生物と非生物を分ける基準にする研究者もいる。
 これは定義によるので、生物の定義が変わればウイルスが生物に含められる可能性もある。
そういう議論とは別に、RNAを複製し、変異をし、人間を苦しめる新型コロナウイルスなどは、限りなく生物に近い存在に思えてくる。急に感染者が増えたり、減少したりするのも、ウイルスの全体として生命力のように思えて仕方がない。
 ウイルスをばい菌のように思っている人も少なくないから、多くの人にとってウイルスは生物のように受け止められているのかもしれない。
それとは別に、コロナ禍と呼ばれている現象を見ていると、科学的な思考法がまったく社会に浸透していないと痛感する。それどころか非科学的言説が跳梁跋扈しているのを見ると、この状態の改善は可能なのか疑問にさえ思えてくる。
 でも聞く耳をもつ人には科学的な思考法を鍛えることの重要性を伝える努力はしたい。


2021.9.12
 「ラーク便り」という毎号100頁近い機関誌を年に4回編集して刊行している。インデザインというDTPソフトを使って編集作業をするのだが、文字のフォントの見分けはなかなか面倒である。コンピュータのディスプレイを見ながら校正すると見落としが多い。やはり一度紙に印刷してチェックした方が間違いをみつけやすい。
たとえば明朝とゴチックの見分けなどもディスプレイだとやりにくい。レイアウトの乱れもやはり印刷した方が一目瞭然である。
むろん、以前のような活字を組んで校正するやり方に比べると格段の便利さであるが、つい贅沢な悩みをつぶやきたくなる。最初からデジタル画面に慣れている世代はまた違う感覚をもつものだろうか。
 印刷物の方が落ち着く世代は、あらあらは画面でチェックし、最後は印刷して確認という手順がベターと思っている。


2021.9.3
 テレビを見る時間は本当に少なくなった。自分にとって必要な情報はネット上にはるかに多くあるから、必然的にそうなる。それでも毎日少なくとも30分程度はテレビをつけておく時間があって、その大半は放送大学の番組を見ている。
 自分自身が講義をする立場にあることもあって、番組の講師の説明のし方は気になる。相手のことを考えて話しているのだというのが分かる講師もあるし、知識はあるのだろうが、伝え方が下手だなと思う講師もある。妙に上から目線の人もいて、これは感覚的に受け付けない。
 教室での講義と違って相手の顔が見えないので、なかなか難しいと思うが、これだけ情報時代になったのだから、やはり腕は磨いて欲しいものである。
 ずいぶん前に自分が出演した放送大学の講義のビデオをデジタル化しながら、その様子を少し見たが、あんまりうまいとも言えない。ただ、今のような情報環境であれば、もっと工夫はできるだろうとは思った。

2021.8.13
 BBC WORLD NEWSというのを時折聴いているが、そこでの各国の政治家や組織のリーダーなどに対するインタビューはかなり迫力がある。それを聴いていると日本の報道関係者の政治家への質問など小学生のレベルかと感じてしまう。
 なぜBBCの場合には迫力があるか。インタビュアーはかなり下調べをしているのが分かる。相手の論理的矛盾には容赦なく突っ込む。時には相手の発言を遮っても論理の矛盾には厳しい。そして扱っている問題について、何かを明らかにしたいと気持ちが伝わってくる。
 ではなぜ日本の記者の質問が迫力がなく、内容に乏しいかを考えると、この3つとも欠けている場合が多いからである。忖度質問など論外であるが、ある程度まともな質問でも、下調べがいい加減だと追及できるはずがない。記者自体の論理性も疑わしい発言があるから、相手の論理の矛盾を突くどころではなくなる。何より事実を明らかにしたいという熱意を感じることがきわめて少ない。
 個人的には日本のジャーナリズムは瀕死の状態に近くなっていると考えている。これで若い人が政治に無関心などとのたまわっても、それは当然でしょうと言いたくなる。
 文句ばかり言っていても仕方がないので、少しはましな情報発信の仕方でもしようと考えている。


2021.7.30
 今回のオリンピックは、少なくとも日本におけるオリンピック観の大きな変化の節目になりそうな気がする。
平和の祭典というのが常套句であるか、一部の人たちの利益が極度に優先されていることが浮き彫りになった。「ぼったくり男爵」という言い方が流行したのは、言い得て妙と感じた人が多かったからに違いあるまい。
 政権とつながりのある人たちの企業が甘い汁を吸っているということも、どんどん露わになった。今までだってそうだったのだろうが、コロナ問題で、国民の命や健康という試金石が急に登場したことで、オリンピックを経済効果でしか見ていない人たちがなんと多いかが明らかになってしまった。
 オリンピックは国際的なイベントであるがゆえに、その時代時代の世界的な問題を明らかにする機能をもっているとも言える。それにしても、日本の政権担当者たちが落ちるところまで落ちているのを見せつけられるのは辛い。


2021.7.14
 先週から右足指の付け根が腫れて、歩行にやや支障をきたしている。依然にも経験したことなので、自然治癒を待っている。こうした状態になると、いつもはまったく気にしていない道路や階段のちょっとした不備が目についてくる。舗装してあってもあちこちに穴があいている道がある。階段も段差が小さいものから比較的大きいものまでいろいろである。ちょっとした足の不具合でこうだから、杖を使って歩く人や車椅子を必要とする人にとって、少しばかりの不備がとても大きな障害になる場合があるに違いないと思う。想像力がないとそれには思い至らない。
 21世紀にはいり國學院大學は渋谷校舎を一新した。設計会社の人たちと意見交換する機会があったが、新しくできた正門を見て驚いた。きれいな階段になっていたが、スロープがないのである。車椅子の人はどうするのだと設計会社の人に疑問を投げかけたら、この角度では無理なのでと言い訳しつつ、車椅子用は考えてありますとの答えであった。しばらくしてから、正門を少し上ったところに段差をうめるようにセメントでできた箇所が新たにできた。あきらかに取り繕った方法であった。見ればすぐ分かる。
 宗教施設の中にも車椅子で参拝する人のことなどまったく考えてないのだろうなと思うところが実に多い。人々の苦しみに寄り添うなどと公言する宗教家であっても、実際にその人の管轄する宗教施設を見れば、それが口先だけのことだと分かってしまう場合も少なくないのが現状である。


2021.7.4
 新聞記者の政治家に対する日ごろの質問の質の低下があまりにひどくて、これでは政治家の無責任さを助長しているようなものだと感じることが多い。
 今日はたまたま藤井聡太棋聖の対局後、新聞記者たちが質問する様をネット動画で見る機会があったが、あまりに間抜けな質問が続くのを視聴していて、政治記者だけでなく、こうした分野での記者の質も著しく劣化していると実感した。勝ってどう思いますかとか、水害の被災者をどう思うかとか、小学生でもまだましな質問をするだろう。
 何が問題なのだろうか。ここまでジャーナリストの質が劣化すると、これを元に戻すのは相当大変だと思う。
 個人的な体験で言えば、信念をもって取り組んでいるなと思う数少ない人には、女性記者が多い。そこに少しだけ期待感はあるが。


2021.7.2
 暴風雨は御免蒙るが、しとしと降る雨はそれなりに情緒がある。心に余裕があれば、コーヒーを飲みながら音楽を聴き、外の情景を眺めるのも悪くない。本や論文を書くためとか、講義や講演の準備をするためではなく、面白そうな内容の本や雑誌に目をやる時間は貴重である。
 何かある目的のために情報を探して見えるものもあれば、別段の目的もなくたまたま目にした情報から見えてくるものもある。何かに集中する時期と少し解放される時期とが適当に組み合わさるのがいいと思う。なかなかそううまくはいかないが、心がければ少しはなんとかなる。そういう状況にあることはありがたいと思う。


2021.6.27
 都議選の投票用紙が送られてきた。投票所はいつもだと歩いて数分くらいのところにある小学校になっている。ところが今回の投票所は電車に乗らないと行けないところにある小学校が投票所に指定されていた。いくらなんでもと問い合わせたら、間違いだという。送り直すということだが、こんなミスはかつてなかった。
 コロナ問題に公務員は翻弄され、疲れがたまっているのであろうか。文書の改ざんが平気な時代になってチェックもいい加減になったのであろうか。
 日本社会が根底部分で腐食し始めているような気がしてならない。1990年代半ばくらいからの社会の衰退の理由はいくつもあるだろうが、幅広い視野と世界観をもった政治的リーダーの不在がその大きな理由であることは間違いない。小選挙区、比例代表制が諸悪の根源であるのは明らかだが、改正の機運もない。政治が見放されたとき、その間隙を縫うのはどんな勢力か。歴史を振り返ればすぐその答えは見つかるが、でも多くの人はそれをしない。
 悪魔がいるとすれば、実においしい時代となったと、ほくそ笑んでいるやもしれない。


2021.6.10
 例年、5月には東京大学で五月祭があり、それに合わせて少林寺拳法部のOB会が開かれていた。昨年はcovid-19の広がりで中止となり、今年は6月に入ってオンライン開催になった。Zoomで希望者は練習をする光景を見るという試みがなされたが、なんか締まらない。運動不足のせいか、短い練習でも汗がどっと出た人がいるようだ。
 オンラインでもないよりましだが、やはり話をしたい人の所に行って、歓談するというやり方ができないのは、本当にもどかしい。

20210.5.24
 横浜市で起こったアニメニシキヘビが逃げてから17日目に捕獲された事件は、今の日本社会のありようを反映している。それはルールを無視してヘビを飼っていたという点ではなく、専門家の意見を捜査する人たちがなかなか聞き入れなかった点である。
 ヘビは天井裏に潜んでいる可能性が高いと専門家は早くから指摘していた。そこから確かめるべきではないかと思うのだが、専門家の意見をまったく聞かず、逃げそうにもない場所を探しまわった。つまり専門知の軽視である。今の政権担当者たちの専門知無視は、露骨過ぎるくらいだが、これが社会にも蔓延してきているのではないかと危惧する。
 この場合の専門知とは本当の意味での専門的な知識である。そういう人はメディアにしゃしゃり出ない。でも優れた専門的知識を有する人はあらゆる分野に必ずいる。そういう人を探すのは容易な時代になったはずだが、その情報リテラシーがなかなかできていないのだろう。さらにその貴重な意見を無視となると、何をかいわんやである。
 これは早急な改善が必要な事態である


2021.5.19
 本を書くときは一応念頭に置く読者がいる。専門家なのか学生なのかでも、多少表現や具体例の内容なども変わる。一般の読者というのは非常に想定するのが難しく、手探りのような感じになる。出した本が難しかったと言われれば、もう少しくだこうと思うし、分かりやすかったと言われれば、こういう書き方でいいのだろうと記憶に刻む。
 研究者の中にはそうした配慮ができない人がいる。誰彼かまわず専門用語と専門的表現を使う人がいる。少しもったいない気になることがある。優れた考えほど、分かりやすく説明して、多くの人に共有してもった方がいいと思うからである。
 それに少し言葉をくだくと、専門分野が近い人より、まったく関係ない分野の人の方が適切に理解してくれることもある。そういうことがあると、存外な嬉しさである。


2021.4.25
 新年度が始まったと思ったら、もう4月も終わりが近づいた。重苦しい雰囲気が続いているが、この重苦しさはコロナが発信源であるにしても、それに加えて鬱陶しい増幅物がある。
 「一人ひとりが行動を心がけて」とか、「ここが勝負どころです」などという発言を繰り返すのは、小学生でもできる。というより、これよりましな言い方のできる小学生はいっぱいいると言った方が適切だろう。一人ひとりでは実現が難しいのは、全体的な見通しをもった計画を立て、それを実行できる資金を用意することである。これこそ国や地方の政府の役割である。テレビカメラを前にしておよそ意味不明なことを一言二言述べただけで足早に去る政治家など、政治家とは呼びたくもない。
 出された質問に丁寧に答え、できることできないことを明らかにし、目下の方針を明示すれば、信頼も生まれようというもの。嫌な質問を無視し、答えないというのは、いじめの構図と何ら変わりはない。
 無残な治政者だらけの国では、どうすべきか。確かな知見と実行力を備えた人たちが、互いにネットワークを築き、小さな事柄から改善できることを改善しなくてはいけない。それができる時代になっている。
 飲食店の時短など個人的にはたいして意味がないと思っている。短時間で夕食をしようとするから、かえって密を作るのに貢献することさえある。終電を早くするのも同じである。人が少ないのに、今まで通りに営業したことで不利益が生じたら、そこを補填すればいいのではないかと思う。
 密室、長時間の大声、これは明らかにまずいから、カラオケ店への休業命令は致し方ない。こうしたものはきちんと規模に応じた補填対象である。
 何人感染という数字は毎日聞かされるが、データをきちんと検証すれば、分かることもあるはずである。病原菌はそれぞれ個性がある。その個性をできる限り早く、かつ的確につかむための体制というのがどこかでとられているのであろうか。重要なデータや知見がネット上に見いだされることがあるが、非常に少ない。これも大事なデータはできる限り広く共有したい


2021.4.11
 今年1月に大学時代に同じ少林寺拳法部に属していた同期生が亡くなった。コロナ問題があり、亡くなったこともあまり知らせなかったようである。少し遅れて連絡があり、今日は文京区本郷のお寺で百ヶ日法要があった。人数を限っての法要であったが、しめやかに行われた。
 亡くなってしばらくしてから訃報を知らされたのであるが、同期会ではいつも元気な姿を見せていたので、びっくりした。皆そう感じたようである。同期では鬼籍に入ったのは二人目である。善因善果、悪因悪果という言葉があるが、コロナも死神も人を選ぶようには思えない。むろん密室の長時間カラオケがコロナ感染の確率を高めるとか、暴飲暴食が短命を招きやすいといったことはあるが、それとは別の気まぐれが世の中にはある。
 この訳の分からなさはひどく居心地の悪いものであるから、神の思し召しとか、前世の因縁とか思いたくなるのだろう。だが、気まぐれさが世の中のあちこちにたむろしていることについては、そんなものだと諦める生き方もあって、それも悪くはない。


2021.3.20
 Zoom方式でのシンポジウムや会議が増え、参加者は実際に集まっての開催より増加傾向にあるようだ。自分が関わっているものだけから推測すると、1.5倍から2倍くらいに増えているような気がする。また申し込んでも皆参加するわけではない。実際に参加する人は、大体申し込み者の8割くらいになる感じである。
 ちょっと興味を抱いた講演という類は、Zoomだと遠方でも気軽に聴講できるから、とても便利に感じる。しかし、学会の研究発表などは、やはりZoomだと欠けるものが多い。発表に対する評価の度合いとか、どこに皆が反応したかなどはきわめてわかりにくい。個々のやりとりはまだしも、全体の雰囲気とか流れというのがつかみにくい。そんなことを気にしないタイプの人にとっては、Zoomでも多分問題ないと思うのだろう。
 もっとも便利だなと思ったのは、国外にいる人とリアルタイムでやりとりする機会をもうけやすくなった点である。
 コロナ問題で直接会える機会が極端に減った現在は、情報ツールをどう活かして、情報交換の実をあげていくかを考えざるを得ない状況になっている。こうやって社会は変わっていくのだろうなと思う。


2021.2.13
 今回の緊急事態宣言で、多くの飲食店が8時で営業終了にしている。これで夕食難民状態の人も出てきている。仕事が5時に終わる人ばかりではない。少し片づけをしたり、残業があったりすれば6時、7時になってしまう。
 8時で閉まる店はたいていは7時半、早いところでは7時で入店を終了する。自宅に帰って食事をとる人は関係ないだろうが、夕食も外食が多い人にとっては、厄介な事態になっている。皆、それぞれ不自由をしているから我慢しましょうという大原則を隠れ蓑に使い、思い付きのような方針が政府から次々と示されるのは、なんとも腹立たしい。アベノマスクの大不評以後、少しはまともな検討をするようになったのだろうか。
 今回の場合、なぜ8時なのか?9時だと何が問題なのか?地方と大都市とで事情はどう違うだろうか?
 そういう議論などしていないだろう。コロナ問題が起こってから、政府の対処は後手後手というだけでなく、あまりに人々の生活に対する配慮がなさ過ぎである。GOTOトラベルが典型だが、大企業の上層部の意向だけを聞いて、対策を練っているに違いないという憶測が出てしまう。
 されば、一人ひとりが賢くなって、どう行動するのが自分の身を守り、社会の安全に貢献するかを考えるしかない。
 いろいろな国で軍事政権や独裁者による圧制が報じられる。だがかつてと違い人々は新しい情報のやりとりや連帯でそれを乗り越えようとしている。実は日本もそれに似たような事態なのだということに気づいた方がいい。権力を握った人間のやることは、ほとんどの場合、大同小異だと歴史が示している。


2021.1.31
 2021年になったと思ったら、もう1月が終わりである。月日の過ぎ去る速さに圧倒される。
 今年は2021年だが、年度ではまだ2020年度である。これは仕方がない。しかし令和3年であり、令和2年度でもあるとなると、なんとなく頭がこんがらかる。コンピュータ時代であり、グローバル時代であるとするなら、すべての計算が楽な西暦表記を優先してほしいと思うが、なかなかそうはならない。
 和暦を優先している人は「昭和50年1月に生まれた人は、令和2年2月には何歳になったでしょう?」というような問いの場合、どうやって計算するのだろうか。西暦なら1975年生まれの人が2020年に何歳かは暗算でできる。それに和暦と言いながら、21世紀は使わざるを得ない。100年単位の歴史展望に和暦は使えない。これを矛盾とかおかしいとは思わないのだろうか。
 不合理でも使い続けさせるのが文化の力ということになろうが、面倒この上ない。面倒なことをあえて毎日強いることで、脳のアンチエイジングに役立てさせようという社会の知恵なんだろうと、無理やり納得している。


2021.1.13
 新型コロナウイルスとの闘いという表現はよく目にするが、これは人間を取り巻く自然環境との関係であるから、基本的に制御などできない類の問題である。同じような脅威は次から次へと押し寄せるので、人間という種にとっては絶滅のときまで果てしなく続く闘いである。
 ウイルスはウイルスでも、コンピュータウイルスは人間が作り出したものである。これは人間自身の闇を示している。生活が便利になるようにと考案されたテクノロジーを悪用しようとする一群の人々の、これまた終わることのない企みである。
 なぜそのようなことをするのかを考えても仕方がない。殺人が平気な人、戦争が好きな人がいるように、悪しき企みへの誘惑は人間という存在に埋め込まれているのは間違いないからである。それがどんな条件で作動しやすくなるかなどと考えるのがせいぜいである。それさえ、手がかりを見つけるのが大変である。そんなふうに考えると、研究もつい悲観的になるが、最初に限界を承知していた方がやけくそにならずに済む。

◆2020年
2020.12.31
 少し異次元の1年間であった。昨年はボストンとソウルに行く機会があったが、今年は外国どころか国内旅行もまったくできなかった。大学もたまに行くと半分廃墟かと思うほどの静けさであった。後期にハイブリッド型の講義があって、変則的ながら対面での講義があり、大学院もたまに対面でゼミをやったので、大学教育にまだ関わっているのだというのが少しだけ実感できた。
 こういう事態になったので、あらためてウイルスと抗体との関係について調べてみたが、両者の攻防は人間社会とひどく似ている面が多いと感じた。ウイルスは生物とみなす説とみなさない説があるが、自分には生物としか思えない。仲間が一定数いると感知したら行動のフェーズが変わるクオラムセンシングが新型コロナウイルスにも起こるとしたら、それは人間でいえば社会的行動に当たる。
 感染や発症のメカニズムは、人間社会のどの局面に似ているのだろうか。交差免疫(cross immunity)や抗体依存性感染増強(ADE)が注目され、ウイルスと人間との攻防がいかに複雑な仕組みであるかが分かれば分かるほど、そういう関心が増してくる。

2020.12.28
 カメラ付きドローンの利用はどんどん広がっているようだ。手軽なものから高機能のものまで、実に多様な機種がある。空撮したものがユーチューブ上にどんどんアップロードされている。世界各地の町や自然の風景が楽しめる。1985年に当時ユーゴスラビアの町であったドブロブニクで国際会議があり、その古い街並みを持参した8ミリカメラで撮影した。1991年にユーゴスラビア内戦が起こったので、「アドリア海の真珠」と呼ばれたあの美しい町はどうなったか気になっていた。
  思いついてドローンでドブロブニクを撮影した映像が、ユーチューブ上にないか調べたら、見つかった。街並みはそのままであった。あの場所から撮影したのだったと記憶が蘇った。そのときドローンがあったらどんな風に撮影しただろうか。今は想像で楽しむしかない。


2020.12.9
 先日、アイフォンのバッテリーがだいぶ古くなり、すぐ消耗するようになったので交換しようと新宿まで行った。
 予約の上で行ったのだが、対応した人が古いタイプのアイフォンなのでバッテリーの在庫がなく、またいつ入荷するか分からないと言う。
 ここまでは仕方ない。ところが次のやりとりをするうちに呆れた。今のアイフォンを預かってバッテリーの交換はできる。その間は代わりのものを貸し出すという。では予約金を払うからバッテリーを注文して入荷したら教えてくれというと、そういうシステムはないという答え。
 巷で言われる買い替えさせるための戦略としか思えない対応であった。
 結局、考えてみるといって何の手続きもせず店を出た。
 携帯電話は初期の頃はバッテリーを自分で交換できた。それをできなくしている上、こんな面倒な仕組みにしている。買い替えさせるための戦略は多くの企業に感じるが、SDGsに反するこうした慣行にも軌道修正が必要だろう。


2020.11.22
 バラク・オバマ前米大統領が回顧録の中で鳩山由紀夫元首相について評した部分の翻訳のお粗末ぶりが取り沙汰されている。文脈の捉え方もさることながら、「A pleasant if awkward fellow」と鳩山元首相を評した部分を、「感じは良いが厄介な同僚だった」「感じは良いが付き合いにくい」などと訳している新聞社がある。
 せいぜい「不器用なところがあったが楽しいやつ」くらいだろう。この場合のifの使い方の基本を知らない人が、新聞で元首相についての元大統領の評価について言及しているということである。
 フェイクニュースの横行もさることながら、基礎学力のない人が大手メディアには少なくないのではないかという嫌な推測が働く。
 メディアの忖度の著しさがしばしば話題になるが、それ以前にひょっとしてジャーナリストたる上での基本的な力のない人が増加しているのかもしれない。だとすると、忖度を忖度と思っていない可能性もある。
 これがまったくの勝手な思い込みであることを願っているが、日々の報道からは、思い込みではなさそうな気配が漂うことが多い。放っておいていい事態ではない


2020.11.6
 去る10月20日にカナダ出身のステージマジシャンのジェームズ・ランディ氏が死去したというニュースがあった。ランディ氏は超能力者と称する人たちのトリックを公開で暴いたことで知られる。ずいぶん前だが日本のテレビでもその様子が放映され、興味をもってみた記憶がある。
 とくに有名になったのは、科学的に実証できる超能力を持つ人があらわれたら百万ドルを進呈すると呼びかけたことで、千人以上が挑戦したらしい。むろん誰も成功しなかった。企画は2015年に終了していたということを今回知った。
 ランディ氏は超能力というふれこみで詐欺的行為をして金を集めるという行為に憤りを感じていたように思うが、テレビで見ると、超能力者が失敗しても追い詰めず、ただ視聴者に「分かったでしょう」と無言で語りかけていたような印象がある。
 しかし自称超能力者たちの失敗した姿を見ても、相変わらず信奉する人が多かったというから、そういう人にとっては科学的検証などは意味を持たないのだろう。
 日本の国会で辻褄の合わない答弁が繰り返されても、アメリカ大統領選挙で堂々とフェイクニュースがSNSに流されても、それが間違いだと判断できない人たちは、はなからそれらへの批判を受け入れる気持ちのない人たちなのだろうと思えてくる。
 なぜそうなのか。そこで扱われていることがらに注目してみると、知性とか教養とかという問題でなく、他人の痛みに共感できる能力の問題ではないかと感じる。そう考えると一番腑に落ちる。そうすると、これは遺伝的なものか、育った環境によるのかとさらなる疑問が起こるが、両者の絡み合いという厄介なメカニズムだろうと推測している


2020.10.20
 「2ちゃんねる」が流行り始めた頃、インターネット上の情報はほとんどが屑だというような意見が出たことがある。SNSという言葉が一般化した21世紀に、同様のことがつぶやかれる。つまらない情報、意味のない情報が大半であるという意見には評価が分かれるかもしれないが、問題なのは、政治家の一部、評論家の一部、そして知識人と自称する人の一部に、意図的かどうかは不明なものの、いわゆるフェイクが目立つことである。
 すぐ分かるような嘘をどうして実名でツイッターなどで発信するのか。一国の大統領でさえそうなので、こういう現象に歯止めがかからなくなっていそうなのが気になる。これほど言葉が軽くなるものかと思う。そういう人が信用を失って、結果的に淘汰されるならいいが、フェイクや意図的に歪曲した発言がけっこうな数の同調者を生んでいるのを見ると、危機的状況と見た方がよさそうである。新聞を見ない若い世代も増えている。辞書の使い方を知っている人や堅実な学術書を読みこなす人はどんどん減っているという印象がある。これが自分の認識不足ならいいが、そう感じている人が身の回りにもかなり多い。思い過ごしではないだろう。
 この事態にどう対処したらいいのか。教育に関わる人はよほど腰を据えてかからないと、足元は間違いなく浸食されていくだろう。


2020.10.14
 大学の講義はまだオンライン講義が主流のようだが、ハイブリッド型のものを体験して、なんとなく疲れ方が違うような気がする。ハイブリッド型というのは、希望する学生は教室での対面の授業を受け、遠隔授業を希望する人は同じものをZoom等で視聴するという方式である。
 学生は選べていいのかもしれない。けれども授業をする側は、教室にいる学生に対して語りかけると同時に、オンラインで出席(?)している学生への配慮もしなくてはならない。接続に不具合が生じていないかなどをときどき気にしながら、教室の学生が講義に関心を抱いているかどうかなどにも気を配らなければならない。
 1つ新しい作業プロセスが加わったことで、脳には負担がかかっているのであろう。そのうちこの状態にも慣れるとは思うが、感染の恐怖をどこかに持ちながらの今の態勢というのは、知らぬ間にストレスを蓄積する人が出てきそうに思う。
 教室に来た学生も、昨年までなら一番前の席にもびっしり並んでいたのに、今は後ろの方の席にかたまっている。対面授業になっても、教師と学生の間に置かれた物理的距離が心理的距離をもつくり出しているのを感じる。


2020.10.4
 映画の配給会社の「ハーク」の担当者から来年1月に日本公開となるポーランド映画『聖なる犯罪者』のレビューを依頼されて400字原稿用紙6枚分くらいを書いた。レビューのタイトルも内容も提出原稿のまま使ってもらた。
 英語名の原題は「corpus christi」(キリストの体)で、少年院から出た若者がカトリックの司祭になりすまして起こった出来事を描いている。原稿を書くためDVDを送ってもらって観たが、とても興味深い内容であった。以前『宗教と現代がわかる本』で映画・DVDの紹介を毎号やっていたが、宗教関連の洋画はときおり非常に考えさせる内容のものがある。今回も、考えさせられる映画をじっくり観る機会が得られてよかった。


2020.9.16
 先般の台風襲来のとき、気象庁は盛んに「今まで経験したことのないような」という表現を用いた。最大級の注意を払ってほしいという気持ちだろうが、何か違和感がある。個人的には高校生のとき瞬間最大風速が70メートルを超える台風が来て市内の3分の1ほどの家屋が被害を受け、自分の家も傾いたという経験をしているので、誰にとっての「経験したことのない」話かと疑問に思う。
 形容語によってインパクトのある言葉にするというのは、現代日本の特徴である。「衝撃的結末が」とか、「驚きの事実が」といった表現でとりあえず耳目を惹こうという戦略である。まんまと乗せられる人が多いから相変わらず続いているのだろう。
 つられて読んでなんだで済む話ならそれもいいだろうが、生命に関わったり、重大な事態に直面しているようなときには、具体的な対応が可能なような情報を発信すべきである。「十分注意してください」なら、子どもでも言える。何が大切かといえば、状況に対する想像力である。全体がどういう状況なのか、個々の環境によりどのような変異が生じるか。想像力は常日頃細かく観測する訓練をしていないと養えない。


2020.9.11
 2001年の「9.11」から19年が経つ。2017年2月にワシントンとニューヨークに調査に行ったときに、「9.11博物館」にも足を運んだ。テレビの映像で見た惨状がそこで起こったのだと、少しだけリアルに感じられたが、同時に、直接体験した人でないと、そのすさまじさは分からないだろうと思った。
 それにしても人間はあらゆる生物の中でもっとも残酷な行為をやりかねない存在だと思う。他の人のために自分の命まで捨てる人がいるかと思うと、見も知らない人を殺しても平然としている人がいる。あるいは明らかに自分のせいで、誰かが自殺する事態となっても、素知らぬ顔ができる人が現代日本ではあちこちにいる。
 残念ながら「美しい日本」などというのは見果てぬ夢であることは早く気づいた方がいい。


