日本文化研究所OA革命裏話     

 昭和58年の一月に、國學院大學日本文化研究所は国際シンポジウムを開いた。「アジアの近代化と民族文化の発見」というテーマで、R.ベラ、P.バ−ガ−というすでに名の知れた社会学者のほか、韓国、フィリピン、シンガポ−ル、タイ、インドネシア、インドのアジア各国からも意気盛んな学者が参加した。

 会議の期間中は、緊張はするものの、それほどの苦労はない。むしろ、その前後が大変である。一年以上にわたる準備もさることながら、会議の結果を紀要として出版するというのも、これまた気の重い話である。しかし、ともかくこれは業務である。当時、研究所に移って一年目であり、その実情に詳しくなかった私は、個人的にまとめたかった仕事に優先させて、これを定められた期間中に刊行しなければと、けなげな決意をもっていた。長く時間をかけて業務を遂行した方が、はたからは大変な仕事を抱えていると評価されるのであると気付くには、少しばかり研究所在籍の日が浅かった。

 英文で出されたペ−パ−を日本語に訳する作業にはいるころ、ワ−プロの便利さが急に目についてきた。これは是非購入して欲しい。そう思った。すでにそのとき、宗教学研究室にはワ−プロが購入されていた。NECの「文豪」であった。これを宗教学会として購入するときにも、田丸先生がいくらかためらっていたのを、絶対買うべきだと、とある酒席で強調した記憶がある。そうして一足さきにはいった研究室のワ−プロを試しに使ってみたところ、予想以上に便利であった。すでに英文タイプは使いこなしていたこともあって、最初から、手書きとほとんど同じ速度で打てることが分かった。

 早速、研究所の薗田主事の説得にかかった。ワ−プロの必要性を頭では理解したものの、大学との関係がどうのこうのと、しばらく煮え切らない態度の主事であったが、他にも、導入に賛同する人が出てきて、ようやく、その年の夏購入となった。ところが、ワ−プロは形を変えた筆であると再三主張したにも拘わらず、主事の独断によって、しばらくは研究所の中でもっともうるさい事務室の薄暗い一角で、ワ−プロのディスプレ−と向かい合うはめとなった。なぜそうせねばならかったのか今もって分からぬが、要するに、事の本質が当時の主事には分かっていなかったのである。

 翻訳の仕事は、ワ−プロを使ったおかげでずいぶん楽になった。翻訳にはワ−プロを欠かせないというのは、もはや常識となっているが、このとき、私は身をもって痛感した。ワ−プロの次は、いよいよコンピュータの時節の到来である。当時、趣味的にポケットコンピュータなどを買って、科学研究費等の会計計算に利用していたこともあって、早くビジネス用のものを購入して欲しいと念じていた。運のよいことに、研究所には宇野正人氏というこれまたコンピュータに異常なほどの興味を示す人物がいた。更に運のよいことに、昭和58年度には、コンピュータの導入を前提としていた科学研究費が認められた。そしてパソコンの主流となりつつあった16ビット機のPC9801Fを58年の暮れに購入した。

 元来数学が好きであった私は、早速BASICの修得を本格的に始めた。少しでもコンピュータのマニュアルを読んだことのある人なら経験していることだが、一般にマニュアルの文章はきわめて分かりづらい。日本語をまともに勉強したことのない人が書いているのではないかと思われることがしばしばである。ともかく二ヶ月の独学の結果、なんとかプログラムが組めるようになった。学生に対するアンケ−トの集計・分析も自作のプログラムでやれるようになった。また、各宗教の都道府県別の信者数の違いを図示するプログラムを作ってみたりもした。これは、しかし、まだ個人的趣味の段階であった。

 そうこうするうちに、宇野氏がパソコンに関するほとんどすべての情報を収集してくるようになった。私は、自分の仕事に必要な限りにおいて道具としてコンピュータを利用すれば良いという考えであったので、役に立ちそうなソフトが出たら、それを購入するという方針であった。けれども宇野氏は、凝り性であった。ゲ−ムソフトから、人工知能に至るまであらゆる範囲に興味を示し、研究所でも自宅でもコンピュータとにらめっこであった。雑誌に掲載してあるゲ−ムのプログラムを入力してそのゲ−ムを楽しんでいると聞いたときは、これは半分病気だと思った。彼は、自分で楽しむばかりでなく、周りの人々に対し、いかにコンピュータが有益な機械であるかについて「折伏」を始めた。彼は声が大きいばかりでなく、話術もきわめて巧みであった。ソフトやハ−ドについての知識は本物のセ−ルスマン顔負けであった。そして何よりも、彼自身がコンピュータの篤信家であったから、折伏の成果は、昭和30年代の創価学会を凌ぐ勢いであった。何となくその気になって買ったものの、結局ほこりをかぶっているというケ−スもあるが、宇野氏によってコンピュータの利点に開眼させられた人もちゃんといる。

