「理解」という名の「誤解」(三)

 仮に連想ゲ−ムで、「ハワイ」というヒントが出されたなら、どのような答が帰ってくるでしょうか。多分、「新婚旅行」「フラダンス」「アロハシャツ」、そして相撲好きの人なら「高見山」。

 飛行機で約七時間。新幹線でいえば、ほぼ東京−博多間の所要時間で到着できるこの常夏の島は、こうした明るい連想を誘うにふさわしい条件をいくつか兼ね備えています。

 ワイキキの浜辺に足を運べば、いろいろな人種の人々が、文字通り色とりどりの肌を露わに、太陽を浴び、波とたわむれています。少しばかり土地の事情に詳しくなった人が、ハナウマ・ベイまで車を走らせれば、美しい色模様の魚を掴まんばかりになりながら、静かな入江に身を漂わすことができます。

 往き交う人々の顔にはくつろぎが見られ、陽気な雰囲気が訪れる客を包みこみます。ついつい財布のヒモもゆるみ、飲みほすお酒の量も多くなろうというものです。

 観光の島ハワイは、しかし、日本人にとっては、別の面で歴史的に深いつながりをもってきたところです。

 明治元年以来、多くの日本人が、一旗あげようと、太平洋の荒波を越え、このハワイに移民してきました。何がしかの財を蓄えて、故郷に錦を飾った人もありましたが、少なからぬ人々は、やがてこの島々に永住を決意しました。こうして日本人移民と彼らの子孫は次第にその数を増し、今日では、二十万人を越える日系人がハワイ諸島で生活を営んでいます。これはハワイの全人口の三十%近くを占めると言われています。

 こうした日系人の宗教生活や宗教意識などを探るための共同調査が始められたのは、昭和五十二年の夏でありました。海外調査と言えば、アフリカの辺鄙な村や太平洋上の孤島での悪戦苦闘というイメ−ジが強いものですから、調査対象地がハワイと知った友人たちの多くは、盛んにうらやましがったものです。やはり、ハワイ=観光地、という連想が強いことを示していると言えましょう。

 実際に調査を開始しますと、ハワイが観光地であるという事実は、どんどん後方に退き、代わりに、移民の島であるということの意味が、次第に重みを増してわれわれに迫ってくるようになりました。

 ホノルルの町を東西に横切る高速道路、通称「フリ−ウェイ」があります。これと交叉して、島の北へ延びるパリ・ハイウェイがあります。フリ−ウェイからパリ・ハイウェイにはいると、道の両側に多くの日本宗教の教会や教団本部が並んでいます。

 また、フリ−ウェイの沿道、とくにその中央部あたりにも日本宗教が点在します。

 主にこの二つの高速道路(と言っても別に料金はとられません)を利用しながら、ハワイで布教活動を行っている「日本産」の宗教教団の本部を訪問するのが、最初の仕事でありました。

 開教使(海外布教している僧侶の呼称)のいでたちが、白い半袖シャツに黒ネクタイであるのを珍しがったり、仏教寺院の内部構造が、キリスト教のそれとほとんど同じであることが多いのに気付いたり、あるいは、ボン・ダンス(盆踊り)に黒人や白人の浴衣姿を見つけて、さすがハワイと思っているうちに、最初の一、二週間は過ぎ去ってしまいました。

 初めて接して新鮮な印象を与えた光景も、何度か目にすると、やがて見慣れたものへと変わります。そうやって多少落ち着いた目で、再びハワイの日本宗教を見渡しますと、異国に移り住みながらもさほど変わらなかった日系人の宗教生活という面もまた、うっすらと浮かび上がってくるのでありました。

 ハワイにも神社があるということは調査前から分かっていました。しかし、それが日系人社会でどのような役割を果たしているのかは、余り明確な予測はつきませんでした。

 仏教寺院は、葬式を行うために必要でありますから、その存在理由が容易に推量できます。けれども、神社はこれに匹敵するような存在理由をもっていそうにも思われません。

 結婚式があるではないか、という反論が出るかもしれません。しかし、神前結婚というのは、日本でも今世紀になって広まった形式です。大正天皇の結婚式がその始まりとされますから決して伝統的なものではありません。

 実際、移民の一世、二世の大半は仏教式での結婚式を挙げています。日本では仏前結婚と言えば、そんなのがあるのですかと驚く若い人がいますが、ハワイの日系人の間では、これはもっともポピュラ−なスタイルなのです。