2020.8.23
 8月10日に亡くなった渡哲也はとても魅力のある男優であった。アクションドラマによく出ていて1980年代前半の西部警察などをなつかしく思いだす人もいるだろう。しかし個人的には1970年末に放映された「浮浪雲」というテレビドラマでの役柄がもっとも印象に残っている。本人もこの役が気に入っていたのではないかと、勝手に推測している。
 浮浪雲はジョージ秋山の漫画が原作で、これがなかなか味があったので、ドラマ化しても面白みが随所にあった。日本社会にも少し余裕があった頃で、こんなドラマがヒットしたのかなとも思う。「倍返しだ!」と叫ぶドラマが人気になるというのは、なんとなく社会全体が追い詰められているせいなのかと感じたりするが、考えすぎだろうか。


2020.8.12
 ときおり英文の詐欺メールが来る。莫大な遺産を得たので一部を受け取ってもらえないかとか、死にかけているが資産をあなたにゆずりたいとか、およそありそうにない話である。ひっかかる人がいるのかと思うような内容だが、今でもメールが来るということは、まれには返信する人がいるということだろうか。
 この手のメールは随分前からあって、電子メールがはやり始めた頃、まんまとひっかかってアフリカまで行った人の話を読んだことがある。あまりにありえない話だと、逆にひょっとすると思う人が出るのかもしれない。
 人はたいてい理性的に行動すると考えては大間違いで、理性的に行動することは少ないと思った方がいい。理性を働かせることは生存にとってマイナスになることがあるからかもしれない。理性でつくりあげた思いやりの文化とか、共生のための仕組みが、どこの国でも簡単に蹴散らされたりするのを見ると、そう思いたくなる。それでも、理性を放り投げたら、さらに現実が厳しくなるのは80年前を振り返るだけでよくわかる。それが分からない人たちが政治家の中に少なくないことが、今の日本でもっとも警戒すべき点である。


2020.8.2
 昼は雲、夜は星空。人の心のせせこましさにうんざりしたときに見るものである。
 ストレスがたまったとき動物で癒されるという人もいる。それも分かる気はする。
 だが自分にとっては広大な自然ほど心を覆いつくすものはない。
 あまりに忙しいときにはそのことさえ忘れることがある。だが幸いに今はそれほどまで追いかけられる日常ではなくなっている。
 ほんの数分空を眺めているだけで、自分の小ささとその小さい自分を包む永遠の時空が感じられる。いつかそこに溶け込んでいくに違いないと夢想することは、一抹の寂しさを伴ってはいるが、不思議な安らぎをもたらしてくれる。

2020.7.26
 今日のNHK日曜美術館で、棟方志功と師の柳宗悦との深いつながりについて解説していた。二人がそれほどまでに肝胆相照らすような関係であったとは知らなかったので、とても興味深かった。この人に理解してもらえたら、他の誰がなんと言おうとかまわないというような関係というのは、分かるような気がするが、そういう巡り合わせは滅多にないであろう。自分にもなかった。もしあれば、古い話だが「師の不在」などというエッセイは書かなかったであろう。
 芸術であろうと、学問であろうと、あるいは宗教であろうと、まさに人生の師という人に巡りあった人は幸いだろう。だがこの関係が一方的なもの、つまり弟子が師をひたすらあがめるだけというのは、宗教にはけっこうみられるけれども、あまり素晴らしい話には思えない。
 やはり師と仰がれた側からも弟子となった人へのゆるぎない信頼があるという関係においてこそ、何かが生みだされるように思う。このような巡り合いは努力だけではなく運の方が大きく関係するように思う。ただ、長い研究生活を通して、少しだけ師と感じたこと、少しだけ弟子と感じたこともなくはないから、運が悪かったなどいう気持ちはさらさら起こらない。

2020.7.19
 先週、参議院議員会館で、ある参議院議員のコロナ問題についての見解を聞く会合があった。国会議員の話を直接聞く機会はこれまでにも何度かあった。当然であるが政治家は概して話はうまいし、自分の手柄話は巧みだと思うことが多い。
 しかし、今回は珍しく誠実さを感じた。分からないことは率直に分からないと言い、出席者からの厳しい意見にも耳を傾けるという姿勢が一貫していた。まだ一期目だというが、国民がどんなに苦しもうが素知らぬ顔の政治家にならないで欲しい


2020.7.11
 新型コロナウイルス感染症の広がりで移動の自粛が要請されるようになってから、オンライン会議の類が増えた。大学院のゼミはZoomによる遠隔講義とすることを大学が決定したので、従わざるを得ない。大学への往復の時間がなくなったのはいい面とは言えるが、途中の風景から街の変化を読み取る機会が奪われてもいる。
 北海道大学の知人が企画したオンラインのセミナー(ウェビナー)は、議論する人が比較的少人数であり、やりにくくはなかった。また実際の会議よりもはるかに多くの人がユーチューブで閲覧したようで、その意味ではよかった。ただ、聴衆の顔が見えず、反応が分からないのは、大事なものが抜けている感じがする。
 宗教文化教育推進センター等が共催で行った宗教文化オンラインワークショップは、インドネシアの家庭の様子をリアルタイムで見ながらチャットで質問ができるというやり方で、斬新であった。ただいろいろ工夫が必要になりそうだ。
 テレワークとかオンライン会議は、それで済むものはどんどん導入したらいい。でも対面でなければ得られない情報は思っている以上に多い。そこにはおそらく無意識のうちに感知するような情報が多分に含まれる。オンラインで済むという人は観察眼が乏しいのではないかとも思う。遠い将来には本当に参加者が一堂に会したような気になるバーチャル空間を作る技術もできるかもしれない。だが、対面状況がもたらすスリリングな関係にとって代わることはできそうにないと感じている。


2020.6.20
 ニュージーランドのアーダーン首相の人気はきわめて高いようだ。国外からも高く評価されている。米国をはじめ、中国、ロシア、そして日本といった国の政治的指導者たちと比べると何か人間の資質が違うという気がする。あえて言うなら彼女は国民一人ひとりを人間として見ているに違いない。大国の悪名高い指導者たちからは、そうした雰囲気がいっこうに感じられない。
 権力欲に取りつかれた人間のすることは、いつの時代も同じなのであろうと思われてくる。不思議に思えるのは、そうしたリーダーにも一定の支持者がいるということである。うまい汁を吸える人が一蓮托生とばかりに周りを固めるのは分かるが、むしろ割を食っているのではないかと思われる人たちの中にも支持者が少なくないらしい。それはなぜかを考えることがとても重要に思える。


2020.6.18
 コンピュータとの付き合いは35年以上になる。この間の機能の向上は飛躍的だが、すべての面で使いやすくなったかというと、そうではない。キイボードの使いづらさはまったく変わっていない。たとえばワープロの機能は多様になったが、あまり使わない機能だけ複雑になっていき、日常的に使う機能はかえって使いづらいこともある。
 何より面倒なのは、OSごと、機種ごと、ソフトごとにやり方が異なることである。同じソフトでもバージョンが変わって、コピーやフォント指定といった簡単な作業の手順とか押すべきキイの配置が変わったりする。
マシーンの当たりはずれも大きく、10年以上問題もなく動くコンピュータもあれば、買って早々にトラブルを起こすものもある。
 マーフィーの法則よろしく、大事な会議の直前、締め切りの直前に、なぜかコンピュータがトラブルを起こしたり、印刷ができなくなったりこともある。
 メーカーは売ることには最大の注意を払うがユーザーの立場はさほど重視していないというのが、これまでのコンピュータとの付き合いで得た経験則である。
 それでも付き合わざるを得ないので、大事なデータは二重三重にバックアップをとり、不意のクラッシュにも備える。とはいえ突然コンピュータが動かくなって、そこにしかないソフトが使えなくなったときは腹立たしい。最初期はソフトはフロッピーやCD-ROMでインストールできたので、コンピュータを買い替えても対応できたが、今はオンラインでライセンスをとるのが主流である。これが便利なようで厄介なときがある。
 一般の家電製品は新しいものを買って、すぐれた機能があればそれを享受できるが、コンピュータの場合、今まで使っていたソフトをまたインストールし直さなければならないから、面倒なこと極まりない。
 ソフトもデータもクラウドに置けば、こうした悩みはなくなるのだろうが、そこまでクラウドを信用する気にならないのは、コンピュータ使用の古い世代の悲しい性であろうか。


2020.6.8
 Zoomを使っての講義や会議が急速に広がった。特に集まる必要もない会議というのもあるから、そういうものは、こうした新しいツールを使っていけばいい。ただゼミなどはやはり対面でないことによって失われるものがいくつかある。それを軽視する人もいるが、人の微妙な感情を読み取れない、あるいは読み取ろうとしない人にその傾向が強いように感じている。話しているときの細かな表情の変化が意味することとか、誰かが発言しているときの周りの雰囲気とか、そうした中には実も自分もあまり意識していないうちに感じ取っているものがある。教育の場では、それがとても重要な意味を持つと思っている。
 ただZoomも随分便利な機能があり、これはこれで活用していけるなと感じている。


2020.5.27
 9月入学の議論が喧しい。9月入学推進派は国際的傾向を重視し、反対派は混乱を指摘する。しかし、別の解決法があると個人的には思っている。
 最近は大学の講義はほとんどがセメスター制が導入され半年単位になっている。それを踏まえ、単位が少しだけ足りなかった学生には9月卒業を認めるところがある。
 大学に限っての話であるが、別に4月から9月に変えずとも、10月入学を何分の1か認め、9月卒業も同様にすればいい話と思っている。4年で卒業する人や4年半で卒業する人がいてもいっこうにかまわない。企業の採用も2回ピークがあってもいいだろう。今の就活の異常さが少し和らぐかもしれない。
 入学試験が2回が面倒くさいということがあるが、現行のややこしい制度を少し変えれば2回でも十分対応できる。
 気軽な立場からの物言いであるが、突飛な提言とは思っていない


2020.5.20
 誰が言っていることを信頼したらいいか、どの発言がより正確と考えていいか。これを見分ける能力を高めるのは容易ではない。ある分野で優れた業績をあげた人でも、いろんなところに引っ張りだこになり、専門を外れたところにもあれこれ発言しだすと、首をひねるようなことを言う場合もある。
 一般的に連日テレビに出ているような人の言うことは話半分に聞いていた方がいいというのが、個人的に得た経験則である。おしゃべりを楽しむような番組と正確な情報を提供するための番組とは性格が異なるが、その境界線を無視しているような番組もけっこう多くて、これが厄介である。ネット上のニュースなどは、もうどうしようもないほどカオス状態である。
 ほぼ適切な発言をする人を見分けたり、きわめていい加減な内容を見分けようにしようとする姿勢を保つだけで、惑わされる割合は減る。自分と比較的話の合う人というのは、おおむねこの点では似た姿勢をもっていると感じる。「アベノマスクのおかげでマスクの値段が下がった」などという戯言を信じる人は、身の周りに一人もいないので、少し安心している。


2020.5.3
 ジョギングコースは桜の時期には桜を楽しむことができる。今はつつじがきれいだ。赤っぽいものやピンクもあれば白もあり、混じったのもある。桜よりは咲いている期間が長いから、何度も楽しめる。葉っぱに負けじと一面に咲いているのもあれば、遠慮がちに咲いているものもある。きれいに整った形の塊になっているのは誰かが手入れしているのであろう。それでも最後は花の生命力がなければ美しさは感じられない。
 この頃は以前のようにスピードは出さず、のんびりと走っているので、自然の変化はより身近に感じられるようになった気がする。


2020.4.29
 ウイルスとの攻防は科学的な思考に基づくしかない。ウイルスに文化や感情はないから、外面的装いは意味がないし、情に訴えても何の効果もない。感染はどうして起こるか、発病するのはどういうときか、免疫を高めるにはどうしたらいいか。抗体はできているかどうか。それぞれの環境でより適切なものを探り当てていく努力をしなければならない。
 しかしウイルスをめぐる社会問題となると、人間の話になるから、考慮すべき次元が一挙に複雑になる。科学的思考に基づく行動も、思わぬ批判にあったりする。ウイルスに関する知識が皆無の人たちのとんでもない意見にも対処しなければならない。
 おそろしく慎重な行動をとる人と、きわめて不用心に行動する人は、正反対に見えるが、ともに自分のことしか考えていないという可能性もある。
 かなり慎重な人と、かなり大胆な人とが、ともに周囲のことを考えた上でのことである可能性もある。
 慎重かそうでないかは人ごとに違い、かつこうした局面で認識を新たにすることもある。だが、自分のことしか考えてないか、他人のことも考慮する人かは日頃からある程度分かっているだろうから、こういうときも、そちらを重視して、その人とどう距離を保つかを考えた方がいい。
 徹頭徹尾無責任な人が、組織で命令を下す側にいる確率はそれほど低いわけではないということが、コロナ問題は実に明確に示してくれている。


2020.4.16
 ステイホームをとか、テレワークをとか呼びかけているが、それができない人たちも数多くいる。病院関係者は三密状態の中に身を投じなければいけない。日常品を売っているスーパーやコンビニで働く人たちも、不特定多数の人との絶えざる対面状況を避けるわけにはいかない。
 そうした人たちになるべく負担がかからないようにと配慮するのが普通なのに、怒りをぶつけたり、無茶な要求をする人もいるようだ。
 先日電車に乗ったら、ガラガラで2~3席ごとの仕切りに一人腰かけているかどうかくらいであったのに、変な中年男性がいた。わざわざ移動して他の人のすぐ横に座るのである。横に座られた人がいい気がしないから、別の席に移動する。するとその男性はまた別の人の横に座るという具合で、とうとう私の横に来て座った。私はすぐ立って、扉のところにいった。次の停車駅でその男性は降りたが、何をしたかったのか不明である。
 社会全体に不安が増してくると、わけの分からない行動をする人も出てくる。人が少なくなったからといって、注意深く周囲を見渡すという作業は欠かせない。



2020.4.5
 新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大で、あらゆる組織がどのような対応をするか、日々厳しい決断を迫られる状況になってきた。個人的にも自分が責任者となっている組織があるので、状況判断には神経を使う。
 それでふと思い出したのが、大学時代に少林寺拳法部の主将を務めていた時期に起こった事態のことである。大学紛争で授業は中止となり、部員の中にはそれぞれ異なったセクトに属し、激しい対立関係も生じるという状況になっていた。クラブ活動も一種存亡の危機にあった。
 こうした状況の中でクラブ活動を平常通り続けるべきか、練習等を自粛すべきか、休部すべきか、いろいろな意見が出てきた。ある日、部員に東京大学の本郷構内にある七徳堂の前に集まってもらった。七徳堂は武道関係のクラブの練習場となっていた建物である。
 芝生にすわっての真剣な議論が交わされたが、やはりできて数年しか経っていないこの部をつぶすようなことはしたくないというのがほとんどの意見であった。それで練習は通常通りとし、思想上の対立をクラブ活動に持ち込まないという原則を立て、それが守れない人は辞めてもらうということにした。
 今から考えると、そんな議論までしたのかと思う人もあるだろうが、当時は先行きが見えず、また大学や社会を包む状況に無関心であることには、鋭い視線が注がれる時代であった。
 いかなる状況においても平常心を保つというのはとても難しいことである。危機のとき、誰がリーダーであったか、それはその組織の命運を大きく左右する。そうそう優れたリーダーはいないにしても、この人だけは避けるべきだというような人がリーダーになることが組織にはままある。
 どうやってそれを見分けるか。個人的には「巧言令色鮮し仁」という古くからの格言が、とても信憑性の高いリトマス紙と感じている


2020.3.29
COVID-19が猛威を奮うなか、「不要不急の外出の自粛」を要請する言葉があちこちで聞かれる。確率的に言って、ウィルスの拡散を防ぐには人と人が近寄る機会を減らすのは、有効であるのは間違いない。
 だが、ここで不要不急が何を指すかである。テレビのおふざけ番組を作成するためにタレントやスタッフが集まるのは不要不急のように思われるが、それも外出できなくなった人たちへのサービス提供として必要というロジックがあり得る。不要不急は誰の目から見たものかということになる。
 生活必需品の供給を止めるわけにはいかない。経済がたちゆかなくなったら大変である。医療機関はより充実した体制が必要になる。
 そうなると、一番厳しい目を向けられがちなのが娯楽・ㇾジャーの類であろう。だが、それとて心理的な面では欠かせない。気持ちのリラックスが免疫力を高めるという理屈も出てくる。
 政府が命令を出せば従うしかないのだが、今の日本の悲劇はその政府への信頼感が地に落ちているということであろう。信頼性のない人たちからの言葉は、いかに心に響かないかというのをしみじみ感じている。


2020.3.20
 新型コロナウィルスに限らず、風邪のウィルス、インフルエンザのウィルスの振る舞いには忖度がない。相手の地位や身分にはお構いなしである。とはいえ健康状態、衛生観念はウィルスに感染するかどうかに影響する。睡眠を十分とるとか、手洗い、嗽を励行するとかは、文化的に獲得された行動様式であるから、結果的にウィルスは文化的智慧に忖度したかの如き振る舞いをするのだと見なせなくもない。
 それでも自分の目の前にいる人がウィルスに感染しているかどうかは、明らかな症状でもない限り判断は難しい。身なりは立派でもトイレに入って手を洗わない人もいる。それを見分けられない。つまりウィルスに遭遇するかどうかは、運と呼ぶようなものにも大きく左右される。きっとここに神頼みが廃れない理由があるのだろう。


2020.3.8
 「大丈夫?」と思うような出来事が立て続けに2つあった。1つはタクシーの運転手がナビを見間違えて、首都高速から目的地とは全然別の方向に行ってしまってUターンしたという出来事。もう1つは、車検が終わって、一連の書類をもらってからのこと。依頼した店でコピーすべき書類をコピーしなかったので、貸してくれと電話があり、自宅まで取りに来た。そこまではまあ仕方ないとして、その書類をコピーしにいって、 古い方の書類をコピーしただけでなく、新しい方の書類をコピーしたところに落としたのである。幸いコピーしたところで保管してもらっていたからいいようなものの、無かったらどう面倒な話になったか分からない。
 いずれも20代と思われる男性で、高齢者ではない。間違いは誰にでもあるとはいえ、それぞれの職業において、間違えてはいけない箇所である。プロの筈だからといって任せず、自分でもできるチェックは怠ってはならないと肝に銘じた出来事であった。


2020.3.5
 いろんな会議が中止や延期になっているが、基本的な情報が得られていなくて、皆右往左往という気がする。日本の政治家は、このグローバル社会と情報社会という状況にここまで認識が甘いのかと愕然とする思いである。パニックに近い状態になっている人もいるようだが、それも致し方ないかと思うほど、残念な政府の対応である。
 たいしたことはない事態なのか、一歩間違えると大変なことになるのか、それには疫学的調査が必要だと専門家は言っている。政府と官僚(たぶんエリート官僚)がそのことの意味を理解しているのか、はなはだ疑わしい。
 ウィルスは人間の感情など忖度しない。まさに科学的な根拠をもって対応をするしかない。
非科学的で、非論理的な考えは、どこまで社会に蔓延しているのかと思ってしまう。


2020.2.24
 新型コロナウィルスはグローバル化する世界を背景に、あっという間に世界に広がっている。しかも感染経路が不明なものが増えている。政府閣僚や忖度官僚の科学についての知識欠如や行動のひどさなどに驚いている暇はなく、自衛するしかないと思い至るべきであろう。
 今回のウィルス流行に関連して、1918年から19年にかけて世界的に流行して死者が数千万人にのぼったというスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザに言及した文をいくつか見かけた。最初米国で流行したが、米国の兵士がヨーロッパにもたらしてヨーロッパ各地でも広がったという。
 それならアメリカ風邪と呼ばれてもよさそうだが、当時戦争中であった国は報道管制をしいていたが、スペインは中立国であったため、患者の情報を報道し、それでスペインに大流行したかのように受け止められたという。
 また若い人に患者が多かったのは、免疫がなかったことが関係しているという説明もあった。ある程度は軽い病気にかかりながら、ウィルスとの戦いに対する免疫力をつけていくしかないようである。
短期間に突然変異するウィルスに対し、人間の遺伝子は一生変わらない。人間にほぼ勝ち目はない。そこそこの敗北にとどめるというしかない。
 個体だけでなく、人間社会もウィルス相手には、武器での脅しが効かない。力による政策を基本とする政治家にとっては、手ごわい相手である。
情報統制の強さで知られる中国政府も、さすがに今回は早めの情報公開を行なわざるを得なくなったようである。ウィルスの遺伝子情報も公開した。
 中国政府は情報を統制しようとしがちである。米国の大統領は公然とフェイクニュースを流す。日本の官僚には首相に忖度して情報をごまかすことをはばからない人がいる。情報を粗末に扱っていると、やがて情報から逆襲を受けるに違いないと思っている。

2020.1.26
 今年は元旦からジョギングをして調子よくいくはずだったが、2回目のジョギングをする前後から左足の甲が腫れて痛み、ジョギングを一時止めることにした。痛みは一週間ほどでほぼなくなったのだが、こうした経験をするたび、体のバランスは実に微妙だということを感じる。少しの痛みで歩き方がちょっと変になるし、体のリズムがなんとなく狂う。知らぬうちにあちこちその影響が及んでいる。
 組織もそうなんだろうと思う。ほんの一部の人が調子が悪かったり、変なことをしたりすると、その影響は全体に及ぶ。思わぬところにとばっちりが来たりする。
 とはいえ、すべてが順調ということは体にしても組織にしてもあり得ないことである。小さな変調がそのうちなんとか治るものなのか、大事の前触れなのか、そのへんの見極めが大事なんだろう。この辺は理論というより、感性のようなものが意外に鋭い判断をしていそうである。

2020.1.20
 各種の会議、シンポジウムなどを開催するときに、よく考えるのだが、事前にどれほど打ち合わせをしておいた方がいいかである。あまりに打ち合わせが丁寧すぎると、出来レースのような話になりかねない。打ち合わせなしであると、話が全くかみ合わなかったり、とんでもない方向に議論が進んだりしかねない。
 これも参加者がどのような関係で聴いている人がどんな人かにもよるし、会議の目的にもよるから一概に言える話ではない。個人的には会議の趣旨と分担がある程度分かる程度の打ち合わせが一般的にはいいかなと思っている。
 それより大事なのは、会前後の懇親とかちょっとした企画である。国際学会ではよくツアーが組み込まれるが、会議自体とは別の雰囲気の中で参加者と会話することはとても大きな意味がある。聴衆の前では言えない話が聞けることもある。会議の前後にまで配慮したものには参加した方がいいと思うようになっている。



◆2019年

2019.12.31
 予想以上に忙しい年であったが、いろいろ体験もできて良かった。退職したら手がけようと思っていた執筆が大幅に遅れてしまったが、ようやく着手できそうである。
 政治家の腐敗というか劣化が相当進んできたのに、もう諦めきってしまった人が多くなったのか、あまり批判の声も高まらない。書店に行けば愚にもつかない雑誌や単行本が平積みになっているのを見ると、情けなくもなるが、嘆いてばかりでも仕方がない。自分ができるところでやっていくしかない


2019.12.7
 先日、ある財団法人の研究員と面談する機会があったが、最近は日本の若い男性が国外に留学したり活動したりしたがらないという話になった。アフリカなどで現地の人と交流する場に来るのはほとんど女性で、男性の姿があまりないということであった。宗教研究の分野でもアジアやアフリカなどでフィールドワークをしている研究者というと、女性が多いのを感じている。
 大学で講義をしていても、積極的に質問してくるのは、ほとんど女性である。いつからこういう傾向になったのであろうか。少なくとも21世紀の統計では留学する学生の男女比を比べると、常に女性の方が多い。
 女性が国外で活躍するのは大いに喜ばしいが、問題にされるのは男性の内向き志向である。男女を比べてというより、以前と比べてという変化であるように感じる。これからの社会がどうなっていくかを少しでも考えるとき、日本だけ見ていても良い見通しは得られない。グローバル化はどこにも押し寄せてきているからである。それに背を向けるような姿が少なくないのがやはり気にかかる。広く世界をみることの楽しさについても教える機会を増やさなければと思う。

2019.11.18
 渋谷の街がどんどん変わっている。少なくとも週に1回は講義等のため渋谷の駅を使うが、そのたびに通路が変わったり光景が変わったりする。再開発のただなかだからである。
 11月からは地上47階の渋谷スクランブルスクエアがオープンになった。少し覗いてみたが、それほど興味は抱かなかった。書店もはいっていたが、例のコーヒーを飲みながら本を読むというスタイルの空間であり、肝心の本は、一部が手が届かない高い場所にあったり、不親切である。個人的にはあまりいく気はしないが、こうしたスタイルも書籍離れ対策に少しは効果があるのだろうか。オープン間もないのでかなり混雑していたが、今後どうなるか。
 渋谷界隈がけっこうゴタゴタしていた時代を知っている身としては、すっかり変わった渋谷は、別の町である。学生時代にあった店などずいぶん少なくなった。総じてきれいになり、華やかになった。スクランブル交差点などは今や世界が注目する名所である。
 ただ居心地のいい場所があるかというと、それは別の話で、中心部には滅多に見つからない。やはり少し路地裏にはいらないといけない。まあ、これも一つの共存であろう。

2019.11.6
 国際会議があって、久しぶりにソウルに行った。新聞やテレビでは日韓問題がかまびしすいが、街中は以前とそう変わった雰囲気は感じられなかった。もっとも観光などする余裕もなかったので、大学近辺やホテル近辺を少し歩いたぐらいであった。場所によっては大きな変化があるのかもしれない。
 ただタクシーは以前よりだいぶきれいになっていると感じた。カード支払いが普通である。
 研究者の集まりになると、今の政治家のやり口に対してはほとんどが批判的であって、なんとか状況を改善したいという思いは共通している。ソガン大学にいる国内外の学生さんも講義の合間を縫いながら、20人ほどが参加してくれた。若いうちにぜひ、心の中に国境の壁を作るような発想とは違った、広い視野を育ててほしい。
 参加者の中には、ヨーロッパやアフリカからの留学生や研究者もいたが、こういう会議での意見のやり取りというのは、脳が疲れるものの、心地良い疲れである。

2019.10.20
  宗教文化教育推進センターが主催する「宗教文化士の集い」というのが4回目を迎えたが、今年は東京では10月19日に荒川区にあるタンマガーイ寺院と東洋文庫を見学した。タンマガーイ寺院では、タイ人の住職の説明があり、タイ料理も出していただいた。参加者は皆非常に関心をもち、またいい機会であったと述べていた。タンマガーイについては、親しい研究者がこの教団について調べていることもあって、おおよそは知っていたが、やはり実際に寺院を訪れ、僧侶の話を聞くと、急に身近な存在に感じられてくる。
 書物だけでは宗教がなぜ人々に強い影響を与えるのかはなかなか分かりづらい。こうした機会はそれを知るに非常に貴重なのだが、またせっかくの機会を活かせるかどうかも難しい話で、その点も学んでもらえたらと思った。


2019.10.2
 順天堂大学国際教養学部での非常勤講師は、今年もやっているが、後期の担当で昨日から授業が始まった。今までは20~30人ほどの受講者であったが、今年は110人以上に増えていた。学部の募集人員が2倍になったのが関係していると思うが、やはり100人を超えると少しざわつく。
 でも比較的熱心に耳を傾けてくれるように感じた。講義のあと、ジャイナ教に関心があるのでどう調べたらいいか教えてほしい、という学生が質問に来たりした。現代の宗教の姿について知りたいという希望はけっこうありそうなので、最新の情報も交えながら、宗教のいろいろな姿について考えてもらう講義をしたいと考えている。

2019.9.18
 トランプ大統領はハリケーンに関する自説の間違いを認めず、天気予報図の書き換えまで迫ったというニュースがあったが本当だろうか。ツイッターで思いつきのようなことを大統領が発信する時代になったわけだが、こうした事態はどこまでエスカレートするのか空恐ろしい気がする。
 まさか日本で首相に忖度した天気予報が流されることはあるまい。しかし、災害等に関して、政府に都合のいい情報だけメディアに流されている場合があるのは確かである。台風に見舞われた後の千葉県の惨状を見ていると、金にならないことへの政府や大企業の腰の重さは歴然としている。