 BASICから、MS−DOSへの移行をいち早く察し、研究所におけるデータベ−ス作成をMS−DOSによって行うよう主張したのも宇野氏であった。ところで、宇野氏の功績の一つは、折伏の相手の一人に主事を選んだことである。理解の程度はどうあれ、主事がコンピュータ信者の一人に名を連ねたのは、有り難いことであった。こうして研究所におけるコンピュータ導入は活気づいた。伝統を重んずる國學院大學が、まだワ−プロ利用さえためらいがちであった頃、わが研究所はコンピュータの必要性を声高に叫んでいた。私は学内のコンピュータ委員会の委員でもあったので、研究所の業務の特殊性を主張して、今年度、今ベストセラ−機の一つである、VMII2台の購入を果たした。現在、研究所のセミナー室には、ワ−プロ一台とコンピュータ四台が並んでいる。来年のコンピュータ関係の予算には、目下、他の学部からいろいろ要望が出されているので、一年違いでラッシュに会わずに済んだことになる。

 ワ−プロとコンピュータは、ほとんどの日が百%の稼働率である。コンピュータに向かっている人は、宇野氏を除いて皆40歳未満である。宇野氏も始めたときは30代後半であった。だからコンピュータとあらたに取り組める年齢としては40歳が一つの断層を作るというのは、確かなように思える。

 さて、こうして日本文化研究所は、國學院大學におけるOA革命の先陣を切っているのであるが、果たしてこうした機器類はどうしても必要なのかどうか気にかかる人もいると思うので、私見を添えておこう。私が昨年出した、『海を渡った日本宗教』は、ワ−プロによって作成し、原稿をフロッピ−で出版社に渡したというものである。それで通常より一ヶ月早く刊行できた。校正もずいぶんと楽であった。研究者にとって、ワ−プロは必需品になることは間違いないであろう。論文を書くという作業に美的な価値を見出している人(例えば、自分の筆跡に酔いしれる人)などは別として、多くの人は書くという行為そのものは単純作業であり、なるべく省力化されたら、その方がいいと思っているに違いない。その手段としてのワ−プロの効用は絶大である。

 この場合、論文を書いて、書き捨てにするタイプの人、つまり、一回書いたら、もうあまりその論文は顧みないという人は、小型のワ−プロでもよい。だが、一度書いた論文を何度か利用する人、あるいは、講義ノ−トを毎年少しずつ変えていくというような人は、多少無理をしても、記憶容量の大きい、ビジネス用のワ−プロを買った方がいい。時々、私的な手紙文をワ−プロで書いている人がいるが、これはもっとも下手なワ−プロの使い方の一つである。私的な手紙にワ−プロを用いた方がいいのは、あまりに個性的な字を書くので、しばしば文意を誤解されてしまうという人に限られる。また、全面的にワ−プロに頼るようになると、漢字が書けなくなるというのも本当である。気をつけた方がいい。

 次にコンピュータであるが、これは向きと不向きとが割合はっきりしている。コンピュータはデータ整理に抜群の能力を発揮するといっても、入力作業は人間がやるのであるし、分類の基準もその人が立案するわけである。本来カ−ド作りの下手な人や嫌いな人が、コンピュータとコンビを組んだからといって、そうそう事がうまく運ぶものではない。また手書きのカ−ドなら、途中でやめても、それなりの使い方があるが、コンピュータの場合、それまでの労力がすっかり無駄になる危険性も大きい。また機械はどんどんレベルアップするから、それに対応する手順も考えておく必要がある。つまるところ、元来不精な人には、コンピュータはまったく福音ではないということである。むしろ「富める者はますます豊かに」という方向で作用するのがコンピュータなのである。だから、下手にいじくって、結局お手上げになるよりは、最初から近寄らない方がいい。そのうち、コンピュータを自由に操る人がどんどん出てくるから、必要とあれば、そうした人に相談するなり、依頼するなりした方がずっと賢明である。もっとも、趣味でという向きには、御自由にどうぞ、という言葉しかない。若い世代の人はこの辺のことは、自然に了解していくと思われるが、中年以上の人で、コンピュータの幻影に恐れを抱いている人もなきにしもあらずであるので、駄弁を連ねた次第である。(S.61.10)

エッセイへ戻る