「理解」という名の「誤解」(一)

 いささか年月を遡りますが、高校時代のことです。国語の授業を聴きながら、しばしば抱く疑問がありました。それは詩歌、小説など文学作品の解釈に話が及ぶときのことでした。担当の教師は、一つひとつの作品について、それを詠んだ、あるいは書いた作者の気持ちをすいすいと説明していきます。

 曰く、「この詩は、失意のどん底にあった作者が、帰るに帰れぬ故郷を想い、旅先で作ったものである。」

 曰く、「この句には、生きとし生けるものへの、限りない愛情がこめられている。」

 もっともらしい顔で解説する教師も、おそらく秘かに教師用虎の巻か何かで知識を得ていたのでありましょうし、そうしたことは、まあ日本全国おおかたの教室で似たようなものであったろうと思います。国語教師としは、ともかく授業を進めなければなりません。万葉集の歌から現代外国文学まで扱わなければなりません。あまり得意とせざるところは、虎の巻に頼るのもまた致し方のないことでありましょう。

 生徒の方とて、大学受験の科目だから仕方ないや、とか思いつつ聞いているものも少なくありません。多少とも権威のありそうな解釈文は丸呑みこみにして覚えた方が無難と考えたがります。自分で深く考察しようという気は滅多に生じません。第一その余裕がないのです。できあいの解釈を、これまた吟味せず、パック買いするというのは、今の受験体制下では止むを得ぬ面があります。

 しかし私の疑問は、教師の説明の仕方に対し生じたのではなく、もっと根深いところに源がありました。一体、文学作品によって、作者のそのときの心持ちが本当に分かるものであろうか、という疑いであったわけです。そもそも、人は自分の思っていることを、真実そのまま表現するものだろうか、といううたぐりがありましたし、なぜ、解釈が一義的に決められなくちゃならないんだ、という憤懣もありました。

 今は、どのように一つひとつの作品に特定の解釈が与えられ、それが広く支持されるようになるか、その仮定が理解できるようになったつもりでおります。一つの会釈法の底にある、歴史学的、心理学的、あるいは社会学的といった研究の蓄積ということを知るようになったからです。しかし、それでも高校時代漠然と抱いていた、この疑問の根幹部分の所は放擲しようという気にはなりません。それというのも、そのときは予想もしなかった形で、やがて自分自身が、この問題と深くかかわる事柄で悩む破目になったからなのです。私が大学で「宗教学」を専攻するようになったのは、ちょっとしたきっかけによりますが、その「宗教学」にいろいろある研究法のうちでも、フィ−ルドワ−ク(現地調査)までやるとは、当初ほとんど考えておりませんでした。しかし、まさにこのフィ−ルドワ−クにおいて、ある人の語る言葉の裏の意味、本音と建て前の違い、コミュニケ−ションの困難さ、などをしみじみと味わうことになりました。

 大学院に進んだ昭和四六年、あるゼミで初めて調査らしきものの体験をしたのであります。福島県の会津田島祇園祭の調査でした。東武線で鬼怒川温泉へ、さらにバスを乗り継ぎ、五十里ダムを左に見ながら県境を越えて行くと、まもなく田島町にたどりつきます。その頃人口一万六千ほどの町でした。ここでの祇園祭の構成と町内組織との関係を探るのが、調査の主目的であったらしいと記憶しております。

 こうしたフィ−ルドワ−クの場合、たいてい、面談調査、参与観察、質問紙調査といった調査法を用いるのが常であります。こう書くとひどく学術的響きがありますが、実際は、現地でいろんな人とおしゃべりしたり、酒を飲み山車を押して祭に加わるまねごとをしたり、ときには用意したアンケ−トに答えてもらったりするということです。

 とりたてて特別のことをやるわけではありませんが、それがまたそう簡単とも限りません。先生や先輩から若干のオリエンテ−ションを受けたのでありますが、所詮は畳の上の水練。いざとなれば、そのときそのとき、自分の判断で事を運ぶしかありません。