2019.9.8
 日曜日や祝日のジョギングは、今でもできるだけ欠かさないようにしている。ただ、足腰を支える筋力が少しずつ衰えてきたのはさすがに自覚しているので、以前よりはペースを落として、ゆっくりと走っている。
 今日も川の土手を走ったのだが、父親と3人の子どもたちが向こうから歩いてきた。虫取り網など持っていたから、昆虫採集にでも行くのかもしれない。すれ違ったとき、一番年長で多分小学生1年生くらいの男の子が、「おはようございます」と声をかけてくれた。軽く会釈を返したが、そのあと「頑張ってますね!」という声が、その男の子からさらに発せられた。
 これがちょっと微妙な感じがした。単純に励ましの言葉と受け止めてもいいのだが、そういう声をかけたくなる走りっぷりだったのかとも思った。
 かくの如きで、たった一言でも、考え始めたら、いろいろな推察が可能になる。日々の生活で自分に向かって発せられた言葉の裏を一々詮索していたら、待ち受けているのはストレスの蓄積ということになろう。受け流すべきものと、受け止めるべきものとを瞬時に判断しなくてはならない。もっとも、そこに日頃の思考のパターンが介入してきて、たとえ考えすぎるのは良くないと自分で自覚しているものでも、なかなか抜け出れなかったりする。
 袋小路に陥りそうだと感じたら、いったんすべて忘れてみるのも、なかなかいい手である。


2019.9.1
 Google scholarというサイトはとても便利である。国内外の最新の論文もダウンロードできたりする。商業出版の本は読めないが、学術雑誌に掲載のものは自由に読めるものが増えている。しかし論文をすぐダウンロードできても、読むスピードやきちんと理解できるかなどは、むろん自身の能力にかかっている。便利さは自身の能力不足を嘆かせる結果にもなることがある。
 ただ無料で最新の研究に接することができるのは、研究者にとってはとても有り難い。キイワードで検索するうちに、まったく異なった分野の研究者が、自分が今関心を抱いているテーマに近い論文を書いていたり、似たような発想を持っていることが分かったりすると、なんとなく嬉しくなる。
 読んだ論文よりダウンロードしてある論文がどんどん多くなるのは情けなくもなるが、刺激にはなる。それで良しとしようと自分で自分を納得させている。

2019.8.4
 7月下旬に國學院大學の研究開発推進機構と神道文化学部の人たちが、私がアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれたことを祝う会を開いてくれた。渋谷のしゃれたイタリアンレストランを借り切りにしての、20人のなごやかな会であった。國學院大學時代にいろいろなプロジェクトで一緒に苦労した人たちばかりだったので、雰囲気はとても良かった。
 また大学院のゼミの前期の最終日にはゼミの出席者からお祝いもいただいた。これは予測していなかったことで、大変嬉しかった。
 それで思い出したのだが、1991年に博士の学位を取得したときに、真っ先にお祝いしてくれたのが、夜間の一般教養の科目の「宗教」を受講していた学生さんたちだった。
 その頃は日本文化研究所の専任だったので、学部の講義は非常勤講師扱いだった。また一般教養であるから、いろんな学部の学生さんがいた。40~50人ほどのクラスだったように思うが、ある日、講義が終わったときに数人の学生が「先生の博士号取得のお祝いをしたい」と言ってきた。学報で私が博士号を取得したのを知ったというのである。いつもなごんだ感じで講義のできたクラスであったので、お祝いしてもらうことにした。原宿の店で10数人が祝ってくれ、ネクタイをプレゼントしてくれた。それは次の授業に着用した。
 なぜ嬉しかったかといえば、これはとくに見返りを期待しない行為である。私の講義を楽しみにしてくれ、何かが得られたと思ってくれている人たちからの祝いだったことである。こうしたことは実はそうそうない。やはり教える側にも波がある。また学生たちも年によりさまざまで、いわば相性がいい場合とそうでない場合がある。
 ずっとうまくいく人は、何かの才能を持っているのであろう。通常は努力してもうまくいったりいかなかったりする。しかし、努力しようとしている姿勢は教わる側には伝わるらしい。
 その意味で、伝わっていたのだという具体的な反応がたまさかあると、やはり嬉しくなるのである。 

2019.7.20
 学生時代には少林寺拳法をやっていた。本部は香川県の多度津にあり、そこに毎年合宿に行った。創始者の宗道臣氏の話を直接聞く機会もあった。中国における少林寺の歴史は長いが、日本の少林寺拳法は宗道臣氏が戦後始めたものだ。その宗氏がよくこんなことを言っていたのを思い出す。「一人では何もできない。だが、一人がやらなければ何も始まらない」。新しいことを始めた人ならではの視点である。
 今回のれいわ新選組の動き、その中心にいる山本太郎氏の活動を見ていると、この言葉が思い起こされるのである。高い選挙カーの上からではなく、ちょっとだけ見渡せるだけの高さを用意した場所からの訴えは、それだけでも聴いている人たちの心を動かしているようだ。
 結果が2議席なのか3議席なのか、ひょっとしてそれ以上いくのかは、明日分かることだが、これはスタートなのだという視点が強烈な印象をもたらす。彼の演説を聞いてから、首相の演説などを聞くと、心ある人の心には何も響いてこないのではなかろうか。「心がこもっている」という表現が生まれたのには、それなりの理由があるだろう。
 それにしても、マスメディアはここまで良心を失ったのかと思いたくなる今回の選挙報道である。権力に屈服するということがどういうことか、よく分かる。大本営発表は情報が乏しかった時代だから可能だったなどと呑気なことを言っている場合ではないことがよく分かる。

 
その中でネット情報、とくに動画は、よりリアルに人々の反応を伝えるメディアになってきている。これもまたあやうい面が多々あるのだが、マスメディアがここまでだらしなくなったならば、相対的に信頼性が増していくと考えられる。
 ひょっとしたら、10年後、20年後、マスメディアが信頼を失った画期点として、この選挙が位置づけられることになるかもしれない。そして大統領の根拠ない内容のツイッターが世界の動向に影響を及ぼすというのも、他方の事実であるなら、メディアの信頼性をめぐる問題はおそろしく深刻な課題として、研究者にものしかかってきている。他人事のように論じている場合ではない。


2019.7.6
 2日前のことだが、新宿駅の地下通路で、れいわ新選組の山本太郎氏が参議院選挙へ向けての街頭演説をしている場面に遭遇した。やや急いでいたので、じっくりは聞けなかったが、なかなか聴衆に訴えかける内容と話し方であると印象づけられた。聴いている人たちからときおり拍手が沸き起こり、話に引き込まれている人が多いのが感じられた。
 政治家の街頭演説に出くわすことはときどきあるが、おおむね自慢話である。聞いていて納得させられるとか、共感を抱くというようなことは滅多にない。むしろ虚しさに襲われることの方が多い。そうした経験からすると、インパクトという点では際立っていた。上から目線でないことは、その立ち居振る舞いから感じられた。無関心層にも訴える力をもっていそうである。今回の選挙戦においてちょっとした台風の目にもなりそうな気がしたのであるが、果たしてどうなるであろうか。

2019.6.30
 アメリカでは進化論を否定し、人類は数千年前に神によって創造されたと信じる人が一定数いる。日本にも少数ながらいる。アメリカでは、さらに地球は平らであるという「地球平面説(フラット・アース)」を信じる人たちもいる。天動説ははるか昔のことかと思っていたらさにあらず、現代でもしっかり存在するというのである。難しい科学の理論はともかく、日常的に示される現象を少し知性を働かせて考えれば分かりそうなことなのに、「証拠がない」と地球が球体であることを受け入れないそうである。
 これをアメリカの話だからと、対岸の火事のように見ていてはいけない。日本でもイエス・キリストは東北地方にやってきたなどの説を好む人もいる。小学生でも知っている明らかな歴史を、証拠がないと否定し、勝手な歴史観を唱える輩も増えている。そのうち、太平洋戦争はなかったとか、日本に原爆を落としたのはアメリカではない、などという人まであらわれるのではないか思えてくる。
 これが杞憂ならいいと思うが、少なくとも昨今の情報拡散の力学を見ていると、あやしげな方向への力が相当強くなっているのは間違いなさそうである。
 

2019.6.10
 「宗教と社会」学会は、学術大会のおりの1人当たりの発表時間が長い方である。1993年の設立のときに発起人で相談して、発表25分、質疑応答25分という時間を決めたのである。これは私だけではなく、何人かの人が日本宗教学会は15分発表・5分質疑応答で、この発表形式だと十分な議論ができないということを感じていたことが一つの理由である。5分の質問時間だと、要領の悪い質問をする人が最初に手を挙げると、発表者が答える時間すらないままに持ち時間が終わるというようなことも珍しくなかった。また発表は15分だから、毎年似たような発表をする人がけっこういる。
 それはそれで一つの機能を持つから今日まで長く続いているのであろうが、研究の意義を発表自身と聞いている人の双方が、より明確に認識するにはやはり物足りない時間である。思い切って発表と質疑応答とを同じ時間にしたのだが、今に至るまでこの時間配分は守られている。その良さを感じている人もいると思う。あまり練れていない段階で発表して、質疑応答で相次ぐ質問に何も答えられなくなったというような状況を目にしたこともある。しかし厳しい局面は早く体験した方がいい。
 しかし状況判断をしようとしない人というのは必ずいるもので、発表を40分を越えて延々とやった人がいた。これではいけないと、あるときから司会の権限で長い発表は打ち切れるようになった。また一人で長々と質問する人もいる。これも司会の権限で注意できるようにしてあるのだが、なかなかタイミングと言い方が難しい。大体同じ人が同じ行動を繰り返す傾向にある。だからたぶん改善は期待できない。人間の行動パターンはなんと保守的なものとよと、つくづく思うことが多い。


2019.5.23
 研究者と言っても千差万別で、中にはとても学問的な成果と言えないようなものを平気で論文にしている人もいる。あまり読まれていないので表面化することは少ないが、大学紀要の類に掲載されている「論文」の中には、まさにトンデモ論文があったりする。自称歴史研究家が学界ではまともに相手にされないようなことを連ねて著書として出している例は少なくないが、こうしたことは今に始まったことではない。売れさえすれば、内容の正確さは問わないというやり方は、商業主義社会では大いに幅をきかしている。さらにときの政権におもねる内容なら、「鬼に金棒」効果が生まれる。
 ただ今回の「カール・レーフラー」問題はさすがに驚いた。これは研究者にとってはかなり由々しき問題である。
 欧米の文献に依拠して著書や論文を書いている人の中には、稀とは思うのだが、相当の盗用・剽窃ではないかという疑いをもたれている人がいる。しかし、原文にあたり、それを確認するのは時間がとられるし、告発する側にとって気持ちのいい作業ではない。
 その意味では、学問においてもっとも大事なことは何かを踏まえた上での今回の告発者の姿勢には、敬意を示すべきと感じている。

2019.5.2
 「令和という新しい時代を迎えた」といった表現に、なにかピンとこないのは、日常的に西暦で考えているからかもしれない。国内ではこれまで「平成」で日付が記されていた刊行物や書類などは、一斉に「令和」に替わるから、時代が変わったような雰囲気になる人がいるのはよく分かる。
 だが、国外の人びととのやり取りをするとき、あるいは日本の歴史を百年単位で考える場合には、元号は横においやられる。各国の社会変化を比較するときや、日本を含めた世界の国々の長い歴史について考えるときは、西暦がもっとも便利である。ちょっと意地悪い例を出すなら、「昭和25年生れの人は令和5年に何歳になるのでしょうか?」と問いかけてみればいい。1950年生れの人が2023年に何歳になるかを考えるのに比べて、どれだけ時間がかかるかである。もっとも相手に年齢をすぐ計算してほしくない気分の人は、生年を聞かれたときは、「昭和50年生れです」と答える方を選ぶかもしれない。
とは言うものの、世界的に見れば、一つの国にグローバルな時間の計り方と、ローカルな計り方が同居、混在する例はいくらでもあるから、日本が特別なことをやっているわけではない。うまく使い分けるのが頭の体操にもなりそうである。


2019.4.16
 久しぶりに高校時代まで過ごしていた薩摩川内市(当時は川内市)に行き、母校の川内高校で講演をした。毎年創立記念日に卒業生に講演を依頼することになっているということである。実は昨年も頼まれたのだが、都合がつかず、今年再度頼まれたので引き受けさせてもらった。
 グローバル化の中で宗教を包む環境がどう変わっていくかという話など、高校の授業ではおそらくほとんど扱わないと思ったので、パワーポイントで100ほどのスライドを見せながら話をした。
 同窓会長をしているのが、高校時代に属していた弓道部の後輩であったので、いろいろ手配をしてもらった。同窓生にも声をかけてもらったみたいで、講演に10数人が来てくれた。
 講演後、短い時間であったが、懇談会の場もあって、いろいろ宗教に関する質問を受けたりした。わざわざ時間を割いて来てもらって嬉しかった。


2019.3.31
 2018年度も今日で終わり。國學院大學を退職してからちょうど1年になる。予想以上に忙しい日々になったので、やはり1年は早かったなと感じる。でもその一方で、少し前の習慣は遠いものになり、新しいパターンが身についてきた。そういう意味では、若木タワーの16階にのぼっていた記憶はかなり薄れた。
 順天堂大学では非常勤だが、1年生に向かって講義をしているし、國學院大學の大学院のゼミも続いているので、多少身軽になったとはいえ、教育の感覚は途切れずにいる。少しずつフェードアウトしていくには、ちょうどいい塩梅のように思う。
 読む本も絞り、またこれから執筆するものは、やりたいことに絞っていくつもりである。どうやったらいいか、なんとなく視界も開けてきたような気がする。
 世の中の動き、とりわけ政治家のありようは、あまりに腹立たしいことが多いのであるが、政治家の発想などはさしたる文化が蓄積されていなかった時代の人とほぼ同じに違いないと考えると、分かりやすいことが多い。気休めではなく、そういう視点が大事なんだろうと思うようになっている。

2019.3.21
 今年度は博士論文を3つ審査した。いずれも主査であったので、じっくり読ませてもらったが、力作というのは自然と伝わってくる。そのような長年の研究成果が詰まった本を読んだあとに、書店に行き、宗教コーナーに並ぶ本を眺めたりすると、ため息が出る。地道な研究の成果と言えるような本がそうそう並べてももらえないのは仕方ないにしても、あまりに粗雑な本が多すぎる。宗教コーナーに来る人の大半は、やはり御利益期待とか、パワーが欲しいとか、幸せになりたいとか、そういう関心でやってくるのであろうか。そうとしか思えないような本のオンパレードの書店がここそこにある。
 それもあって、書店に行ってもほとんど宗教関連のコーナーをじっくり見る気にならなくなってきた。むしろ自然科学コーナーなどの方が宗教研究にとっても重要なテーマを扱った本を見出すことが多い。宗教の問題を深く広く考察しようとする人は、進化生物学、進化心理学、脳科学、量子論、宇宙科学、そんなコーナーにも足を運んだ方がいいですよとアドバイスしたい。歴史修正主義という言い方が広まっているが、自分が体験した世界、自分が染まった価値観でしか、物事を判断しようとしない人が増えてきたのであろうか。
 井戸の底から空を眺めるような態度で、あらゆる時代のあらゆる文化に見出されるとされる宗教現象を理解できるはずもなかろう。


2019.3.7
 1月以来、本を4冊編集するという作業が同時並行で、さすがに疲れた。予定ではこのように集中するはずではなかったが、得てしてこういうことになる。4冊のうち、3冊は自分でInDesignを使って編集したので、余計疲れた。そのうち1つは自著のエッセイ集で、表紙のデザインも自分で作ったのだが、時間があまりなくて出来栄えには満足していないが、仕方ない。
 宗教情報リサーチセンター編で2冊が3月末刊行となるが、これも表紙のデザイン以外は、すべて自分でレイアウトまでやったので、なかなか大変だった。その分、内容のチェックにかける時間が削がれたので、これも少し後悔が残る。だが、トレードオフのようなことはいつも起こるから、すべてを満たすのは難しい。今回はこれで良しとするしかない。
 きちんとした原稿を締め切りを守って出す人がいるかと思うと、締め切りを大幅に過ぎてから相当荒っぽい原稿を出す人もいる。編集作業は人柄を見極めるにはいい機会でもある。


2019.2.10
 ちょっとした冊子や書籍の編集には、Adobe InDesignというDPT(デスクトップパブリッシング)ソフトを使っている。かれこれ10年になると思うが、とても便利な反面、厄介なこともある。アドビ製品だからかどうか分からないが、マイクロソフト製品との相性があまり良くない。エクセルの表がそのままではコピーできず、新たに表の枠を作っておいてそこにデータをコピーするというようなことが起こる。
 またいろいろ細かな編集作業ができるのだが、その便利な機能を探すのが難しかったりする。一度覚えてしまえば楽だが、あまりに覚えることが多いので、しばらくある機能を使わないと、どういう手順だったかを忘れたりする。ただネットには同じような悩みを抱えている人が多いようで、おおむね自分が抱いた疑問とその解決法はネット上にあるので、これは便利である。
 どのソフトもそうだが、最初に使うときは、使い方を知っている人にアドバイスしてもらうと、格段に早く習得できる。マニュアルを読んで理解するのは、本当に時間がかかる。
 これまで使ってきた各種のコンピュータのソフトは、使い始めのときにそのソフトに習熟した人が周りにいることはまずなく、いつも自分でマニュアルとにらめっこで覚えた。時間はかかったが、おかげでコンピュータソフトとの付き合い方(?)のようなものも分かってきた。また稀に、ある機能について知っている人がいた場合、教えてもらうことの有り難さは身に沁みる。
 WORDなどは、もっとも簡単なソフトの部類にはいるだろうが、それさえデフォルトの体裁に一切手を加えることなく使っている人が多い。それをみると、自分でマニュアルと格闘した経験が皆無なのだろうなと思ってしまう。


2019.1.27
 「ポツンと一軒家」というテレビ番組をときどき見る。行きつくまでにけっこう時間をかけているが、やらせではないことの証明もしたいのであろうか。ボツになった企画もあるかとは思うのだが、放映されたものは、いずれもけっこう興味深い。それは住んでいる人の生き様が大きい。人里離れたところに住んでいるから、自分なりの生きざまを貫いているようで、それが伝わってくる。
 どうして人里離れていても長く住み続けられるかというと、実は背後に幾重にも人間のつながりがあって、それが見えてくるのもいい。家族とか、親しい仲間とか、あるいは関心をもってやってくる人たちとかである。前二者は古くからのことであるが、遠くに住む人たちとの各種の情報手段を介して生まれたつながりが生まれているのは、現代社会ならではと思う。
 たとえ数人とか十数人とかの小さなネットワークであっても、同じような趣味や志を持った人との交流は、生きる力の支えになるということが見えてくる。


2019.1.11
 ほとんどの受講生が1年生という大学の講義で、思いついてある試みをしてみた。講義ですでに扱ったことの簡単なまとめに当たるような文章を5分ほど読み上げ、それを紙に書いてもらった。ゆっくりと読み上げたから、ほとんど書き取りできたはずである。
 結果は驚くほど無残であった。話したことの10分の1も書き取れていない学生もいた。簡単な漢字が書けず、ひらがなのオンパレードの学生もいた。留学生にはちょっと厳しい課題とは思ったが、留学生よりも書き取れていない学生もいた。これでは講義が記憶に残らないのも無理はないと思った。講義中ずっとスマホばかり見ている学生もいるが、自分で書くという行為そのものが苦痛になっているのかもしれない。
 そういう自分もひたすらワープロで入力して、自分で文字を書くことのない日もある。読めても書けない字が多くなっている。反省しているのだが、学生たちはもっとひどい状況になっているということだろうか。高校までの授業の現場について知りたくなった。



◆2018年

2018.12.29
 30年ほど前のことと記憶している。当時は研究所に在籍していて学部のゼミなどは担当していなかったが、卒論の副査を依頼されることがあった。
 ある教授は、きわめて出来の悪い卒論を書いた学生がいた場合、このままでは落第になるのでと、一つの課題を与えていた。それはある本の一節をそのまま書き写して提出しなさいというものであった。
 その時は、適当なやり方のように感じないでもなかったが、今となってみると、けっこう教育効果があるのではないかと思えてきた。ワープロで作成した卒論などコピーは簡単であるし、どこかのサイトをうまく加工したようなものもあるだろう。作家が堂々とそんな手法を採り入れて本を出して、かつ大々的に宣伝し、さしたる非難も浴びない御時世であるから、一部とはいえ学生がそんな手法をとるのも仕方なく思えてくる。
 しかし手書きとなると、コピペはできない。他人に書いてもらっても筆跡で分かる。丸写しであっても、元の文章が記憶すべき質の高い文章であるなら、書き写しはいい勉強になる。気のりしないでやっても、何かを得るかもしれない。
 もう卒論を担当することはないのだが、もしこんなひどい内容でも卒業させなければならないのかと悩む教員の人がいたら、一つの方法として推薦したい。

2018.12.22
 お正月が一年の区切り目という実感がだんだん乏しくなってきたように思う。学校であれば年度の変わり目が入学、卒業、進級の区切りのときであり、会社なども人事の変わり目は年度が多い。
また正月行事よりもクリスマスへの関心が相対的に高くなってきた。クリスマスツリーは一ヶ月ほど飾られるものが多いが、門松はどんどん減っている。
 戦後は年齢を満年齢が数えるのが一般的になり、現在では数え年の数え方を知らない人も増えている。大学生でもそうで、そもそも数え年という概念すら知らない人もいる。正月を迎えて皆が一斉に一つ歳をとるなら、正月も大きな区切りという実感が出るかもしれないが、そういう機能もすっかり失われた。
 年賀状もおせち料理も減少傾向のようだ。正月風景というのも変わっていくのだろう。それでも初詣というのは廃れないようである。人が恋しいのか、カミが恋しいのか、まあ両方が混じりあっているに違いあるまい。


2018.12.5
 山手線の品川駅と田町駅の間に2020年にできる新しい駅の名前が「高輪ゲートウェイ」に決まったという。最初にスマホでこのニュースを見たとき、一瞬フェイクニュースかと思った。そうではないと分かって、ずいぶんな名称を付けたものだと感じた。
 山手線の駅名は2文字と4文字の間である。まずそれとの調和がない。それに名称を募って、この名称は130番目で36件しか応募がなかったものである。9,398件の高輪、4,265件の芝浦、3,497件の芝浜からは採用されなかったということである。なんのための公募か。
 これで思い出すのは1987年にやはりJR東日本が首都圏の国電に代わる愛称を募集しE電と決定して、失敗した出来事である。今回はJR東日本社長ら関係委員が選定委員だったというが、一体どんな議論がされたのやらである。
 JR東日本の内情は知る由もないが、こうした名称選びでエッというような結果になるのは、だいたいセンスのない人が審査委員の多数派を占めたり、トップがワンマンであったりするときであるというのを経験的に感じている。21世紀にできた新しい駅名であることを強調したいなら「高輪21」みたいな名称などがまだましと個人的には思う。
 これとはまったく関係ないことだが、国会では、およそその任に不適格と思われるような大臣が「適材適所」として任命されて、連日ろくでもない議論が重ねられている。同時代的シンクロ現象ではないかと思ったりするが、むろん妄想の類である


2018.11.25
 『DAYS JAPAN』という月刊誌が来年の3月号で休刊になるというお知らせがあった。仕事の関係上、毎号読んでいた身としては甚だ残念である。この雑誌には中東など世界各地の紛争地の生々しい写真も鮮明に掲載されている。命を賭して取材したジャーナリストの訴えかけが伝わってくる貴重な雑誌である。多くの日本人は知らない、あるいはうすうす気づいていても目をそらしている現実をつきつけるような写真は、インスタ映えを楽しむ写真とは対極にあって、日常生活にはなかなか持ち込めそうにない。
 安田純平氏が帰国してから、安堵の声の一方で、激しく非難するようなツイッターがウェブ上にはけっこう見られた。こういう人たちが森友問題や辺野古移転問題にどのようなツイートをするのか、調べられるものなら調べたいと思うが、むろんそれは無理である。きっと興味深い相関関係が見えてくるに違いないと勝手に想像するだけである。
 フェイクニュースを気軽に流す指導者を嬉々として受け入れるような心と、命を賭しても実際に起こっていることを明らかにしようとする人を口汚く罵る心とは、どういう関係にあるのだろうか。いずれも愚かな人びとの愚かな振る舞いだなどと片づけてみたところで、人間の脳の中で起こっていることの解明にはつながらない。

2018.11.11
 卒論や修論の指導のとき、学生たちには自分の研究の焦点が何であるかをはっきりさせなさいと言ってきた。だが、自分の研究の焦点はこのところ一つに絞れていない。複数の問題関心が常に交錯しているからである。
 思い返してみると、ここ四半世紀の研究のテーマに必ず関わっているのは、1980年代末に突然のように自分の頭を占め始めた関心というか課題というか、つまりは非常に気になる事柄であった。その頃、何が気になり始めたかというと、1つは「グローバル化」という社会の変化の潮流をとらえていく視点であり、1つはコンピュータがもたらすであろう衝撃であり、1つはさまざまな形での教育が人間に及ぼす影響であった。むろん、すべて宗教研究にとって見逃せないと感じての話である。
 そして21世紀になって、1990年代に飛躍的に展開した脳科学に衝撃を受けた。自分の手に負えない事態になったと思いながら、それを避けて従来の研究方法だけに頼っていると、研究自体が消化試合のようなすこぶるつまらないものになると思った。
 これまでの関心を脳科学等の研究と結び付けて考えようとすると、あちこちに切り口があることに気付いた。残された時間という、自分ではどうしようもないこともあるが、最期まで面白いと思ったことと取り組もうと思っている。


2018.11.2
 國學院大學に勤めていた昨年までは、否応なく渋谷のハロウィンの光景は見ざるを得なかった。仮装の魅力について考察してみようかと思ったこともあったが、自分自身にあまり興味のないことなので、やめにした。
 ただ、乱痴気騒ぎについては、古くから言われていることがそのまま当てはまると思う。集団になると人間は原初的になるということである。それはつまり理性のコントロールが弱まるということである。
 理性は大事だが、ときに面倒くさくなる。一次的放棄にも人間にとっては何がしかの意味があるのだろう。
 だから、その場に行く人は、通常の理性の何割減かの人間が集まるところへ行くという自覚があった方がいい。たんなる通行人は「君子危うきに近寄らず」を念頭に置いて、しかるべき道を選んで歩くことである。


2018.10.22
 富田林署から逃走した犯人がなぜ堂々と日本一周の旅と称して各地を旅行できたのか。みんな優しく接したのか、これについてのコラムが二、三日前の朝日新聞に掲載されていた。そこでコラムの筆者が腑に落ちたのは折口信夫のマレビト論だったようである。本人がそれで腑に落ちたら別に言うことはないが、社会学ではこうした現象への一般解とでも言うべきものをとっくに提示している。それはジンメルが示した「放浪者」つまり今日訪れ来て明日去り行く者と、「よそ者」つまり今日訪れて明日もとどまる者との違いである。
 ソトからやってきて一時的に滞在しただけで去る人に対し、人々はおおむねやさしい。しかし、ソトからやってきてそこに住みつく人に対し、人々はおおむね厳しい。この指摘は実に的確である。日本だけの現象ではないし、少なからぬ人が体験しているはずのことである。
 そんなことはありえないだろうが、くだんの容疑者が近くに住みついたら、ただちに厳しい目が注がれたに違いないのである。

2018.10.14
 先日、渋谷に向かう私鉄の電車の座席に座っていたら、大学生とおぼしき数人が前に立ったが、そのうちの一人の女子学生がノートを広げて隣の男子学生にいろいろ説明を始めた。
 ウェーバーとか合理主義とかいった用語を説明していたから、社会学関連の講義についての話題であろう。女子学生がけっこう大きな声で説明していたが、男子学生は分かったのか分からないのか、なんとも頼りない風情である。また女子学生の説明は、ともかくノートに書いたこと字面を追っているという感じで、身の回りのことに引き付けて伝えるというふうでもない。つい、それはこういうことだよといいたくなったが、黙って聞いていた。
 彼らが降りていったあと、一体彼女に対し教員はどんな講義をしたのだろうかとつい考えてしまった。自分の講義では、どんな学説も自分たちの生活にどこかでつながっているのだということを言ってきたつもりだが、果たして伝わったのかどうか、少し気になった。


2018.10.4
 学生が新聞を読まなくなったと言われてから久しい。自分が関わった大学での感触で言えば、新聞を毎朝読む学生は1割にも満たないだろう。活字メディアによる情報とネット情報との質的差については、講義でもしばしば触れるのだが、この頃は、活字メディアの退廃というかお粗末さが目立ってきて、ネット情報だけに頼るなという言い方にあまり力がこもらなくなってきた。
 活字メディアの関係者が何か責任放棄しているのではないかと思われるような事例があちこちで起こっているからである。ヘイト本などにはつける薬はないが、全国紙などもジャーナリズムとしての気概を感じるようなことが滅多になくなった。
 今社会で起こっている問題は、大半がネット上の情報によって指摘され議論されている。どうでもいい話が炎上する傾向は強いものの、新聞が誰かに忖度して無視したり、スポンサーを気にして避けたりするような話題も、誰かによってポイントが指摘されていたりする。
 活字メディアが本気で反省するのか、デジタルメディアが「悪貨が良貨を駆逐する」状態に陥らないように模索するのか、どちらに力が集まっていくかであるが、むろん両方があいまって良質な情報が少しでも増えればけっこうなことだと思う。

