「 年 報 」 の 来 し 方 行 末

 『東京大学宗教学年報』が10号目を迎えた。何号まで続くか心配であったが、3号雑誌で終わらず、まずはめでたしというところか。鹿児島弁では、かさぶたのことを「つ」と言う。傷が癒え、かさぶたが自然にはがれることを「つが取れた」と表現する。1つ、2つ、3つと数え、9つの次は、「とお」である。つまり「つが取れる」のである。10年とは、かさぶたという庇護が取れ、新しい皮膚の細胞が外界と接触するそんな年数であると、中学3年のときの担任の先生がしゃべっていたことを思い出した。義務教育が9年で終わることの意味についての話であった。

 してみると、年報も「つが取れた」ことになる。実は、前々から、もし年報が10号まで続いたら、なぜ年報を発刊しようという気になったかについて書こうと思っていた。そんなわけで、少々の頁をお借りすることにする。

 一部の人はよくご存じであるが、私は助手の在籍年数が長かった。7年9ヶ月半。最長不倒距離という有り難くない形容詞がつくことになった。9ヶ月半とは半端な数字だが、学部は3年3ヶ月、修士課程は1年9ヶ月、博士課程は1年2ヶ月半というのが、私の経歴である。これは半分は東大紛争のあおりが原因で、あと半分は、私の人生につきまとう半端さの象徴と思っている。

 それはさておき、その長い助手時代に、研究室の状況を眺めながら、私なりに何とかしたいと思っていたことがある。助手の分在で、宗教学会の改革など密かに画策したが、これは既成宗教の改革にも似て、なかなか困難と感じあきらめた。他方、院生の研究状況については、「ポスト修論」というのが、一つの課題であると感じていた。修士論文までは目的が明確であり、皆そこそこに充実した顔をしていた。しかし、博士課程となり、いよいよ自分の力で道を切り開くとき、どうすべきかのモデルは、多くの院生には、あまり明確に描かれていないように見受けられた。原典購読会というのを結成したのも、そういう状態を何とかしたいという思いからであった。この購読会を始めた事情については、『時と人と学と』の中で書いておいた。

 1982年に国学院大学日本文化研究所に移籍した。すぐさま研究所主催の国際シンポジウムに駆り出されたものの、助手としての雑務から解放された爽快さは、隠しようもなかった。しかし、その一方で、長くお世話になった研究室に、少しは恩返しをしなければという気持ちがあった。何ができるか考えたとき、雑誌の発行を思いついたのである。大学院生に研究を公刊する機会が乏しく、それが博士課程で目的が散漫になる一つの理由ではないかと考えたのである。

 雑誌発行となれば、まず問題となるのは資金である。研究室にそんな金がないことはよく承知していた。先生方や学生院生諸君の協力のもと、生協のレシートを集めては、その還付金で扇風機や暖房器具を買っていたような状況であった。ここは嘲風会のお情けにすがるしかない。藤田(富雄)先生、脇本先生、その他何人かの先輩諸氏に構想を打ち明けたところ、きっと皆支援してくれるに違いないという反応であった。

 そうすると、今度は人である。助手が中心になれば機能的には違いない。だが、助手の雑用の多さは身にしみて感じていたから、それは避けようと考えた。編集委員会は、若手OBと大学院生から構成することにし、何人かに企画を相談した。月本氏や島薗氏なども、研究室で学術雑誌を出したらいい、という意見を以前からもっていた。こうして練った原案を、九州大学での日本宗教学会(1982年)の際の嘲風会の席上で図ったところ、全面的なご賛同をいただいた。

 初代の編集委員は9人であった。当時主任教官であった柳川啓一先生を形の上での編集長とし、実際の事務は、石井研士、河東仁、島薗進、関一敏、月本昭男、藤井健志、山崎美恵の各氏、それに私で分担した。どんな雑誌にするか、いろいろ議論を重ねた。最初は別冊にするということは考えていなかったが、嘲風会の内輪の話と学術的部分は分けた方がいいという意見が寄せられ、結局2冊に分けることとした。今となってみれば、このスタイルで良かったと思う。

 別冊は、嘲風会の会員誌であるが、本冊の方は、学術誌であるから、それにふさわしい内容にしなければと思った。そこで論文の他、書評、新刊紹介のコーナーも設けた。一部の原稿には書き直しを求め、一定の水準を保とうという意志を示した。新刊紹介はけっこう便利であったが、やる側の労力が大変で、何号かのちに中止となった。これは致し方ないであろう。

 私は言い出した人間であるので、3年間は責任をもってやるつもりであったし、実際そうした。しかし、それ以上はあえて関わることを止めた。特定の人間が長く負担を負うような構造は望ましくないし、多くの人が関わりをもって、新しいアイデアを注いで欲しいと思ったからであった。だが、若干の見込違いも生じてしまった。助手の負担にはならないようにと配慮したつもりだが、結局そうではなくなってしまったようだ。十分予想されたことではあったが、これは申し訳なく思っている。若手OBや大学院生が中心になって編集するという方針だったのであるが、こういうあまり得にならない作業は、どうも尻込みする人が多いようである。

 しかし、編集作業というのは、研究者にとって体験して悪いものではないと私は思う。他人の書いたものを、批判する目を養いながら読む訓練ができる。一人が仕事を遅らせることが、他の人にどれ位迷惑をかけるかなど、学問には直接関係ないことを、身をもって知ることも大事である。学問は日常生活とかけ離れた空間に漂っているわけではない。日常生活の感覚を把握しえてこそ、人間研究は可能である。雑務もまた人間研究と思わなければ、宗教研究など覚束ない。

 とにもかくにも、この仕事を継承してくれる篤志家が絶えなかったことで、ここまで続いたわけである。編集にたずさわった方々に感謝しなければならない。表紙もやや見栄えのするものとなり、英文のタイトルもつくように改善された。工夫のあとが見られることは嬉しい。

 さて、これからであるが、まだまだ改善すべき点は多い。版型を小さくして、どこかの書店に置けるような装丁にするのも1つの手であろう。ときには、テーマを設けるのも手であろう。書評の反論は派手にやってもらうのが面白い。特別企画も随時やっていいだろう。手作りの身軽さ・利点を、十分活かしたらいいのである。

 それから、別冊にはなかなか面白いエッセイや意見が掲載されている。嘲風会の会員だけが楽しむのは、少しもったいないような気がする。ある程度量がたまったら、1冊にして出してみるのも1つの方法ではあろう。なお、決まった時期に出すというのは、信用を得る上で大事なことである。年1回の刊行物が、数ヶ月も遅れるようでは様にならない。

 本冊の方は、宗教学の若手研究者の勢いを図るバロメーターだと、私は勝手に解釈している。だから、若手のエネルギーに合わせて、内容もスタイルも変わっていけばいいのではなかろうか。一方、別冊の方は、主として嘲風会会員の交歓の場ということになろう。当分は、このスタイルを踏襲して、嘲風会の温かみを維持するのがいいのではないかと感じる。よりよい雑誌にするため、スタンドからではあっても、できる限りの応援は惜しまないつもりである。 
           (1992年12月記)
 

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