 初めての調査ですから、少しばかり緊張もし、意気ごみもありました。でも初年兵の悲しさ、無駄な動きの方が多かったような気がします。何軒かの家を訪れて聞きました。

 「この祭の準備はいつ頃から始めるんですか?」

 「あなたの役割は何ですか?」

 「祭で一番大切な儀式は何ですか?」

 しつこく聞いても、田舎の人はおおらかです。よっぽど忙しくない限り、急に現れた若者のどうでもいいような質問に答えてくれます。のみならず、お酒を出してくれ、おいしそうな肴までつけてくれます。祭の調査は実に楽しい、そう思ったものです。

 身欠き鰊をほおばりながら、濁り酒の杯を重ね、その合い間にノ−トにちょっとしたメモを書き留める、てな態度でやっているうち睡魔が襲ってきました。おぼつかない足どりで宿屋に戻り、そのまま真昼間から大鼾という失敗もありました。

 夜になりました。町のメインストリ−トに山車が並びました。参与観察だ、とか何とか言って、ノ−トを放り出し、山車を押しました。だんだん興に乗ってきて、下駄をぱかぱか鳴らしながら走り回りました。「踊る阿呆に見る阿呆」ではありませんが、祭のときは、御輿をかついだり、山車を押したり、とにかく参加するに限ります。

 ひとしきり動き回り、かなり汗も出たので、道の端でひと休みしました。そこには、昼間話を聞いたおじさんおばさんが何人かいました。もうずいぶん前からの顔見知りのような気がして会釈をしました。その中の一人のおじさんがふと言いました。

 「この頃、祭をやる若い者が少なくなって困っているんだ。難しい調査もいいけど、この祭を宣伝して、若い者がわっと来るようにできんもんかね」

 吐く息は酔っていましたが、語る心持ちは真実と感じました。虚をつかれた思いがしたものです。

 自分たちの都合だけで、この町にやってきて祭を見物し、評価を与えようとしていたのだ、ということに一瞬気が付きました。メインストリ−トと言っても、この町でも唯一の通りらしい通りをごろごろ動く山車を、同じように眺めながらも、この町に生まれ育ち、ここが生活の場である人々は、都会の大学からふらっとやってきた学生とは、全く異質な思いを携えていたのです。

 でも、このときの私は、この虚をつかれた思いの理由を深く追及しようとはしませんでした。一つの見えない「溝」とでも言うべきものをちらっと感じたにとどまりました。歌手のレベルが下がったこともあって、作家までが歌手きどりで歌えるようになった頃、流行った歌がありました。

 「男と女の間には、深くて暗い河がある………」

 「溝」というのは、この歌の「河」に近いものであったかもしれません。男が女になれない(最近はそうでもないようですが)、あるいは男が女を理解できない、ということほどには絶望的でないかもしれません。

 しかし、一つの祭をはさんで、学問的関心からこれを第三者的に眺めようとする学生の側と、一年の生活のサイクル中にこれをしっかりと組み込んでいる人の側との間には、やはり言い様のない深い「溝」があったようです。

 少しばかり大袈裟な言い方をしたかもしれません。いくらか色あいは異なっても、似たような話はどこにでもころがっています。教師と学生、雇主と労働提供者、芝居をする人と見る人、サラリ−マンと農業従事者、幼少期にひどい飢餓体験をした人と贅沢三昧に育った人、等等、列挙すればキリがありません。

 なのに、なぜフィ−ルドワ−ク中に生じる調査者と被調査者とくにインフォ−マント・(情報提供者)との関係にこだわるかといいますと、フィ−ルドワ−クは社会科学ないし人文科学の一研究法として、人間をより深く理解するためになされるという、学会における一つの通念があるようだからです。この通念はひょっとしたら、大変不遜な前提の植えに成り立っているのではないか、と最近つよく感じるようになってきました。

 会津田島は、ほんの序の口でありました。それ以後、だんだん本格的な調査へ足を踏み入れ、しかも自分で責任を持つ度合いが強まるようになりますと、この「溝」をめぐる問題はさまざまな形をとってあらわれるようになり、ときには重く心にのしかかることがありました。

(1982年9月執筆)

 

エッセイへ戻る】_