2018.9.29
 私がセンター長をしている宗教情報リサーチセンター(RIRC)では、今年から公式ツイッターを始めた。告知事項などの他、毎回【宗教・今日は何の日】というテーマで、その日勤務の研究員に交代で書いてもらっている。宗教記事データベースなどからその日に起こった過去の出来事を紹介するコーナーで、主に21世紀にはいってからの出来事が対象である。
 ツイートへのいいねの数やリツイート数を見ていると、どんな記事に関心があるかが分かって興味深い。むろんそれに引きずられることなく、重要と思う事柄を発信しているのだが、どんな事柄に関心を抱く人が見ているのかを知ることは悪くない。地道でもそれなりの意義をもたせたいと考えている。


2018.9.1
 WIFIのような機器にはパスワードが記されている。それが小さく記されているだけでなく、1なのかlなのか、0なのかoなのか分かりにくいことがよくある。数字とアルファベットで紛れやすい組み合わせはそう多いわけではない。それを避けるとかいう発想はないのだろうか。作っている人に質問したくなることがある。わざと間違いやすくしているのですかと。
 使う側の立場に立てないメーカーはいずれ見捨てられると思っているのだが、なかなかそうでもない。まだ殿様商売でやっていける分野なのであろうか。単純に担当者に智慧が足りないのではと思うこともあるのだが、この不便さの背後には一体どういう事情があるのだろうか。

2018.8.26
 昨日、立正大学で開催された日本脱カルト協会主催の会議を聞きに行った。「オウムのすべて -事件をふりかえって そしてこれから-」というテーマであった。カルト問題に取り組んでいる研究者、弁護士などの見解が述べられた他、サリン事件で夫を亡くされた高橋シズヱさんや元オウム真理教の信者3人の方の話も聞けて、いろいろ参考になることが多かった。
 カルト問題はなくならないと主催者の一人は述べていたが、私もそう思っている。それは人間が持つ弱さというだけでなく、その弱さを利用しようとする人間が絶えないという事例を数多くみているからである。宗教家を名乗りながら、「見てきたような嘘を言う人」をどうやって見抜けるか。小さな失敗を重ねて学び、大きな失敗をしないで済むようにするにはどうしたらいいか。宗教情報リテラシーは、これが重要な課題の一つであると考えている。

2018.8.10
 免許証に記載の有効期限の年月日が来年から西暦になるという。コンピュータ時代になって年月日のデータはほぼ西暦になった。元号を使っていると、年月順のソートができないからである。国外で研究発表するとき、特別な場合でもないかぎり、日本の出来事であっても、西暦で言わないと話が通じない。しかし、いろいろな場面で年月はまだ元号で表記されていることが多い。
 コンピュータを使ったことがない人や、国外でビジネスをしたり、研究をした経験がない人が、元号の不便さを実感できないというのは分からないでもない。しかし、コンピュータを使い、国外で研究した経験のある人でも、表記は元号を原則にすべきという人がいる。キリスト教起源のものを使いたくないなどという、ずれた意見を言う人もいる。
 ところが面白いことに、元号を用いるべきと主張する人でも21世紀という表現は用いる。「21世紀〇〇委員会」などというのはよくある。「21世紀〇〇委員会が平成28年度の予定を決めました」というのは違和感がないのだろう。元号では百年単位の発想が生まれないから仕方ないのかもしれない。
 元号は日本国内でのコミュニケーションの際には存続していくに違いないが、テクノロジーや国際交流といった場面などで年月を示す指標としては明らかに不便である。
 国外で働いたり学んだりしているイスラム教徒も、宗教行事には純粋な太陰暦であるイスラム暦を使うが、ビジネスや学術研究などでは西暦でないと不便なことを分かっている。国際化、グローバル化に対応などと言う一方で、それにふさわしい年月の表現ということを官僚たちが考えないのが不思議でならない。時間について共通の了解がなければ、通じる話も通じない。
 やがてほとんどの分野で西暦が主で元号が従というふうになっていくと考えられるが、「元号原理主義」のような考えが根強いこと自体は、実は非常に興味深い現象である。こういったことは日本独特の現象ではないし、人間が自分の所属する集団についてどう認知しているのかという問題に関わることであるからである。


2018.7.29
 オウム真理教の一連の事件で死刑が確定していた13人の刑が7月6日と26日の2回に分けて執行された。いくつかのメディアからコメントの類を求められたりしたのだが、つくづく感じるのは事件は遠い過去のものになりつつあるなということだ。
 学部学生であると、一連のオウム事件はほぼ生まれる前の出来事なので、実感がないのは仕方がない。マスメディア関係者で取材にくる人は20代~40代が大半だが、20代や30代前半の人であると、事件のことはさほどリアルには感じられない世代ということになる。35歳の人は地下鉄サリン事件のとき12歳だからまだしも、30歳なら事件時は7歳である。
 そういう人たちからの質問を受けていると、たとえば90年代前半でオウム真理教をめぐって社会がどんな反応を示していたかを伝えるのが、なかなか難しいなと思うことがある。実際起こったことよりも、その後の数知れぬ論評の類から事件のイメージを構築しているので、かなり紋切型になっていることが多い。
 事件の再発を防ぐにはどうしたらいいのかという視点自体は、とても大事にすべきものであるが、何かマニュアル的なものを求めるだけのような気がすることがある。こうすれば防げた、あるいはこれがあれば再発防止になるというものを簡単なメッセージにまとめようとする傾向とでもいえばいいだろうか。
 物事はそんな簡単に理解したり分析したりできないでしょうという立場からは、話しているのがしんどくなることがある。相手は本当に何かを知りたいと思って質問しているとは限らないからである。記事としてまとめるのに適切なメッセージを求めているのである。そういう職業であると理解しつつも、どこまで深く話すべきかとまどうからである。
 むろん、自分の考えは自分でまとめるしかない。そうするつもりでいる。


2018.7.19
 定年になった人をターゲットにしているのであろう書籍があふれている。ご丁寧に何をしたらいいか何をしたら悪いかというご託宣まで細かく述べている本があるようだ。こうしたタイトルに惹かれて本を買って読む時間があったら、これまでの自分の人生をじっくり思い返した方がよほど何かを得られるのではないか。60年、70年生きてきて、何が大切か、自分は何したいのか、あるいはできるのか、そういうことに対して、その人の人生とはまったく関わりのないところに生きている人の大雑把な物言いを参考にしようというのは、どういうことだろうか。
 人の人生はそれぞれである。置かれた環境で得られる人生哲学のようなものは異なって当然だろう。信頼されることは大事だとか、誠実さが大事だとか、誰にでも通用するようなことを、今更、断定的に書いてある一般書に頼ることはない。どんなお金の使い方をしろとか、どんな遊び方をしろとかするなとか、人によって違うことを大雑把な指南書に頼ろうとする姿勢そのものがどうかと思うのである。いくつになっても学ぶのだという精神なら、いいかもしれないが、そういう精神で生きてきた人は、こんな本を読みはしないと思う。読むべき本は書店の平積みコーナーより、むしろ図書館にある。
  「こうしたらあなたは必ず幸せになる」という類の本は、それだけでまず読む必要のない本であると判断できる、というのが私の経験で得られたことである。


2018.6.27
 少し大げさに言えば、渋谷の駅前は行くたびに通路が変わっている。歩道橋が新しくなるみたいであるし、駅に接して新しいビルもできている。あれだけの人通りを止めることなく工事をするのは非常に大変なことであろうと想像する。
 渋谷に限らず日本の都市は常に工事をし、常に変わっていく。どんなビジョンがそこにあるのか、多くの人には皆目分からない。もはや長いタイムスパンでのマスタープランは無理なのだろうと推測する。それぞれが自分の利益を考えて厄介な状態になるのを、天の眼がじっとみつめているなどと考えようものなら、すこぶる怖い話になってしまう。

2018.6.22
 このところ、新しく関わった仕事の関係で神田に行くことが多くなったが、町の雰囲気がやはり独特だと感じる。やや少なくなったが、古本屋が並んでいる光景はなんとなくホッとする。行き交う人のたたずまいにも、この街らしいものを感じることがある。ベンチャービジネスの人たちと接する機会もあるが、それはそれでさまざまな可能性を感じさせてくれる。だが、ある程度落ち着いた文化のもつ力は、何か思いがけない底の広がりがあるように思う。
 新しいツールを蓄積された素材にどう結び付けていくか。いろいろな可能性はあるが、どこまで自分がそれに関われるか。政治の世界をみると暗澹たる気持ちになるので、少しでも夢のもてそうなテーマをみつけてみたい。それが若い世代にとっても夢のもてるものであるかどうかは分からないが、そもそも自分が夢が持てないものをやっていても面白くない。面白くないものには熱意がわかないものだ。


2018.6.7
 昨日、國學院大學で名誉教授の証書授与式があった。授与されたのは7人だったのだが、そのうち私を含めて3人は東京大学の教養学部で同じクラスだった。第二外国語がドイツ語のクラスで、一人は日本史を一人はインド哲学を専攻することになったが、まさか同じ大学に勤務することになろうとは思ってもいなかった。三人そろったとき、渋谷で飲み会をやったのは懐かしい思い出である。とりたてて趣味が合うということもなかったが、学問を第一に大事にするという点では共通していたと思う。
 大学教員なら当たり前のことと思われるかもしれないが、実はそうでもない。曲学阿世の徒は珍しくない。教授になったとたん学問の情熱が失せたかのように見える人もいる。学内政治が大好きという人もいる。同窓生がずっと学問を大事にし、その分野なら彼の業績をまず参考にするという関係になったのは幸せである。

2018.5.20 
 先日、ある流通関係の企業の若手のリーダー研修の講師をしました。7時間という長丁場でしたが、非常に充実した一日に感じました。部下に外国人がいる人や国外で働いた経験もある人もいましたが、宗教に関わる事柄がきわめて身近な問題なのだということを分かってもらったようで、こちらもやりがいがありました。
 同時に一般の企業で働いている人は宗教に関する正確な情報に接する機会がまだまだ少ないのだということも痛感しました。ノウハウを知るというよりは、相手への配慮をする心構えを深めていくことが一番重要で、そのための基礎的知識であるという旨のことを述べたのですが、感想文を読むと、そのことも参加した人の多くに分かってもらったようで嬉しく感じました。

2018.5.6
 一か月以上前になるが、ある雑誌社から宗教の特集についてまえがき部分を書いて欲しいという突然の依頼があった。内容的に躊躇する面がある旨の返信をしたがそれっきりである。
 こういう失礼な出版社の企画に乗らなくて良かったと思った。
 テレビの取材はときに相当いい加減なものがあるので注意している。スマホでの検索の延長のような感覚で質問してくる担当者には、応じないことにしている。逆にきちんと下調べをして質問が用意されている場合には、いろいろ関連したことも教えてあげたくなる。
 �テレビだけでなく、そこそこ知られている雑誌もあやしいものがあり、全国紙とて、なかにはけっこう不作法な記者もいる。
 他人に依頼したり質問するときの作法というのが、乱れているのであろうか。どれに対応すればいいか見分けやすくて便利ではあるが。
 世の中にあふれる情報のある部分は、いい加減に依頼し、別に深く考えず対応した人との共同作業であるということは、一応念頭においておいた方がいいと思っている。

2018.4.18
 大学院生の一人が英国に住むことになったので、演習にスカイプを導入することになった。博士課程の社会人院生が中心になって準備してくれた。パソコン画面で英国にいる学生の顔が見え、向こうからは演習の様子がほぼ分かるようにした。時差は今は8時間なので、夕方の演習に朝早くに参加ということになる。
 すでに2回実施したが、なかなか快適で、ゼミの議論もほぼ聞こえているようである。やむを得ない事情jが起こって、急遽発案されたことであったが、協力しあっている姿を見ると、嬉しくなる。英国で起こっている最新のニュースを聞くような機会も設けたいと思っている。

2018.4.1
 「國學院大學学報」の3月号には、退職する教職員の短いメッセージが掲載される。寄稿の依頼を受けて、次のような文章を寄せた。
「教わり教えた三六年」
 心に残っている映画の一つが「ヤコブへの手紙」(二〇一一年)です。信者たちからの手紙に返信することで、信者を支えてきたと思っている年老いた牧師が主人公です。ところがある事実を知ったことをきっかけに、実は自分こそ信者たちの存在に支えられてきたことに気付くシーンがとても印象的でした。
 教員というのは、学生たちに一方的に教えていると思いがちです。大教室の講義だと、どうしてもそのような気分になってしまいます。しかし教えているつもりでも、講義やゼミの受講生からも多くのことを学んでいるのだということを、だんだん強く感じるようになりました。とくに自分が研究や教育を続けていく上での大きな励みを与えてくれるということを、実感するようになりました。交わした言葉からだけでなく、視線や態度からも、メッセージは伝わってきます。國學院大學で過ごした三六年の経験が、そのような気づきをもたらしてくれたのだと思っています。


2018.3.12
 先週の土曜日、國學院大學で退職記念講演をやり、懇親パーティの場も設けてもらった。パーティには130人以上の方々に来ていただき、本当に感謝の気持ちでいっぱいであった。何人かにはスピーチもしていただいたのだが、こういう場だから誉めてもらうのだけれども、ちゃんと見ている人は見ているのだなということも伝わってきて嬉しかった。小さなことでも感謝の気持ちを忘れないでいてくれる人がいることは、自分の心を豊かにしてくれるのだとしみじみ感じた。自分も恩をこうむった人のことは忘れないように生きてきたつもりであるが、ときには礼を失したこともあるかもしれない。
 講演にはとくに知らせてなかった人も数多く来ていただいて、それぞれ短い時間ではあったが、最近どうしているかなどの話を聞けて良かった。学部や大学院のゼミ生であった人たちが、生き生きとした顔でいるのを見れるのは何より嬉しい。顔の表情だけで、毎日の生活の充実度合いがいくばくか読み取れる。自分で応援できることはしたいなと思う。
 國學院大學にいる間、かなり嫌な思いをさせられた人も若干はいるのだが、多くの出会いは刺激的であったし、楽しい記憶が残っている人の方が圧倒的に多い。それだけでも、とても幸せなことである。

2018.3.2
 公益財団法人・国際宗教研究所主催のシンポジウム「記憶の場としての葬儀」に、コメンテータとして参加するため、先週土曜日に会場のある上智大学に行った。
 大学の手前にカトリックのイグナチオ教会がある。新しくなってから中に入ったことがなかったので、扉をあけてみた。お祈りをしている人もいた。
 昨年の夏、ピーター・ミルワード氏が逝去され、葬儀がこの教会で行われたと報じられていたことを思い出した。ミルワード先生の講義を東京大学文学部時代に受けたことがある。非常勤講師として主に英文科の学生相手の講義であったと思う。自身の英語の力の足りなさを感じていたので、先生の講義を受けた。講義のあと、時々喫茶店で何人かの学生と雑談する機会をもうけておられた。
 私が宗教学科の学生ということを知って、あるとき真理についての話になった。私が真理は複数あるかもしれないと言ったのに対し、「いえ、真理は一つです。一つしかないから真理なのです。」と真剣な顔で言われたのを憶えている。そのときは先生がキリスト教徒であるということを知らなかった。知っていればもっと話を続けたかもしれないが、そのときは議論が中途半端に終わったような気がする。
 それでも講義の記憶よりも、こうしたわずかな記億がずっと鮮明に残っているから、学生たちとの時間外での交流はとても大事である。自分が教職についてからは、できればそのような時間をとろうと、非常勤講師の頃から心がけた。
 授業数の確保にやたらと執着し、そういう時間の重要さが置きざりにされがちな最近の大学のあり方は、とても栄養分の少ない土地になってしまったような気がする。

2018.2.17
 『中外日報』という宗教専門紙に月1回ぐらいの頻度で寄稿していた「シネマ特別席」が、このコーナーの終了ということになり、最後の原稿を書いた。800字未満の長さの文章で書けることには限界があるので、言いたいことを相当絞らなくてはならない。だが、こういう企画でもなければ見なかったであろう映画も若干あったので、研究の合間を縫っての執筆も、それなりに楽しめた。
 論文とは別にエッセイを書くのも、自分の考えを整理するにはいい機会になるように思う。定年退職を機に、ここ3年くらいに書き連ねてきたエッセイを一冊の本として自費出版することにした。出版社が介在するときに生じる諸々の制約がなく書くことは、なかなか楽しいものだとつくづく感じる。

2018.2.10
 大学の学部での講義、ゼミがすべて終了し、研究室の整理をしなければならないのだが、講演の準備やら、蓄積した資料をあとの人が使えるようにするのが大変で、3月は掃除等大わらわになりそうである。一段落したら、頂戴した本や読もうと思って買ったものの積読状態の本をじっくり読みたいと思っている。
 大学の教員は研究や教育以外に費やす時間があまりに増え過ぎた。若い研究者がどっしりとした研究成果をあげる環境はおそろしく乏しい。研究を大事にする人はほぼ例外なく今の状態を危機的であると感じているのだが、どこから風穴を開けるべきであろうか。こういうことも考えていきたい。


2018.1.28

 22日の月曜日に降った雪がまだ道に残っている。いつもの日曜日のように川べりをジョギングしたが、川をはさんで一方の道はほぼ雪が消えており、反対側の道はまだあちこちに残っていた。凍っている所もあって、そこは避けて走った。雪の残り具合で陽当りがいいか悪いかは一目瞭然である。同じ道でも雪が片づけられている所とそうでない所がある。雪かきをしたかどうかが分かる。
 雪が降るときには、あたり一面は同じような量であったのだろうが、融ける段になると、場所によりずいぶん差が出てくる。どうしてこんなに差が出て、まだら模様になるのか。物の性質に関心ある人は、日射量とか地面の状態などの違いをそこから読み取ろうとするであろう。人の心や社会のあり方に関心ある人は、交通量や近所づきあいや、その家の住民の心などを読み取ろうとするだろう。

 あれこれ多くのデータが集まると、因子分析をやりたくなったり、フーリエ変換は可能かなどと考える人が出てくるかもしれない。
 走りながらつらつらそんなことを考えた。雪が残る川辺のジョギングもまた愉しからずやである


2018.1.17
 子どもの頃、相撲の地方巡業というのは楽しみの一つであった。地元力士が勝つか負けるか、ハラハラしながら観ていた。あるとき、父親が地元力士は勝つことになっていると、事もなげに言った。「えっ」と思ったが、そう思ってみていると、確かに地元出身の力士は皆勝つ。相手が力を抜いているようには見えないのだが、やはり勝つ。そんな舞台裏があったこと知ると、ハラハラして観るのが馬鹿らしくなった。
 地方巡業は、今でもそういうものだろう。人情としてそうなる。真剣勝負と思って観る子どもがいたとしても、それはサンタクロースの存在を信じていたときがあったというような話の類に似ている。
 しかし本場所で八百長となると、話は全然違う。それがまかり通るなら、幻滅する人も続出するだろう。
 相撲はさておき、研究者にも八百長に近い行為はないであろうか。調査でお世話になったからといって、結果を捻じ曲げて書いたら、学問が社会から見放される動きにつながる。仮に教団なり団体なりに調査に協力してもらったとしても、学問的に耐え得る結果を示すことこそ、その協力に報いたことになるはずである。
 ほめ殺しのような文を書き連ねるようになったら、まずもって研究者仲間からの信頼が失われていく。


◆2017年
2017.12.29
 ポジティブシンキングとネガティブシンキングの違いの例としてよく挙げられるのが、半分水のはいったコップのたとえである。「まだ半分ある」と思うか、「もう半分しかない」と思うかの違いで示される。物理的には同じ量でも、それをどう評価するかで気持ちが大きく変わる。
 ビジネスに即した例としては、こんな話がある。靴のセールスマンがある地域に売り込みに行った。ところがその地域では皆裸足で履物を履いている人はいなかった。それでどう思ったか。「ここは皆裸足で生活しているから靴は売れない」が1つ。「まだ誰も靴を履いていないから、いくらでも売れる」が1つ。後者がポジティブシンキングにつながる。
 何事にもポジティブに生きている人は、こちらが苦しさを感じなくて済むから、多くの場合はその方がいいように思う。だが、常にその生き方が正しいように当人から声高に主張されると、あまり共感はわいてこない。どうポジティブに考えようとしても、打ちひしがれてしまうような状況にある人を顧みないような雰囲気が滲んでいるからである。
 生まれながらにして生じる差は、高度な文明社会ほど目につく。徹底して貧しい人や不遇な人がいる。コップの水が半分の人を見て、ポジティブに考えろというのはいいだろうが、ほとんど一滴もはいっていないコップをもった人には何というか。ポジティブ、ネガティブなどとは言っておれない。数滴だけでも自分の水をあげるのも一つの方法だが、これが実はけっこう難しい。あろうことか、ほとんど空のコップを蹴飛ばすような人さえいる。そうした人間の中にある醜さを自覚することから議論は始めねばなるまい。


2017.12.16
 学生がゼミで発表した場合はかならずコメントするが、学会や研究会その他でも発表に対して質問やコメントをすることがある。どちらかというと研究の視点や枠組み、あるいはその研究が目指していることなどについて聞くことが多い。
 そうした質問なりコメントの際、相手が言われていることの意味が分かっている場合とそうでない場合があるというのを感じる。自分の表現の仕方が適切でないときもあるだろうが、言ったことがほとんど通じていないと感じることも稀にある。私の意見を適切と思うかそう思わないかは自由であるが、何を言っているのか分からなというのはそれ以前の問題である。
 自分が変な言い方をしたのなら、自分が反省すべきだが、居合わせた大半の人は何を言っているのかが分かっているのに、発表者は分かっていないのではと思うときは、それ以上言うのをやめる。研究者になるわけでもない学生の場合は、意味を捉えそこなっているのではというときでも、あまり気にしないことにしているが、研究者であったり、研究者を目指している人の場合は、それほど分野が違わない人の言っていることがキャッチできないというのは、かなりまずい話である。


2017.11.27
 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」はよく知られている言葉だが、昨今の政治家や実業家にこのような姿をみかけることはとんとなくなった。それだけ難しいということだろう。この言葉はどちらかというと教訓的に用いられ、社会的地位が上がれば上がるほど、謙虚になりなさいというようことと解釈する人もいる。
 しかし、私は少し違った解釈をしている。本当に実った人は自然と頭が垂れるというふうに受け取っている。似ているようだが少し違う。教訓的にとらえるとやや偽善が入る可能性が出てくるし、少し無理をする面も出てくる。しかし自然にそうなるというのであると、そこに無理はないし、相手によってその態度が変わるということもない。
 そのような人にはまず出会わないし、自分も到底そうなっていない。実っていないから仕方ないことである。しかし、そうなることに人間の目指すべき姿を描いたこの言葉は、一つの成熟した文化に思える。実際にはそうならないけれども、そうなることが本当は自然だという考えは、物質欲、名誉欲などを死ぬまで追求することに虚しさのようなものを感じ取った人でないと生まれない。大脳皮質前頭葉を拡大させたものの、まだその日が浅い現生人類にとっては、まだまだ荷の重い課題なのだろう。


2017.11.5
 よく日曜日にジョギングする野川にかかっている橋が新しくなるようだ。完成が間近になったところで、工事関係者が橋の桁の色が違うパネルを3枚並べ、通る人たちにどれがいいかを尋ねていた。よく見るとパネルの下には小さな丸いシールがそれぞれに貼ってあり、人気投票になっていた。
 ちょうど親子連れの人たちが通りがかっていたが、年取った工事関係者が子どもに話しかけていた。「私はもう歳だから、あんまりこの橋を通ることはないけど、これからずっと通るんだから、好きなのを選ん方がいいよ」というふうに言っていたみたいだった。
 橋げたは頑丈な鉄でできていて、その製作過程に一般の人は関与できない。しかし、橋桁の色はけっこう目立つから、それを自分たちの好みで決めれるのは嬉しいだろうと思った。誰のアイデアなのか分からないが、こういう工夫はいい。身近には「知らしむべからず、依らしむべし」が横行しているのを感じているので、こんなちょっとしたことでも、考えた人に密かに拍手を送りたくなる。


2017.10.28
 『中外日報』という宗教専門紙に月に1回程度、映画についてのエッセイを書いている。一つの映画はいろいろな観点から論じられるが、宗教文化との関わりを一つの切り口にして書いている。宗教観がさまざまであるように、映画であらわれる宗教の描写も実に多様である。
 制作に関わった人たちが宗教的テーマであることを強く意識したであろうと思われる映画もあるが、そうではないのに宗教的テーマが読み取れてくる映画もある。どこからどこまでが宗教という明確な境界線はないと考えているので、自由に読み取っているが、やはり心に残るかどうかは深さであるように思う。
 かなりの数にのぼったので、いつかお薦めリストのようなものを作ってみたいと考えている。

2017.10.25
 最近、ある会で現代の日本社会におけるイスラームに関わる話をしたとき、かなりの社会経験のある人から、モスクが増えると、テロの危険性が増えるのではないかという質問があり、宗教文化教育の必要性を再認識した。その人は実際にモスクに行ったことはないという。本当にテロ問題を真剣に考えているというのなら、自分の目で確かめるべきであろう。一定以上の年齢に達した人の認識を変えるのは、とても難しいと実感することが多いので、やはり自分を取り巻く状況についての把握において柔軟さが残っている世代に適切な認識をもってもらうことがとても重要になってくる。
 毎日のようにISのニュースを聞かされると、イスラームについてのマイナスのイメージが増すのはよく分かる。だが、自分の身の回りにいる人たちを自分で確かめる努力もせずに、メディアの報道だけでイメージを形成し増幅させ続けている人が、いわゆる「指導的立場」にある人でもけっこういるという現実は、しっかり心得ておかなければならない。
 初詣に行って神前で手を合わせながら、「自分は無宗教です」ということのおかしさにあまり気付かない多くの人にとって、神と向かいあうためにモスクに来るというムスリムの行動はなかなか理解できないのかもしれない。しかし、後者こそ世界的には宗教の本来のあり方とみなされていることに、気づかないといけない。そうすれば、なぜ自分が矛盾とも言える行動をとっているのかを考えるきっかけにもなるだろう。


2017.9.6
 初めてポルトガルに行ったが、かつてこの国がスペインとともに世界を二分して支配しようと考えていたという歴史が思いおこされた。リスボンの港から大西洋を眺めながら、人間の野心とか冒険心とか、残虐さとか、いろんなことを連想した。キリスト教とイスラームが共存したり、激しい攻防を繰り広げたりしたイベリア半島の歴史があちこちで感じられた。宿泊したホテルの近くに大きなモスクがあったのでいってみた。見学も撮影もOKということだったので、中に入った。静かな空間であった。
 おそらく歴史上も今も、たいていの人は異なった文化や言語、あるいは生活習慣を持つl人たちとの共生の道を選べるのだと思う。しかしほんの一握りの人がそれを嫌い、排斥する。それが一握りで済んでいるときと、何かのはずみで周囲に大きな影響を与えてしまうときとがある。その危険性は克服されたものではなく、常に存在するということを今の日本でも強く感じる。
 現代が厄介なのは、そうした排斥を煽るような人物が、国会議員やマスコミ関係者をはじめ至るところにいて、ツイッターなどを用いて悪質なデマさえ簡単に拡散できる時代になったことだ。その危うさを実例を踏まえながらきちんと伝え続けなければならない。これはグローバル化のじだいにもっとも大切なことの一つと思っている。


2017.8.25
 最近、ちょっと足の指が痛んだ。それだけで、ずいぶん歩行がしにくくなるし、動作が思うようにいかなくなる。人間の体がほんとうに緻密な連携を保って毎日動いているのだということを実感する。回復してみると、痛い箇所をかばって歩いていたときと使う筋肉が、いつもとは微妙に異なっていたことが分かる。
 ぐっすり眠れて、食事がおいしく、さっさと歩ける。そういう状態であることがいかに貴重かは、そのどれか一つでも欠けると分かる。これらは身体の問題ではあるが、心や社会関係と密接につながっている。心もほんの少しことで崩れたりするし、一つの助言で立ち直ることもある。
 どうやら人間の知覚はとんでもない並列処理をしているようである。どこかうまくいかない場合があるのは当たり前で、恙なく過ごせた日は、それだけでラッキィなことだと思うことにしている