 そういうわけですから、神主さんと面談調査するに当たっては、ぜひとも神社の果たしている機能を明らかにしたいという考えがありました。

 布哇(ハワイ)大神宮、布哇出雲大社、布哇金刀比羅神社は、ホノルルにある数少ない神社の中のビッグ・スリ−と言えましょう。日本文化に強い郷愁を感じる日系人は、お正月にこの三社を順に参拝し、これを「三社詣で」と称しているそうです。

 また、ハワイ島にはヒロ大神宮、マウイ島には馬哇(マウイ)神社があって、鳥居や社殿の外観は、日本の神社のものと、ほとんど変わりがありません。

 仏教寺院が、その建物の外観においては、概して変容が著しく、日本人訪問者にとっては異国情緒豊かであるのに比べますと、神社は変容を強く拒否したと言えます。

 このことは、儀礼の際の装束や、教義内容についても同じです。でも全く変わらないというのではありません。面白かったのは、金刀比羅神社の大祭のおり、居並ぶ神主さんたちの前でなされた国旗掲揚の場面でした。スルスルと上がった旗は星条旗で、スピ−カ−から流れるメロディはアメリカ国歌でした。伝統的装束に身を固め、神妙な顔つきの神主さんたちと、オリンピックでアメリカ選手の優勝を祝して流されるあの曲が、いかにもアンバランスで、初めて見る者としては笑いをこらえることができませんでした。

 出雲神社の神主であるMさんは、当時七十代半ば。一九三一年に二十八歳で来布して以来、父親のあとを継ぎ、ハワイ布教に専念してきたという人であります。

 Mさんと初めて面談することになったのは、ホノルルの地理にだいぶ慣れた頃でした。電話の約束では、大変忙しいから、十五分位だけならいいです、ということでしたので、指定された時間に遅れないよう、少々車のスピ−ドを上げて目的地に向かいました。

 建物の裏側に回り、戸口をノックすると、Mさんが現れました。応対するMさんの首は左に十度ほど傾いていました。身元が若干怪しげな訪問者を探り見る姿勢かと思いましたが、そうでないことはじきに分かりました。首を傾けて話すのはMさんの癖だったのです。

 手短に説明した調査の目的はすぐに了解してもらえ、Mさんはハワイ布教の歴史を語り始めました。十五分はすぐ経過しました。

 「時間はよろしいでしょうか」と尋ねますと、もう十五分位なら大丈夫とのことでした。ほとんど途切れることのない、そして祝詞のような抑揚の語りが続くうちに、その十五分も過ぎ去りました。けれども、そんなことは一向に頓着しない様子でした。

 結局、今度はこちら側の都合があったため、二時間余りがたったところで、第一回目の面談を終わらせてもらいました。とにかく変わった人だなあ、というのが第一印象でした。 そういえば、こういうこともありました。確か二回目の面談のときです。このときは二人で訪ねました。面談が一区切りついたところで、Mさんがわれわれを昼食に誘ってくれました。

 「ここのラ−メンは美味しい」と言いながら、近くのラ−メン屋にMさんは入っていきました。三人分の味噌ラ−メンを注文すると、できあがるまで、ちょっと案内したい所があると言って、Mさんはわれわれを店の外に連れ出しました。足速に歩くMさんの行先は、なんと五、六軒ほど離れた中華料理屋でした。

 「あそこは酒が飲めないからね」と言って、ビ−ルと餃子の注文。だったらなぜ最初からこの店に来ないのですか、という疑問は、心の中にしまっておいて、ともかくビ−ルで乾杯。

 さきほどの店に戻ると、当然のことながら麺はすっかり伸びていました。でもなるほど、ス−プの味はなかなかのものでありました。

 途中で思いついたのか、われわれに二軒の店を紹介したかったのか、とても真意は測りかねました。ちょっとした奇行のようにも映じました。

 ハワイの神主さんは多少変わった人が多いことは事実です。ただし、それは日本人の目から見てのことでありまして、かなり強い個性の持ち主でなければ、このような異国の地での布教は続かないであろうということが、調査が進むにつれ私にもだんだんわかってきました。

 キリスト教の勢力の強さは、もちろん日本の比ではありません。日系人も若い世代はキリスト教会に所属する人の割合が、だいぶ高くなっています。

 仏教各宗派も多彩な活動をしています。冠婚葬祭すべて仏教会でという、キリスト教会の方式に近い活動内容になっています。

 また、厳しい時代を耐え抜いてきた、一世、二世は、教団のあり方にも自分の意見をはっきりと述べます。神社のことは神主さんに任せておこうなどという気配は全く見られません。そもそも神主さんは、信者たちに月給で雇われた、「サラリ−マン」的存在なのです。

