仏教系新宗教の登場の意味
(2000年、仏教タイムス掲載)

 二〇世紀の日本の仏教の流れをみるとき、きわめて数多くの仏教系新宗教が現れたことが特筆される。仏教系の新宗教は一九世紀後半にも生まれたが、本門仏立宗にしても国柱会にしても、僧侶もしくは元僧侶の指導で組織され、宗門の改革運動的な側面が強かった。しかし、二〇世紀前半に登場した霊友会とその分派教団、あるいは創価学会、真如苑といった教団も、リーダーは最初から俗人であり、在家仏教とも大衆仏教運動とも呼ぶべき性格のものであった。もはや僧侶を実質的リーダーとしない運動が数多く生まれ、その一部は大教団となった。このことは、日本仏教史上きわめて重要な意味をもっている。
創始者たちの世代も興味深い。霊友会の創始者久保角太郎が一八九二年生まれ。仏所護念会の創始者関口嘉一が一八九七年生まれ。創価学会を実質的に拡大させた二代会長戸田城聖と妙智会会主の宮本ミツが一九〇〇年生まれ。霊友会のもう一人の創始者小谷喜美が翌一九〇一年生まれ。真如苑の創始者伊藤真乗と、立正佼成会の初代会長庭野日敬が一九〇六年生まれ。
こうした人々はほぼ明治後半に生まれている。明治末期から大正時代にかけての社会を背景に育った世代ということになる。維新期に導入された諸制度が、フル回転してくる時期である。初等教育はほぼゆきわたり、資本主義は本格化してくる。近代的な生活形態が都市を中心に広まっていく。そんな時代であった。彼らにより創始された宗教運動は、活動が戦後に比べて格段に不自由であった時代に、おおよそ足場固めの段階にあったものが多い。信教自由、政教分離が基本原則となった戦後に、それぞれ勢力を大きく伸ばしていった。
在家仏教運動という性格をもつ新宗教が、この時期に輩出したことは、日本仏教が近代化に対応しようとして生み出された状況ともとらえられる。人々は僧侶の説明や儀礼にあまり依存することなく、自分たちで先祖供養や経典の意味を解釈し始めた。また、法座とか座談会、あるいは霊能者養成といった形で、信仰の継承者を生み出していく手段を独自に生み出したわけである。
このようなことがどうして起こったのか。さまざまな視点からの解釈がありうるが、宗教社会学的に考えるなら、近代社会の特質がこうしたことを生み出した一因となる。都市化、産業化が進み、人々の生活形態は変わった。地縁的・血縁的な結びつきの度合いが弱まった。また初等・中等教育が大衆化され、人々はしだいに宗教をそれまでとは異なった角度から目で見るようになった。独自で運動を展開するノウハウを比較的容易に手にすることができるようになった。僧侶集団が、運動を組織化したり、近代化のなかに新たな目標を提示する上で、不可欠な存在ではなくなったということである。在家仏教運動の隆盛は当然の結果であったかもしれない。
 さらに、こうした教団のなかには、日蓮の教えを重視したり、数ある仏典のなかでも法華経をとくに重視するものが大半を占める。この点は日本の近代化のあり方ともいささか関係していると考えられる。二〇世紀前半は、戦争を繰り返すなかに、国家意識の形成が人々の間に、強力に推進されていった時期である。そして、変貌する生活に対処する具体的な知恵が求められた時代でもある。そうした背景を考えると、日蓮と法華経の教えが中核になったというのは、かなり頷けるものがある。
 在家仏教運動的な新宗教は、今日では一定の形態を確立したと言える。最近注目されるのは、これとは少し性格の異なる新しい動きが見られることである。もはや日本の伝統的仏教宗派とはほとんど関わりのない新しいタイプの運動が出現しはじめた。GLA、幸福の科学、オウム真理教などである。これらは在家仏教の枠を越えている。伝統仏教宗派との関連性が薄く、さらに仏教以外の要素も多く取り込まれている。
それぞれの伝統宗教との連続性が希薄で、さまざまな宗教伝統の要素を組み合わせている宗教を、私はハイパー宗教と名づけた。そうした傾向の強いものが現れはじめているのを感じる。この背景には、人々の感覚がハイパー性を強めていることがある。伝統的な仏教宗派とのつながりさえ弱まっていく傾向は、情報化とグローバル化が進行していくときの副産物と考えている。

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