2017.7.21
 テレビがユーチューブをはじめインターネットで流れた映像をもとに番組を作る例が増えているようだ。手軽な制作方法として広がっているであろう。これはテレビとインターネットの共存というより、テレビ側の撤退に近い現象に思える。
 なぜ自分たちのアドバンテッジをもっと活用しないのであろうか。これまで蓄積してきた放送データと、そこから得られる見通しというものを活かせば、主として個人がアップしているインターネットの動画情報とは別種の楽しさや鋭い切り込みが可能なはずである。
 ネットを検索するだけでなく、自社に保存されている未公開の映像や収集資料を丹念に探せば、報ずべきことは山ほどあると思うのであるが、おそらくジャーナリスト精神が著しく薄れたのであろう。
そう思わざるを得ない昨今のおおかたのテレビ番組である。


2017.6.17
 大統領がフェイクニュースを流すなんてと驚くのは、権力を握った人間がいかなる行動をするかの洞察が不十分なのだろう。権力を志向してなんとか権力を勝ち取った者は、それを守るためにはおそらくなんでもやるにちがいない。その行為が明らかに自分の首を絞めることになると予測されること以外はである。歴史はそうしたことを何度も繰り返してきたのだろう。自分の利になりそうなことを半分に抑え、あと半分を他の多くの人の利に向けるという発想をもった権力者は、きっと周りから名君と呼ばれた筈である。
 最近の政治関連のニュースは、ほとんどの国のものが指導者の残念な姿を語っているが、さりとて、より希望の持てそうな人を選ぶための道はかなり狭い。フランスではマクロン新大統領が大きな支持を集めてきているが、少しでも希望がもてそうな人がいると、そこに多くの支持が集まるということなのかもしれない。潜在的にはやはり多少なりとも信頼できる指導者がいて欲しいという切望が渦巻いていると考えたい。高邁な理想を掲げる必要はない。基本的に世界が平和の方向に向かい、生きていく希望さえ持てないような人が減る方向に向かうようなことを目指す指導者がいるなら、あとの技術的な問題は衆知で解決の道を探るということになろう。
 そんな気持ちをもった政治家が皆無とは思いたくないが、どこにいるのか、とにかく探すのに苦労する。


2017.6.8
 先週大阪国際大学で開かれた「宗教と社会」学会に参加した。研究発表やテーマセッションをいくつか聞いたが、世界のいろんな地域で新しい研究対象を見つけて調査している若い人の発表などは、なかなか参考になった。
ただ、少し気になる発表も見受けられた。自分が見聞きしたものにあまりにとらわれて、類似の研究への目配りや自分の行動言説ををあまり客観視しようとしていない傾向も感じられたからである。
 グローバル化が進行している現代では、発達した交通機関や便利な情報機器の手助けでさまざまな場所で調査ができる。研究対象の選択肢は非常に増えた。それゆえなのかもしれないが、自分自身をみつめるための訓練は以前よりも深まっているとは思えない。時分が他者からどう見られているかは、他者が多様化した現代では考えることが面倒になったのであろうか。


2017.4.22
 新学期はやはり忙しい。しかし今年度で定年になり学部のゼミは最後になるので、今までとは少し違った内容にしている。4年生だけなので人数がいつもの半数くらいになって少人数用のプログラムが可能である。いくつか試みてみるつもりである。いつも1クラス20数名いて、それが2クラスあったので、一人ひとりゆっくり接する機会が乏しかったが、半分以下の規模になると、かなり雰囲気が違う。
 ゼミの適正人数はせいぜい10数人だなとつくづく思う。


2017.3.14
「梅は咲いたか、桜はまだかいな」の季節がめぐってきた。川べりを例の如くジョギングしていたら、一本の桜の木が開花していた。写真を撮っている人もいた。同じように見えても品種が違うかもしれないし、環境の差もあるから、一本だけ早く咲くのもそれなりの理由がある。
 だがこう考えるとちょっと面白くなる。桜にも心と言うものがあって、皆と一緒に咲いては目立たない。ここは少し早く咲いて注目を浴びよう。たとえ散るのが少々早くなっても、それがいい。」
 こうしてこの桜は早く咲くことにしたと説明すると、なんとなく面白いストーリーになる。人の心の動きにたとえると妙にありそうな話に思えてくる。
 想像しているうちは楽しいのだが、こんな話をもっともらしく本にするとトンデモ本になる。だが新聞の広告を見ると、相変わらずトンデモ本は花盛りである。また騙される人が出るのかと思う一方、どれだけ論理的に考えられるかの材料にもなりそうで、どれか使ってみるのもいいかと思わないでもない


2017.2.18
 アメリカでトランプ大統領の入国禁止令に抗議するデモが各地で起こっているというニュースを聞きながら、2月5日にワシントンに行ったのだが、現地はすこぶる平穏であった。聞くとそれまで盛んであったデモがピタッと止んだということであった。ホワイトハウス前の警備も落ち着いていた。いろいろな背景があるのだろう。
 The Newseumという博物館に行ったとき、入館者にトランプの移民政策に賛成か反対かでシールを貼ってもらうコーナーがあった。圧倒的に反対のシールが多かった。ニューヨークの複数の博物館にも行ったが、急遽イスラーム関連の展示をするなど、はっきりとメッセージを掲げる姿勢が二つの都市でうかがえて、アメリカらしいと思った。
 テレビのニュースも局ごとに姿勢をはっきり出している。帰ってきてから日本のテレビの生ぬるさがあらためて感じられた。御用メディアだけが破目を外すほど勢いづいている今のマスメディアは、どう考えてもおかしい。メディア関係者は大正末から昭和初めにかけての、社会とメディアの急展開を少しでいいから振り返ってみるべきである。権力者におもねないという最低限の姿勢を失えば、次に来るのは全体主義というのは、おそらく現代でもあてはまりそうである。
 歴史に学ぶ姿勢を持ちたい人がワシントンで訪ねるべきは、アーリントン墓地よりも、そこからそう遠くないない所にあるホロコースト記念博物館である。

2017.2.3
東横線が渋谷で地下になってから久しいが、慣れるどころか、通るたびに導線の悪さを実感する。何もないところに駅を作るのと違って、さまざまな制約条件があるなかに設計するのだから、簡単ではないと思う。だがそれを差し引いても、渋谷の地下駅の構造は相当にひどい代物である。夥しい数の人が日常的に使う施設は芸術性など二の次でいい。分かりやすさ、便利さを第一にして欲しい。機能的でかつデザインの優れた施設も少なくないわけで、つまるところは設計を依頼する段階で、そうした発想をもった人を候補にしてほしいのだが、これまたどうやって決まるか闇の中である。
 これに限らず、大したことではない場合に、いろいろ会議を開き、公開性云々がやかましく、本当に大事なことは知らぬ間にどっかで決まるという構図は、誰かの悪知恵に違いあるまいと勝手に憶測している。


2017.1.24
 いつも年賀状を送ってくれていた人から今年は来なかった。ずいぶん前に他の大学の大学院で教えていたときの学生さんである。大学院を出てから小説も書いたことがあり、「先生を実名で登場させました」という連絡を受けたことがあった。出版記念会で本も頂戴した。とても頑張り屋さんだった。
 正月が過ぎてから妹さんからはがきが来た。実は昨年亡くなったということであった。無理がたたったようですとあった。教え子の方が先に亡くなるのは、逆縁の類に入るのであろうか。なにか切ない思いになる。いつかは皆死ぬのであるが、一生懸命生きていた人ゆえ、「早すぎる死」という言葉が浮かんでしまう。残念である。


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◆2016年
2016.12.25
 「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」は、7世紀唐代の詩人である劉希夷の代表作「代悲白頭翁」の一節として、広く知られている。確かに毎年咲く花は同じに見えるが、見る側の人間は変わっていく。だが花は毎年似ているのだろうか。毎週ジョギングする川べりには桜の木がたくさんあって、春になると似たようなきれいな景色を用意してくれる。それでも風の強い年に枝が折れるものがある。咲きっぷりに微妙な違いもあったりする。そして、樹木の幹は少しずつ老いる。
 人間とはタイムスパンが異なるものの、やはり「年年歳歳花不同」なのである。また散って咲いてというサイクルで見るなら、人間よりずっと短い一生である。変化をミクロに見るかマクロに見るかで、様相はずいぶんと異なったものになる。
 万事がそうである。とすればどんなレベルで見たらいいのか。それはどうも観察したあとで何をしたいのかによって変わってきそうである。昨今の国内外の政治の中にはお粗末な出来事が多すぎる。憤懣やるかたなしというようなものもあるが、そういうときは、10年くらいのタイムスパンで見てみようと、心に切り替えるのも一つの手かもしれない。


2016.12.24
 今年は予想していた以上に忙しくなった。本を単著、編著合わせて4冊刊行した上に、いろいろな企画に関わったから仕方ないが、ほんとうにあっという間に一年が経ってしまった。1年に4冊も刊行するなんて初めてではないかと思って調べてみたら、2006年に4冊、2011年に5冊出していた。たまたまであろうが、5年ごとの波になっている。しかしそんなことも忘れているのかと、愕然とする。
 こなすべき課題、与えられる課題があること自体は喜ぶべきことであろうが、処理能力の低下は日々実感していることであるので、やはり無茶な計画は避けなければと、心引き締めるこの頃である。


2016.11.9
 アメリカ大統領選挙で、まさかのトランプ勝利である。しかし、このところの国内外の政治状況を見ていると、人間の政治的行動の原則は歴史時代にはいって以来、ほとんど変わりがないのではないかと感じる。進化心理学が提起している仮説はますます妥当に思えてくる。厳しい草原で生きていた時代に環境にどう適応したかは遺伝子に組み込まれ、現代の行動にも強い影響をもたらすという考えである。
リーダー選びは、簡単に言ってしまえば、多くの人は「自分に食べ物や財」をもたらしそうな人をリーダーに選んでいるように思われる。
見かけの手続きが民主主義か全体主義かよりも、そちらが重要な気がする。このことをもっと真剣に考えないと、見込み違いはとんでもない結果をもたらす。過去の歴史がそれを示している。
だから歴史から学ぶ姿勢を分かりやすく語る人が増える必要がある。知識人と呼ばれる人がとかくなおざりにするのは、多くの人が理解できる話をするということではないかといつも思う。
研究者が仲間内で分かる言葉しか使えないというのは、きわめてまずい事態である。


2016.9.24
 この雑感を更新する頻度はのんびりしたものである。むろん毎日いろいろな出来事があり、いろいろな思いが頭をよぎる。しかし、それを直ちにツイッターなどに一々書き込む気には到底なれないし、その時間ももったいない。このサイトもそうであるが、誰が読むのか分からない。ツイッターは自分には向いていないと感じているが、ときたま他の人のつぶやいているのを見ると、人間心理や人間関係がいわば可視化されるような感じがして、それはそれで面白い。ただ危険なのはそこで交わされている情報が、いま必要な情報の主流だと受け取ってしまうことだろう。
 何が必要な情報かは人ごとに異なる。自分を取り巻いている環境を的確に把握するには、デジタル化されていない種々雑多な情報にもアンテナを用意しておくことと思っている。こんなことは実は禅宗が伝えてきた「教外別伝」といった考えなどにすで包含されていると言ってもいいのであるが、デジタル時代は、つい人間の能力が新しい段階に達したかのような錯覚をもたらすから厄介だ。


2016.8.11
 9月には早稲田大学で日本宗教学会の学術大会が開催される。3年前には國學院大學が開催校であった。そのとき私は学会長であり、大会実行委員長でもあったので、「二重苦」の状態であった。大会の折にはポスターやプログラムに使用するロゴを作るのが恒例であった。専門家に頼むと数万円かかるかもしれないと言われ、では私が作りましょうとなった。イラストレーターを使えば大丈夫と思いデザインを考えた。
 2013年度の日本宗教学会の第72回学術大会ということと國學院大學が主催という情報を図案化することにした。日本宗教学会の英文名のアクロニムはJARSである。72回はローマ数字を用いLXXIIとした。2013年と國學院大學はそのまま用いた。できあがったのが下の図案である。当然だが、ほとんどの人が72回の意味を読み取れなかった。それは遊びの部分である。ボランティアでやるのだから、これくらいの遊びはいいだろうと思った。
 問題はできばえだが、私が作ったことを知っている人は低い評価を与えにくいだろう。それで事情を知らない人に尋ねてみたが、まずまずであった。「おしゃれですね」と言ってくれた人もいて、ちょっと胸をなでおろした。早三年も経つのだと少しばかり感慨にふけった。

         
2016.8.4
 歯舞島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島を訪問してきた人の話を聞いた。島により生活レベルや日本に対する親近感などもだいぶ違うようだ。現在の政治状況のもとでの今後の展望について解説する政治家の人もいたが、実際どうなるか分からない。領土問題は多くの国が抱えるが、たいてい現実と将来よりも、過去の経緯への議論が圧倒的に多い。どの国にも領土は一片たりとも譲らないという主張をもつ人たちがいるが、その主張を支えている心の働きは同じではないか感じたりする。軍事的、経済的観点などからの主張は分かりやすいのであるが、どうもそれだけではなさそうだ。
 経済的にはほとんど意味のなさそうなわずかな区画の所有権をめぐって隣り合った家同士が激しく争うことがあるが、それに共通するものが感じられるのである。何かを自分の「モノ」と認知するときの心の仕組みというものに行きつきそうである。


2016.7.23
 ドイツのミュンヘンで銃乱射事件があった。商店街で子どもまで狙い撃ちしたという報道である。「ポケモンGO」でスマフォ片手に街をうろうろする若者がいる一方で、こうした凶行をためらわない若者が増えている。いつの時代にもあったであろう、こうした両極端な現象が、今は同時にニュースとして飛び込み、動画としても見ることができる。道具だけは飛躍的に進化しているが、人類の理性の進化はとてもそれに追いついていないということを、否が応でも突きつけられる。
 この乖離は何をもたらすことになるのだろうかと考えると、10年先20年先、そして100年先をも、どちらかというと暗い予測が覆いがちになりそうだ。それでも今までよりベターな方法が見つかるはずだという希望を捨ててしまうと、諦めと悲しさに支配される。それにしてもいつの間にこんなにも知性や智慧が脇に追いやられるようになったのだろう。政治でも経済でも席捲しているのは悪知恵のように見える。学問までそうなったら終わりだから、そこは必死に食い止めなければと思っている。


2016.7.19
 平凡社から刊行されていた『宗教と現代がわかる本』が2016年版で幕を閉じることになった。2007年創刊なので、ちょうど10年分が刊行されたことになる。この本では宗教と映画についての紹介をずっと続けてきた。100ちょっとの映画を紹介してきたことになる。こういう企画でなければ観なかったであろう映画もあるので、大変ではあったが、面白かった。自分なりに一つの問題意識をもって観てきたので、機会があったら、あらためてまとめてみたいななどと考えている。本当にいい映画と言えるものにいくつか出会ったので、それが自分にとっては一番良かった。


2016.6.29
 テレビ番組に面白いと感じるものが少なくなってきたので、テレビの電源をONにしたときは、まず放送大学のチャンネルを見るのが癖になった。テレビを見ること自体が、ある程度決まった時間帯に限られてしまうので、それほど多くの科目を視聴することはできないが、10か20かの番組を見続けるだけでも感じられることがある。それは講師が最近の新しい学問動向を踏まえた内容にしているものと、そうでないものとが割合はっきり分かるようになったことである。 
 21世紀になって、人文系の学問分野にも脳神経科学、認知科学系の研究成果の影響は一層深く、そして幅広く及んできている。それをすでに採り入れていると思われる話と、それに関心がないのだろうなという話とが、はっきり分かれるからではなかろうか。こんな分野にも脳神経に関する知見が応用されているのかというような講義内容もあったりして、そういうときは、まさに目から鱗である。自分の専門以外に目を向けるとそうした違いがよく分かるというのも面白いものだが、どこがどう違うのか、それをもう少し自分で明確にしないと、自分の研究にうまくフィードバックできないのだとも自覚している。何事にあれ、判断の目を養うというのは、一朝一夕にできることではないから、分かってくるのを待つのが自然だが、残された時間を考えると、少し焦る気もなくはない。


2016.6.20
 久しぶりにiPhoneの機種変更をした。店員がいろいろ関係ないことへの加入を勧めるので余計な時間がかかった。さらに関係ないと思われる個人情報収集も始めたのでなぜ必要かと聞いたら、責任者に問い合わせてから、これは必要なかったですと別の簡単な形式のものを提示した。黙っていたら全部聞くつもりだったのであろうか。油断も隙もならない。
 多くのアプリを使っているので、この移行がまた一苦労。かつての携帯電話が簡単に移行できたのに比べて相当面倒になった。よほどアプリを精選して使おうと考えをあらたにした。言うなれば「アプリの断捨離」だ。
 こうした面倒さについては、誰が振り回しているのか、よく分からない。関わっている人たちはそれぞれ便利にするつもりなのかもしれないが、出来上がったものはけっこう面倒な代物になっているというのが現状のような気もする。コンピュータもそうだが、クラウドにすればある程度不便さはしのげるが、リスクを考えるとそれももろ手を挙げて賛成はしかねる。
 コンピュータの外部記憶媒体もフロッピーディスク時代から、HD、CD、DVD、USBメモリ、コンパクトフラッシュ、SDカード等々増える一方で、用途別に使えるのは便利だが、コンピュータ側にすべてのモジュールが備わっているわけではないから、これまた不便なときがある。
 こうした面倒さの度合いがいっそう強まるのか、誰か賢い人がイノベーションを断行してくれるのか。後者に賭けたいが、市場の原理はエゴの追求を許容しているから、楽観視はできない


2016.5.3
 菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)は、エネルギーあふれる書である。ウェブ上に連載されていたときから読んでいたが、宗教研究者にとっては見逃せない領域に突き進んでいると感じていた。宗教と政治が交錯するきわどい磁場に果敢に突入していたからである。適切な比喩ではなかろうが、天安門事件のとき、戦車の前に一人立ちはだかった若者を連想してしまった。何かを変えるかもしれない。
 先月20日にパリに本部がある国際NGO「国境なき記者団」が、2016年の「報道の自由度ランキング」を発表した。180カ国中、日本は72位であった。別の団体が調べれば別の順位になったであろうが、これはこれとして一応の参考にすべきであろう。北朝鮮は179位で中国は176位である。シリアが177位はそうかもしれないと感じても、ベトナムが175位は厳しいような気もしないではない。しかし日本ほど自由ではないのは明らかである。北朝鮮が50位くらいで、日本が72位だったりしたら、こんな調査信用できないと言っていいだろうが、おおよそなるほどと思う順位である
 それゆえ根拠が薄いランキングとして、日本の評価が低いことから目をそらすべきではない。2014年が59位、2015年が61位、そして今回が72位とどんどん順位が下がっているのも政権担当者に苛立たしいことだろうが、まじめに報道の自由を考えるなら、昨今のメディアの状況からして、この評価は何かをつきつけている。そう思わない人はたぶん鈍感なのだろう。

 
016.4.17
 大学の教員同士でしばしば交わされる会話が「大学が忙しくなった」「研究や教育のために時間が割けない」という嘆きの内容である。これは国立私立を問わない。もともと周りから怠け者と陰口をたたかれているような人の言葉であるなら、自業自得でしょうと言いたくもなるが、そんな例は少数である。研究が好きで、あるいは教育に情熱をもって大学に籍を置いている人が、痛切に感じている現実なのである。たえず書かされる多くの書類、週に何度となくある会議、会議のための会議、その他日々こなさなければならない事務量は増える一方である。それでいて、研究業績はあげなさい、教育は丁寧にやりなさいと指令があちこちからくる。
 かつての大学が良かったなどというつもりは毛頭ないが、少なくとも高等教育の理念からすると、今の大学のあり方には主客転倒しているようなことが多々あるという印象は拭いがたい。
 大学は少子化によって今後存続があやういものが増えてくると予測されている。それをいいことに(?)、ああしろこうしろと、本末転倒の方針を大学に迫るような人たちがどこかにいるのは確かだ。「私たちはこんなに良い教育をしていますよ」というエビデンス集めに奔走して、作文に時間をかけるよう迫る現在のあり方は、まったくもって高等教育に携わっている人たちの頭脳の活用としては無駄としか思えない。


2016.4.10
 ウルグァイの元大統領ホセ・ムヒカ氏が来日して、テレビ各局がいろいろな報道をしている。ムヒカ氏の言っていることはとてもシンプルで、説得力がある。個人的にも私が学生たちに伝えようとしていることとかなり重なっているところがあり、言いたいことは非常によく分かる。
 印象的だったのは、ムヒカ氏の経歴や現在を伝えるレポーターやテレビ関係者のコメントに的外れが多かったり、きわめて底が浅いということである。ムヒカ氏は人生哲学を確立している。それが読めていないので、ずいぶん変なコメントがある。夫人がムヒカ氏の少し後ろを歩く姿を「大和撫子のように」とナレーションがはいるシーンがあった。情けないという気持ちがしたが、まあそれが今の日本のテレビの平均的レベルなのであろう。
 少しくらい日本の政治家の数人を対比させてもいいと思うが、日本はさほど貧富の差が大きくないで逃げてしまうところなど、委縮したメディアをよく象徴している。日本が国際的にみてあまり悪くない点が数多くあるのは事実としても、ムヒカ氏の指摘を一つの契機として、改善すべきポイントを具体的に指摘しようという姿勢が見えないのだから、鈍感か委縮か、どちらかであろう。

 ただたとえ編集が加わっていても、こうしてテレビで生の声がいくつか伝わったことはとても良かった。また東京外国語大学では講演がなされたということだが、講演を聞いた学生の何%かは同氏の人生哲学を感じたのではないかと想像する。来日の意義は大きかったように思う。

2016.3.15
 3月13日に地下鉄サリン事件の21周年を前に、事件の被害者ら関係者が集会を開いたようだ。その様子を撮影していた某テレビ局のカメラマンが、撮影しながらなんとスマホで漫画を見ている様子がツイッターで流された。報道が万人から監視される時代になっていることを当事者は自覚していないらしい。それにも増して、大事な問題を取材しているという自覚のなさは絶望的でさえある。オウム真理教事件にしろ、大震災にしろ、とにかく何周年というようなときに、一応報道しておけばいいかという姿勢が透けて見えることが多いからである。その出来事から何か教訓を得ることがあるのかという態度はどこに飛んでいったのであろうか。
 マスメディアの劣化は至るところにあらわれているが、希望はあまり見えない。むしろこうやってそれをチェックする個々人の視線の集合が、今後どのように展開していくかがむしろ気になる。


2016.3.14
 世の中に謎は満ち溢れている。生命現象も不思議であるし、物理法則がどこでも成り立つというのも考えてみれば驚異である。しかし多くの人が圧倒的に関心を寄せる代表格は、死にまつわる謎である。昨日生きていた人が今日も生きていられるのはどうしてかというふうにはあまり考えない。また自分は何故生まれたのかという疑問を持つ人もいるが、多くは青年期の悩みのように言われる。生まれる前がどうであったかの疑問は、死んでからどうなるかの疑問ほど切実には問われない。
 一刻一刻、体の細部で起こっていることはすさまじいほど複雑であり、なぜかを考えることさえ斥けるほどである。死も確かに謎ではあるが、たとえば人間のような生命体がその複雑なまとまりをおおよそであっても一定期間維持できるのはどうしてか。死の謎はその謎の中に含まれよう。
 どう死ぬかがどう生きたかである、というような言説もあったりするが、なぜそんなに死に方にこだわるのであろうか。誰かを潔く死なせたいと思った人たちの発案だとすると、非常に分かりやすいのだが、それだけとも思えない。


2016.3.6
 2月下旬にイギリスのケンブリッジ大学に行ったときに、著名な日本宗教研究者であるリチャード・バウリング名誉教授とお会いした。ケンブリッジ大学には31のカレッジがあるとのことであったが、案内されたカレッジの内庭にはきれいな芝生が一面に生えていた。欧米の大学でよく見る景色である。芝生の上で学生たちがフリスビーなどして遊ぶ姿が見られる大学もあったが、このカレッジでは誰も足を踏み入れる様子がない。同行していた一人の教員が「この芝生には入っていけないのですか?」とバウリング教授に質問した。教授は「名誉教授だけは入れる。だから私は入れるが、あなたがたは入れない」と答えた。 
 にこにこしながらの答であったので、本当なのか冗談なのか、にわかには判断できなかった。しかし、あとで別のカレッジの芝生で小さな立札をみつけ文章を読むと、名誉教授以外は入れない旨のことが書いてあった。教授の話は本当だったのだと、我々は思わず顔を見合わせ笑った。もっとも名誉教授であることを誇示せんと芝生を横切る姿は、そのときは目にしなかった。どれだけの名誉教授が実際に芝生を闊歩するものかと、少しだけ興味がわいた。


2016.2.3
 日本に限らず政治家の言動を見ていると、理性のはかなさを強く感じる。別に政治家が理性がないという意味ではなくて、政治自体ががきわめて他の動物との共通性の多い営みではないかと感じるということである。人々に訴えようとするときの演説は、どこの国でもほとんど同じ調子に聞こえる。逆に言うと聴衆もまたそのような煽るような演説をリーダーに求めているということであろう。
研究者でも学術的議論を交わしているときは、比較的冷静で理性的なやりとりも一定程度は可能だが、学内行政となると違う要因がにわかに入り込む。
進化生物学あたりの知見からすると、これはなんら不思議な現象ではなくなるようだ。しかし、人間は皆死ぬと分かっていても、それぞれの死はその人の生きざまに応じた悲しみをもたらすように、人間の闘争心がいつも同じようなあらわれ方をするのが分かっていても、実際の場面に遭遇すると、やはりそのありように応じて、嘆きの度合いや怒りの度合いは相当に異なってくる。

2016.1.1
 昨年は本当に忙しくて、ホームページの更新もままならなかった。ただ国際シンポジウム・フォーラムを2回開催できたし、国際学会で発表もできたし、また神社調査も何度かできたので、忙しい中にも充実感が得られることもあって良かった。体を動かせるうちは動かしたいし、頭が使えるうちは使いたい。まあそんな単純な考えて突っ走ってきたが、大過なかったのは幸運である。
 でも少しずつ後輩にバトンタッチしなければいけないことがけっこうある。自分の都合でなく、相手にとって必要なものを残すにはどうしたらいいか。これはなかなか難しい。あんまり考えすぎても仕方ないので、おおよその見当でやっていくしかない。自分のやってきたこと、蓄積した資料やデータなどを一部でも利用したいと思う人がいるなら、それは嬉しいことである。

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◆2015年
2015.10.17
 コンピュータやスマートフォン、そしてそれらのソフトやアプリは、バージョンアップを重ねている。しかし中にはバージョンダウンと呼びたいような修正がある。いや修悪と言った方がいいかもしれない。使いにくくなったレイアウト、便利な機能の削除は不要な機能の付加とだいたい同時に行われる。開発した人たちは何を思っているのか聞いてみたいという気持ちになることがある。
定期的にバージョンアップしないと仕事をしたことにならないのだろうか。人間は新しいものに飛びつく一方で、慣れ親しんだものにはけっこう保守的になる。車の右ハンドルと左ハンドルを変えるようなことを気軽にやってほしくないと思うことが増えた。


2015.8.20
 道徳を教科にする話が進んでいるが、道徳というものは教える側が実践する、あるいは実践しようとする姿勢がなければおそらく効果はない。オリンピック絡みで次々と出てくる「まずい話」を見ていて、いったいどんな道徳教育ができるだろうかと気になる。
 国立競技場問題では、結局責任はうやむやにすればいいということを、国をはじめ関連した団体が、子どもたちに実践してみせているわけである。エンブレム問題も見苦しい。これでコピペはいけませんという教育はできるのか。
 いい話を集めてそれを教材にすれば、道徳教育は成り立つと思ったら大間違いである。日々のニュースが語っている大人たちの行状こそが、一番の教材である。
 教科になった場合、教師たちは反面教師の例だけは、日々大量に供給されるから、その点では心配はいらないだろう。


2015.7.26
 諦めのいい人と諦めの悪い人という言い方がある。ところが世の中には諦めた方がいいことと諦めてはいけないことがある。諦めのいい人が諦めた方がいいことに直面した場合は、おおむね対処しやすいだろう。逆に諦めの悪い人が諦めてはいけないことに対処するのも困難は少なそうである。
 そうすると、問題は残る二つの組み合わせだ。諦めのいい人が諦めてはいけないことに対処するときと、諦めの悪い人が諦めた方がいいことに対処すべきときである。後者の場合はここではおくとして、今日本社会を覆いつつある「嫌な雰囲気」は諦めた方がいいことには含まれるはずがない。諦めのいい人もそれがときと場合によることを確認する場合である。