 この最後の点は、とくに重要な点であります。Mさんが参拝に来た人をそっちのけで、われわれとの面談に熱を入れるのは、一つはこのことが関係しているのではないかと思ったものです。参詣者や賽銭が多くても、Mさんの収入には影響がないのです。さて、他の神主さんに比べて、Mさんは、年齢のせいもあるでしょうが、はた目にはとくにやる気がないような印象を受けます。月次祭の夜のMさんの講話は盛りあがりがないため、参加者の多くは居眠りをしていました。私の横にいたおじさんがこうささやきました。

 「今日は、あんたが日本の話でもしてくれれば、面白かったんじゃがな」。

 参詣者へのお祓いより、われわれとの面談の方に時間を使いたがりました。ただ、それは対話というより独白に近い形式でありましたが……。

 年老いて、もはや宗教活動に熱意のなくなった神主さん、そのように受け取られても仕方のないような姿がそこにありました。

 戦前の出雲大社は盛んであったようです。氏子は一万数千人を数えたそうですし、先代は七千九百組のハワイ日系人の結婚式を司式したということです。Mさん自身も千二百組を司式したそうで、その記録を記したカ−ドの束を見せられたことがありました。

 また、若いときのMさんはなかなかのハンサムで、ハワイ日系人美男子ベスト・テンに選ばれたことがあるそうです。そう言われてみると、急に端正な顔に見えてくるから不思議です。

 戦前の活況を知るにつけ、本当にMさんはやる気がないのだろうか、それを確認したいという思いが強くなりました。

 前にも述べましたように、Mさんの語り方は余り抑揚がなく、またゼスチャ−もほとんど伴いませんから、どこが本筋の話で、どこが横道に逸れた話なのか、よほど注意していないと、聞きわけられません。また、いろんな話が次々に途切れることなく口をついて出てくるので、ついていくのが大変です。けれども、何度か会って、Mさんについての理解も多少進むと、Mさんが二つの大きな心の傷を持っていることが分かってきました。

 一つは戦時中の体験であり、もう一つは息子さんの死でした。

 太平洋戦争は、ハワイの日系人にとって、身を割かれるような辛いできごとでありました。いわば、生みの親と育ての親の闘いに直面したわけです。

 宗教家たちは日系人社会のリ−ダ−と見なされて収容されました。Mさんも戦争開始とともに即日逮捕され、抑留生活を送ることになりました。当初、監視する米兵の抑留者に対する扱い方はきわめて乱暴であったそうです。

 あるときは、食事後のナイフの数が合わないということで、Mさんを含む、その棟の全員が素裸にされ、検査されました。結局、米兵の数え間違いであることが判明したのですが、このようなことは日常茶飯であったといいます。

 神に奉仕する人として、日系人社会からは尊敬されていた身が、犯罪者並みの扱われ方をされる破目になったわけです。

 息子さんの死は、運命と言えばそれまでですが、その息子さんだけが、宗教に強い関心を寄せる子供だっただけに、Mさんの失望もさぞかし大きかったろうと思います。その息子さんの話をするときのMさんの首は、いっそう傾いて見えました。

 このようなことが次第に明らかになったとき、私は、Mさんは何かにじっと耐えて生きているのではないか、とふと感じました。私(たち)との面談がいつも予定よりずっと長くなるのは、こうした場面で、Mさんが自分でも意識せず、耐えている心の一部を解き放つからではないか、とも思えてきました。

 何か、とは何でしょう。ここではっきりと表現するのは難しいと思います。どう表現しても、相手の心を深く読みとれなかった自分を露呈するばかりという気がするからです。ただ、Mさんが耐えているという感じだけは掴めました。そしてわれわれに対し、Mさんなりの歓迎の仕方をしてくれたのだということも。

 「ハワイの神社もこれからですよ、井上さん。あなたも頑張って下さい。」

 最後の面談が終わった日、別れ際にMさんはこう言いました。

 客観情勢から言えば、何かとても突飛な感じのする言葉です。でもきっとそう言いたかったし、言うしかなかったのだと思いました。

 日本の社会と日系人移民社会の相違。移民社会の中での布教の難しさ。そういったことを、ほんの僅かずつでも感じとっていく、それと比例して、Mさんに対する理解も増したと言えるかもしれません。けれども、他面で、Mさんにいろんな近づき方をしたけれども、結局、絶対距離はほとんど縮まらなかったという感じも強かったのです。

 七十数年の、ときに、私の想像の及び得ない苦しみを経てきた人生の重み。それは学問の衣を着た安易な解釈など、はじき飛ばしてしまうものだ、そう思わざるを得ませんでした。

(1983年7月執筆)

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