師 の 不 在

                                    

 院生時代、そして助手時代、研究室の各種のコンパに、ときどき先輩がやってきて、来訪神としての託宣を下すことがあった。なかなか面白いものや、一人よがりに過ぎないものなど、出来不出来はあったが、たまにやってくる人の言葉であるので、概して新鮮な気持ちで聞くことができた。松本滋さんもそうした先輩の一人で、その託宣は、研究者となるからには、材料と包丁をもてということであった。つまり特定の研究対象を定め、それを分析するための方法論を一つ、自分のものにしろということである。自らもそれを実践し、宣長を材料に、またエリックソンの理論を分析の手段にしたことは、周知の通りである。

 これは研究者となるための一つの方法であり、そういう意味では正攻法と言えるのかもしれない。けれども何となく面白味に欠けるので、私自身はこの託宣を有り難いと思ったことはない。ところが松本さんは、最近天理教に関する本を何冊か書いて、新しい境地を開きつつある。天理教について書くのは、信者であるからで、ではなぜ最初からそうしなかったかというと、これは岸本英夫の指導があったからだそうである。他の世界を覗いてから、自分の信仰を見直せと指導されたとのことである。松本さんの学説に岸本英夫の影響がとくに強いとは思えない。ただ、学問の道を定める基本的な見取り図において、師の示した方向は大きな力をもったということに、私としては興味があるのである。

 松本さんを引き合いに出すまでもなく、岸本英夫の影響は、その門下生に広く及んでいる。ただそれは具体的な研究方法とか、研究成果とかにおいてというよりも、学問に対しての姿勢とでも言うべきものにおいて、顕著であるように思われる。岸本英夫は学問としての業績よりも、その後輩の育成において一つのモデルを残してくれたと言うと、やはり失礼に当たるであろうか。

 だが、私が文学部に進んで以降接してきた先生たちには、むしろ各人の自由に任せるということを、指導の基本方針としている人が多かった。その典型は脇本先生であった。大学院ではもう皆が専門家であり、知識では教師より優れているということで、先生の指導はもっぱら形式的なことに集中していた。起承転結がしっかりしているか、論旨は明快か、論文としての新しさはあるか、原典はきっちり調べてあるか、等々。

 自由にやらせてもらうのは、精神衛生上はきわめてよろしい。元来が宗教学に紛れこんでくるのは、一くせも二くせもある人が多いわけであるから、そこで「規定演技」的なものを要求するのは、不粋ということかもしれない。だが、師のもとでの訓練というのは、徒や疎かにできない面がある。自由にやっているつもりで、とんでもない迷路にはいり込んだ人も少なくはない。

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 最近の東京大学少林寺拳法部は、東大に数ある運動部の中でも、際立って優秀な成績を収めているという。七帝戦や関東大会はむろんのこと、全日本大会をも制するようになったと聞いたときは、我が耳を疑ったものである。私が在部していた頃は、団体戦では1回戦で雄々しく退くのが常であり、ときたま個人戦で上位進出すれば、それこそ大騒ぎであった。それがどうだ。今や優勝して当たり前、学生大会では「常勝東大」と言われているそうである。先日、部の発足25周年の記念パーティがあったが、その席上で、我がOB会(「拳生会」と命名されている)会長は、東大だけが繁栄しているのを手放しで喜ぶべきではなく、他大学の発展にも力を貸さなければならない、という主旨の挨拶をした。なんとも隔世の感があるとはこのことである。もっともこの会長自身が、現役中はどうであったかというと、たいした実力はなく、私より1年先輩であったが、練習試合でも相手ではなかった。しかし後輩が立派な成績をあげてくれると、このような演説ができるのだか

ら有り難い。

 閑話休題、どうしてこのような激変が生じたのであろうか。これには、はっきりとした理由がある。実は、9年前、外部にコ−チを依頼した。それまでは、1、2年生では他大学に比べてそれほど遜色のない成長ぶりを示す者も、3年生となり、指導する立場になるころから、多くは成長が急に鈍くなるというパタ−ンを繰り返していた。私が主将をやっていた頃も、部員は80名位いて、第一期黄金時代と言われたのであるが、上級生のいささかのたるみは隠しおおせなかった。自主性にまかされた場合の限界を見る心持ちであった。ところがコーチを依頼してから、状況は一変したようである。その厳しい指導のもとに、学年が進めば、ますます緊張が高まるという雰囲気に変化したと聞く。当然の結果として、成績はみるみる向上し、我々に驚きをもたらすことになったのである。

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 部活動においても、成績が上がればそれですべていいというわけではない。また部活動の問題を、直ちに学問の世界に置き換えて考えようというのも、だいぶ乱暴な話である。それは重々承知だが、かつて所属したことのある組織におけるこの変化は、なにか気になるのである。コ−チは一種の師たり得る。文句を言えないほど段違いの実力をもった師に指導されて、B級いやC級チ−ムはA級チ−ムに変身してしまったのである。ここにおける師との出会いは、後輩たちにとってみれば偶然の産物である。高校野球の名門校とは違って、部の名声を聞き及んで入部したわけではないからである。しかし、いつも偶然が幸運をもたらすとは限らない。

 武道においては、優秀な師に巡り合えるかどうかは、かなり決定的なことである。さればこそ、カンフ−映画は、師とのつながりを丁寧に描く。よほどの優れた素質をもった者でもない限り、大抵は師のレベルによって、己れの向上の度合いも左右される。師が優れていれば、師のもとで修業すべき期間は長く、得られるものは多い。師が凡庸であれば、師のもとにいる期間は短い方がよく、師を越えて初めてその人の道も拓ける。

 学問においては、師はどのようにして探せばいいのであろうか。今の制度では、大学の学科にはいる時点で、かなりのことが決定されてしまう。運が悪いと、師たらざる人のもとで、師に仕えるがごとく仕えなければならない羽目になる。しかし、その不運を嘆くようでは、この情報社会の申し子としては、失格である。殻の外がいつ見えるかが、その人の力量の試される点でもある。今や楔形文字の権威である渡辺和子さんが、ドイツに留学してしばらくたってから、東大の大学院時代が、如何に無駄であったかを嘆いたことがあった。これには特殊事情もあったのだが、留学によって、自分が師と思える人に出会えたからこその言であろう。

 学生時代に学んだ先生を師とできる人は幸いである。留学等によって師に出会った人も幸いである。不幸なのは、師を見つけそこなった人である。私もその口である。だが、師は始めから師として存在するのではなく、師と選ぶ人がいて初めて師となる。師の不在は、探す努力を怠ったか、師を必要としないかである。師を必要としないのは、よほど個性豊かな人に限られる。私の場合はやはり怠慢であったからに違いなく、今になってつらつら反省している。だから、自由な動きがとれるうちに、アンテナを四方八方にめぐらして、情報収集に努めるのみならず、実際に草鞋をはいて、あちこちの門を叩きなさい、とけしかけたい気分である。

 ところが、ときとして、学問の世界にはそれを許さない家元的な発想が、一部には存在する。幸運なことに、最近の東大の宗教学研究室には、そういう悪弊はない。作り得なかったのかもしれないが、この際、それはどちらでもいい。家元的な発想をもった師に仕えるよりは、師の不在の方がずっとましであるというのが、師を見つけそこなった私の、最後の強がりである。(1988年9月記)

 

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