2015.7.5
 一か月ほど前、長くお付き合いのあった弁護士の方の告別式があった。困ったときはいつでも相談してくださいという感じの人で、実際相談したこともあったが、すぐ適切に対処してもらった。相手に経済的余裕がないときはほとんど無償でも引き受けるという心もちの人で、懐の深さが感じられた。その人柄をしのび、告別式には本当に大勢の人がやってきていた。六十代半ばであったが、政界、財界関連をはじめ多彩な活動をしていたようで、その早すぎる死に文字通り慟哭している参列者もいた。
 すでに何人かの親しい友人との別れを経験しているが、どうも人の気持ちを思いやり、心配りのできる人が若すぎる死を迎え傾向が強いような気がしないでもない。喫煙や飲酒習慣も関係していると感じるが、それとは別に、他者を思いやることは過度になると気苦労という言葉があるように、ある種の負担が蓄積するのかもしれない。
 その弁護士の人は特定の信仰をもたず、葬儀も無宗教式であった。最近できたばかりの自作のCDの音楽が式場で流された。本人のメッセージを聴きながら最後の別れをしたわけだが、その生き様はあらためて深く心に訴えるものがあった。「惜しい人を亡くした」。心からそう思った。


2015.5.24
  本を読むときは、当然であるが、自分の研究分野に近いものを優先して読んできた。しかし、最近は自分にとって面白いものというものを最優先するようになっている。面白い本はやはり面白い。この場合の面白さは知的な関心を刺激してくれるという意味である。どんな分野の研究であっても、専門分野に関係があることを具体的に見いだせるような気がしてきたからかもしれない。
 これは当たり前のことである。自分という存在、そして周囲の人間どのレベルで考えるかはミクロからマクロまで無数の相があるけれども、それらはすべて関連している。関連性の濃淡があるだけである。ミクロレベルの新しい発見もマクロレベルの新しい発見も、自分が今関わっている研究が通常扱うレベルでの人間の理解につながってくる。
 それは新しい研究だけではない。はるか以前の書物にも、訴えたかった真髄を理解してくれる人を待っているものがあることを感じることがある。しかし言語の壁もあるし、自分が限られた人生の時間の中で接することができるのは、ほんのわずかである。その意味で偏りは大きいだろうが、それでも面白いと感じるものを直感を頼りに探求し続けたい。


2015.5.17
 同じ職場でも気の合う人もいれば、そうでない人もある。なかには不倶戴天のような人と机を並べて人もいることだろう。相性もあれば、互いの状況の差も関係するだろう。さらに言えばそれも流動的である。友がいつのときも友とは限らない。敵がいつも敵とは限らない。自分が変われば相手も変わる。相手が変わったのを感じれば自分の態度もつい振り返らざるを得ない。人間は深く相手の心を読んで対応する潜在的能力を獲得したはずである。
 それなのに国籍をはじめとする、当人が自分の意志で選んだわけでもない属性によって人間を区分し、自分と異なる属性の人たちを攻撃するという人が相変わらず大きな声を上げている。メディアがまた、そういう人たちを重用したりするから話はややこしくなる。大は軍備拡張を唱える人から小はヘイトスピーチを繰り返す人まで、攻撃力盛んな人たちは周囲の人を巻き込むパワーがある。それは人間の長い進化の歴史の中で必要なものであったに違いないのである。
 しかし、きわめて短期間に一部の人間は理性を飛躍的に発達させた。短期間といっても少なくとも二千年、三千年程度にはなるだろうが、攻撃精神を日々養わなければいけなかった時代の長さに比べれば、きわめて短期間という表現になる。それゆえ、理性的判断はその後しだいに広くいきわるようになったとはいえ、ときに古い反応の形態が突然に姿を見せてそれを凌駕する。
 自分たちとは言葉が違う、服装が違う、料理法が違う、生活習慣が違う、拝むものが違う、そうしたことを感じた人々に対して、ひたすら警戒心と攻撃心を蓄えさせようとする言論が、なぜたちまちのうちに影響力をもったりするのか。この現象は食べ過ぎになると分かっていても、目の前にたっぷりと甘いケーキを出されると、際限なく食べてしまう人が出るのに似ているかもしれない。これを克服する一つの方法は、自分たちがそうした弱点を持っているということを自覚することである。猛々しく隣国を攻撃することをなりわいのようにしている人は、どのように言葉を飾ろうと、その心性はアフリカのサバンナで捕食者や敵対部族の脅威の中で生きていたわれわれの先祖のそれと多分同質であり、あるいはそのエネルギーを活用していると言ってもいいだろう。
 常に自分を正当化し、他者を排斥しようとする言説は、小学生でもたやすく作れる。ネット上にはその類の言説が数知れず漂っている。それで一時的にすっきりする人もいるのだろうが、長い目で、そうした行為が人間社会に負の連鎖しかもたらさないことは、歴史を調べればすぐ分かることである。となれば教育の現場にいる人は、とりわけ、その道案内の責任をもっているはずである。


2015.4.26
 新学期が始まって慌ただしい。大学の教員は年々忙しくなっているが、学生に対してあまりに手取り足取りが過ぎるような気がする。もっと自分で試行錯誤するような時間とチャンスを与えたらどうかと思う。講義の選択もそうだ。かつては一度か二度実際に講義を聞いてから選択するのが普通であったが、今では最初の授業の頃は、すでに登録時期は終わりなどという例もある。
 学生が幼稚になったとか、自主性がないとか言う大学関係者がいるのだが、それを助長しているのが自分たちではないかという反省もあまりない。
 私のゼミでは「どんどん失敗しなさい。それから学びなさい」と繰り返し言っている。趣旨をのみこみ、どんどんたくましくなる学生もいる。むろん変わらない学生もいる。学ぼうとする気がなければなにを言っても無駄というのは、昔から言われてきたことだ。今の学生がとくに変わったとも思えない。相性もあるのだ。何割かの学生が何かを学んでくれたら十分なのだ。手取り足取りして、どんなふうにしたいのだろうと、そちらの方が気になる。


2015.3.21
 昨日は大学院の修了式であった。明日は学部の卒業式である。学部のゼミ生は30人近く卒業する。講義を受けた学生に対してもそうではあるが、とくに演習を受けた学生に対しては、私の話を聞いてなにがしかの人生の糧になったことがあるかと気になることがある。自分の経験や思考したことを、何かの参考になるかもしれないと思って話すわけだが、どう受け止められているかはよく分からない。例年、授業評価は悪くはないけれども、果たして彼らの立場にどれほど立てたかは心もとない。
 それでも、式に参列した学生たちが晴れやかな顔をして挨拶してくれたりすると、大学に来たことを後悔はしていないのだろうなと思って、少しほっとする。だから、私のゼミに参加できて良かったと卒業してから言ってくれる学生がいたりすると、それは本当にうれしい。


2015.2.8
 宗教文化教育の教材を作る関係もあって、国内のいくつかのモスクを見学してきた。応対してくれたムスリムの人はどこでも丁寧で、そしてお祈りは真剣であった。
今回の「イスラム国」における人質事件で、日本国内のモスクに嫌がらせ電話がかかったりしているという。きっとそういう人が出るに違いないと予測したが案の定である。相手が抵抗できないと思うと嵩にかかるという心の持ち主である。
こういう類の人が皆無になることは無理だとしたら、その影響をもっとも小さくすることを考えるしかない。学生たちにはこういう人間になってほしくないといつも真剣に語りかけているのだが、少しは効果があると思いたい。


2015.1.18
 パリのシャルリー・エブド社の襲撃事件は、本当に嫌な出来事である。テロには断固反対すべきだが、14億人は下らないと推定されるムスリムたちの神経を逆なでするような諷刺画を、言論の自由、報道の自由の尺度で論じていいのかはなはだ疑問である。日本では諷刺画の内容についての批判もけっこう起こっているから、それなりのバランス感覚が感じられる。もっとも報道の自由、言論の自由を必死で守るべきというほどの気概は、今の日本のマスメディアにはほとんど見られないから、これもまた考えてしかるべき問題のように思う。
 テロ事件以後の一連の経過を見ていると、罵り合い、排除しあうことに快感を覚える人もいるに違いない、という気がどうしても起こる。知性や理性というものの力は実はきわめて脆いものだと感じさせる出来事だが、さりとてそれを大事にする態度を捨て去るわけにはいかない。


2015.1.2
 元旦にジョギングをしたが、それほど寒くもなく、気持ちよく走れた。健康であることのありがたさを感じるひとときである。自分の脚で自分のペースで、周りの景色を楽しみながら走れるということは、何でもないようで、しかし少しの条件が変わるだけでできなくなることである。正月には一年の抱負を述べるなどということをよくやる。大きな目標を立てるのはいいことだろうが、実際には日々生きていくための条件は異なっていく。細かく計画を立てても絶えず修正は迫られるのだから、ゆとりをもっておきたい。
 原稿を書く都合もあって、年末から年始にかけてかなりの映画をDVDで観た。昔観たものでも、新しい発見がある。宗教に関連した映画を見ていると、ほとんどの映画は人の心の弱さをえぐろうとしているような気がしてきた。違いはそれを少しでも克服しようとするときの視野の広さの違いのような気がする。つまらない映画というのは、結局視野が狭いのである。自分と違う人の考えや行動を受け入れる心がない主張が基調講演をなしていると、何も伝わってこない。


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◆2014年
2014.11.30
 多くの人が自分の意見、あるいは研究の成果といったものを、以前に比べてはるかに容易に発信できるようになった。しかし、受信する側からすると、自分に必要な情報をみつけ、それとじっくり取り組むことがとても難しくなった時代である。どうでもいい情報でも、手軽にパソコンやスマートフォンの画面に表示されると、ついつい読んでしまう。書籍も店頭に並ぶのはごく一部である。ベストセラーなどというのは、自分にとってはあまり関心のない事柄に触れたものが大半である。求めている類のものに出会うまでにずいぶんな手続きがかかる。むろん求める書の著者名や書名が分かっている場合はすぐさまみつけられるが、そうでなく、吟味してから読むというような場合、そこに至るまでの道程が面倒になった。
 しかし嘆いてばかりもおれないから、センサーを鋭くするしかない。だから、これこそ読みたかった本というもの、あるいは知りたかった情報だというものを探り当てたときはうれしくなる。そもそもそういうことができない国に住んでいる人も世界には数多くいるのだから、それを思えば、贅沢など言っておれないのだ。


2014.11.23
 『宗教と現代がわかる本』の「映画・DVD」の原稿を執筆する時期になった。映画館に行ったり、DVDを購入あるいは借りたりして、取り上げるべき映画を観ているのだが、いい作品はいろいろと考えさせてくれるので、場合によっては本を読むよりずっと宗教史への理解が進んだりする。とくにドキュメンタリー映画はそういうものが多い。宗教的なテーマのものであっても、ドラマであるとストーリーや俳優の役柄などに関心が行きがちであるが、ドキュメンタリーは対象となる出来事、人物そのものへの関心を湧き立たせてくれる。そして、その解釈には自分が持っている対象への知識、宗教全般への知識というものが大きな比重を占める。最近見た「聖者たちの食卓」もなかなか良かった。つまらなかったというレビューを書いている人もいるが、シク教への知識や関心がなければ、それはつまらなく感じる人もいるかもしれないと思う。しかし宗教のリアルな姿に関心ある人にとっては、きっとすべての光景がとても興味深く感じられるであろう。


2014.11.2
 9月末に国学院大学日本文化研究所主催で国際フォーラムを開いた。「ミュージアムで学ぶ宗教文化」がテーマであったので、大学院と学部のゼミ生にも参加を呼び掛けた。7割くらいの学生が来てくれてうれしかった。さらに質問をした学部生が2人、院生が1人いた。日頃から質疑応答を積極的にするようにゼミでも指導していたが、こうした場できちんと応えてくれて、これもまた大変うれしかった。書かせた感想文も非常にしっかりしたものが多かった。司会だったので壇上から会場をみていたわけだが、4時間半にわたる会議を真剣に聞いていたのがよく分かった。会議の内容も非常によく、発題者の一人のアーモスト大学のモース教授は、会の後の懇親会で、こんなにフランクに話せた会議は初めてであると、大変喜んでもらえた。こうした実質的な議論をした会であると、生まれたネットワークが今後もしっかり継続しそうな感じがする。


2014.9.15
 日本宗教学会会長の3年の任期を無事終えることができ、本当にホッとしている。以前、「宗教と社会」学会の会長も経験した。こちらは2年任期であった。小さいながらもある組織について責任をもつ役を担わされ、実際に組織を運営すると、よく言われる「結局は人である」ということをつくづく実感せざるを得なかった。「宗教と社会」学会の場合は常任委員のチームワークであり、日本宗教学会の場合はいわゆる役員の他、会長が委嘱する各種の委員会の委員の尽力である。
 研究者集団であるとたいていのひとは良心的であり、組織の運営には誠意をもってあたってもらえる。とはいえそうとも限らない人もいるわけで、そういう人はやはり委員に選ぶのは避けた方がいいと私は考えている。どんな人かというと、たとえば会議のときなどには激しく自己主張するが、いざ何かを担当しなければならないときに無責任な人である。また面と向かってはおとなしいが、陰でマイナスの情報、陰口の類を平気で流す人も稀にいる。とりわけ最近ではツイッターでこれをやる人がいるので厄介である。あるいは名誉や権力を得るなど、自分の利益になりそうだったらやるけれども、いわば縁の下の力持ちのようなことにはそっぽを向く人もいなくはない。こうした人を見分けるには、その人の言葉ではなく行動に注意を払えことが肝要である。言葉だけならいくらでも美しい文言を並べることができるというのは、政治の世界を見ればいやと言うほど例がある。政治家の日頃の行動を見分けるのは難しいが、研究者仲間なら、少し注意を払えば、それなりに分かる。その場合、自分の「欲」から離れて観察することがポイントである。実はこれがとても難しい。
 いい経験になったので、伝えておいた方がいいことは、機会があれば伝えるべき人に伝えておきたいと思っている。


2014.8.25
 調査や研究会などで日本各地を旅行すると、本当にさびれた町や村を目の当たりにすることが多い。あと10年経ったら、この町や村の光景はどうなるのだろうか。人々の生活する姿を見続けることができるのだろうかと思ってしまうようなときもある。都会へ都会へと人々が集まるのは避けがたいが、もう少し広い視野から、この日本列島の将来を考えた方がいいのではないかと感じる。
 何より農業政策がとても重要に思えるのであるが、きっと得られる利潤の小ささが、本気で考える人をなかなか生み出さないのだろう。ネット時代の利点を活かして、国土をもう少しイキイキとしていくためのアイデアを互いに練りあえないものだろうか。他国の、あるいは他人の悪口を言い合うことにネットがせっせと利用されるのはいかにもバカバカしい。少しでも多くの若い人がそれに気づいてほしいのだが、他者の悪口を言う快感は相当なもののようである。ドラッグみたいなものかもしれない。まだそれにはまっていない若い人に、その愚かしさと習慣性の怖さをきっちり教える方が、ずっと希望のもてる話だと思うようになっている。

2014.8.10
 高校のときまで台風銀座と言われた九州は鹿児島に住んでいたので、台風の脅威は身をもって体験している。家が飛ばされそうになったときなどは、雨戸を必死におさえながら、家が壊れたらどうしようと一瞬考えたものである。なにせ高校3年で受験を控えた夏だったので、よけい心配になったのである。さいわい、やや傾いただけで倒れなかったが、朝になると、すぐ前の家は崩れ落ちるように倒れていたのが分かった。
 それもあって、中心付近の最大風速が30mとか35mとか聞くと、台風のような気がしなくなっているところがある。だが、暴風雨の到来は思いもかけぬ災害をもたらすものだ。東京は滅多に直撃されないので、自分も少し甘く感じるようになっているところがあるかもしれないが、昨今の雨量などは尋常ではない。日頃から頭のなかできちんとシミレーションしておかなければならない。自然はいつも予想外の攻め方をしてくるものだから、万全ということは難しいのだろうが


2014.7.20
 社会の変化への対応は企業と大学と宗教界でかなり時間差がある。どうしてかに関するわたしなりの見解は『宗務時報』に書いたことがあるが、誰と対応しているかによる違いである。むろん企業が一番早い。宗教に関することでもそうであったりする。数年前、ハラールという言葉を知っている人はほんの一握りであった。しかし最近では多くの企業とくに食品関連ではこれは常識になりつつある。むしろ宗教界が疎かったりする。
 宗教に関する事柄さえ、宗教界より企業の方が早くその変化を察知するというのは皮肉にも思えるが、珍しいことではない。宗教を研究する人間までそれではやはり困ると考える。教員もまた世界で起こっていることへのアンテナを、より感度の良いものにすべく心がけねばと思っている。

2014.6.15
 自分がこの人ならばと信頼した人の決定した方針に従うのは、たとえ結果的にその判断に誤りの部分があったとしても、やむを得ないと受け入れるかもしれない。しかし、自分がまったく支持したくないような政治的リーダーの判断で生じた悪しき結果を受け入れる気にはならない。これは民主主義の負の面と言えばそうかもしれないが、いまいましさは拭いされない。
 戦前の体制翼賛的な報道のあり方は、現代社会においてはあり得ないと思っていたら大間違いである。隣国をあしざまにののしって快感を得たり、利益を得たりしようとする人々はどの国にもいる。それが確実に負のスパイラルの元凶になっているとは思いもしないのだろう。
 どんな卑怯な情報が、それぞれの国から発せられようとも、その卑劣さを乗り越えていく智慧の広がりの方に、情報時代は与していると信じたいのだが・・・。

2014.5.5
 コンピュータに手を触れない日はまずない。ネット上の情報を検索し、それを思考の手掛かりとしない日もまずない。その便利さはよくわかっているが、これを悪用する人も確実に増えているようで、悪用のノウハウは確実に蓄積されているのを感じる。悪魔の攻撃手段とも言える核爆弾が開発されたように、大量破壊兵器のネットバージョンをだれかが考えつきそうで、嫌な予感がしなくもない。
 それというのも、にこにこ笑いながら戦争を語る人が増えたように思うからである。人類はなかなか歴史から学んでいない。それは歴史を自分の都合のいい方にしか解釈しない人が多いからだろう。過去に何が起こったか、すべてを知ることは誰にもできない。
 それでも、できる限り正確に知ろうとする努力をする人がいる一方で、自分の都合いい見方だけを採用することを当然と考える人が多すぎる。確証バイアスということになろうが、変な考えと高度のコンピュータ技術が結びつかないことを願うのみである。


2014.4.6
 神道十三派の研究をしていたとき、それがどのような影響関係にあり、どのように一派として独立していったか、それを図にして、『教派神道の形成』(弘文堂)という本に載せ、『神道事典』(弘文堂)再録した。これが今年の2月に出された宝島社の『日本の新宗教 (別冊宝島2130)』に無断で使われていることを知った。『新宗教事典』を刊行して以来、苦心して集めた資料や分析結果が、無断で勝手に利用されるのは慣れてはいたが、さすがにこれはと思い、出版社に抗議した。宝島社ではこの部分の無断使用の他、剽窃の部分があることを認めて、ホームページで謝罪文を出した。(http://tkj.jp/information/detail?cd=32&div=1)
 これは最近話題の研究者のコピペに通じる問題で、実は数年前に自分が監修者となったある本で、下書きをしたライターがインターネット上のサイトから丸々コピーしたのを発見して、そのライターを変えてもらったことがある。つまり、プロであるはずの人たちが平気でこのようなことをする時代になっていたのである。
 学生たちには繰り返し、こうしたことをしないように言っているが、ただだめだと言っても効果は薄く、なぜいけないかを伝えないと効果はないと感じている。


2014.2.23
 批判ということは、敵とみなしたもののあらさがしをして、攻撃することではない。自らであれ、他者であれ、間違っていると思ったら、その理由や根拠を示しながら、それを克服していく作業である。こうした批判の力と、それを行う上での視野は、政治やジャーナリズムや、そして学問の世界で、はたして広がっているのであろうか。
 昨今の政治的リーダーや巨大組織のリーダーたちのお粗末な「失言」(確信犯?)を耳にするたび、やや悲観的な気持ちになりがちである。若い人たちが右傾化とか保守化というが、日常的に学生たちと接していて、そんな感じはあまりしない。選挙結果などデータの読み違いもあるようだ。人間や社会の多様性は肌で感じて育った世代である。彼らの批判精神が本来の姿で伸びていくようにしなければと思っている。


2014.1.26
 30年以上前に撮影した8ミリフィルムをデジタル化することができた。ロバート・ベラーやピーター・バーガーを招いての国際シンポジウムの折の映像、あるいはハワイやカリフォルニアでの調査、あるいは奄美での調査のときに撮影した映像が、映写機で写したときとそれほど違わないレベルでパソコンで見られるようになって非常に嬉しい。今でこそ誰もがビデオカメラで映像を気軽に撮影するが、当時はそうしたものもなかった。映像カメラでの撮影と編集はけっこ大変であった。
 フィルムは3分間分のカセットになっていた。長い場面は途中で急いで入れ替えなければならなかった。入れ替え中に大事な場面があったりする。残念な思いをしたこともある。撮影したあとは現像に出す。ここまででけっこうお金もかかった。現像したフィルムの編集は、編集機で行うのだが、切ったりつないだりは手作業だから、これまたけっこうな時間がかかった。きれいにやらないと、フィルムが撮影の途中でひっかかったりするかもしれないから、慎重にやった。20分の映像を作るのに、どれだけの時間がかかったのだろうか。
 そうした時代を思うと、今のデジタルカメラの便利さというのは夢のようである。それゆえこの時代の映像はきわめて貴重ということになる。有効に活用したいと思う。また、すでに他界された方々が写っているシーンもあったりして、なつかしさが蘇る。苦労して記録していて良かったという思いと、技術の発達の恩恵を被れたことへの喜びとがある。


2014.1.2
 一時期好転しかけた東アジアの国際関係が、暗雲漂う気配無きにしもあらずである。近隣諸国と角突き合わせて、得をするのは誰だろうかと思うことがある。馬鹿にされたから、馬鹿にして返すというのであれば、子どもの喧嘩と大差ない。子どもの喧嘩は余波が小さいが、政治家たちの喧嘩腰は下手をすれば戦争になる。
 韓国にも中国にも何回か行ったが、心あるひとは、皆互いに仲好く付き合いたいと思っている。でも、きっと睨み合っている状態が好きな人たちがいるのであろう。どの国でも、遠くの国とは仲良くなれるが、隣国とはなかなか仲良くなれないということもあるようだ。
 境界線でいざこざを繰り返したり、面子の問題でののしり合ったり、といったことを止めれば、防衛費を大幅に福祉などに回せるだろうと思うのだが、それが実現しそうにもないのは、人間の性(さが)のような気がする。
 こぶしを振り上げる己の姿が鏡にどう映るかを想像し、それがまさに自分にこぶしを振り上げる相手の姿とそっくりであることに気付けば、愚かしさの本質が分かるはずだが、それはとても難しいことらしい。
 もし、そういうことに多くの人が気付かないがゆえに、現在の人類へと進化したのだとするなら、やがては人類は滅ぶのであろう。しかし、いずれは多くの人がそういうことに気付くように進化するはずだと考えられるなら、救いはあろう。
 ここは後者に賭けるしかないのだが・・・。

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◆2013年
2013.12.22
 大学の研究機関に長くいたので、指導教員という立場になったのは10年少々前からである。非常勤的な立場での講義歴は長いが、演習を担当した経験はそれに比べればずっと短い。演習は学生の成長がよく分かるので、教えているという手ごたえがある。現在は同じ学生を2年間受けもつシステムなので、とりわけそれがよく感じられる。
 柔軟な発想をもちうる時期の人たちとの会話は楽しい。むろん全員が積極的に反応するわけではなく、ほとんど座っているだけの学生も毎年少数はいる。でもおそらく半数以上は、演習で何かを得ようという姿勢になってくると感じている。発言内容にそれが出てくる。しっかりした意見を表明できるようになっていく姿をみることはうれしい。
 思いがけない発想を聞くこともたまにあり、それもまた楽しみである。10年20年後はほとんどの人は、演習の内容を忘れてしまうだろうが、一つでも何かを身につけてくれればと思ってやっている。

2013.11.23
 パソコン歴は30年近い。この間、ハードウェア、ソフトウェアとも進歩がすさまじい。当初は機能が向上していくのが嬉しく、次にどのような飛躍があるのか楽しみにしていたが、最近は不満もかなり増えてきた。というのもユーザー不在と言えるような改変がしばしば行われるからである。とりわけマイクロソフト関連の改変は苛立ちさえ覚える。WINDOWS95への改変は素晴らしかった。だから多くの人が喝采した。しかしWINDOWS7から8への改変は周りでもブーイングが多い。なぜ使いなれたファイル処理のしくみを、とりわけ不満が出されているわけでもないのに、大幅に変えてユーザーを困らせるかである。
 文書作成ソフトのWORDもそうである。いつも使いなれていた機能が新しいバージョンでどこに行ったのか探すということを何回繰り返したことか。とにかく変わることが好きらしいアメリカの会社に世界制覇されてしまったことが遠因だろうが、これから先もこうした状況が続くのかと思うと、新しいバージョンの発売がぜんぜんうれしくなくなってくる。ガリバー型寡占になってしまうと、こういう勝手し放題になりがちである。今の政局も同じであるが、こうした構造はやはり好ましくない。
 特殊なソフトはともかく、文書作成や表計算、あるいはデータベースなどは基本的な機能はほぼ出揃っているわけだから、ユーザーフレンドリーなソフトを長いタイムスパンで提供してくれる会社は出現しないものか。それらしいものもちらほら見えるが、まるで革命待望みたいな気分になる。

2013.10.13
 先月ボストンに行った折に、19世紀にアメリカで興ったキリスト教科学の母教会を見学した。また創始者のメアリー・ベイカー・エディ夫人のお墓を見る機会をも得た。お墓を見に行ったのは、日本に帰国する日の朝であったが、知り合いのアメリカ人研究者が車で案内してくれた。とても広い墓地の一角にあり、エディ夫人のお墓の前にはちょっとした池があった。
 人間がお墓というものを作るようになったのは、それで満たされる何かがあるからだろう。人間以外の動物は自然の循環に任せて、死せるものの記憶のよすがを求めたりはしない。
 エディ夫人の墓を間近で見る機会を得ると、彼女を少しく知ったような錯覚に陥る。彼女の生涯を記した本を読んだときとは違った何かをお墓はたずさえているのかもしれない。そんなものは不要と感じる人と、固執する人とがいて、その違いがまた謎めいて面白い。ピラミッドほどではなくても、立派なお墓を建てたい人と、静かに消えてためらうことのない人との比率がまた微妙なバランスに感じられる。

2013.9.13
 600人以上が参加した日本宗教学会の学術大会が終わった。実行委員の連携がよかったし、アルバイトの学生さんたちも責任をもってやってもらったから、スムースに運営できたと思う。小さいトラブルはあったけれども、てきぱきと処理してもらったし、実行委員長として安心して事を進めることができた。スタッフには感謝の心でいっぱいである。それぞれに皆忙しい仕事を抱えていて、けっして時間的余裕はないのであるが、心を合わせてやってもらった。
 学生さんたちも朝の集合時間にほとんど遅れる人はなく、正直予想以上の熱心さであった。今回は学会長と実行委員長が重なるという異例の事態であったけれども、その疲れを忘れさせてくれる上首尾であった。こういう人たちと一緒に仕事をできて本当に良かった。国学院大学での忘れられない思い出の一つになるだろう。

2013.8.18 
 脳研究の進展はすさまじい。このことが関係するのであろうが、「最新の脳科学が明らかにした・・・・」という類の宣伝文句もまた目につくようになった。けれども最先端の研究に関わっている人の論文や著書を読むと、脳の研究はまだまだ緒についたばかりで、分からないことが山ほどあると指摘されている。だから「これで人間の行動のすべてが分かる」というようなうたい文句の本や何かの宣伝は、まず疑った方がいい。
 脳科学関連の文献を読んでいて、非常に面白いと感じることの一つは、昔からの格言のようなものの根拠を最新の研究が説明しているように見えることがしばしばあることである。たとえば「習うより慣れろ」という格言がある。知覚と運動の関係を調べている研究は、慣れないことは大脳の各部分が協力して学習していくが、ある程度習得すると、それを小脳に任せるようになるらしい。すると一連の作業はきわめて短時間に処理されることになる。
 とはいえ、どの部分がどう協力するのか、そのシステムはなんとも複雑である。
 ある出来事におおざっぱだが瞬間的に反応する仕組みと、それより少し時間がかかるが、学習しながら反応していく仕組みが並行していることなども興味深い。これらは間違いなく人間社会の仕組みを考える上でのヒントになると確信している。むろん宗教現象もである。

2013.7.28
都心で大雨なのに、水がめには雨が少なく水不足が心配。こういった状況がたびたび起こる。ゲリラ豪雨などの際の排水は環状7号線の地下などにある地下調節池などがいざというときの備えにあるようだ。しかし、この水はやがて排水される。これを使って上水道に使えないのかとなどと素人的には疑問がわく。費用対効果その他の理由で検討もされないのだろうが、容赦なく都心に降る雨を有効利用できないのかといつも思う。
電気と違い水はストックできるのだから、太陽電池のように、建物ごとに雨水利用のシステムも簡便なものができないものだろうか。
人糞を肥料にして育てた野菜を食べて育つという経験のある身からすると、こうした循環の現代版はあり得ないのかとつい夢想したくなるのである。

2013.7.7
先週の日曜日、第4回の宗教文化士認定試験が行われた。今回の試験で宗教文化士が累積で確実に百名を超えることになる。この資格試験は通常の検定の類とは異なり、合格した人にはいくつかアフターケアがある。宗教文化についての学びはずっと続けて欲しいし、宗教文化を理解しようという心構えをもった人が、さまざまな分野で活動してくれることを期待するからでもある。
 社会を見ていると、少しずつではあるが、グローバルに経済活動を行う人たちの間に、自国や国外の宗教文化を学ぶことの重要性に気づく人が増えてきていると感じる。マスコミ関係者がもう少し意識を深めてくれればと思うのだが、最近はかえって事態は悪化しているようにさえ感じられる。杞憂であればいいのだが。

2013.6.23
 5月下旬に、久しぶりにかなり重い風邪を引いた。何よりも咳で夜眠れなかったのがきつかった。一週間ぶりにまともに眠れるようになったときは、ホッとした。一病息災というが、ときどき体を壊し、健康のありがたさを再確認するというのも必要なことかもしれない。
 2週間以上、声がしっかり出せなかったので、学生さんには申し訳なかった。でも不思議だったのは、マイクのない部屋で、「声を大きくできないので、聞きにくい人は前の方に座ってください。」と言ったのだが、後の方にいる誰も移動しなかったことだ。聞きづらいのを我慢したのか、意外に聞こえていたのか、そもそも聞こえてなくてもよかったのか、理由は分からない。
 とにかく復活したので、それはどうでも良くなった。

2013.4.21
 致し方のないことだが、つくづく大学は忙しくなったと思う。理由としては、いろいろな規則が増え、それに対応する委員会ができ、そのための会議が増えたというのが一つ。大学生活に適応できない学生に対するケアのようなものが年々増えているのが一つ。講義の評価とか、自己点検とかが課せられ、そのための作業が増えたことが一つ。挙げていくとまだまだある。
 時代の流れに沿ったものもあるが、中には自分で自分の首を絞めているようなこともある。
 これがいい方向に向いているように思えないのは、肝心な教育・研究の時間にしわ寄せが来ているからだ。読みたい本が読めるのは行き帰りの電車の中だけのような日が続くと、さすがに「これでいいのか?」と自問してしまう。「頭の回転が遅くなっている証拠だよ」と言われてしまえば、反論もできそうになく、なんとなく気が重くなりがちではある。

2013.3.20
 地下鉄サリン事件から、今日でちょうど18年だ。テレビは霞が関駅での黙祷の様子を短く流すだけで、もう関心はほとんど失ったかに見える。「事件を風化させない」という被害者の身内の人の言葉を流すが、さしたる問題意識も感じられない。
 といって、宗教研究者などもマスメディアを批判できるような立場にはない。これから何をすべきか、明確な指針を伝えうる人は少ない。
 ゼミなどを担当していて、当然のことながら最近の学生たちには事件のリアリティが欠如しているのを肌で感じている。だから、もし今後もこの事件を取り上げようとするのなら、どのようなことをやっていかなければならないかは、熟考を重ねなければならない。
 そうした思いもあって、『宗教と現代がわかる本 2013』(平凡社)では、この問題に深い関心をもつ4人で座談会をやった。「『オウム真理教事件』を大学生にどう伝えるか」というテーマである。むろん、明確な結論は出ない。だが、宗教研究者の誰もがこの問題から撤退するようなことになってしまったら、とてもまずい状況だと感じる。
 何が忘れてはいけないことなのか。それを問い、議論し、社会に発信するという作業は絶やさないための手立てを考慮中である。

2013.2.25
 「イー・ウーマンイブザイヤー2012」の議長部門での受賞者の一人に選ばれたので、先週土曜日に表参道にある本社での授賞式と祝賀パーティに行ってきた。短いスピーチをしたが、他の部門の受賞者の一人のスピーチで、けっこう印象に残るものがあった。宇宙飛行士になるべく訓練を重ねてきた男性の友人をもつ女性が、自分の考え方が変わった体験をめぐるちょとした話である。おおよその内容としか再現できないが、こんな話であった。
 飛行士としての最終関門であるヒューストンに向かった彼から電話があった。もし最終試験に受かったら宇宙に飛び立つ。万が一かもしれないが、命を失うことがあるかもしれない。でも、そうなっても、今のお前の明るい笑い声をこれからもなくすことがないと約束してくれという頼みであった。彼女はそうすると答えた。
 結局彼は最終試験に受からず、日本に戻ってきたというオチではあるが、何か心を打つ話であり、軽く眼がしらを押さえる人も見かけた。神学や教学の砦に固く守られた死後の世界についての教説とは異なる死生観と言ってもいいだろう。こんな気持ちで人生を送っている人に、どのような宗教的教説が必要になるのだろうか?

2013.1.20
 一日が早く過ぎる。一週間も早い。一か月もあっという間。だから一年も早い。正月を迎えたと思ったら、もう一月も下旬に向かっている。仕事が多くなったのは確かだが、脳の処理能力が落ちているのも間違いない。だから余計に時が経つのが早く感じられるのだろう。
 コンピュータのWindows7とXPを両方使っているが、XPの速度がやたらと遅くなった。皆そう言っているので、何か意図的なものを感じずにはおれないのだが、本当のところは分からない。
 その遅くなったXPが自分の脳の処理能力の劣化とついダブってしまう。能力に見合った演算を課すのが適切な対処法であるとは思っているので、いろいろ努めているが、自分の計画を超えて襲いかかってくるものもある。そういうときは、いわば天命として受け止めておくしかないようだ。
 一週間前に予報を裏切って突然関東地方に降った雪はいまだあちこちに残っている。青い空と白い雪とのコントラストは何度見ても不思議な魅力をもって心にはいってくる。それを眺めていると、しばし時は止まってくれる。
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◆2012年

2012.12.24
 職業柄、研究会、シンポジウムの類に出席して話を聞く機会は数多くある。15分聞いていただけで、それ以上じっと聞いているのが辛くなるような話もあれば、2時間ぶっとおしで聞いても、充実感で疲れが感じられないような話もある。たまたまであるが、ここ二、三日でその両者を体験したので、その差はなんだとあらためて考えたくなった。
 むろん、話術とか、テーマが練れたものかなどという要素も大きいが、どれほど強くそれを伝えたいと思っているかはとても大事である。しかし、それだけではダメである。どうすれば相手に伝えられるかを考えているかどうかである。
 技術を磨けばある程度は聞きやすい話にできるが、その人の奥深くから出てくる何かは、そう簡単に磨けるものでもない。話している人は、話そのものがもっている情報だけでなく、もっと違うものも伝えてもいる。いいセンサーをもっている聴き手は、自分でも意識せずそれを働かせているのであろうと思う。大学での講義とかゼミとかは、そうしたセンサーをたがいに磨く場でもあるが、どれほどの教員、学生がそのことを自覚しているだろうか。
 ともあれ、自分は、そうしたセンサーを磨きうる場を20代半ばから与えてもらっていたわけで、十分活かし得たかは別として、それはとても貴重なことであったと、近頃ひしひし感じる。

2012.12.16
 去る12月1日に東京大学で少林寺拳法部設立50周年のお祝いがあった。現状の説明などもなされたが、ある時期から拳法部にも女子部員がはいるようになり、今は10人ほどいるらしい。そうしたことを聞きながら、自分が主将をやっていたときのことを思い出した。一人の女子学生から部員になりたいという申し出があると聞いた。どうするか、決断は私にゆだねられたわけだが、結局そのときは断ることにした。
 それはさまざまな事情を考慮した結果であった。着替えはどうするか、合宿のときの部屋はどうするか、指導方法を男子部員とまったく同じでいいか。いろいろ考えて、現状では無理と判断した。実際その前の年の合宿でちょっとした事件があったことを先輩から聞かされていたので、それもいささか関係していた。
 こういう問題も、時代状況と、そのときの構成員と、そして判断する人間といった、いくつかの要因で決まっていく。今の女子部員の多さは、時代の変化もあり、経験の蓄積もあり、それなりのノウハウも蓄積されたのであろうとひそかに思った。智慧が蓄積されたような例をみるときはうれしいものである。

2012.9.27
 オンラインでアクセスできる「青空文庫」は大変ありがたい。著作権の切れたものが対象だが、まだ読んでない本が山とあるので、このように数多くの書籍を手軽に読めるような仕組みを作ってもらったことには感謝の限りだ。多くの人がボランティアで関わっているからこそ可能になることで、そういう人たちがいるということに文明の底力を見出すべきだと思っている。
 余力があれば、こうした文庫、あるいは点字書籍などの入力作業を手伝いたいとも思うが、当分は無理そうだ。しかし、こうしてできあがったオンラインの貴重な情報の宝箱について、学生たちに利用方法を教えるのも、今の自分ができるひとつの応援かなと、自己納得させている。


2012.8.16
 東アジアの国々とはこれだけ経済や文化の交流が進み、一世代前とは隔世の感があるのだが、領土問題となると、あっという間に旧態以前という雰囲気になる。これは縄張り争いという人間集団の有史以前からの習性に訴えるところがあるに違いない。カッとなる人が減ったように見えるところに、理性が若干影響力を増したようにも感じるが、こうした例を見ていると進化心理学の立場につい共感したくなる。
 100万年かかってできあがった脳の反応のパターンが、まだ数千年しかない文明時代に形成された脳の反応パターンに無意識のうちに食い込んでくるといった見方は、残念ながら領土問題にはぴったり当てはまる。恐いのは政治家の中に、まさにそのパターンの典型の人がけっこういることである。さらに言えば、あるときある理由で作られた境界線を守るのが政治の役割になっている限り、これは繰り返されるのであろう。
 太古の習性が現代的暴発へといたらないためには、この仕組みを心得た上で、お互いのつながりを深めるためのささやかな試みを続けていくしかないということになりそうだが・・・。

2012.7.30
 夏に調査をすることが多かったせいか、夏になると、なんとなくどこかに行きたくなる。国外でも国内でもいつもと違った世界、違った暮らしに接して、つい偏りがちな自分のものの見方を是正したいという気持ちになるのである。世界の情報が居ながらにして得られるのは嬉しいが、五感で把握する世界はやはり他者のフレームを通して得られる情報とは大きく異なる。関心を抱いたものを自分で確かめる機会が少なくなりつつあるのが残念なので、これからはなんとか挽回したい。今年は久しぶりの北京訪問の機会もあるから、この10年余の変化を少しでも肌で感じられればと思っている。


2012.7.21
 e-learningが少しずつ広がっているようである。遠隔地の人や忙しい人には便利なシステムだと思う。しかし、大学の授業をこれに替えたいとは思わない。同じようなテーマで毎年しゃべってはいるが、やはり少しずつ内容は変わる。それよりも、同じ年の同じテーマの講義でも、クラスごと、あるいは大学ごとに内容が変わってしまうことの意味が大事だと思っている。
 というのは、同じ科目名でも、8~9割は共通の内容になるが、1~2割ほどはクラスの雰囲気で変わるからである。その意味で「ライブ」なのだと思っている。自分が話していることに興味を抱いて聞いている学生さんが何割ほどなのかは、なんとなくわかってくるものだ。寝ている人は見ればすぐ分かるが、顔を向けていても、目の反応というのは各人違う。うつろに近いような目から、共感にしろ反発にしろ敏感に反応している目までいろいろである。
 敏感に反応している人が仮に100人中の数人程度であると、予定通りの内容になりがちである。これが2~3割を超えているのが感じられると、アドリブで加わる内容が出てくる。過半数が反応しているなと感じられると、自分でも思わぬことを話したりする。「これも語ってしまおう」という気持ちになるのである。そしてそいういう話には、聞く側もまた特別の反応をすることが多い。「エピソード記憶」のようなものができるのかもしれない。こういうことはe-learningでは生じない。
 その年の授業がどんな流れになったかは、試験の答案にも反映される。それゆえ学生の答案を採点しているようで、自分の授業の仕方を採点しているような気持ちになってくる。ここが言いたかったということに対し、自分なりの考えを展開させた答案が多いクラスがあった年は、そういう出会いの場であったことを感じ、少し嬉しくなる。

2012.6.7
 オウム真理教の元信者で逃亡していた菊地直子が逮捕され、その報道が連日流されている。でも何か違和感がある。何に焦点を当てているのか分からないものが多い。枝葉末節の事柄に焦点を当て、事件についてたいした下調べをしたとも思えないレポーターがしたり顔で話すという、1995年の事件当時とほとんど変わらない構図があちこちで展開されている。
いちいち評する気も起らない。
 冤罪があったときは、マスコミは大きく報じるが、自分たちの誤報や視点のずれには、滅多に反省はない。
17年前と変わったのは、ネット上での意見の勢いのすごさである。でも総じて無責任も半端ではない。
必要な情報の見分け方は、ますます難しくなってきていて、総合的判断というのが、どんな関数として表現すればいいのか、まずそこから悩みが尽きない。

2012.5.12
 ときどき講義の感想とか、質問とかを聴講している学生さんたちに書いてもらうのだが、今年は宗教に関して少し突っ込んだ意見をもっている人が多いような印象をもっている。かなり辛辣な意見もある。宗教に関する基礎知識は乏しくなる傾向もあるが、他方で宗教的な事柄について、既成の考えにとらわれない見方をするようになっているような気配を感じる。情報時代がもたらす影響がいよいよ顕在化してきたのかもしれないとも推測する。どちらに向かっていくのか、とても気になることがあるが、偏狭な他者を受け入れないような考えが増えているとは思わないので、政治家たちの議論を聞くよりは、はるかに安心感がある。

2012.4.30
 南カリフォルニア大学での国際会議がロスアンゼルスであった。ロスは1981年の日系人の宗教調査以来。ずいぶん久しぶりなのでいろいろ見たかったが、時間の制約でホテル周辺の宗教施設と郊外のメガチャーチを3つ見学するにとどまった。しかし興味深かったのは、非常に壮麗な教会が身売りに出されている一方、着々と信者を増やしている教会もあることで、その要因をいろいろ同行者たちと語り合った。
 ホテルの部屋のテレビで日曜日の朝5時台の番組を見てみたら、3つのチャンネルでキリスト教の宣教をやっていた。それぞれに工夫をこらしていてなかなか面白かった。

2012.3.17
 今週久しぶりに京都の伏見稲荷に行った。以前行ったときに比べ、明らかに参拝者が多い。スカーフをかぶった若い外国人の女性が数人いた。たぶんムスリムだろう。見ていると、手水舎の水を柄杓から飲んでいた。説明しようかと思ったが、まあいいかと見過ごした。山の途中では少し迷ったらしい外国人からは道を聞かれた。
日本人が外国で宗教施設を行くのと同じように、こうして神社仏閣に参拝する外国人が増えている。ふつうの人の参拝風景に相互になじむのが一番の宗教理解になるかもしれないと思った。

2012.1.30
 仲間の研究者にも、ツイッターで積極的に発言している人がかなりいる。自分はこれは性に合わないなと感じたので、参入していない。誰に向けているのか、次から次へと頭に浮かんだことを片っぱしから書きこんでいるかにみえる人には、研究や教育とのバランスをどうとっているのか聞いてみたくなることがある。
 普通の場合、今の大学教員は実に忙しい。学生に対する対応は以前と比べてはるかに細やかさが要求される。会議は増えこそすれ、減ることなど滅多にない。研究成果はきちんと公開することが求められる。入試関係の業務はほとんど一年間漂ってくる。
 もし、そういう環境の中でも絶えずこまめに入力を続けられているなら、その人のエネルギーがうらやましい。そんな環境にないなら、うらやむ必要はない。
 読みたい本が山ほどあるから、ツイッターに打ち込む時間があれば、1頁でも本を読みたいと思う。おそらくこれからもツイッターに書き込むとはないだろうなと感じる。もっとも、こうした発信が有効な職業ないし立場の人がいるから、有意義な発信だけはおさえるようと努めているつもり。

2012.1.22
 今日も雨の予報であったが、降らないようにと昨日念じていた。今日は日曜日で、貴重なジョギングの日だからである。念じたせいではないが、午前中、曇り空だったので、走ることができた。
 二十四節気では大寒にあたるから、寒さがピークになってもおかしくない時期である。小川の両側にある木々も葉っぱがなく、寒そうなたたずまいだ。しかし、なぜかその木々から、もうすぐやってくる春に備えた力強さのようなものを感じた。
 認知科学風に理解すれば、これは何年も体験している小川の両岸での光景が記憶に刻まれ、冬の光景に続く春の光景が自然に想起されているということだろう。
 それはそうとしても、それが感じられることの幸運というものにも心が向く。ほぼ7キロのジョギングコースを楽しめる健康が保てているという幸運である。小川の両側の木々の光景がさして変わることもなく存続できている、つまり災害もなければ爆撃もなかったというような幸運である。
 してみると、枯れ木から感じられるエネルギーは、主観的なものだが、でもある程度は客観的なものにもなりそうだ。

2012.1.4
 なんということもなく年が明けたが、そういう時の過ぎ方が一番いいような気がしている。思わぬ衝撃的な出来事に心ふさいだ日々もあったことを思いおこせば、なんでもないかのように過ぎていく時間というのは、実は貴重である。
忙しさや厳しさは、生きている以上、避けがたい。だが、心が張り裂けるような突然の出来事は、できれば起こってほしくない。
 手を合わせて祈ったからといって、そうしたことが避けられるわけでもない。
 しかし、それ以外にまたどのような方法があるかと言われれば、にわかには思いつかない。
「宗教と現代がわかる本」に最近の映画・DVDを紹介して、今回で5回目になる。毎回10本あまりの宗教関連の作品を紹介しているが、今回見たDVDで印象に残ったのは「ヤコブへの手紙」である。
 深い悩みとそれを抑えるかのようなたたずまいに、宗教の一つの結晶を見るような気がした。


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◆2011年

2011.12.18
 先月、アイフォンを購入し、どのようなアプリがあるのかチェックしている。いくつか面白い発見がある。共同して進めてきた研究成果などをアプリにすることも計画しているが、教育法にも大きな影響を与えそうな気がする。
社会の動きが早いのか、自分の反応が遅くなったのか、両方だろうが、変化への対応には眩暈がしそうになることがある。
 しかし、それを楽しむ気持ちを失わずにいたいと思う。

2011.10.23
 ウィキペデイアに代表されるようなフリーのネット辞書が増加している。辞典・事典というものがもっていた信頼性が今後どうなるのだろうかと考えさせられることが多くなった。すごく便利なこともあるが、9割正しくて1割間違っているというような厄介なものも少なくない。
 書籍のデジタル化自体はどんどん進むであろうが、誰が書いたかわからない、そしておそらく著作権無視で書かれたウェブ上の辞書類は、どういう運命をたどるのであろうか。
 2005年に『現代宗教事典』を刊行した直後に、ネット上の事典との差異がどこにあるか強く意識した。そのとき、若手の研究者と、ネット事典の将来をめぐる議論をしたのだが、事態はその後急速に展開している。
長年研究して正確を期した事典の内容がところどころ改変(?)されてネット事典に断片的に利用されていたりするのをみると、なんとも言い難い気持ちになることがある。
 似たようなことは活字媒体でも存在したが、ネットの場合、その度合いは半端ではない。それは研究者でない人が参画することも一因で、研究者同士のルールはまったく無視されることがある。
 やがて淘汰がなされるものならいいが、たぶん「悪貨は良貨を駆逐する」というふうに広がりそうな気がする。


2011.10.9
 Steve Jobsの死は、遠くないとは予測されていたものの、やはり大きな衝撃をもって受け止められた。彼の個人史にそれほど関心をもっていたわけではないが、死去した直後からいろいろな情報がネット上に掲載された。英文のも大量に読めるから、雑誌の特集を待つまでもなく、彼の人生について何が語られているのか、おおよそのところがほぼリアルタイムで知れる。
 こういうときに、ネット時代は情報環境を大きく変えたのだとあらためて実感する。
強烈な人生だったと言わざるを得ないが、しかし、他方にはのんびりと人生を送る人もいる。ネット時代は驚くほど多様な人生があることを知れる時代でもある。自分はどれに近くなるのか。参考にするものが増えた時代と思えばいいのだろう。


2011.9.9
 「自分が考えていることを、その場で決められた時間の中で他の人とシェアしないのは、プロとして犯罪に近い」
これはある世界的に活躍するデザイナーの講演での発言らしい。
 犯罪呼ばわりはともかく、正論なのではと思う。
 少し言いすぎの傾向がある自分としては、思い切ったこの発言には拍手を送りたいところ。
 会議では黙っていて、あとの飲み会で愚痴をこぼす、ツイッターでうさを晴らす。そういう人が日本は多い。それは摩擦を避ける賢明な方法かもしれない。暴発を避ける仕組みなのかもしれない。
 しかし、いつも黙っていて、いつも陰で愚痴を言うというのは、やはり情けないし、それで外国の人とうまくつきあっていけるとは思わない。
 でも、きっとそうそう変わらないな。

2011.8.27
 節電に振り回されたかっこうの夏であった。二週間にわたり研究室の冷房が止められ、部屋は蒸し風呂状態。幸いもう一つ仕事のできる部屋があったので助かったが、ガラスが多い建物の弱みをつくづく感じさせられた。
この太陽熱をうまく利用する仕組みがないわけはない。いろんな知恵を出しあえばいいのに、誰かがどこかでそうした試みをつぶそうとしているような気配も感じる。
 地球上の生命は、つまるところすべて太陽エネルギーによって生きている。日々到来するエネルギーを直接利用するのがもっとも効率よく、自然である。そういう姿に近づけようとするのが叡智ではないのか。

2011.7.24
 最近Googleがなんとなく使いにくい。いろいろ機能が増えて、便利になったし、地図などは重宝することが多い。しかし、ストリートビューなどはどうかと思うし、何か裏にあるのではないかと勘繰りたくなる機能が増えた気がする。あらゆる情報をユーザーから集めて何をたくらんでいるのだろうという疑いである。
 ここまでシステムが大きくなると、いろいろな類の人々が虎視眈々と狙うことになるだろうとは想像がつく。気がついたら、そういうことだったのか、とならなければいいという心配が、杞憂であることを願いたい。

2011.7.17
 大学院生時代にヨーロッパ一人旅を経験して以来、ヨーロッパの鉄道旅行はお気に入りの一つになった。6人が座れるコンパートメントを一人で占め、鉄道沿いに流れる川を眺めていたりすると、なんとなくと心がなごむ。
ライプチヒ大学に招待されたのを機に、ふとプラハまでの一日旅行を思い立った。チェコはまだ足を踏みいれたことがなかったので、多少強行スケジュールではあったが、日帰りの列車の旅を組んだ。
 ドレスデンで乗り換え、それから2時間10分でプラハ。地図がなかったので、勘をたよりに市内を歩いた。ところどころに大きな教会があったが、ほとんど観光施設化していた。聞けば、チェコは無神論がかなり多いとか。
 帰りの列車に乗ろうとしたが、到着ホームの掲示がなかなかでない。15分くらい前になって、ようやく数字が出た。掲示板を見詰めていた人たちがぞろぞろホームに向かった。プラハ駅の分だけ、チケットにホームの番号が書いてなかった理由がここで分かった。

2011.6.4
 まったくもって時間的余裕のない毎日が続いている。つい心も余裕がなくなりがちだが、このところ行き帰りの電車の中などで聴く落語が心をほぐしてくれる。面白い話にはつい口元がゆるんでしまって、要注意である。漫才ブームだが、消耗品の感じがする漫才に比べ、落語は名作の耐久力が違う。これは昔から思っていたことで、高校時代、国語の宿題の作文で「漫才より落語が好きだ」という内容の文を書いたら、先生が面白いといって教室で読み上げたことを思い出した。人間の感性は歳を重ねてもそう変わるものではないということか。


2011.5.1
 震災の影響で、首都圏の大学の講義もかなり不規則になっている。通常とおりもあれば、2週間遅れ、連休明けに実施という大学もある。授業時間を30分早めた大学もある。補講の曜日を独自に決めたところもある。これで困るのは非常勤の教員である。それぞれの大学は自分の大学のことしか考慮せずに予定を変えるから、非常勤の教員は、変則的な時間割りや補講の要請に、やりくりを迫られる。
 こういうことを、それぞれの大学で誰がどうやって決めるのか知りたいものである


2011.4.24
なんとも頼りない内閣と、次の選挙での議席回復しか念頭になさそうな政治家を眺めていると、いっそ次の選挙では、これまで議員であった人は立候補できないようにしたらどうだ、という妄想さえ湧いてくる。
でも気づくべきなのだ。もう政治家や官僚などがビジョンをもって国を動かしていける時代は終わったのだと。社会は複雑になりすぎた。誰かの頭ですべてを整然と把握などできない。
日頃からあるパーツで誠意をもってやっている人たちを信用して、その力をつないでいくやり方をもっと洗練させるべきなのだ。
何事であれ現場で苦労して、諸問題と取り組んでいる人たちが相談すれば、無茶な結論や馬鹿馬鹿しい方法や、人を人とも思わないような議論は生まれないはずである。
それにしてもテレビの常連コメンテータの質の悪さはなんとかならないであろうか。科学的な問題を議論するときくらいは、芸能スキャンダルのときとは異なったメンバーにしてほしいと思うのだが、それすらできないテレビ局が政治家を批判する構図は、「五十歩百歩」の典型例である。

2011.3.20
今日は国学院大学の卒業式である。16年前の卒業式の日に起こったのが地下鉄サリン事件。
今年は東北関東大震災の影響で式典は中止になり、卒業証書の授与だけになる。かわいそうな気がするが、被災地の報道に連日接していると、一応日常に近い生活を送っていられるだけでも幸せと言わざるをえない。
しかし、こうしたときに頼りになるはずのマスメディアがいかに脆弱な足腰か、日頃から十分推測されていたことだが、あらためて実感した。
緊急事態のときの解説者、コメンテータもまた玉石混淆である。玉と石をどうやって見分けたらいいのだろう。私は話の具体性を一つの基準にしている。数値や状況、地理的関係など、諸条件について具体的に示しながら、それに応じた分かりやすい解説を付している人をひとまず信頼する。
そうした人がごく少数であることに気づく。中には、こうした状況を「利用して」、日頃の自説の「宣伝」に使おうとする人がいる。
いわんや天罰発言など論外である。
そんななか、日頃の子どもたちに対する適切な訓練が実を結んだ話など、少し救われる。正確な知識と決断力・実行力という、古くから言われている大事なことが、ここでもあてはまる。
どんなに備えても、それを上回るのが、自然の怖さである。
教訓を伝え、学び、少しでもリスクを減らす努力をするしかないのである。
何かがすべてを解決するという発言は、まずもって疑った方がいい。

2011.2.27
 小学校の頃、近くの川内川の河原で大相撲の巡業があった。明日は地元出身の力士の取り組みがあるというので、勝つだろうかとドキドキしていた。その様子をみて父親が「地元の力士は勝つことにきまっているんだ」と言い聞かせるように説明した。
半信半疑であった。翌日見に行くと、地元の力士は皆勝った。とくに人気のあった幕内力士は土俵際まで追い詰められながら、見事うっちゃりで勝った。
力士の名前は鶴ケ峯。得意技の一つがうっちゃりであった。
筋書きがあるのだとは、小学生でものみこめた。
だから、昨今の八百長問題は何をいまさらという気が強いが、しかし、本場所なら節度は守ってくれとは言いたくなる。
とはいうものの、研究者の世界で八百長的なものがないかというと、かなり怪しい。
明らかにつまらない学会発表に、「素晴らしい発表を聞かせてもらって」などという枕詞を添えるのは、仁義なのか、八百長なのか。
長々とあきらかにお世辞と分かる言葉を並べる時間があったら、さっさと肝心な質問をしたらどうだと思う私のような人間にとっては、八百長くさく思えるのだが、日本社会ではそれは社交儀礼の範疇なのだろう。
論理があちこちで不整合な発表を批判して、その人の評価がさがったらいけない、就職の妨げになったら悪いなというふうに思ったら、思いやりの八百長相撲と、どれほどの違いがあるのかなと考えたりする。
ずるさと思いやりの境界は曖昧で、分けようとしてもそうきれいな線が引けるわけではあるまいと思う。

2011.2.6
日曜日には近くの野川をジョギングする。以前は水もあまりきれいでなく、雨が長く降らないと水無川みたいになることがあったが、このごろは水はすごくきれいで、いつも適度に流れている。きれいな川は、心をなごませてくれる。
鹿児島で生まれ、高校まで鹿児島で育ったが、小学校の1年の夏から2年の夏まで1年間東京に住んでいたことがある。そのとき、多摩川で水泳をした記憶がある。どのあたりかは覚えていないが、住んでいたのが武蔵境だったから、今の調布あたりだったのだろう。
高度成長期には、日本全国で多くの川が汚された。とりわけ工場廃水はひどかった。さんざん悪影響が出てから、行政が関与することになったが、同じパターンを繰り返さないようにしなければならない。その智慧を育てなければならない。
もうしばらくすると、野川には桜が咲き誇る。その準備をしつつ寒さに耐えている木も、同じような思いで川をみつめているような、そんな錯覚に一瞬襲われた


2011.1.19
ある宗教の熱心な信者だが、約束をあまり守らない人と、宗教は信じていないが、約束をきちんと守る人のどちらを信用するか。個人的には後者である。日本社会では多くの人がそうであろうと思う。
 なぜわざわざこんなつまらない比較をするかと言えば、自分の宗教に関わることだと熱心に考え行動するが、一般社会とのつながりはそうでもないという人が、けっして少なくないからである。つまり一種のダブルスタンダードが無意識のうちに作用しているのである。
 信仰仲間との関係は大事にするが、一般社会の人への配慮はぐんと弱まるということだと、電車で丁寧な言葉だが、しかし、でかい声で携帯電話を使っている人と大差なくなる。直接的利害関係をもつ相手への配慮はしているのかもしれないが、そうでない人には無思慮だから、そういう行動ができるのである。
 ダブルスタンダードが顕著な信仰者は、身の周りには多くはない。でも皆無ではない。信仰者にはちと点が辛くなるが、これも一種のダブルスタンダードになるのだろうか???


◆2010年

2011.1.9
 「宗教と現代がわかる本」(平凡社)で、毎回「映画・DVD」の項目を担当している。年末にも何本か映画とDVDを観たが、いい俳優によるいい内容の映画というのは少ないものだと感じる。
仰々しい宣伝がなされる映画はえてしてつまらないものと、昔から言われているが、それは今も同じだ。だから思わぬ佳作に出会ったときはうれしい。
  ドキュメンタリーは、ドラマでは描けないは迫力というものをもっているが、今回は「精神」や「NAKBA」から、それを感じた。

2010.12.23
office2003に慣れていたので、2007に変えないでいたが、周りが2007が多くなって、ワードのファイルもdocxで来ることが多くなったので、ついにofficeを全面的に入れ替えた。ワードは別のソフトのように変わっているので、使いづらいこと。これまでで一番大きな変化である。
便利になったところもあるのだが、なぜこんなに変えなくてはいけないのかというような思いのが方が強い。
長く使っている人を無視しているとしか思えない。
コンピュータとは四半世紀の付き合いで、この手の腹立たしさは幾度も味わったが、こんな理不尽がまかり通るのも、あまりにマイクロソフトの寡占状態が続くからだろう。
驕れる者は久しからずと言ってみたいのだが、いつになるのだろうか・・・・

2010.11.15
先月、東北大学に集中講義に行った。そのおり、広瀬川の河原で行なわれた「芋煮会」につれて行ってもらった。味噌味のものと醤油味のものとを食べたあとに、「ハラル芋煮」を食べた。インドネシアからの留学生がいたので、彼のために肉を除いた野菜だけの芋煮にして、勝手に「ハラル芋煮」と名付けたわけである。
仙台には3年前にモスクが建てられたと聞いた。そこで、そのインドネシアからの留学生に案内してもらった。メッカの方向が部屋の角にあたっているという、ちょっと変わった造りであったが、狭い土地を有効に使うため、やむなくこのようにしたのだという。
3人に話しを聞いていたが、面談中にお祈りの時間になったらしい。面談を中止して3人は夕方のお祈りを始めた。
祈らない自分は、そこでは一人だけ異邦人の心地に近かったが、別に不快ではなかった。

2010.10.17
 秋が一番好きなのに、なかなか秋らしくならない。落ち葉を踏みしめながら歩くのは、なぜか心が安らぐ。けれど、今年は夏が去りがたいかのように、暑さが居残っている。肌が少しひんやりするような空気の中を歩くと、いつもは気付かない何かに気付いたりする。追いまくられるような毎日だからこそ、そんな季節がいつにもまして待ち遠しい。

2010.9.7
 ちょうどお盆の頃、カナダのトロントでの国際会議に出席した。開催者が用意したナイアガラの滝ツアーは、それはそれとして、宗教学関連の大会であるにもかかわらず、宗教施設の見学ツアーは皆無であった。市内の教会をいくつか見たが、プロテスタント教会も賛美歌の歌詞をパワーポイントで映し出すなどの光景を目にすると、あらためて時代の流れを感じる。
 その一方、日本人研究者12名で行ったメノナイトの教会や墓地は印象深いものがあった。近代化に背を向け、伝統的な様式を守ろうとする人たちと、すぐそこまで激しく進出しているIT産業。人間の営みの悠久さ、多様さ、そうしたものを同時に見れて、とてもいい体験であった。


2010.7.17
 「一個人」という月刊誌があるが、さらに「一個人for WOMAN というのが創刊になった。特集が「開運 日本のパワースポット案内」である。その関連で、「神社って何? 神社基本の「き」」というコーナーがあって、少し解説のようなものをした。
 パワースポットはともかく、神社や神道に関しては、ときどき根拠のない説がテレビや雑誌であっという間に広まったりするので、ある程度は発言しておいた方がいいかなと思って関わった。
 しかし、このパワースポットブームは、いつまで続くのだろう。国学院大学内にある神社まで、いつの間にか、パワースポットらしい。ブームの消費は情報時代には加速されるのであろうか。

2010.7.9
ドイツのオーバーハウゼンの水族館「シー・ライフ」にいる蛸の「パウル君」が、ワールドカップでのドイツの勝敗をすべて当てたとにわかに話題である。三位決定戦はドイツ、決勝はスペインの勝ちと予言したようだ。
占い好きの人は飛びつきそうな話しだが、ある仮説を立てると、パウル君の選択はきれいに解ける。パウル君は示された国旗の中ではスペインのものが一番好きで、次がドイツのものであるという仮説である。
今回の予言のいずれかでも外れたら、この仮説は正しさが増す。むろん予言が当たっても、仮説として成り立ちうる。
パウル君としては、いや水族館としては、当たった方がいいだろうが、果たしていかなる結果に。
まぐれ当たりにしても、すべて当てるのは、256分の1の確率。テレビで偉そうにしゃべる占い師より、はるかに高い的中率といわねばなるまい。

2010.6.12
今日は国学院大学・研究開発推進機構の主催で「日本文化を知る講座」の第36回が開かれた。500人以上収容できる大教室が聴講者で満杯に近いような状態であった。主催者側として短い挨拶をしたのだが、なかなか感慨深いものがあった。
というのも、この講座は1990(平成2)年9月に第1回を開催しているので、今年でちょうど20周年を迎えたのである。それにこの企画はもともと私が発案したもので、当時の日本文化研究所の比較的若手の専任教員が意欲的に取り組んで、ほどなく軌道に乗ったという経緯があるからである。
第1回から今日まで、4週にわたって4人の講師が講演するという形式が保たれている。発案者であったから、当然初回の講師の1人として講演したが、他の3人のうちの一人はもう名誉教授である。時間の流れを感じる。
2007年に研究開発推進機構が開設されると、日本文化研究所はその一機関ということになり、「日本文化を知る講座」も機構全体の事業ということになったが、名称は従前のものを継承することになったのである。
担当者が変わっていき、趣旨もやや揺れ動くなかに、存続も危ぶまれる時期もなくはなかったが、新たな世代が工夫を凝らして、より魅力的な企画とし、こうして一つの区切りを迎えたのかと思うと、密かな喜びを感じる。

2010.5.9
エレベータの中には開閉ボタンがある。文字ではなく、矢印で区別するものがある。開くが←→で、閉じるが→←といった具合である。ところがこれがさらに簡略になって、三角形になっているのがある。開くのは左右反対方向に三角形のとがった部分が向いており、閉じるのは二つの三角形が中央を向いている。
分かるといえば分かるのだが、急いでいるとき、一瞬どっちが開くだったかなどと、ためらうときがある。これは自分だけでなく、何人かの人から同じような感想を聞いたことがあるから、アフォーダンスという観点からはあまり適切でない記号だと思う。
矢印ではなく三角形にすると何のメリットがあるのかよく分からないが、この記号を使ったエレベータはよく目にする。
小さいことだが、なるべく多くの人にわかりやすいようにという視点が欠けているような気がする。

2010.4.25
昨日の朝日新聞の夕刊を見ていたら、「漢字 ビンゴで親しむ」という見出しで、薩摩川内市立育英小学校の先生の授業が紹介されていた。「花まる先生 公開授業」というコーナーだから、子どもたちに楽しみ国語を教える先生の工夫の話しである。
でもこの記事にすぐ目が行ったのは、実はこの学校が自分が卒業した小学校だったからだ。
当時は川内市立育英小学校という名称。各学年1クラスずつしかない小さな学校だった。記事を見るとクラス替えがあったということだから、今は2クラス以上あるということだろう。
小学6年の2学期の半ば頃にこの学校に転校した。この学区に引っ越したからである。1クラスしかなかったから、皆1年生からの顔なじみ同士。クラスで紹介される頃には、全校生徒が転校生がやってきたことを知っていた。1年に1回あるかないかの「事件」だったのだろう。
変な時期に突然あらわれた転校生に、しかし同級生はやさしくしてくれた。休み時間や放課後、狭い校庭で、毎日のようにソフトボールや相撲をやって楽しんだという記憶がある。
あのとき仲間はずれにされていたら、性格も少し変わったかもしれないなと、ふと思ったりした。

2010.4.18
一時間目からの授業だと、ラッシュアワーさなかの電車となる。毎日こうした電車で会社に通って、ストレスがたまらなかったら不思議だ。都市に人口が集中し過ぎた結果と言えばそれまでだが、何か手はないものだろうか。
インターネットが普及し始めた頃、在宅勤務が増えたり、郊外に本社を置く会社が増えるから、ラッシュアワーも緩和するといった見方をした人がいたが、今のところ、そのような気配はあまりない。
時差通勤の勧めも一時ほど言われなくなった。ぎゅうぎゅう詰めを経験している方が、生きているという実感を得やすいのだろうかと、変な推測さえしたくなる。
癒しとかスピリチュアルといった言葉が都市部ではとりわけ行き交っているように思えるが、これらの言葉が息抜きの意味を含んでいるとしたら、ラッシュアワーも癒しブームの牽引役の一翼をになっているやもしれない。
サマータイムより時差出勤をもう一度練り直して欲しいと思うのは、素人考えだろうか?

2010.4.3
 先日、NHKテレビで「細胞外マトリックス」の紹介があった。切断されてしまった指の切断面に、豚の膀胱から抽出した粉(膀胱壁にある物質のうち細胞以外の物質らしい)をつけると指が再生したというのである。切れたとかげの尻尾が生えてくるイメージと言えば、分りやすいであろうか。
この物質を細胞外マトリックスと呼ぶのだというが、かつてSF的であった話が、現実のものとなっている。幹細胞を刺激して、切断された部分から、その面にある細胞情報をもとに、失われた細胞を再生していくという理屈は理解できた。
 副作用などはまだ十分分っていない。だが、すでに豊胸術に採り取り入れている国もあるという。この技術が進歩すると、どういうことになっていくのであろう。指など失われた体の一部の再生には期待が大きいだろうが、むしろ別の方向で応用され、新たな倫理問題が発生するかもしれない。
倫理的問題といえば、同時に紹介された「救世主きょうだい」の方がシリアスだ。難病の子どもを救うために、親が細胞を移植できる子どもを産むことになる。臓器移植の倫理問題にも連接し、賛否両論が激しくなりそうな事柄だ。
医療の進歩は、悪魔的所業への展開の可能性を常に孕んでいる。でも、人間はけっして歩んでいる道を引き返さないに違いない。

2010.3.21
 大学院の修了式、学部の卒業式が終わり、2009年度もいよいよ終わりだ。ゼミの学生が卒業後どうなるかはやはり気になる。厳しい社会になってきたけれども、前向きに取り組んでいけるように、折に触れて話したつもりだが、1つでも2つでも、参考になることがあればいいなと思う。
 こちらが真剣に話したことは、きちんと受け止めてくれる学生もいて、嬉しい気がするが、同時に教育という場に関わっている人間の責任の重さも感じる。
 研究所から学部に移ったのが2002年なので、卒論や卒業レポートを指導するようになってから、まだ数年である。しかし、自分なりに少しずつ手ごたえを感じてきている。柔軟な思考ができる年齢の人たちとの語らいができるということは、大学に勤めていることのもっとも楽しい部分と思える。


2010.2.10
 トヨタのプリウス事件は、産業界には大衝撃だろうが、一連の報道で、企業のトップの人が人間の感覚に対してもつ認識に少し唖然とした。
 というのも、車のブレーキが1秒ほど効いていないように運転する人が感じるという現象について、当初ある役員が、「ブレーキを踏み増せば安全に車は止まる」ので、ブレーキの性能に欠陥はない、という意味のことを主張していたからである。
 その後、欠陥を認め、アンチロック・ブレーキ・システム(ABS)の装置が原因となったが、ブレーキに対して運転者がもつ感覚を非常に軽く見る見方を、自動車会社の役員が公言したということは、ひっかかる。
 企業防衛のあまり、ユーザー軽視などと批判されるのであろうが、ブレーキが一瞬でも効かないように感じるということは、運転時の人間の認知ー反応にとって重大事であるという認識の欠如があったとしたらおそろしい。
事件の衝撃ゆえに、思わず我を忘れての発言ということであるなら、まだ救われるのであるが・・・。


2010.1.17
 村上春樹の『1Q84』は昨年もっとも売れた本だそうだ。宗教的なテーマも込められているというので、そのうち目をとおした方がいいのかなと思っていたら、若草書房から『1Q84スタディーズ』というのを出すので、宗教学の立場から描いてみないかという誘いがあった。
 以前『アンダーグラウンド』について、ちょっと書いたことがあったのだが、どうにもすっきり書けなかった。それもあって、ためらいもあったが、読んでから決めようと思って、しばらく行き帰りの電車で読んだ。
 最近個人的にちょっと関心をもっている一連の本があるのだが、なんとなく、それらとつながるところがありそうな気がして、書くことに決めた。
 「見かけから自由になれるか?―信仰が紡ぎ出す「二つの世界」」というタイトルになった。
 売れた小説についてエッセイを書くのは、便乗のような感じで気が進まないのであるが、内容的には宗教を研究対象としている人間として、考えてみてもいいテーマが含まれているという気がする。
刊行されたものをコピーして何人かに送ったのだが、ちゃんと読んでくれた人は、やはりそれなりに私の意図を感じてくれたみたいだった。もっとも、小説自体を読んでいないと、分かりにくいと思うので、人によっては、送ってもらっても、少し迷惑なエッセイだったかもしれない。

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◆2009年

2009.12.31
 最近、雑誌の神社に関する特集記事についてコメント、監修する機会が相次いであった。1つは『R25』というリクルートが出している雑誌、もう1つは『一個人』というKKベストセラーズが出している雑誌である。神社への関心が高まっているということであろうか。
 今年の初詣は1億人近かったという。一人で何箇所にも行く人がいるから、実際は7割くらいの人が出かけていると思うが、このところ参拝者は増える傾向にあるのは確かだ。
それで、ただお参りするだけでなく、少しは神社に関する知識も増やしたいという気持ちが出てきたのだろうか。
 他にも理由がありそうな感じがしているのだが、身の周りの宗教文化を見直そうということなら、けっこうな話である。
宗教に絡むことを、意図的にあやしげな方向にもっていって、それをビジネスにしようとする人もいるので、少しでもきちんと考える人を増やしたいと、ちょっと大げさに言えば、そんな気持ちから関わった次第。

2009.12.13
 今年は本を刊行する機会が多かった。これはたまたまである。一冊の本を仕上げるのはそれなりの時間がかかる。『現代世界宗教事典』の翻訳のように、4年かかったものもある。これまでにも5年あるいはそれ以上の年月をかけてできあがった本がある。
 1年で終わる予定が2年になり、3年になりということもあるので、執筆を始めた時期はばらばらでも、似たような時期に刊行されるということはよくある。
 でも本というのは面白いもので、刊行されたばかりの本は、読む人には「できたばかりの本」であるが、書いた側からすると「屍状態」である。執筆しているときが生きている状態、動かせる状態で、刊行されてしまうと、死んだ状態に近い。
少なくとも気持ちの上でそうなることがある。
妙な話ではあるが。

2009.11.15
 昔、会得した技術が、思いがけなく役立つことがある。学生時代、印刷屋のアルバイトをやってきた時期がある。大学紛争で奨学金がストップとなり、貧乏学生の身には、それがたちまち死活問題となった。友人の紹介で、印刷屋で働くことになった。免許をもっていたので、そのうちに、できあがった品の配達などもやらされることになった。四段変速のダットサンを乗り回す日々となった。
 この経験はかつてアメリカで調査したときにも、ずいぶん役立ったのだが、先日いろいろ経緯があって、ちょっと大掛かりな事務所引越しをやらざるを得なくなった。事務機器の搬送で、2トントラックの運転をやることとなった。若い研究員たちはペーパードライバーが多い上に、オートマチックの車の運転しか経験がない。5段変速のギアなど怖いわけで、昔とった杵柄となった次第。
 感覚を取り戻すのに30分くらいかかっただろうか。でも慣れてくると、なつかしのクラッチとギアである。左手左足を使っての運転は、やっぱり充実感がある。最初に身に付けた身体感覚というものは、いつまでも影響をもつものだと、あらためて感じた。

2009.10.21
 この頃は大学の教員が高校にでかけていって、出張講義をする例が増えている。先月、自分自身もその初体験をしたが、今日、講義を受けた生徒たちからの感想文などがまとめて送られてきた。わざわざやってきた先生の講義に悪い感想は書けないだろうと思うが、具体的に面白かった点などをきちんと書いてあって、なかなかしっかりしていると感じた。
講義は90分で、いつもの授業より長かったはずだが、熱心にノートをとり、パワーポイントの画像にもちゃんと反応していた。
大学の先生だというので、緊張していたのかもしれないけど、「頑張ったね!」と、こちらからも拍手したい気分であった。

2009.10.19
 先月末に友人がまた一人この世を去った。一緒に事典の編集などをして、長いつきあいをさせてもらった人だ。朴訥な人で、飾り気がなく、信頼できた人だった。
 何か新しいことを始めたとき、どういうわけか足を引っ張ろうとする人もいるのだが、彼には常に応援してもらった。何をやろうとしているのか、ちゃんと分かってくれていて、ありがたかった。
 最後にあったのは、6月の学会の折。乾杯の音頭をとってもらい、割合普通に会話もしていたのにと、あっけなさに言葉もない。
 告別式では、もう一人の友人が弔辞を述べた。心のこもった詞であった。

2009.9.22
 大学の3号館が完成した。これで雨の日でもすべての校舎に傘なしでいけるようになった。ありがたい限りだ。
ただ、生協の書籍売り場の狭さには少々がっかり。また地下一階でなんとなく行きにくい構造になっている。
 「近頃の学生は本を読まない」などという人が多いが、読ませようという心遣いが薄い。
 生協の人も不満そうな顔だった。
 当然だ。プランを立てた人に、なんと思っているのか、問いただしてみたい。

2009.9.9
 夏が終わった。選挙も終わった。しかし、インフルエンザは終わらないようだ。
後期の授業が始まってどうなるのか、なかなか予測がつかない。
 大学は渋谷に3号館がまもなく完成する。学生がより集中することになるので、残念ながら、ウィルスにとっての好条件となりそうである。
 新しい建物の下見に行ったが、動線がいまいちである。学内に新しい建物ができるたびに思うのだが、人がどう動くかの想像力があまり豊かでない人が設計しているのではないか。
 スペースが限られているのは分かっている。だが、エコを掲げる割には階段が著しく使いにくい建物もあって、エレベータの使用頻度がどうしてもあがる。工夫できないものかと疑問に思う。
 話してみると、けっこう多くの教員がそのように感じているようだ。

2009.7.24
 4月に大塚和夫さんが亡くなって、今週お別れの会があった。ネット上ではあまり固有名詞は出さない方針だが、彼の急逝は広く知られていることだから、今回は実名にしたい。
 彼とは長いつきあいで、かつてはよく議論もした。本当に研究者らしい研究者だった。彼が書いたものなら大丈夫だろう。そういう信頼感が置ける人だった。
 忙しい中にも頼みを聞いてくれた。2002年に国学院大学に神道文化学部ができることになったとき、宗教学関連も充実させたいと、非常勤講師には各領域の第一線で活躍しているをお願いした。イスラーム関連では、ダメモトと思って大塚さんに頼んだら、本当に多忙であったのに、発足当初の期間を引き受けてくれた。
 彼がどんなに優れた研究者か分かってくれた学生は多くはなかったようだが、イスラームに関心をもつ学生はその後も少数ながらいる。彼に無理を言ったことが、なんらかの種をまいたと思いたい。
彼はまさに彼らしく生きた。ただ、それにしても、貴重な人を失ったと悔しく思うのは、記憶の中でしか彼と会えなくなったという嘆きゆえである。

2009.6.20
 一時期は新型インフルエンザの感染者が1人でてもニュースになっていたのに、この頃はパタッとなくなった。実際は感染者はいて、休校にしている学校もあるのだが・・・。
「ニュースになれば、起こったことである」ということになるのだろうか。「ほどほど」という言葉が、昨今の日本には必要だと思うことがよくある。

2009.5.17
 新型インフルエンザに関するニュースが毎日報じられる。情報は多い方がいいのだろうが、あやふやものの横行は、かえって本質を見失わせる。
 少しは工夫したらと思ったのが、世界地図に感染者が現れた国を赤くして見せるというやり方。これだと1人でも感染者が出ると赤くなるので、アメリカ、カナダなど面積の広く国に感染者が出るとものすごく広まっているという印象を受ける。これだと仮にシンガポールとかエルサルバドルといった面積の小さい国に多数の感染者が出たとしても、地図上ではほとんど目立たない。
 立体グラフにするなどして、どこが絶対数が多いのか、あるいは比率が高いのか、分かるようにできるのに、面倒なのだろうか。それともそういう発想がないのであろうか?

2009.5.10
 本を刊行したとき、がっくりくるのが誤植を発見したときである。ゲラで確認したはずなのに、なぜか本になったとたん見つけるという間違いがある。これは私だけではないようで、人間の目の特性にも関係しているのだろう。
今回は、われながら初歩的なミスをしてしまった。『映画で学ぶ現代宗教』でパウロを「12使徒の一人」と書いてしまった。使徒の一人ではあるが、12使徒には含まれない。書くとき、ペテロとふと混同して筆がすべったのだろうと思い起こしているが、それでも校正のとき気付く機会はあった。それを見逃し、見本をもらって開いたとたんにそこに目が行って気がついた。
 編者であったので、他の人の原稿のチェックにずいぶん時間がとられた。その分自分の原稿のチェックはついついおろそかになった面は否めない。しかし、そんなことは言い訳にならない。
 もう終わったことは仕方ないので、今、共訳中の本のゲラをじっくり見直すことにした。これも他の人の訳のチェックにかなりの時間がかかり、自分の担当箇所をなかなか見直す時間が乏しかった。
そこでもう一度チェックしたら、単純なミスを見つけてしまった。「ふー」と息をついた次第。

2009.4.5
 日曜日にはジョギングをするが、今日は桜見物を兼ねてのジョギングとなった。ちょうど満開であったし、風もなく穏やかな日でラッキーであった。運が悪い年だと満開なのに雨で走れなかったり、仕事があって走れなかったりする。
ちょっとした川の両側を走るのだが、行きと帰りで違う風景が楽しめる。樹の下からの眺めと、少し離れたところからの眺め、それぞれに趣があるからである。
 この頃、ジョギングのスピードも少し遅くなったかなと感じていたが、周りの景色を楽しみながら走るという意味では、スピードが遅くなるのもまあいいかと思う。若干負け惜しみ的ではあるが・・・。

2009.3.30
 大阪と東京で、大学院生の修士論文や博士論文をもとにした研究発表会に参加する機会があった。よく調べているものから、ちょっとまとまりに欠けたものなど、さまざまであるが、印象的なのは女性研究者のバイタリティーである。発表の数も多かったし、調査もしっかりしたものが多い。
安全面でもかなり注意を払わなければいけないだろうなと思うような地域にも足を伸ばしている人もいる。こうした人たちが将来その能力を十分活かせるような場があればと思う。
力があってもなかなか職に就けず、と思えばろくな研究もしていない人がなぜか職に就いていたり・・。
でも、これはどこの世界にでもありそうなこと。
やる気があり、実際いい研究をしている若い人たちにも、自分はせいぜいささやかな応援を送るぐらいしかできないのだが、それが少しでも励みになってくれればと願う。

2009.3.8
 本を作るとき、出版社の側が執筆者校正と別に、外部に校正を委託することがある。本人の気付かない間違いを指摘してくれるので、これ自体はありがたいことである。
しかし、最近厄介なことがよくある。校正者がウィキペディアを参照しながら校正する場合が増えているようなのである。
ところがウィキペディアはときどき間違いがある。校正者はその分野の専門家でないので、ウィキペディアの間違いが分からない。
 そして執筆者に問い合わせることもなく、ウィキペディアのとおりに訂正する例があるのである。
この辺からは、出版社の質にも関わることであるが、これはまったく厄介な事態が生まれたことを物語っている。
私はまさに今、その厄介な事態に直面しているのだが、まだ気付いたので幸いである。
私の友人は、自分の校正がすっかり終わってから、出版社の方が勝手にウィキペディアの記事にあわせて内容を変えてしまったという腹立たしい経験をもっている。できあがった本を開いてギョッという、悲しい話である。
つまるところ、出版社、校正者の情報リテラシーがなっていないということなのだが、たぶんこういう目にあっている研究者は少なくないと推測する。
情報リテラシーが十分できた出版社(たぶん少数派)以外で出版する場合、目下のところ自衛しかない。友人のような事態に陥らないためには、編集者に承諾なく字句を変えないでくれと、うるさく言うしかない。
そういう時代に生きているのである。

2009.2.23
 新年だ、と思っていたら、2月も終わりに近づいている。
追いかけられるような毎日を過ごすことは、決していい人生ではない。
ゆっくり呼吸していたいのだが、年度末というのは、なかなかそれを許さない。
忙中閑あり。これがせめてもの最近の目標だ。


2009.2.3
 横綱の品格とか、もっともらしくしゃべるテレビのコメンテータは、自分の品格をどう思っているのであろうか。
 およそ少しでも品格を保とうという気持ちがある人は、誰が見ているか分からないテレビの番組で、感情的に人を罵倒しないであろう。
 でも、一番の性悪はそうした番組を作る人たちである。ろくでもないことを言うに決まっている人を、毎朝登場させているのであるから。それで仮に社会的トラブルの遠因を作ったとして、どう責任をとるつもりか。
おそらくそういうことを考えようともしないのであろう。
 政治家や官僚の悪行など、もっと徹底的にやるべきことには、コメンテータもありきたりの批判を述べるだけ。
そんなのは小学生だって言えるよと言いたくなるようなものが多い。
 つまりは腰が引けているのだろうな。
 弱きをくじいて、強きを助ける。そんなスタンスが見え隠れするコメンテータはさっさと降板させて欲しいのだが、テレビ局は、きっと過激な方が面白いぐらいに考えているに違いない。

2009.1.24
 気がつくと1月も終わりに近づいている。寒さが緩んだり、急に襲ってきたりで、周りに風邪の人が多い。自分も年末年始に喉をやられてちょっと辛かった。風邪とかインフルエンザはウィルスと人間の戦いだが、どんな薬やワクチンを作っても、この闘いに終りが来ることはないだろう。
 次々と新手が出現するコンピュータウィルスとの闘いもどうやら同じみたいだ。自然界も人間の心も、神に弄ばれているのだとつい思いたくなる。
 コンピュータウィルスを作り出している人の動機はさまざまだろうが、作る人間はいなくなることはないだろうと予測される。人間社会から戦争はなくならないだろうという予測と同様だ。
ウィルスは宿主が絶滅すると元も子もないので、宿主を適当に痛めつける。コンピュータウィルスもコンピュータ自体が使われなくなるとウィルスが使えなくなるから、そこまでのものは作らないということになるのだろうか。


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